小栗忠順(おぐり ただまさ)といえば、「明治より前に、日本の近代化の土台を作った幕臣」として知られる人物です。
でも「実際に何をした人なのか?」と聞かれると、意外と説明が難しくないですか?
今回は小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらい、その生涯と功績をわかりやすくまとめてみました。
坂本龍馬や勝海舟の名前は有名でも、幕府の側から日本の近代化を進めた小栗忠順のことは、意外と知られていません。遣米使節での活躍から、悲劇的な最期まで、じっくり見ていきましょう。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

それでは小栗忠順さん、よろしくお願いします。

おお、よう参られた。私が小栗忠順にて候。徳川の世が傾きゆくなか、国の明日を造らんと駆けた者でございます。
世間では大層なことをしたように申す者もおるようですが、なに、私はただ道理に従うたまで。さあ、何なりとお尋ねなされ。
まずは小栗忠順の基本プロフィールと何をした人なのかを2分で知ろう
小栗忠順は、江戸幕府に仕えた旗本(将軍直属の武士)で、勘定奉行など幕府の要職を歴任した人物です。フランスの技術を取り入れて横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設を主導するなど、幕府の側から日本の近代化を進めました。
まずは、どんな人物だったのかを表でざっくりつかんでみましょう。生まれた場所や活躍した時代を知っておくと、このあとの功績の話がぐっとわかりやすくなります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 小栗忠順(おぐり ただまさ)/通称・又一(またいち)、官途名・上野介(こうずけのすけ) |
| 生没年 | 1827年〜1868年(享年42歳=数え年/満40歳) |
| 出身 | 江戸(現在の東京都)/2500石の旗本の家 |
| 活躍した時代 | 幕末(江戸時代の終わり) |
| 主な功績 | 遣米使節としての渡米、横須賀製鉄所の建設、幕府の財政・軍制改革 |
小栗はその合理的な発想と実行力から、幕末屈指の実務官僚と評価されることがあります。感情よりも事実と実利を重んじ、西洋の技術を積極的に取り入れようとした、開明的な人物と評されています。

まずは簡単に、あなたがどんな人物なのか教えていただけますか?

私は徳川将軍家に仕えた旗本にて候。勘定奉行として国の台所を預かり、遣米使節として海を渡り、横須賀に鉄と槌の音を響かせた者でございます。
日本には金がある、技術も借りられる——あとは動く意志あるのみ。その一念で、沈みゆく船の上でも国の明日を造ろうといたしました。
小栗忠順の三大功績
小栗忠順の功績は数多くありますが、なかでも日本の近代化に直結したのが次の3つです。
- ① 遣米使節としての渡米と金銀交渉(1860年)
- ② 横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設(1865年起工)
- ③ 幕府の財政・軍制改革
どれも「西洋に追いつくための土台づくり」と言える出来事です。1つ1つを詳しく見ていきましょう。
① 遣米使節としての渡米と金銀交渉(1860年)
1860年(万延元年)、小栗忠順は遣米使節(アメリカに派遣された使節団)の目付(監察役)として、軍艦ポーハタン号で太平洋を渡りました。日米修好通商条約の批准書を交換するための、公式な外交使節です。
このときアメリカで問題になったのが、金と銀の交換比率でした。当時の日本と海外では金銀の価値の比率が大きく異なり、放っておくと日本の金が海外へ流出してしまう状況だったのです。
小栗はフィラデルフィア造幣局で日本の貨幣を分析させ、その結果をもとに交換方法の是正を主張したとされています。使節団はその後、大西洋を渡って世界を一周し、帰国しました。

アメリカに渡って、いちばん印象に残ったことは何でしたか?

かの地で驚いたのは、金と銀の交換の割合が、わが国と西洋とであまりに違うておったこと。このままでは日本の金がむざむざ流れ出てしまう。
造幣の役所にて我が国の貨幣を試させ、道理を説きましてございます。異国と渡り合うには、腕力ではのうて数字と証拠が要る——身をもってそう学びました。
② 横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設(1865年起工)
小栗忠順が最も力を注いだのが、横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設です。1865年(慶応元年)、フランス公使ロッシュの協力を得て、技術者レオンス・ヴェルニーを招いて起工しました。
その狙いは、単に船を修理するだけでなく、「船を一から造れる国」になることでした。造船には製鉄・機械・技術者の養成まで必要で、これは国全体の工業力を底上げする一大プロジェクトだったのです。
「幕府がいつまで持つか分からないのに」という反対の声もあったと言われています。それでも小栗は建設を進めました。この施設は小栗の死後も工事が続き、1871年(明治4年)に第1号ドックが完成して横須賀造船所へと改称されます。のちの日本の造船業や海軍の基盤になっていきました。

横須賀の造船所づくりに、そこまで力を注いだのはなぜですか?

