2026年4月、2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の出演者発表で、見慣れない名前が並びました。そのひとつが栗本鋤雲です。
読み方は「くりもと じょうん」。調べはじめて、まず経歴の飛び方に驚きました。医者なのです。それも将軍家に仕える医者の家に生まれ、40歳になる年に武士となり、外交の最前線に立っています。
この記事の結論
栗本鋤雲は、幕府の医官から士籍(武士の身分)に転じ、目付・外国奉行などを務めてフランスとの外交交渉にあたった人物です。
維新後は新政府に仕えず、『郵便報知新聞』の編集主任として筆をとりました。医療、幕政、外交、新聞と、四つの分野を渡り歩きました。
北の町・箱館(現在の函館)で過ごした数年間には、市立函館病院の前身にあたる箱館医学所の創設に当たりました。
- 満74歳
没年齢(数え年では76歳) - 1862年
医籍を改めて士籍に列せられた年 - 5歳上
小栗忠順との年齢差
この記事では、名前と肩書きの整理から始めて、三つの功績、蝦夷地へ渡った理由をめぐる資料の食い違い、小栗忠順との関係、そして生涯の年表までを順にたどります。
語り手として、栗本鋤雲AI(栗本鋤雲をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。当時の空気や、本人がどう感じていたかを想像する手がかりにしてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに栗本鋤雲の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

鋤雲先生、はじめまして。お名前の読み方でつまずく人が多いようです。まずはご自身が何者なのか、あなたの言葉で教えていただけますか

僕が栗本鋤雲だよ。もとは将軍家に仕える医者の家の者でね、薬箱を提げて歩いておった男さ。
それがどういう風の吹き回しか、北の地へ渡り、やがて刀を差して外国方の役に就いた。自分でも妙な来し方だと思うよ。
世が倒れたあとは新聞の筆をとった。なに、見てきた話をするまでさ。
まずは栗本鋤雲の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう
細かい話に入る前に、表で全体像をつかんでみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 栗本鋤雲(くりもと じょうん)※名(諱)は鯤(こん)、通称は瀬兵衛(せへえ)、号は匏庵(ほうあん)・鋤雲 |
| 生没年 | 文政5年3月10日(1822年5月1日)〜明治30年(1897年)3月6日。満74歳で死去(数え年では76歳)※生年月日は東善寺が「三月三日」と記す |
| 出身 | 江戸 |
| 家 | 幕府医官・喜多村槐園(きたむら かいえん)の三男。のちに奥詰医師・栗本瑞見(ずいけん)の家を継ぐ |
| 活躍した時代 | 幕末から明治 |
| 主な功績 | 箱館医学所の創設、フランスとの折衝と軍制改革への参画、『郵便報知新聞』での言論 |
この表でいちばん誤解されやすいのが、名前の欄です。
「鋤雲」は号(ごう)で、現在でいう雅号や筆名に近い呼び名です。名(諱)は鯤(こん)、ふだん呼ばれた通称は瀬兵衛(せへえ)でした。
号はもうひとつあり、匏庵(ほうあん)といいます。著作の表紙や同時代の本では、こちらの名で出てくることも多い人です。
官途名(朝廷から与えられた官名にちなむ呼び名)は安芸守(あきのかみ)でした。明治の本で「栗本安藝守」と書かれていたら、同じ人物を指しています。
つまり、ひとりの人間が資料によって少なくとも五通りの名で登場します。鋤雲で検索しても、匏庵や瀬兵衛で書かれた資料に行き着かないのは、このためです。

