おもしろきこともなき世をおもしろく|意味と下の句を晋作AIと刊本からたどる

shinsaku takasugi eyecatch 名言

居酒屋の壁に、この歌が墨書きで貼ってあるのを見たことがあります。ビジネス書の見出しでも、卒業式の挨拶でも見かけます。「おもしろきこともなき世をおもしろく」。

世の中がつまらないかどうかは自分の心次第だ、という文脈で引かれることが多い歌です。

私はこの手の言葉を見ると、出どころを知りたくなる性分です。調べ始めて、すぐにつまずきました。

高杉晋作が自分の手でこの歌を書いた文書は、今回の調査では一点も見つからなかったのです。

この歌を記した自筆資料を確認できない。だから「世を」なのか「世に」なのかも決められない。それでもこの歌は、明治のころから今日まで読み継がれてきました。

そこで今回は、国立国会図書館のデジタルコレクションで、この歌を載せている本を古い順に並べてみました。明治26年から昭和16年までの12点です。

この記事の結論

並べてみると、意外なものが見えてきました。この歌は、上の句を高杉晋作、下の句を野村望東尼(のむら もとに)が詠んだ「合作」として伝えられています。

ただし、今回の調査でその書き方をさかのぼれたのは、高杉の死から26年たった1893年(明治26年)の本までです。

  • 12点
    この歌を載せる明治〜昭和の刊本を確認
  • 7点
    上の句を「世に」と記す本(表記を確認できた9点のうち)
  • 0点
    今回確認できた、この歌を記した高杉の自筆資料

もうひとつ、気づいたことがあります。今回確認した古い刊本では、「世を」より「世に」の表記が多く見られました。 表記まで確認できた9点のうち、7点が「世に」、2点が「世を」です。

この記事では、歌の意味、下の句の作者、表記の違い、そして「辞世」と呼んでよいのかを順に見ていきます。聞き手として、高杉晋作AI(高杉晋作をモデルにしたAI)にも登場してもらいました。

※以下の高杉晋作AIの発言部分は、公開されている史料をもとに高杉晋作の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。また、この記事で紹介する言葉は、刊本や碑文で文面を確認できたものと、確認できなかったものを分けて書いています。この歌を記した高杉の自筆資料は、確認できていません。

筆者
筆者

本や資料の向こう側にいた高杉さんと、こうして言葉について話せるとは思いませんでした。今日は、あなたの歌として伝わっている一首を持ってきました。よろしくお願いします。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

これはまた、妙な巡り合わせじゃのう。僕の歌を持って訪ねてくる人がおるとは。

断っておくが、僕の書いたものは歌詠みの作とはいえぬ。書き散らしたものばかりじゃ。

まあ、せっかく来られたのじゃ。付き合おう。ただし、覚えのないことまで引き受ける気はないぞ。

「おもしろきこともなき世をおもしろく」の意味|言葉をほどいてみる

まず、歌の言葉そのものを見ていきます。全体としては「おもしろいことなど何もないこの世を、おもしろく」と読むのが一般的です。

読み方・意味
おもしろき心が晴れる、興味を引かれる、という意味の古語「おもしろし」の連体形
こともなき世おもしろいと思えることが何もない世の中
おもしろく(住みなす)おもしろい状態にして暮らす。「なす」は「〜という状態にする」の意
心なりけり心である、心次第である、の意。「けり」は気づきを表す助動詞

下の句まで続けると、「そう住みなすものは自分の心なのだ」という流れになります。世の中の側ではなく、受け取る側の心に目を向けた歌として読まれてきました。

ただし、この読み方が唯一のものだと言い切ることはできません。歌の解釈には幅があり、上の句と下の句の作者が別なら、なおさら一つの意図にまとめにくくなります。

現代では、この歌は自己啓発の文脈で引かれることが多い言葉です。ただ、それは後の時代の受け取り方であって、高杉本人がそういう教訓として詠んだと確かめられる記録は、今回の調査では見つかりませんでした。

筆者
筆者

この歌は今、『世の中がつまらないかどうかは自分の心次第だ』という教訓として読まれています。そういう読まれ方をどう思われますか。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