ただ船を直すだけでのうて、船を一から造れる国にしようと図りました。フランスより技師ヴェルニー殿を招いたのも、そのためにて候。
人は申しました、幕府がいつまで持つやも知れぬのに何を悠長な、と。されど、たとえ徳川が倒れようとも、この鉄と技だけは次の世の役に立つはず——そう願うて槌を振るわせたのでございます。
③ 幕府の財政・軍制改革
小栗忠順は勘定奉行・陸軍奉行などを務め、幕府の立て直しにも取り組みました。財政と軍事の両面を、西洋のやり方を参考にして新しくしようとしたのです。
代表的なのが、小栗らの提案を受け、幕府主導で商人の出資を集めて設立された兵庫商社です。これは、複数の出資者からお金を集めて事業を行う、のちの株式会社に近い仕組みの先駆けだったと言われています。あわせて、フランス式の新しい軍隊の整備も進めました。
古い仕来りを守るだけでは、西洋の艦隊には対抗できない——小栗はそう考え、合理的な仕組みを次々と導入しようとしました。

財政や軍隊まで、次々と新しい仕組みを取り入れようとしたのはなぜですか?

国を強うするには、金の巡りと兵の仕組みを新しゅうせねばなりませぬ。私は商人の力を束ねる兵庫商社を興すことを唱え、フランスに倣うた新式の軍も整えようといたしました。
古き仕来りを守るばかりでは、異国の砲艦には勝てぬ。理に適う道があるならば、たとえ西洋渡来のものでも取り入れる——それが国を守る道理と存じました。
小栗忠順の死因と最期
小栗忠順の最期は、非常に痛ましいものでした。1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れたあと、小栗は新政府への抗戦(主戦論)を唱えましたが受け入れられず、役職を解かれます。
その後、領地である上野国権田村(こうずけのくにごんだむら/現在の群馬県高崎市)に移り住みました。ところが同年閏4月、新政府軍に捕らえられ、十分な取り調べを受けないまま、烏川(からすがわ)の河原で斬首されたと伝えられています。享年42歳(数え年/満40歳)でした。
なお、小栗は幕府の御用金を赤城山などに隠したという「徳川埋蔵金」伝説とも結び付けて語られます。ただし確かな史料はなく、これは俗説(世間で言い伝えられている話)です。
小栗と同じ幕臣でありながら、戦を避けて江戸無血開城を選んだのが勝海舟です。対照的な2人の生き方は、こちらの記事でも紹介しています。

十分な取り調べを受けずに最期を迎えた小栗さんの心情を、創作として表すとどうなりますか?
※以下は史実から想像した創作上の心情です。

無念がなかったと申せば、嘘になりましょう。新しき世の軍勢に捕らえられ、これという取り調べもなきまま、烏川の河原にて首を打たれた身にございます。
されど、うろたえはいたしませぬ。願わくは、横須賀の槌の音が、いつか私の代わりに答えを出してくれれば——そう思うておりました。
小栗忠順の生涯を年表で振り返る
小栗忠順の40年あまりの生涯を、年表で振り返ってみましょう。華やかな功績だけでなく、要職を何度も解かれた不遇の時期や、悲劇的な最期までを追うと、その人物像がより立体的に見えてきます。
| 年(西暦/和暦) | 出来事 | ひとこと解説 |
|---|---|---|
| 1827年(文政10年) | 江戸に生まれる | 2500石の旗本の家に誕生 |
| 若年期 | 剣術や砲術などを学ぶ | 武家の子として学問と武芸を修めた |
| 1855年(安政2年) | 家督を継ぐ | 父の死により小栗家の当主となる |
| 1860年(万延元年) | 遣米使節として渡米 | 目付としてポーハタン号で太平洋を渡る |
| 1860年(万延元年)末 | 帰国し外国奉行に就任 | 世界一周を経て要職に抜擢される |
| 1861年(文久元年) | ロシア軍艦の対馬占領事件に対応 | 外国奉行として交渉にあたる |
| 1862年頃〜 | 勘定奉行などを歴任 | 罷免と再任を何度も繰り返す不遇も経験 |
| 1864年(元治元年) | 横須賀製鉄所の建設を建議 | 近代造船の必要性を幕府に説く |
| 1865年(慶応元年) | 横須賀製鉄所が起工 | フランス人技師ヴェルニーを招く |
| 1866年(慶応2年) | フランス式軍制改革を推進 | 新式の軍隊づくりを進める |
| 1867年(慶応3年) | 兵庫商社の設立/大政奉還 | 株式会社に近い仕組みの先駆け |
| 1868年(慶応4年)1月 | 主戦論を唱えるも罷免 | 鳥羽・伏見の敗戦後、役職を解かれる |
| 1868年(慶応4年) | 権田村へ移り住む | 所領地の権田村に隠棲した |
| 1868年(慶応4年)閏4月 | 新政府軍に捕らえられ斬首 | 十分な取り調べもなく処刑される(満40歳) |
| 1871年(明治4年) | 第1号ドックが完成し横須賀造船所へ改称 | 建設計画は明治政府に引き継がれた |
こうして並べてみると、順風満帆とは程遠い人生だったことがわかります。要職に就いては罷免され、また呼び戻される——その繰り返しのなかで、小栗は横須賀という大きな事業に挑み続けたのです。
小栗忠順のすごさ・影響力
小栗と親交があり、横須賀製鉄所の建設にも関わった幕臣・栗本鋤雲(くりもと じょうん)の回想として伝えられる逸話では、幕府の行く末にかかわらず施設を残そうとした小栗の姿勢が語られています。自分の代では完成しないとしても、横須賀の建設を進めようとしたと伝わります。
その先見性は、後世にも評価されています。WEB歴史街道などで紹介されている逸話では、日本海海戦に勝利した海軍軍人の東郷平八郎が、1912年(明治45年)に小栗の遺族を招き、横須賀の造船所建設への感謝を伝えたとされています。
また、明治政府で活躍した大隈重信が小栗を高く評価したとする逸話もありますが、発言の詳しい出典は明確ではありません。横須賀製鉄所の建設などの功績から、小栗は日本近代化の先駆者の一人とも評されています。

