偉人の死因を調べていると、たいていは「確定していない」という壁にぶつかります。ところが野口英世は、この連載で扱ってきたなかでは珍しい例外でした。
教科書でも伝記でもおなじみの細菌学者が、自分の研究していた病気で亡くなった。そこまでは私も知っていました。引っかかったのは、その先です。
なぜ彼は感染したのか。そして、なぜ最期に「私にはわかりません」と言ったのか。
「野口英世 死因」で上位に出てくる記事を読んだ範囲では、この2つに正面から答えているものが見当たりませんでした。
この記事の結論
野口英世の死因は、黄熱(黄熱病)です。 自ら原因を突き止めようとしていた病に感染し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールドコースト(現在のガーナ)のアクラで亡くなりました。
国立国会図書館、内閣府、事典類の記述はいずれも一致しており、公的資料や事典のあいだで記述は割れていません。満51歳、数えで53歳でした。
残っているのは「なぜ感染したのか」という問いのほうです。ただし、野口がどの経路で感染したのかは、はっきりしていません。
一方、野口が黄熱の病原体と考えていたものは誤りで、それをもとにつくったワクチンも、黄熱ウイルスへの備えにはなりませんでした。
- 満51歳
1876年11月9日生まれ・数え53歳 - 約10日
体調悪化から死去まで - 1928年
5月21日にアクラで死去
一方で、ネット上には梅毒説や他殺説も流れています。この記事では、死因をめぐる4つの説・論点を、根拠になっている資料とあわせて1つずつ確かめました。
そのうえで、黄熱を防げなかった背景にある自説とワクチンの誤り、発病から死去までの経緯、最期の言葉、そして墓所までたどります。
語り手として、野口英世AI(野口英世をモデルにしたAI)にも登場してもらいました。分からないことは分からないと答える、慎重な語り口の対話としてお読みください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに野口英世の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

野口さん、本日はよろしくお願いします。さっそくで恐縮ですが、あなたの死因は黄熱だったと伝えられています。ご自身の最期について、まずはどうお感じですか。

妙な問いを受けるものであります。己がどのように死んだかは、当人がいちばん語れぬものではありませんか。
私が申せるのは、あの地で病に臥せったと伝えられるところまで。その先に何が起きたかは、残された書きつけのほうが詳しいでしょう。
あなたがたの世に伝わった記録を突き合わせて考えていただくより、ほかにありますまい。
野口英世の死因は?4つの説・論点を一覧で確認
まず、死因をめぐって語られてきたものを並べてみます。同じ表に入れていますが、確かめられる度合いはまるで違います。
| 説・論点 | 内容 | 主な根拠 | 現在の位置づけ |
|---|---|---|---|
| ① 黄熱 | 自ら研究していた黄熱に感染して死去した | 内閣府・国立国会図書館・『日本大百科全書』などの記述が一致 | 定説。公的資料も事典も黄熱による死去とする |
| ② 1月の発病は別の病気だったとする見方 | 1928年1月の体調不良は黄熱ではなかったとする見方 | 当時の診断が割れたとする記述 | 5月の発病とは分けて考える論点。死因そのものの説ではない |
| ③ 梅毒 | 死因は梅毒だったとする話 | ウェブ記事。根拠となる資料の提示は確認できない | 死因を梅毒とする根拠は確認できない |
| ④ 他殺 | 何者かに殺害されたとする話 | 同じくウェブ記事 | 同じく根拠は確認できない |
このうち①は、内閣府の紹介ページ、国立国会図書館の略歴、コトバンクが収める『日本大百科全書』と『改訂新版 世界大百科事典』のいずれもが、黄熱による死去としています。
つまり②〜④は、死因を①以外に置き換えるだけの根拠を持っていません。②にいたっては、そもそも死因ではなく発病の経過についての論点です。
それでも一覧に並べたのは、検索するとこれらの説が実際に出てくるからです。どこまで確かめられるのかを、順に見ていきます。