ほう、教訓かのう。それはまた、ずいぶんと立派なものに仕立てられたものじゃ。

そなたらの史料では、僕がどんな気分でこの歌を書いたかまでは分からぬそうじゃな。なら、教訓であったとも、病床の愚痴であったとも、決めつけぬほうがよかろう。

それを人様の心得に使うてよいものかも、僕には分からぬ。使う側が決めることじゃろうな。

下の句「住みなすものは心なりけり」は誰が付けたのか

この歌でいちばん多く聞かれるのが、下の句の作者です。「上の句を高杉が詠み、下の句を野村望東尼が付けた」という説明が、多くの本やサイトに載っています。

野村望東尼は福岡藩の武士の妻で、夫の死後に出家した歌人です。勤王の志士をかくまったことで姫島に流され、脱出したのちに高杉のいる下関へ移っています。高杉が病床にあった時期、その看護にあたったと伝えられる人物です。

では、下の句を望東尼が付けたという話は、どこまでさかのぼれるのか。国立国会図書館のデジタルコレクションで、この歌を載せた本を古い順に確かめました。

明治26年の本に「望東尼と唱和した歌」として載っている

確認できたなかで最も古いのは、1893年(明治26年)に出た江島茂逸編『高杉晋作略伝 : 入筑始末』です。ここに「病臥中筆を援げて望東と唱和せし歌あり」とあり、歌が載っています。

ただし、この本で署名が付いているのは上の句だけです。望東尼の名は前書きに出てきます。上の句と下の句にそれぞれ別の名前が振り分けられるのは、1897年(明治30年)の本からでした。

書名どう載っているか
1893年『高杉晋作略伝 : 入筑始末』前書きに「望東と唱和せし歌」。上の句に「高杉東行」の署名があり、下の句に署名はない
1897年『高杉晋作』(渡辺修次郎 著)上の句に「東行」、下の句に「望東」と署名
1901年『もとのしつく : 贈正五位望東尼伝』高杉が「今はかぎりと思ひながら」筆をとり、望東尼が「直ちに」続けたと記す
1909年『幕末勤王烈士手翰抄』上の句に「高杉東行」、下の句に「望東尼」
1919年『尊攘堂書類雑記』「病中唱和ノ歌」として、各句に(高杉)(望東)を付す

上の句と下の句を二人に振り分ける書き方は1897年の本まで、望東尼との唱和として紹介する書き方は1893年の本まで、さかのぼれました。 一方で、それより前の記録や、望東尼本人が書き残した文書には、今回はたどり着けませんでした。

なお、ここで挙げた本のうち、原本の画像まで開いて確かめられたのは『東行先生遺文』だけです。ほかは全文テキストで文面を読んだもので、OCRによる読み取りには、古い活字の誤認が残っている可能性があります。

高杉が亡くなったのは1867年(慶応3年)です。1893年の本まで26年の開きがあります。この間をつなぐ記録があるのかどうかは、この記事では確かめられていません。

筆者
筆者

明治26年の本が望東尼との唱和の歌として載せ、明治30年の本では上の句と下の句に別々の名前が付いていました。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

僕の死んだあとの書物じゃな。そなたらの世に残る本では、そうなっちょるそうじゃのう。

ただ、僕には確かめようがない。僕が誰と何を詠み交わしたかを、あとの世の本で決められるというのも、妙な話ではあるがのう。

『東行先生遺文』では、同じ歌が二通りの形で収録されている

高杉の言葉を確かめるうえで基本になるのが、高杉の五十年祭を記念して1916年(大正5年)に刊行された『東行先生遺文』です。この本には、歌や漢詩、書簡、日記、伝記がまとめて収められています。

ところが、この一冊のなかで、同じ歌の扱いが二通りになっていました。実際に刊本の画像を開いて確かめたところ、次のようになっています。

同じ本の中にある2つの書き方
  • 「詩歌文章」11ページでは、この歌に前書きが付いておらず、ほかの歌と並んで一首として置かれている。ただし歌を囲む枠のなかで、上の句の下に「些々生(ささせい)」、下の句の下に「望東」と署名が印刷されている。「些々生」は高杉が用いた称の一つで、『国史大辞典』第9巻の高杉晋作の項目(田中彰 執筆)にも挙げられています
  • 「東行先生略傳」148ページでは、「或時(あるとき)先生が筆を執つて」上の句を書いて望東尼に示すと、尼が下の句を「後句を附けられた相である」と書かれている