お名前が何通りもあって、正直なところ混乱しました。ご自身では、どう呼ばれるのがしっくりきますか

好きに呼んでくれてかまわんよ。瀬兵衛は世間で呼ばれた名、安芸守は役に就いてからの名だ。
匏庵も鋤雲も、僕が用いた号さ。名が増えるというのは、立場が変わったという印でね。
医者の名で呼ばれ、役人の名で呼ばれ、最後は新聞に出る名になった。それだけの話だよ。
幕末期における栗本鋤雲の三つの功績
幕末までの歩みをたどると、性質の違う三つの仕事が見えてきます。場所も立場もばらばらですが、前の仕事が次の仕事を呼んでいる点は共通しています。
- ① 箱館医学所の創設に携わったこと(のちの市立函館病院の前身)
- ② フランス人宣教師カションから聞き取った話を『鉛筆紀聞』としてまとめたこと
- ③ 幕臣として、横須賀製鉄所の建設と陸軍の軍制改革にかかわったこと
医者としての仕事が、そのまま外交の仕事につながっています。順に見ていきましょう。
① 箱館医学所の創設に当たった|市立函館病院の前身(1860年〜1861年)
いま函館市にある市立函館病院は、幕末の箱館医学所にさかのぼります。その創設の中心人物の一人が栗本でした。
建つまでの経緯は、思いのほか波乱含みです。
| 年(和暦) | 出来事 |
|---|---|
| 安政6年(1859年) | 箱館の市中医師が病院の建設を協議。栗本と塩田順庵が医書を講義して資金を積む |
| 万延元年(1860年) | ロシア領事が病院を新設するという噂を受けて計画を前倒し。山ノ上町に建てて「箱館医学所」と命名 |
| 万延元年の冬 | 上棟式の夜、暴風雪で建物が倒壊する |
| 文久元年(1861年) | 建て直して春に落成。建物は匏庵(栗本)の案で200余坪 |
建てた年を調べると、資料によって書き方が違います。市立函館病院の公式な沿革は1860年(万延元年)を創設年とし、函館市文化・スポーツ振興財団は文久元年と記します。
この違いには、1860年に上棟した建物が倒壊し、翌1861年春に再建・落成した経緯が関係している可能性があります。
ただし、各資料がどの時点を基準にしたのかは明記されていません。
『函館市史』は、この医学所の後身についてこう書いています。
これが今日の市立函館病院となって、本道保健衛生史上に大きな功績を残すことになるのである
出典:函館市地域史料アーカイブ『函館市史』通説編第一巻「箱館医学所(兼病院)」
同じ市史は、医学所の設立について「わけても栗本匏庵の努力によるところが大きい」とも書いています。
栗本が箱館で手がけたのは医療だけではありません。市史は「医学所の創設に当たったほか、殖産、土木など種々の仕事を所管」と記します。
幕府が古武井(現在の函館市)に築いた熔鉱炉についても、栗本の名が出てきます。ただし造った側としてではありません。
『恵山町史』は設計を武田斐三郎、現場の監督を代島剛平とし、栗本は『箱館叢記』に失敗の原因を煉瓦の耐火性と書き残した、と記しています。
七重村(現在の北海道七飯町)の七重薬園もそのひとつです。ここで育てた松や杉の苗が、五稜郭の周辺や街道沿いに植えられました。
ただし薬園については、栗本が開いたと書く『函館市史』と、奉行所が設けた農園を栗本が後から管理するようになったと書く七飯町歴史館があり、説明が一致していません。

病院を建てた夜に、暴風雪で倒れてしまったとうかがいました

上棟の晩に吹き荒れて、建物は倒れた。君たちの世の市史にも、そう残っておるそうだね。
だが、建て直すよりほかにやりようがない。異国の船が入る港に、まともな病院のひとつもないというのでは話にならぬ。
建物の間取りは僕が引いた。診察の間、薬を調える間、講堂、病人を泊める部屋。二百坪あまりの普請さ。
② フランスの事情を聞き取り、『鉛筆紀聞』としてまとめた
箱館には、フランス人宣教師のメルメ・ド・カションがいました。1859年11月25日に到着した人物です。
栗本とカションは、互いの言葉を教え合う間柄になります。日本語を教える代わりに、フランスの政治や経済、軍事、人々の暮らしぶりを聞き取りました。
- 語学を教え合った。函館市文化・スポーツ振興財団の人物伝は「フランス領事のカションと互いの母国語を教えあった」と記しています
- 聞き取りが本になった。まとめられたのが『鉛筆紀聞』で、のちに『匏菴十種』の巻之1として刊行されました
- カションはロッシュ公使の通訳官だった。『ブリタニカ国際大百科事典』は、カションを駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳官と記します
ここが、この人の経歴のつなぎ目です。同じ人物伝は、のちに取り立てられたのは「互いの母国語を教えあったことで親交を深めた功績があったから」だと説明しています。
栗本はこのあと、文久2年(1862年)に医籍を改めて士籍に列せられ、箱館奉行支配組頭(箱館奉行組頭とも表記されます)に任じられます。満40歳になる年でした。
医者としてではなく、役人として働き始めたわけです。そして文久3年10月(西暦では1863年11月から12月)、江戸へ帰ります。