ご自分の仕事が後世に与えた影響を、今どう受け止めていますか?

私が起こした横須賀の製鉄所が、私の亡きあとどうなったか——それは、私が見届けることのできなかった後世の話にて候。
されど、あの地で育った技と人が、後の世の国を支えたのなら、これに勝る喜びはございませぬ。名を残そうと思うて働いたのではない。ただ、日本という船を沈めとうなかった。それだけでございます。
小栗忠順の思想と現代へのメッセージ
小栗が進めた政策を振り返ると、その姿勢は、資金・技術・実行力を重視したものと整理できます。感情や建前よりも、事実と実利を重んじる、合理的な人物だったと考えられています。
とりわけ印象的なのは、沈みかけた船(幕府)の上にいながら、次の時代に役立つ事業を進めようとした点です。自分の立場が危うくても、国全体の未来のために手を動かし続けました。
これは、先が見えない状況でも「今できる準備」をやめない、という現代にも通じる生き方だと言えます。組織や環境が不安定なときこそ、小栗の合理性と胆力(度胸)は学ぶところが多いのではないでしょうか。

先の見えない時代を生きる私たちに、伝えたいことはありますか?

金があっても、技があっても、それを動かす意志がなければ何も変わりませぬ。
私は沈む船の上で明日の船を造ろうといたしました。貴殿らの立つ場所が、たとえ心もとなくとも——どうか、己の信じる槌を振るいなされ。
あなたは小栗忠順の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
Q. 小栗忠順は何をした人ですか?
A. 江戸幕府の勘定奉行などを務めた幕臣です。フランスの技術を取り入れて横須賀製鉄所の建設を主導し、財政・軍制改革も進めるなど、幕府の側から日本の近代化の土台を築きました。
Q. 小栗忠順はなぜ処刑されたのですか?
A. 1868年(慶応4年)に新政府軍に捕らえられ、十分な取り調べを受けないまま斬首されました。処刑に至った具体的な理由や経緯は、史料上はっきりしていません。
Q. 横須賀造船所とはどんな施設ですか?
A. フランス人技師ヴェルニーを招いて1865年に起工した、船を修理・建造できる近代的な工場です。1871年に第1号ドックが完成して横須賀造船所へ改称され、のちの日本の造船業や海軍の基盤になりました。
Q. 小栗忠順と勝海舟の関係は?
A. 同じ幕臣ですが、方針は対照的でした。小栗が新政府への抗戦(主戦論)を唱えたのに対し、勝は戦を避ける道を選び、江戸無血開城を実現したと言われています。
Q. 徳川埋蔵金との関係は本当ですか?
A. 幕府の御用金を赤城山などに隠したという伝説と結び付けて語られますが、確かな史料はなく、俗説(世間で言い伝えられている話)です。
インタビュー後記|小栗忠順は幕末屈指の実務官僚
今回は小栗忠順AIに登場してもらいました。
調べていて強く印象に残ったのは、「自分の代では完成しないとしても、未来に役立つ事業に挑み続けた」という姿勢です。幕府という沈みゆく船の上で、次の時代に残る仕事を進めていた——その合理性と覚悟には、時代を超えて考えさせられるものがあります。
一方で、十分な取り調べも受けないまま命を絶たれた最期は、あまりにも痛ましいものでした。だからこそ、後世に伝わる東郷平八郎や大隈重信をめぐる逸話が、静かな重みを持って響いてきます。
同じ幕末を生きた人物たちと読み比べると、時代の見え方がぐっと広がります。あわせてどうぞ。
参考資料
本記事の史実部分は、以下の資料を参考にしています。





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