注目したいのは、伝記のほうの書き方です。「或時」であって、臨終の場とは書いていません。そして「相である」は、そう伝え聞いている、という意味です。五十年祭の記念出版でさえ、伝聞として書いているわけです。

そして「詩歌文章」のほうは、この歌に前書きを付けていません。ほかの歌には「山莊に入りて」「重九」といった詞書(ことばがき)があるのに、この一首にはそれがないのです。

少なくとも「詩歌文章」のこの箇所からは、いつ、どこで詠まれたのかを特定できません。

望東尼の側の記録では確認できなかった

下の句を望東尼が詠んだのなら、望東尼の側の記録にも残っていそうなものです。そこで、望東尼の家集『向陵集』などを国立国会図書館の全文検索で探しました。

結果として、この下の句を望東尼の作として収めた記録には、今回はたどり着けませんでした。ただし、これは「存在しない」という意味ではありません。OCRによる読み取りには限界があり、検索から漏れている可能性は十分にあります。

現時点で言えるのは、下の句を望東尼に帰す記述が明治期の刊本にそろって見られる一方、望東尼の側からその歌を確かめる材料を、この記事では押さえられなかったということです。

筆者
筆者

望東尼さんは、どんな方でしたか。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

そなたらの世の本には、僕が臥せっちょった頃に、歌をよくする尼が身の回りを見てくれたと書いてあるそうじゃな。

ただ、そのとき何を詠み交わしたかまでは、僕の口から言うのはやめておこう。書き留めた紙が残っておらぬのじゃろう。

残っておらぬものを、さも覚えちょるように語るのは、僕の性に合わぬ。

「世に」か「世を」か|古い刊本ではどう記されているのか

もう一つ、この歌には表記の問題があります。「おもしろきこともなき世おもしろく」と「おもしろきこともなき世おもしろく」の二つが流布しています。

今回、刊本を年代順に並べたところ、はっきりした傾向が出ました。

書名上の句の表記
1893年(明治26年)『高杉晋作略伝 : 入筑始末』
1897年(明治30年)『高杉晋作』(渡辺修次郎 著)
1901年(明治34年)『もとのしつく : 贈正五位望東尼伝』引用が途中までで、確かめられず
1909年(明治42年)『幕末勤王烈士手翰抄』
1912年(明治45年)『修養必携 : 道歌插入』
1916年(大正5年)『東行先生遺文』
1916年(大正5年)『高杉晋作』(横山健堂 著)
1917年(大正6年)『現代と偉人』
1919年(大正8年)『尊攘堂書類雑記』
1928年(昭和3年)『家事教育と国民生活』歌の文面を引かず、場面だけを記す
1936年(昭和11年)『高杉晋作小伝』同上
1941年(昭和16年)『国につくした人人』

表記を確認できた9点のうち、7点が「世に」、2点が「世を」でした。 今回確認した刊本では、「世を」の最も早い例が1912年(明治45年)の道歌集『修養必携 : 道歌插入』です。それ以前の1893年から1909年までの3点は、いずれも「世に」でした。

研究者の一坂太郎氏が「に」を採るとの紹介もあります。Wikipediaが『東行庵だより』平成2年冬号の論考を引いたもので、本記事は当該論考の原文を確認できていません。今回並べた刊本の並び順は、この紹介と矛盾しません。

もう一つ、高杉家に伝わる『東行遺稿』という和装本(先ほどの『東行先生遺文』とは別の本です)が「世に」と記している、という紹介もあります。

ただしこれもWikipediaを通じて知ったもので、本記事は和装本そのものも、その評価のもとになった研究も確認していません。

それでも、どちらが正しいかを決め切ることはできません。この歌を記した高杉の自筆資料を確認できないからです。現在、下関市の東行庵に建つ合作歌碑は「世を」と刻み、『改訂新版 世界大百科事典』も「世を」としています。

筆者
筆者

『世に』と『世を』、どちらがご自分の書いたものだと思われますか。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