フランス語を、どうやって覚えられたのですか

覚えたというほどのものではないよ。カションどのに日本の言葉を教え、代わりに向こうの国の話を聞いた。それだけさ。
政(まつりごと)の仕組み、銭の回り方、兵の集め方、暮らしの作法。聞いた端から書き留めた。
蝦夷地では、江戸の御殿勤めと違って異国の者と口をきく機会があった。あのまま城におったら、あんな話を聞くことはなかったろう。
③ 幕臣として、横須賀製鉄所と陸軍の軍制改革にかかわった
江戸に戻った栗本は、昌平黌(幕府の学問所)の頭取を経て目付になり、やがて外国奉行を務めます。
ただし就任した年は、事典によって違います。
| 事典 | 目付になった年 | 外国奉行になった年 |
|---|---|---|
| 『日本大百科全書』 | 1864年 | 1865年 |
| 『改訂新版 世界大百科事典』 | 1863年(昌平黌頭取と同時に記す) | 1867年(軍艦奉行を経て) |
目付は1863年から1864年、外国奉行は1865年から1867年と、資料によって記載が分かれます。
『函館市史』は「慶応3年江戸で外国奉行のまま箱館奉行も兼ね、フランスに派遣されている」と記しています。
この時期の栗本は、いわゆる親仏派の一人でした。横須賀市の公式ページは、親仏派の栗本瀬兵衛・小栗上野介忠順・浅野美作守らがロッシュに協力を依頼し、ロッシュが技師団を手配した、という順序で説明しています。
製鉄所の建設と、幕府陸軍をフランス式に改める軍制改革。この二つに、栗本は当事者としてかかわりました。
1867年(慶応3年)にはフランスへ渡り、将軍名代としてパリ万国博覧会へ向かった徳川昭武の一行を補佐します。翌1868年(慶応4年)、幕府が倒れたあとに帰国しました。
製鉄所そのものの経緯は、こちらの記事でたどっています。

医者だった方が、外国奉行にまでなられた。当時としては、かなり珍しいことではありませんか

珍しかったろうね。箱館でカションどのと交わった経験が、その後の役目につながったようだね。
医者であった僕が外交に関わるとは、不思議なものさ。
役人というのは、知っている者のところへ仕事が転がってくるものでね。知らぬ顔をしていれば済んだものを、うっかり書き留めてしまったのが運の尽きだよ。
蝦夷地へ渡ったのは左遷だったのか|資料で説明が分かれる
ここが、この人物を調べていていちばん引っかかった点です。
「移住を命ぜられた」と書く資料と、「出願して許され」と書く資料があります。どちらか一方を正解にできません。
| 資料 | 書いていること |
|---|---|
| 『日本大百科全書』 | 上司の忌諱(きき)に触れて1858年(安政5)蝦夷地移住を命ぜられた |
| 国立国会図書館「近代日本人の肖像」 | その後、職を解かれ、5年に函館に移住 |
| 函館市文化・スポーツ振興財団 | 西洋の船に乗るとは言語道断として奥詰医師の職を解かれ、謹慎の1年を経て蝦夷勤務となった。「妻が左遷と嘆いた箱館行き」とも書く |
| 『ブリタニカ国際大百科事典』(カションの項) | 同地に左遷された進歩的幕臣栗本鯤 |
| 『函館市史』通説編第一巻 | 安政5年蝦夷地在住を出願して許され、文久3年10月江戸に帰るまで |
「左遷」という語は、事典では栗本自身の項ではなく、カションの項に出てきます。
「移住を命ぜられた」と「出願して許され」は、両立しにくい説明です。一方で「職を解かれた」ことと「自分で出願した」ことは、順に起きたとすれば両立します。
安政5年蝦夷地在住を出願して許され、文久3年10月江戸に帰るまで
出典:函館市地域史料アーカイブ『函館市史』通説編第一巻「箱館医学所(兼病院)」
職を離れた理由についても、説明はそろっていません。西洋の船に乗ったことをとがめられたとするもの、上司の機嫌を損ねたとするものがあります。
讒言(ざんげん)によるとする紹介も見かけますが、この説は今回参照した公的な資料では確認できませんでした。
蝦夷地へ移った年も割れています。安政5年(1858年)とする資料が多く、道南の自治体の資料もこれでそろいますが、『改訂新版 世界大百科事典』は1852年とします。
2027年の大河ドラマの役紹介は「蝦夷地へ左遷される」としています。番組が示す役どころと、資料からたどれる経緯は、分けて読んだほうがよさそうです。