ずいぶん賑やかに語られているものですな。私の与り知らぬ話も混じっております。
ただ、ひとつ申し上げておきたいことがあります。病の名を言い当てるのは、思いのほか難しいのです。私自身、それを取り違えたのですから。
あなたがたが根拠をたどろうとしておられるのは、正しいやり方でありましょう。
野口英世の死因を資料から検証する
ここからは4つを1つずつ、根拠になっている資料と一緒に見ていきます。読み解くうえで、先に押さえておきたい前提が3つあります。
- 公的資料は一致している:内閣府・国立国会図書館・事典類がそろって黄熱による死去とする
- 1月と5月の発病は別に考える:1月の体調不良は診断が割れたと伝えられる
- ウェブ上の説は出どころをたどる:梅毒説・他殺説は、根拠となる資料が示されていない
同じ「説」と呼ばれていても、たどれる根拠の重さはまるで違います。1つずつ確かめていきましょう。
① 黄熱|公的資料が一致する定説
野口の死因については、複数の公的資料が同じ記述をしています。内閣府の野口英世アフリカ賞のページは「1928年5月21日『私にはわかりません…』との言葉を残し、野口英世は51歳の短い生涯を閉じました」と書いています。
国立国会図書館の「近代日本人の肖像」も、略歴を「黄熱病の病原菌発見のため、中南米、アフリカに赴き、昭和3(1928)年、ガーナで感染し、死去した」と結んでいます。
事典も同じです。コトバンクが収める『日本大百科全書』は「1928年5月21日ガーナのアクラで黄熱により死去」としています。
『改訂新版 世界大百科事典』も「28年アフリカにおける黄熱の研究のため、現在のガーナで研究中感染し、5月21日死去」と書いています。
死因の確認方法として紹介されることが多いのが、死後に野口の血液をサルへ接種したところ黄熱を発症した、という話です。
ただし本記事は、この実験の記録そのものを確認していません。ウィキペディアがそう記していることを確認したにとどまります。
なお、当時のアクラは英領ゴールドコーストでした。ガーナという国名になるのは野口の死後のことなので、資料によって地名の書き方が変わります。

公的な資料も事典も、そろって黄熱による死去としています。この一致をどう受け止めますか。

そろっているのなら、それが後の世に残った答えなのでしょう。私が異を唱える筋合いのものではありません。
ただ、病の名が定まることと、なぜそれにかかったかが分かることは、まったく別であります。
私の場合、後者のほうが厄介な話になっているのではありませんか。
② 1928年1月の発病|診断が割れたとされる記録
見落とされがちですが、野口が体調を崩したのは5月が最初ではありません。この年の1月にも入院しています。
1928年1月2日に軽い黄熱と診断される症状が出て入院し、7日に退院して研究に戻った、という記述があります。ところが同じ場面について、別の医師はアメーバ赤痢と診断していたとも伝えられています。
つまり二次資料では、1月の症状について黄熱とアメーバ赤痢という異なる診断が伝えられていることになります。そのため、これを黄熱の初感染と断定することはできません。
ただし、この1月の経緯を詳しく記しているのは、今回調べた範囲ではウィキペディアの記述でした。本記事は当時の診療記録にあたっておらず、そこに書かれた経過を確認したにとどまります。
それでも、この論点を落とさずに書いておく意味はあります。1月と5月をひとつなぎにしてしまうと、「半年近く黄熱と闘った」といった、根拠のない筋書きができあがってしまうからです。