そればかりは、僕にも言えぬのう。

この歌を記した僕の筆が、そなたらの世には残っておらぬのじゃろう。

ならば、どちらとも決められぬというのが正直なところではないか。

これは臨終の場で詠まれた「辞世」なのか

この歌は「高杉晋作の辞世の句」として紹介されることが多くあります。しかし、その説明にも検討の余地があります。

「臨終の作」とする説明を確かめると
  • 『東行先生遺文』の伝記部分は「或時」と書くだけで、臨終の場とはしていない
  • 今回確認した範囲では、死を意識した場面として書く例が1901年(明治34年)の『もとのしつく : 贈正五位望東尼伝』にあり、「枕頭で」と場所まで書く早い例が1928年(昭和3年)の『家事教育と国民生活』だった
  • 東行庵の公式サイトは合作歌碑を紹介して「病床での作と思われます」とし、断定していない
  • 『改訂新版 世界大百科事典』は「死の枕頭で」「合作の一首」と書いており、事典によって説明が異なる

さらに、この歌を臨終の作ではないとする研究があると紹介されています。梅溪昇『高杉晋作』(人物叢書、吉川弘文館、2002年)と、海原徹『高杉晋作』(ミネルヴァ書房、2007年)の2冊です。

紹介記事によれば、梅溪は慶応2年(1866年)の年号を冠した未定稿の一群に含まれるとし、海原は同じ年の暮れ頃の作らしいとしています。いずれも臨終の際に作られたものとはいえない、という趣旨です。

ただし、この2冊は、本記事では引用を紹介するウェブサイトを通じて確認したにとどまり、原本の該当ページまでは確認できていません。書誌は出版社の公式サイトで実在を確かめました。

資料によって説明は分かれています。東行庵は「病床での作と思われます」と断定を避けています。この記事では「辞世として広く知られる歌」という書き方にとどめます。

なお、司馬遼太郎の小説『世に棲む日日』には、この歌を詠んだ場面で高杉が「おもしろいのう」とつぶやく描写があるとされます。ただし小説は史料ではありません。

1936年(昭和11年)の『高杉晋作小伝』は、同じ場面を「ソウダ」と書いています。伝わる文言は一定していないのです。

筆者
筆者

ご自分の歌が『辞世』と呼ばれていることについては、いかがですか。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

僕がこれを辞世と呼んだという記録は、そなたらの世には残っておらぬそうじゃな。

そもそも、これが最後の一首になるなどと決めて筆をとる者がおるじゃろうか。僕が辞世のつもりで書いたのかどうかも、残った史料からは分からぬのじゃろう。

あとの世では、これが最後の歌として語られるようになった、ということじゃな。まあ、それも人の世の面白いところではあるがのう。

この歌で知られる高杉晋作とは、どんな人だったのか

歌の背景を知るために、詠み手の輪郭も押さえておきます。高杉晋作は幕末の長州藩(現在の山口県)の武士で、奇兵隊をつくった人物として知られます。

項目内容
名前高杉晋作(たかすぎ しんさく)。名は春風、字は暢夫、号は東行
生没年1839年9月27日(天保10年8月20日)〜1867年5月17日(慶応3年4月14日、没日は13日とする説もある)。満27歳、数えでは29歳
出身萩城下・菊屋横町(現在の山口県萩市南古萩町)
萩藩の大組士・高杉小忠太の長男。家禄は150石とする資料と200石とする資料がある
活躍した時代幕末
主な事績奇兵隊の結成、四国連合艦隊との講和交渉、功山寺での挙兵

高杉は1857年(安政4年)に松下村塾へ入り、吉田松陰に学びました。1863年(文久3年)には下関で奇兵隊を結成しています。奇兵隊は武士以外の身分の者も加わった部隊で、身分ではなく働きで人を用いる仕組みとして知られます。

没年は満27歳です。 今回確認できた、この歌をめぐる刊本は、いずれも高杉の没後に刊行されたものです。

27年の生涯を年表で

出来事
1839年萩城下に生まれる
1857年松下村塾に入り、吉田松陰に学ぶ
1858年江戸へ出て昌平黌に入学
1862年幕府の使節に随行して上海へ渡る
1863年剃髪して東行と号す。下関で奇兵隊を結成
1864年四国連合艦隊下関砲撃事件の講和に正使としてあたる。12月に功山寺で挙兵(西暦では1865年1月12日)
1866年四境戦争で海軍を指揮。この頃から病が重くなる
1867年下関・新地の林算九郎宅で死去(慶応3年4月14日)