蝦夷地へ渡られたのは、ご自分の望みだったのですか。それとも

君たちの世に残る書きものでも、説明が分かれておるそうじゃないか。
僕の口から、あれは左遷だったの、望んで行ったのと言い立てても始まらぬよ。ともかく北の地へ渡ることになった。
ただ、これだけは言える。あそこへ行かなんだら、カションどのにも会わず、異国の話も聞かず、外国方の役にも就いておらん。
栗本鋤雲と小栗忠順はどんな関係だったのか
大河ドラマの役紹介では、栗本は「生涯を通じた小栗の盟友」とされています。ここも、資料でどこまで言えるのかを確かめました。
造船所の建設と軍制改革を小栗らと共に企画したことは、栗本の存命中に出た刊本の序文でたどれます。一方で「盟友」という語は、今回確認した史料には出てきません。
その序文は、『匏庵十種』(栗本鋤雲著・岡敬孝校、1892年)の巻頭にあります。
なお書名の字は版によって違い、1869年の初版は『匏菴十種』、1892年のこの版は『匏庵十種』として国立国会図書館の書誌に載っています。
造舩所建築ノ創意ニ於ケル、陸軍々制ノ改革ニ於ケル、大抵先生ガ小栗等諸老ト共ニ參畫スル所ニシテ
現代語訳造船所建設の発案でも、陸軍の軍制改革でも、おおむね先生が小栗ら諸老とともに企画したところであって。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション 栗本鋤雲著・岡敬孝校『匏庵十種』(1892年)
ここで「先生」と呼ばれているのが栗本です。ただし序文は栗本本人が書いたものではなく、本記事が確認したのもこの序文だけで、栗本自身が書いた本文の該当箇所は確認していません。
二人の出会いについては、儒学者・安積艮斎(あさか ごんさい)の塾で同門だったという紹介があります。ただし門人帳の該当箇所は確認できておらず、「門人として名が挙げられています」というところまでが言える範囲です。
年齢は栗本が5歳上にあたります。栗本が1822年生まれ、小栗が1827年生まれです。
幕府の先行きについて小栗が語ったとされる「土蔵付き売家」の言葉を伝えたのも、栗本だとされています。
福地源一郎『幕末政治家』(1900年)は、小栗が「栗本安藝守」に語ったこととして紹介し、「此事は栗本匏庵翁の自著に見えたり」と割注をつけています。ただし本記事は、栗本の自著の該当箇所までは確認していません。
小栗忠順という人物については、こちらの記事でまとめています。

小栗上野介どのとは、どのようなお付き合いでしたか

造船所の建設や軍制改革に、小栗らとともに関わった仲さ。
年は僕が五つ上だが、それだけの話だよ。
あの男が最期にどうなったかは、僕はその場におらなんだ。海の向こうから戻ってきたころには、もう世が変わっておった。
栗本鋤雲の最期と、没年をめぐる記載の違い
栗本は明治30年(1897年)3月6日に亡くなりました。満74歳、数え年では76歳です。
事典、国立国会図書館、函館市文化・スポーツ振興財団、そして小栗の菩提寺である東善寺は、いずれも明治30年3月6日で一致しています。
ところが日本学士院の物故会員一覧だけは、退任年月日を明治20年(1887年)3月6日としています。月日は同じで、年だけが10年ずれています。
この記事は1897年を採りました。1891年に本人を出版者とする『唐太小詩』が出ており、同じ年に福沢諭吉が『瘠我慢の説』の写本を栗本に示しているためです。
死因については、今回確認した事典8点のいずれにも記載を見つけられませんでした。別の事典を典拠に病名を挙げる紹介もありますが、本記事はその該当頁を確認していないため、病名は書きません。
墓所について、東善寺は「小石川大塚善心寺に葬る」と記しています。ただし寺の公式サイトでも、文京区の史跡一覧でも、今回は確認できませんでした。