1月の症状については、当時から診断が割れていたと伝えられています。この読み分けについてどうお考えですか。

診断が割れること自体は、少しも珍しくありません。よく似た症状を示す病はいくつもありますからな。
外から見える症状だけで一つの病に絞るのは、危ういのです。検査や経過もあわせて確かめねばなりません。
割れたまま残っている記録を、後から一つにまとめてしまわぬほうがよろしいでしょう。
③ 梅毒説|死因とする根拠は確認できない
検索すると「野口英世の死因は梅毒?」という見出しに行き当たります。これは、野口の研究テーマのひとつが梅毒だったこととも結びつけられているようです。
野口は1911年に梅毒病原スピロヘータの純培養に成功したと発表し、1913年には進行麻痺や脊髄癆が梅毒スピロヘータに起因することを確かめたとされます。事典類は、これらを主要な業績として紹介しています。
ただし、死因を梅毒とする根拠を示した資料は、今回調べた範囲では見つけられませんでした。この説を紹介するウェブ記事も、典拠となる資料名を挙げていません。
一方で、死因が黄熱であることは、内閣府・国立国会図書館・事典類が一致して記しています。片方には公的資料の裏づけがあり、もう片方には出どころが示されていない。両者を同じ重さで並べることはできません。
なお、伝記のなかには本人の健康状態に触れたものもありますが、本記事はその原典を確認していません。確認できていないことを、確認できたかのように書くわけにはいかないと考えました。

梅毒はあなたの研究テーマでもありました。死因として語られることについて、どう思われますか。

私が長く向き合った病でありますから、名が結びつけられるのも分からぬではありません。
ですが、研究していた病と、その者が死んだ病を同じにしてしまっては、話が乱暴になりましょう。
根拠が示されていないなら、示されていないと書いておく。それが学問というものではありませんか。
④ 他殺説|出どころのたどれない話
もうひとつ流布しているのが、何者かに殺害されたのではないかという説です。自説を否定された研究者が異国の地で急死したという構図が、こうした話を呼びやすいのかもしれません。
しかし、この説についても、根拠となる資料を示した記述は確認できませんでした。誰が、どんな動機で、どのような方法で、という中身がないまま、可能性だけが語られています。
野口が亡くなった当時のアクラでは、黄熱そのものが現地の医療関係者にとって身近な脅威でした。実際、野口に研究の場を用意したヤング博士も、野口の死の直後に黄熱で亡くなったと伝えられています。
つまり、特別な事情を持ち出さなくても、研究者が黄熱に感染する状況はそこにありました。
他殺を裏づける資料は、今回確認できませんでした。根拠の示されていない話を、公的資料の裏づけがある事実と並べて紹介することは避けたいと考えました。

他殺説については、根拠となる資料が見当たりませんでした。

そのような筋書きを立てたくなる気持ちは、分からぬでもありません。急な死は、人の想像をかき立てるものです。
しかし、あの地で病に倒れた者は、私だけではなかったはずであります。
珍しい説明を持ち出す前に、ありふれた説明で足りるかを考える。それが順序というものでしょう。
なぜ野口英世は黄熱を防げなかったのか|自説とワクチンの誤り
ここからが、この記事でいちばん書きたかったところです。先に断っておくと、野口がどの経路で感染したのかを示す記録は確認できていません。
それでも、野口が頼っていたワクチンが黄熱を防げなかった理由は説明できます。手前に研究上の大きな取り違えがあったからです。
野口は1918年(大正7年)、黄熱の流行していた中南米へ渡ります。エクアドルへ渡ってまもなく病原体を発見したと発表し、これをレプトスピラ・イクテロイデス(黄熱レプトスピラ)と名づけました。
ところが、この菌は黄熱の病原体ではありませんでした。研究の経過を並べてみます。
| 年 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 1918年 | エクアドルで病原体を発見したと発表 | のちにレプトスピラ・イクテロイデスと命名。これをもとにワクチンをつくる |
| 1926年ごろ | この菌がワイル病の菌と区別できないとする研究が出る | 黄熱ではなくワイル病の患者の検体を用いていた可能性が指摘される |
| 1927年 | ストークスらが西アフリカで黄熱をサルに感染させることに成功 | 黄熱ウイルスの分離につながり、病原体が細菌ではないことが示される |
| 1927年 | 野口の説が信用を失う | 医学史の論文も、自説が信用を失ったのは1927年としている |
| 1927年10月 | 野口が西アフリカへ向かう | 自説の検証と現地調査のため |
野口の死後、黄熱の病原体として発表した菌は、ワイル病の病原体と同一菌種であることが確定しました。
野口英世記念会も「エクアドルでは患者からスピロヘータを見つけ、ワクチンをつくり多くの人命を救いました」としたうえで、研究対象が実はワイル病だったと判明したことを記しています。
秋田大学名誉教授・長崎大学名誉教授の中込治氏は、医学界新聞で、黄熱ではなくワイル病の患者の検体を使って研究したことが野口の犯した過ちの原因だったと指摘しています。
ここで重要なのは、ワクチンの意味です。野口はワイル病の菌をもとにワクチンをつくっていました。それは黄熱ウイルスに対する備えにはなりません。
米アリゾナ州立大学の百科事典プロジェクトは、野口がわずかな量の菌から誤った結論を導いたと記し、記録の取り方や研究手法への批判があったことも紹介しています。
つまり、誤った病原体を前提にしたワクチンは、黄熱への備えにはならなかったということになります。ここが、この死のいちばん重い部分だと私は思います。
感染した経路そのものは分かりません。少なくとも、ワクチンが黄熱への備えにならなかった理由まではたどれます。