没日については、慶応3年4月14日(1867年5月17日)とする資料が多く、13日深夜とする説もあります。後者は一坂太郎『高杉晋作 情熱と挑戦の生涯』を出典に挙げる記述によるもので、本記事は同書を確認していません。

年齢は満27歳、数え年では29歳です。

筆者
筆者

27年という短さについて、うかがってもよいでしょうか。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

短いと言われても、僕には比べようがないのう。

ここからは僕の勝手な物言いじゃ。病で床に伏せっちょったと伝わる身であれば、動けぬのはさぞ歯がゆかったであろうな。

まあ、走れるうちは走った。それだけのことじゃ。

高杉晋作のほかの言葉|出典をたどれるもの、たどれないもの

この歌のほかにも、高杉の言葉として広まっているものがあります。出どころをたどれるかどうかで、はっきり差が出ました。

言葉確認できた範囲
西へ行く人を慕ひて東行く/心の底ぞ神や知るらむ『東行先生遺文』の詩歌文章で文面を確認。号「東行」の由来を語る歌。ただし同じ本の伝記部分は下の句を「我が心をば」とし、表記が異なる
おくれてもおくれても又君たちに/誓ひし言を吾忘れめや同書の詩歌文章で文面を確認。東行庵の公式サイトが紹介する歌碑の碑文は「誓ひしことをあに忘れめや」
最早口舌の間にて、成敗の論無用なれば、是よりは長州男児の腕前懸御目可申徳富猪一郎『近世日本国民史 長州征伐』が引く。功山寺での挙兵の言葉とされる。下関市の公式サイトも「腕前をお目にかけ申すべし」で紹介
三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい今回確認できた範囲では、高杉の作とする活字より、木戸孝允の作とする記述のほうが古いという結果になりました。小泉八雲『仏の畠の落穂』(原著1897年)が木戸の作とし、高杉作とする活字は1910年の『都々逸及俗謡集』が今回確認できた最古
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し高杉本人の言葉ではない。没後に東行庵へ建てられた顕彰碑の一節で、撰文は伊藤博文。原文は「動如雷電、發如風雨」。東行庵の公式サイトと『東行先生遺文』の略伝で文面を確認
真の楽しみは苦しみの中にこそある名言集に広く出るが、原典の表示は確認できなかった。野山獄で詠まれた漢詩の一節「誰言樂裡還生苦、知是眞娯在苦中」(誰か言う、楽しみのなかにかえって苦しみが生じると。真の楽しみは苦しみのなかにあると知る、という趣旨。読み下しや訳には幅がある)の訳とみられる

「三千世界の鴉を殺し」は、高杉の作として広く知られる都々逸です。しかし今回の調査では、木戸孝允の作とする1897年の記述のほうが、高杉の作とする1910年の活字より古いという結果になりました。

『東行先生遺文』にも、この句は収められていません。

また、萩の民謡「男なら」の歌詞にこの句が入るという説明も見かけますが、山口県文書館が紹介する「男なら」の歌詞3系統には、この句は含まれていません

もう一つ、「動けば雷電の如く」も高杉の言葉として引かれることがあります。これは没後に東行庵へ建てられた顕彰碑の一節です。

撰文は、松下村塾で同門だった伊藤博文。高杉を評した言葉であって、高杉が語った言葉ではありません。

筆者
筆者

『三千世界の鴉を殺し』は、あなたの作として広く知られた句です。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

その句は、僕の名で伝わっちょるそうじゃな。じゃが、そなたらの世に残る古い本では、僕ではなく木戸の作としておると聞く。

都々逸などというものは、誰の作か分からぬまま流れていくものじゃ。それでよいのではないか。

僕の名を付けたほうが通りがよい、という話なら、それはそなたらの世の都合じゃろうな。

ここで触れたもののほかにも高杉の名で広まっている言葉があり、45件を集めて本人の文面までたどれるかを確かめました。

それでもこの歌が読み継がれてきた理由

ここまで、下の句の作者も、正しい表記も、詠まれた場面も確定できないことを見てきました。それでもこの歌は残っています。

確定していないのに残っているもの
  • 上の句と下の句で、詠み手が違うかもしれないという不安定さ
  • 「世に」と「世を」で、意味の重心がわずかにずれること
  • 高杉本人がどんな場面で書いたのか分からないこと