晩年は、どのようにお過ごしでしたか

詩を作り、昔の見聞を書き並べておったよ。樺太(からふと)を詠んだ詩をまとめて、一冊の本にした。
新聞の筆を置いてからは、世間から少し離れて暮らしておった。
福沢どのに書きものを見せられたこともあったな。あれは明治も二十四年のことだ。旧幕の者がどう身を処すべきか、という話さ。
栗本鋤雲の生涯を年表で振り返る
和暦の日付を西暦に直すと年がずれることがあるため、年表は「年」だけで並べます。
| 年(和暦) | 出来事 |
|---|---|
| 文政5年(1822年) | 江戸に生まれる。幕府医官・喜多村槐園の三男 |
| 嘉永元年(1848年) | 奥詰医師・栗本瑞見の家を継ぐ |
| 安政5年(1858年) | 蝦夷地・箱館へ移る。『改訂新版 世界大百科事典』は1852年とする |
| 安政6年(1859年) | 箱館の市中医師が病院建設を協議。11月、メルメ・ド・カションが箱館に到着 |
| 万延元年(1860年) | 山ノ上町に建てて「箱館医学所」と命名。冬の上棟式の夜、暴風雪で倒壊 |
| 文久元年(1861年) | 医学所を建て直し、春に落成。市立函館病院の前身となる |
| 文久2年(1862年) | 医籍を改めて士籍に列せられ、箱館奉行支配組頭となる |
| 文久3年 | 10月(旧暦)に江戸へ帰る。昌平黌頭取、目付(年は事典で割れる) |
| 1860年代なかば | 外国奉行となる(年は事典で1865年・1867年に割れる)。横須賀製鉄所の建設と陸軍の軍制改革にかかわる |
| 慶応3年(1867年) | フランスへ渡り、徳川昭武の一行を補佐する |
| 慶応4年(1868年) | 帰国。幕府はすでに倒れていた |
| 明治5年(1872年) | 『横浜毎日新聞』に入る |
| 明治6年(1873年) | 『郵便報知新聞』の編集主任となる |
| 明治12年(1879年) | 東京学士会院の会員に選定される |
| 明治18年(1885年) | 『郵便報知新聞』を退社する |
| 明治24年(1891年) | 『唐太小詩』を刊行する |
| 明治30年(1897年) | 3月6日に死去。満74歳(数え年では76歳) |
明治維新後は新聞記者に|『郵便報知新聞』の編集主任
事典は、幕臣としての経歴と並べて、明治に入ってからの新聞での仕事を大きく扱っています。
新政府には仕えませんでした。代わりに選んだのが新聞です。1872年(明治5年)に『横浜毎日新聞』へ入り、翌1873年(明治6年)には『郵便報知新聞』の編集主任になります。
役職の呼び方は事典によって違い、主筆とするもの、編集主宰とするものがあります。いずれにせよ、紙面をつくる側の中心にいました。
- 書き手が豪華だった。国立国会図書館は、栗本が編集を務めたほか、古沢滋・矢野竜渓(文雄)・藤田茂吉・犬養毅・尾崎行雄・原敬らを執筆陣として発展した、と記します
- 政論新聞として伸びた。同館はこの新聞を自由民権派の政論新聞(大新聞)と位置づけています
- 福沢門下を迎えた。『百科事典マイペディア』は、栗本が福沢諭吉の門下生を集めたと書いています
のちに首相となる原敬や犬養毅が、若いころにこの紙面で書いていたわけです。栗本は、その初期をつくった側にいました。
事典では、成島柳北や福地桜痴(福地源一郎)と並び称されています。ただし福地の『東京日日新聞』は論敵にあたり、紙面で論戦を交わした相手でもありました。
1885年(明治18年)に退社したあとは、世間から離れて暮らしたと伝えられます。この生き方は「二君に仕えず」という語で語られてきました。
ただし、この言葉を本人が述べたという出典は今回特定できませんでした。もとは『史記』にさかのぼる成句です。

新政府からお声がかかることは、なかったのでしょうか

さあね。ともあれ新政府には仕えず、僕は書く道を選んだ。
なぜそうしたのかは、君たちの世に残った書きものに任せるよ。
筆は残る。役目は残らぬ。今ならそう言えるかもしれんね。
2027年大河『逆賊の幕臣』で栗本鋤雲を演じるのは青木崇高
2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』で、栗本鋤雲を演じるのは青木崇高です。2026年4月24日の第4次出演者発表で明らかになりました。
番組が公表している役どころと、今回たどれた記録を並べてみます。
| ドラマの役どころ | 今回たどれた記録 |
|---|---|
| 幕府医官・喜多村家の三男 | 事典3点が一致して記す |
| 奥詰医師の栗本家の婿養子となる | 事典は「栗本氏の養子」「奥詰医師栗本瑞見を継ぐ」と記し、婿養子と明記した事典は確認できない |
| 蝦夷地へ左遷される | 職を離れて蝦夷地へ移ったことは複数の資料が書く。理由の説明は資料ごとに違う |
| 宣教師カションと交友を深める | 函館市文化・スポーツ振興財団の人物伝が、互いの母国語を教え合ったと記す |
| フランス公使の通訳となったカションと再会し、小栗とともに対仏外交の最前線に立つ | カションがロッシュ公使の通訳官になったことは『ブリタニカ国際大百科事典』の記述と一致する |
ドラマの役どころと、資料でたどれる役割は別の層の話です。どちらが正しいという話ではなく、番組は「盟友」という言葉で紹介し、資料は役職と事績で記録している、という違いがあります。
なお2021年の大河ドラマ『青天を衝け』にも栗本鋤雲は登場しており、こちらは池内万作が演じました。
発表ずみの配役と人物の関係は、こちらにまとめています。