あなたが発表した病原体は、のちに黄熱のものではないとされました。この点について、どうお考えですか。

痛いところを突かれました。ここから先は創作としての物言いとお聞きください。
後の世では、私が自説を疑わなかったと語られておるそうな。おそらく、そうだったのでありましょう。
顕微鏡で見えぬものがある。それを認めるのが遅かったと言われれば、返す言葉はありません。
野口英世の最期|発病から死去までの経緯
1927年10月、野口は西アフリカへ向かいます。当初は3か月の予定でしたが、滞在は6か月に延ばされました。
そして翌1928年5月、体調を崩します。日付ごとの経緯を並べます。なお、この細かな経過については、今回たどれたのがウィキペディアの記述と現地を訪ねたエッセイでした。一次記録までは確認していません。
| 年月日 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 1927年10月 | 西アフリカへ向けて出発 | 自説の検証と現地調査のため |
| 1927年11月 | 英領ゴールドコーストのアクラに到着 | 現地の研究者ヤング博士が研究の場を用意した |
| 1928年1月2日 | 体調を崩して入院 | 軽い黄熱とする診断と、アメーバ赤痢とする診断が伝えられる |
| 1928年1月7日 | 退院し、研究を再開 | この時点では回復している |
| 1928年5月9日 | アクラを発ち、ラゴスへ向かう | 内閣府は「帰国の打ち合わせに行った」と紹介している |
| 1928年5月11日 | ラゴスを発つ時点で体調が悪化 | |
| 1928年5月13日 | 黄熱と診断され入院 | アクラの病院。現在のリッジ病院にあたるとされる |
| 1928年5月16日 | いったん快方に向かう | 食欲も戻ったと伝えられる |
| 1928年5月18日 | 病状が再び悪化 | |
| 1928年5月21日 | 死去 | 満51歳・数え53歳 |
体調の悪化から死去まで、およそ10日でした。診断がついた5月13日から数えれば8日です。起点の取り方によって、10日とも8日とも数えられます。
つまり、長い闘病の末の死ではありませんでした。研究を続けていた人物が、10日ほどで亡くなっている。これが、今回たどれた記述から読み取れる経過です。