考えてみると、この不確かさこそが、この歌が広く使われる理由なのかもしれません。詠まれた事情が特定されていないぶん、読む側が自分の状況に引き寄せて読めるからです。

もっとも、それは後世の受け取り方です。この歌を高杉自身がどんな気持ちで書いたのかは、史料からは確かめられません。150年のあいだに幾通りもの解釈が重ねられてきた、というところまでが、確かに言えることになります。

言葉が本人の手を離れて生き続ける。それ自体は珍しいことではありません。ただ、その言葉を引くときに、どこまでが確かめられた話で、どこからが伝えられてきた話なのかを知っておくと、引用の重みが少し変わってくるように思います。

筆者
筆者

あなたの言葉が、150年たった今も引かれ続けています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

僕の知らぬ話じゃが、そう聞くと悪い気はせぬのう。

ただ、僕の名がついちょるからありがたい、というのはやめておくれ。言葉は、読む者が使ってこそのものじゃ。

おもしろうない世じゃと思うたなら、そこからどうするかは、そなたが決めることじゃ。僕にはもう、何もしてやれぬのじゃからな。

よくある質問(FAQ)

「おもしろきこともなき世をおもしろく」の意味は何ですか?

「おもしろいことなど何もないこの世を、おもしろく」という意味に読むのが一般的です。下の句まで続けると「そう住みなすのは自分の心である」となり、世の中の側ではなく受け取る側の心に目を向けた歌として読まれてきました。ただし解釈には幅があります。

下の句「住みなすものは心なりけり」は誰が付けたのですか?

野村望東尼が付けたと伝えられています。ただし、この歌を記した高杉・望東尼どちらの自筆資料も確認できていません。今回さかのぼれたのは、二人の名前を振り分ける1897年の本と、唱和した歌として紹介する1893年の本までです。

「世を」と「世に」、どちらが正しいのですか?

決められません。この歌を記した高杉の自筆資料を確認できないためです。今回確認した12点のうち、表記まで確認できた9点では、7点が「世に」、2点が「世を」でした。現在の東行庵の合作歌碑は「世を」と刻まれています。

これは高杉晋作の辞世の句ですか?

辞世として広く知られていますが、臨終の場で詠まれたとは言い切れません。『東行先生遺文』の伝記部分は「或時」と書くだけです。慶応2年(1866年)暮れ頃の作とみる研究もあります。

この歌はどこで見られますか?

高杉の墓所である東行庵(山口県下関市)に、高杉晋作・野村望東尼合作歌碑があります。2001年(平成13年)3月18日の建立で、正面に上の句と下の句が刻まれています。

インタビュー後記|確かめられないことを、確かめられないまま置く

今回は、一首の歌だけを追いかけました。明治から昭和までの刊本12点を並べ、下の句の作者と表記の変化を確かめる作業です。

分かったことより、分からなかったことのほうが多い調査でした。この歌の自筆資料は見つからず、望東尼の側の記録にも届かず、研究書は孫引きにとどまりました。

それでも、並べてよかったと思っています。古い刊本に「世に」が多かったこと、記念出版が「或時」としか書いていないこと。この2つは、実際に並べなければ気づけませんでした。

言葉を引用するとき、私たちはたいてい出どころを気にしません。でも、この歌のように何度も引かれる言葉ほど、どこまでが確かな話なのかを知っておく価値があると思います。

高杉晋作AIには、最後まで「僕は知らぬ」と言い続けてもらいました。この歌の自筆資料を確認できない以上、いまの私たちには決められないからです。あなたは、この歌をどう読みますか。

本文で触れた「動けば雷電の如く」の碑文を書いた伊藤博文は、松下村塾で高杉と同門でした。この人物についても別の記事でまとめています。

参考資料

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