ご自分が芝居に出るとしたら、どう描かれたいですか

君たちの世では、僕のような者まで芝居に出るのかね。物好きなことだ。
どう描かれようとかまわんが、ひとつだけ。異国との掛け合いを、僕ひとりの手柄のように描かぬでほしいな。
言葉を通したのはカションどのだし、算段をつけたのは小栗たちだ。あれは多くの者が関わった仕事よ。
栗本鋤雲の歩みから考える現代へのヒント
栗本の経歴を並べると、進路の相談に乗っているような気分になります。医者の家に生まれ、医者として育ち、それなのに医者で終わっていません。
転機になったのは、北の町での数年間でした。中央から離れた場所で、目の前にいた外国人と言葉を教え合いました。
函館市の人物伝は、のちの取り立てをこの交流の功績によるものと説明しています。
本人が望んで行ったのか、追いやられたのかさえ、資料では決着がつきません。それでも、そこで得たものが次の立場につながったと、資料の側は説明しています。
もうひとつ。栗本は新政府に仕えず、書く側に回りました。組織の外へ出た人が、書くことで残った例です。
あなたは栗本鋤雲の生き方から、何を受け取りますか。

思いがけない場所に移ることになった人へ、何か言葉をいただけますか

思いがけず移った先で腐るな、とは言わんよ。腐るときは腐るものだ。
ただ、その土地に一人でも、話の通じる相手を見つけておくといい。僕にとってはカションどのがそうだった。
箱館へ行かなんだら、あの出会いもなかったであろうな。どこへ行くかより、誰と話すかさ。
よくある質問(FAQ)
栗本鋤雲は何と読みますか?
「くりもと じょうん」と読みます。「鋤雲」は号で、名(諱)は鯤(こん)、通称は瀬兵衛(せへえ)です。匏庵(ほうあん)という号も使いました。
栗本鋤雲は何をした人ですか?
幕府の医官から士籍に転じ、目付・外国奉行などを務めた人物です。箱館では市立函館病院の前身にあたる箱館医学所の創設に当たり、維新後は『郵便報知新聞』の編集主任として筆をとりました。
医者がどうして外国奉行になれたのですか?
函館市文化・スポーツ振興財団は、箱館でカションと互いの母国語を教え合った功績によるものと説明しています。文久2年(1862年)に医籍を改めて士籍に列せられ、箱館奉行支配組頭になりました。
小栗忠順とはどんな関係でしたか?
造船所の建設と陸軍の軍制改革を小栗らと共に企画したと、栗本の存命中に出た刊本の序文が書いています。ドラマでは「盟友」とされますが、この語は今回確認した史料には出てきません。
栗本鋤雲の子孫はいますか?
没後に遺稿集を編んだ栗本秀二郎という人物がいますが、続柄をはじめ、その後の系譜は今回確認できませんでした。確認できた範囲を超えて書かないでおきます。
大河ドラマでは誰が演じますか?
2027年の『逆賊の幕臣』では青木崇高が演じます。2021年の『青天を衝け』では池内万作が演じました。
栗本鋤雲はどんな人でしたか?
資料からたどれるのは、医者・役人・外交・新聞と立場を変えながら、見聞きしたことを書き留め続けた人物像です。「大らかで好奇心旺盛」といった人柄の描写はドラマの役どころによるもので、史料から断定できるものではありません。
インタビュー後記|栗本鋤雲は「書き留めた人」
今回は栗本鋤雲AIに登場してもらいました。
調べていて印象に残ったのは、この人が何かを「建てた人」としてよりも、「書き留めた人」として記録に残っている点です。
医学所の建物は栗本の案で建ちました。けれども古武井の熔鉱炉について資料が伝えるのは、設計者ではなく、失敗の原因を書き残した側としての栗本です。
フランスの事情も、小栗の「土蔵付き売家」の言葉も、栗本が伝えたとされる形で今に届いています。
そしてその本人については、蝦夷地へ渡った理由も、七重薬園を開いたのが誰かも、資料が食い違ったままでした。墓所も、寺の公式サイトでは確かめられないままです。
人の記録を残した人自身の記録に、意外なほど食い違いが残っていました。なかなか皮肉な読後感です。