ずいぶん詰まった日取りでありますな。5月の初めまで、私は仕事をしていたということでしょう。
どのような容態であったかを、私の口から細かに申し上げることはできません。書き残されていないものは、語れぬのです。
ただ、支度をする間もなかったことだけは、この日取りから察していただけましょう。
「私にはわかりません」|最期の言葉として伝わるもの
野口英世の最期の言葉として広く知られているのが「私にはわかりません」です。内閣府のページも、この言葉を残して亡くなったと記しています。
言葉の細かな形は、資料によって違います。整理しておきます。
- 内閣府の紹介:「私にはわかりません…」との言葉を残した
- 広く流布している形:「どうも私にはわかりません」
- 語られる文脈:見舞いに来たヤング博士とのやり取りのなかで発したとされる
ここで注意したいのは、この言葉が何を指していたのかは記録されていないということです。自分の病状のことか、黄熱の正体のことか、それとも別のことか。解釈は書き手によって分かれます。
よく語られるのは「終生免疫が続くはずの黄熱に、なぜ自分がかかったのか分からない」という趣旨だったとする読み方です。ただし、これは後から加えられた説明であって、本人がそう述べたと確認できる記録ではありません。
私はこの言葉を、無理に意味づけしないほうがよいと考えています。この言葉が具体的に何を指していたのかまでは、特定できません。

最期の言葉として『私にはわかりません』が伝えられています。これについて、何かおっしゃりたいことはありますか。

その言葉が伝わっていると聞かされても、私が確かめる術はありません。言った覚えを申し立てることもできません。
ただ、研究者が分からぬと口にするのは、負けを認めることではないのです。そこから先が始まるのですから。
どのような意味であったかは、あなたがたが決めつけずにおいてくださるほうがありがたい。
野口英世の死後、黄熱の研究はどうなったのか
野口の死は、黄熱研究の終わりではありませんでした。彼が否定された側に立ったまま亡くなったあと、研究は正しい方向へ進みます。
| 出来事 | 内容 |
|---|---|
| ヤング博士の死 | 野口に研究の場を用意した人物も、野口の死の直後に黄熱で亡くなったと伝えられる |
| 黄熱ワクチンの完成 | マックス・タイラーが1937年にワクチンの開発に成功し、1951年にノーベル生理学・医学賞を受賞 |
| 野口記念医学研究所 | 1979年、ガーナ大学に設立。日本政府が建設してガーナに贈った |
| 野口英世アフリカ賞 | 2008年に第1回授賞式。内閣府が実施する国際賞 |
黄熱ワクチンにたどりついたのは、野口の説ではなく、ウイルスをとらえた側の研究でした。
タイラーは1937年にワクチンの開発に成功し、1951年にノーベル生理学・医学賞を受けています。タイラー自身も研究の途中で黄熱にかかっていますが、こちらは一命をとりとめています。
一方で、野口の名は西アフリカに残りました。ガーナ大学の野口記念医学研究所は、公式サイトで、ガーナで黄熱を研究し1928年に同国で亡くなった野口英世をたたえて名づけられたと記しています。
内閣府の野口英世アフリカ賞も、野口の志を引き継ぎ、アフリカのための医学研究と医療活動で功績を挙げた人を顕彰する賞だとしています。第1回は2008年5月、第5回は2025年8月に行われました。
学説としては退けられ、それでも名前は現地に残った。この2つは矛盾せずに並んでいます。