栗本が言葉を伝えた小栗その人の最期は、こちらで検証しています。
参考資料
- 国立国会図書館「栗本鋤雲|近代日本人の肖像」※生没年、家業相続、帰府、外国奉行、フランス派遣、郵便報知新聞の出典
- コトバンク「栗本鋤雲」※箱館移住年・任官年・役職名・退社年が事典で割れることの出典
- コトバンク「カション」※カションがロッシュ公使の通訳官に登用されたこと、栗本との知識交流、「同地に左遷された進歩的幕臣栗本鯤」の表記の出典
- 函館市地域史料アーカイブ『函館市史』通説編第一巻「箱館医学所(兼病院)」※「蝦夷地在住を出願して許され」「わけても栗本匏庵の努力によるところが大きい」「今日の市立函館病院となって」の出典
- 函館市地域史料アーカイブ『函館市史』通説編第一巻「植樹」※七重薬園で松・杉の苗を仕立てて配布したことの出典
- 函館市文化・スポーツ振興財団「栗本鋤雲〜函館ゆかりの人物伝」※奥詰医師を解かれた理由、文久元年の箱館医学所、没年の出典
- 函館市文化・スポーツ振興財団「メルメ・ド・カション〜函館ゆかりの人物伝」※カションの箱館到着と語学の教え合い、『鉛筆紀聞』の成り立ちの出典
- 函館市地域史料アーカイブ『恵山町史』「(4)古武井高炉と一連の施設」※古武井熔鉱炉の設計者・現場監督と、栗本が『箱館叢記』に失敗の原因を書き残したことの出典
- 東善寺「栗本鋤雲の事績」※没年月日(明治30年3月6日)、葬地を「小石川大塚善心寺」と記すこと、生年月日を「三月三日」とすることの出典
- 国立国会図書館サーチ 栗本鋤雲著・栗本秀二郎編『匏庵遺稿』※没後の遺稿集を栗本秀二郎が編んだことの出典
- 市立函館病院「沿革」※1860年(万延元年)を箱館医学所の創設年とすることの出典
- 七飯町歴史館「江戸時代のななえ」※奉行所が設けた農園を栗本が後から管理するようになったとする記述の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 栗本鋤雲著・岡敬孝校『匏庵十種』(1892年)※造船所建設と軍制改革を小栗らと共に企画したとする序文。本記事が確認したのは序文のみです
- 国立国会図書館デジタルコレクション 栗本鯤編『匏菴十種』巻之1『鉛筆紀聞』(1869年)※『鉛筆紀聞』が『匏菴十種』巻之1であることの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 栗本鋤雲(匏庵)著『唐太小詩』(1891年)※1891年刊で、著者・出版者とも栗本鋤雲と記載されていることの出典
- 国立国会図書館「明治初期に創刊された新聞に関わった人々|近代日本人の肖像」※『郵便報知新聞』の執筆陣と政論新聞としての位置づけの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 福地源一郎『幕末政治家』(1900年)※「土蔵付き売家」を栗本の自著に見えると割注すること、「栗本安藝守」の表記の出典
- 横須賀市「横須賀とフランスの歴史」※親仏派がロッシュに協力を依頼した順序の出典
- 日本学士院「物故会員一覧(50音順)カ行」※東京学士会院の会員選定日と、退任年月日が明治20年3月6日と記載されていることの出典
- ステラnet「『逆賊の幕臣』第4次出演者発表」※栗本鋤雲役が青木崇高であること、役紹介の文言の出典
- 東宝芸能「池内万作 NHK大河ドラマ『青天を衝け』出演決定!」※2021年の大河での栗本鋤雲役が池内万作であることの出典
- 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション「明治十年丁丑公論・瘠我慢之説」解題※福沢諭吉が明治24年に写本を示した相手に栗本が含まれることの出典







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