それは私の知らぬ話であります。あの世の噂までは存じません。
ただ、私の説が退けられた先で研究が進んだのなら、それでよいのではありませんか。学問とはそういうものでしょう。
私の名が残ったという話のほうは、面映ゆくて何とも申し上げられません。
野口英世の墓はどこにあるのか
野口の墓は、日本ではなくアメリカにあります。遺体はロックフェラー医学研究所が用意した船でニューヨークへ運ばれ、ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬されました。
ゆかりの場所を整理します。
- ウッドローン墓地(米ニューヨーク市ブロンクス):墓所。のちに妻メアリーも同じ場所に眠る
- 長照寺(福島県猪苗代町):野口家の菩提寺。境内に両親の墓と野口英世夫妻の墓がある
- 野口記念医学研究所(ガーナ大学):最期の地に建てられた研究施設
ウッドローン墓地の墓碑には、銘板がはめ込まれています。ニューヨーク野口英世記念会は、その文言を「科学への献身を通じ、人類のために生き、人類のために死せり」と紹介しています。
同会のページに掲げられているのは日本語の文言です。本記事は、銘板に刻まれた原文の表記までは確認していません。
同会は、法定伝染病である黄熱による遺体の国外搬送が厳しく禁じられていたため、遺体がウッドローン墓地に葬られている事実は日本でもほとんど知られていなかった、とも記しています。
福島県猪苗代町の長照寺は、野口家の菩提寺です。猪苗代観光協会は「境内には英世の両親の墓と野口英世夫妻の墓がひっそりとたたずんでいます」と紹介しています。
野口英世は何をした人だったのか|生涯のふり返り
死因からたどってきましたが、野口がどんな人物だったのかも簡単にまとめておきます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 野口英世(幼名は清作) |
| 生没年 | 1876年11月9日〜1928年5月21日(満51歳没・数え53歳) |
| 出身 | 福島県耶麻郡翁島村(現在の猪苗代町) |
| 主な研究 | 蛇毒の研究、梅毒スピロヘータの純培養の報告、進行麻痺・脊髄癆と梅毒の関係の確認、黄熱の病原体研究 |
福島の農家に生まれ、幼いころ囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負いました。手術を受けた経験が医学を志すきっかけになったとされます。1897年(明治30年)に医術開業試験に合格しました。
1900年(明治33年)に渡米し、1911年(明治44年)にはロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータの純培養に成功したと発表します。
進行麻痺や脊髄癆と梅毒の関係を確かめたとされる研究も、事典が主要な業績として挙げています。
黄熱の研究は、その延長線上にありました。結果として自説は退けられましたが、業績全体がそれで消えるわけではありません。
よくある質問(FAQ)
野口英世の死因は何ですか?
黄熱(黄熱病)です。自ら研究していた病に感染し、1928年5月21日に亡くなりました。内閣府や国立国会図書館、事典類の記述も一致しています。
野口英世は何歳で亡くなりましたか?
満51歳です。数えでは53歳にあたります。1876年11月9日生まれで、1928年5月21日に亡くなりました。
野口英世はどこで亡くなりましたか?
英領ゴールドコースト(現在のガーナ)のアクラです。当時のヨーロピアン病院で、現在のリッジ病院にあたるとされます。
野口英世は梅毒で亡くなったのですか?
死因を梅毒とする根拠は確認できませんでした。梅毒は野口の研究テーマの1つでしたが、それと死因は別の話です。公的資料は黄熱による死去としています。
野口英世の最後の言葉は何ですか?
「私にはわかりません」と伝えられています。内閣府の紹介ページもこの言葉を記していますが、何を指した言葉かまでは記録されていません。
野口英世の墓はどこにありますか?
ニューヨーク市ブロンクスのウッドローン墓地です。福島県猪苗代町の長照寺にも、両親の墓とともに野口英世夫妻の墓があります。
インタビュー後記|野口英世の最期から見えてくるもの
今回は野口英世AIに登場してもらい、その死因と最期をたどりました。
調べていて重かったのは、自説が誤っていたために、頼っていたワクチンも黄熱への備えにならなかったことです。ワイル病の菌からつくったワクチンは、黄熱ウイルスには効きません。
野口は自説を確かめるために現地へ渡り、その自説が備えにならない病で亡くなりました。ここに教訓めいた言葉を足すのは、かえって失礼な気がします。
もうひとつ印象に残ったのは、梅毒説や他殺説のたどりにくさです。根拠を探しても、示している記事がありません。それでも検索すると先に出てくる。
死因が黄熱とされている人物ですら、根拠の示されない話が並んで流れていく。根拠のあるほうとないほうを分けて置くだけでも、意味のある作業だったと思います。
野口の言葉そのものについては、別の記事で22件の出典をたどりました。あわせてどうぞ。
参考資料
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|野口英世」※生没年月日、1897年の医術開業試験合格、1900年の渡米、1911年の梅毒スピロヘータ純粋培養、ガーナで感染して死去したとする略歴の根拠
- 内閣府 野口英世アフリカ賞「野口英世の生涯」※1928年5月21日の死去、51歳、「私にはわかりません…」との言葉、3か月の予定を6か月に延ばしたこと、ラゴス行きが「帰国の打ち合わせ」だったとする記述の根拠
- 内閣府「野口英世アフリカ賞」※賞の目的と、第1回2008年5月・第5回2025年8月の授賞式の根拠
- 公益財団法人 野口英世記念会「中南米・アフリカ時代」※エクアドルでの研究がワイル病だったと判明したこと、1927年10月に西アフリカへ向かったこと、アクラで51歳で亡くなったことの根拠
- 会津若松市「野口英世について」※1876年11月9日生まれ、耶麻郡翁島村の出身、幼名が清作であること、左手のやけどの根拠
- 会津若松市「野口英世の生涯・年表」※1927年にアフリカへ渡り、1928年にアクラで黄熱の研究中に亡くなったとする年表の根拠
- コトバンク「野口英世」※『日本大百科全書』の「1928年5月21日ガーナのアクラで黄熱により死去」、『改訂新版 世界大百科事典』の死去記述、ワイル病スピロヘータと同一と判定されたとする記述、1911年の梅毒病原スピロヘータ純培養と1913年の進行麻痺・脊髄癆に関する記述の根拠
- 医学書院 週刊医学界新聞 第3465号「野口英世と黄熱の歴史から100年を経た教訓」(中込治、2022年4月11日)※ワイル病の患者の検体を用いたことが過ちの原因だとする指摘、ストークスによる黄熱ウイルス分離の根拠
- PubMed「Hideyo Noguchi’s research on yellow fever (1918-1928) in the pre-electron microscopic era」(Kantha SS、Kitasato Arch Exp Med 62(1)、1989年)※レプトスピラ・イクテロイデス説が1927年に信用を失ったとする記述の根拠
- Embryo Project Encyclopedia(アリゾナ州立大学)「Hideyo Noguchi (1876–1928)」※わずかな量の菌から誤った結論を導いたこと、記録の取り方や研究手法への批判、1928年5月21日にアクラで死去したことの根拠
- 講談社ブルーバックス「野口英世ではありません…黄熱から世界を救ったワクチンの開発者をご存じですか?」(2021年1月30日)※タイラーが1937年にワクチン開発に成功し1951年にノーベル生理学・医学賞を受賞したこと、タイラー自身も黄熱にかかり一命をとりとめたことの根拠
- The Noguchi Memorial Institute for Medical Research(ガーナ大学)「About」※1979年の設立、日本政府が建設してガーナに贈ったこと、命名の由来の根拠
- ニューヨーク野口英世記念会「HNMSについて」※墓碑の銘板の文言「科学への献身を通じ、人類のために生き、人類のために死せり」(同会のページに掲げられた日本語表記)、チャーター船での搬送と埋葬、のちに妻メアリーも同じ場所に眠ること、遺体の国外搬送が禁じられていたことの根拠
- 猪苗代観光協会「長照寺」※境内に両親の墓と野口英世夫妻の墓があること、所在地の根拠
- ハイム文芸館「野口英世最期の地アクラ訪問記(5)」(齋藤英雄)※最期を迎えた病院が当時のヨーロピアン病院で現在のリッジ病院にあたること、1928年5月9日から21日までの経過、野口記念医学研究所の開所の根拠
- ウィキペディア「野口英世」※1928年1月2日の入院とアメーバ赤痢とする診断、5月11日から21日までの日付ごとの経過、死後に血液をサルへ接種したとする記述、最期の言葉が見舞いに来たヤング博士とのやり取りで語られたとする文脈と「どうも私には分かりません」という流布形、ヤング博士の死の根拠




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