佐久間象山(さくま しょうざん)の名前を、私は「誰かの先生」としてばかり見てきました。勝海舟の号の由来とされる額「海舟書屋」を書いた人。吉田松陰に密航を暗に勧めたとされる人。
このサイトの勝海舟の記事でも、額の話で触れただけでした。
ところが調べ始めると、名前の読みからして一つに決まりません。事典の見出しは「しょうざん」が多いのに、地元の長野では「ぞうざん」と呼ぶ人が多いと書く事典もあります。
弟子の名前は誰でも知っているのに、先生のほうは読み方すら定まらない。脇役に回されてきた人物を、一度まん中に置いてみたくなりました。
この記事の結論
佐久間象山は、1842年に「海防八策」で西洋式の軍備を説き、江戸の塾で勝海舟や吉田松陰を教えた松代藩士です。蟄居(ちっきょ:家に閉じこもる刑)のあいだに開国論へ考えを進め、1864年に京都で暗殺されました。
1849年には松代で電信の実験に成功したと事典にあり、『省諐録(せいけんろく)』に残した「東洋の道徳、西洋の芸術」という言葉で知られます。
ただし、海防八策が幕府の政策になったとする記述はなく、電信の実験場所や地震予知器は「言い伝え」「象山作と伝えられる」の範囲です。
- 満53歳
没年齢(数え年54歳) - 1842年
海防八策を藩主に上書 - 1864年
京都・三条木屋町で暗殺
この記事では、名前と読み方の整理から始めて、三つの功績、暗殺の経緯、生涯の年表、松代と京都に残るゆかりの地、『省諐録』の思想までを順にたどります。
語り手として、佐久間象山AI(佐久間象山をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。本人がいま問われたらどう答えるかを想像する手がかりにしてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに佐久間象山の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

象山先生、はじめまして。松代の生家の跡には、いまも古い井戸が残っています。読者には、あなたを勝海舟と吉田松陰の先生として知っている人が多いと思います。まず、ご自身では何をした人だと思っておられますか。

井戸が残っておるとは。松代のあの家で生まれ、祐筆の子として育った身じゃ、まずそれを聞いて嬉しゅうござる。
弟子の師と呼ばれるのは構わぬ。じゃが何をした人かと問うなら、海の防ぎを論じ、蘭書を読み、電信を自分の手で試した者、と答えたい。
人に教えるより先に、わし自身が道理を立てて、試しておったのじゃ。
まずは佐久間象山の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう
細かい話に入る前に、表で全体像をつかんでみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 佐久間象山(さくま しょうざん)※実名は国忠、のち啓(ひらき)。字(あざな)は子明、通称は修理(しゅり)。「象山」は号で、「ぞうざん」とも読む |
| 生没年 | 文化8年2月28日(1811年3月22日)〜元治元年7月11日(1864年8月12日)。満53歳で死去(数え年では54歳)※生年月日は『ブリタニカ国際大百科事典』が2月16日とする |
| 出身 | 信濃国松代(現在の長野県長野市松代町) |
| 家 | 松代藩士。父は藩の祐筆(ゆうひつ:文書を書く役)。事典は「下級武士の子」と記す |
| 活躍した時代 | 江戸時代後期から幕末 |
| 主な役職 | 藩主・真田幸貫の顧問(1842年〜)、藩の軍議役(1853年〜)、幕府の海陸御備向手付御雇(1864年) |
| 主な功績 | 「海防八策」の上書、江戸の塾で勝海舟・吉田松陰らを教えたこと、松代での電信の実験、『省諐録』 |
| 妻 | 順(順子)。勝海舟の妹 |
事典の「享年54」「54歳」は数え年で、満年齢に直すと53歳です。生年月日は事典で日付が割れるため、和暦と西暦を併記する国立国会図書館「近代日本人の肖像」に従いました。
五両五人扶持。真田宝物館の宅跡の解説が記す、象山の家の格です。その家の子が、藩主の顧問、藩の軍議役、幕府の御雇へと進みました。
妻の順は勝海舟の妹です。『山川 日本史小辞典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、松田和晃氏の論文のいずれも、順を勝海舟の妹としています。結婚の年は、その三つには出てきません。
参考:松田和晃「安政四年の佐久間象山と勝海舟」『杏林社会科学研究』33巻1号(2017年)|杏林大学

父上は松代藩の祐筆で、宅跡の解説には五両五人扶持とあります。そこから藩主の顧問、藩の軍議役、幕府の御雇まで進んでいますね。

五両五人扶持。そなた、よう調べたのう。
家の格で人の値打ちが決まるなら、わしは一生、帳面を清書しておったであろう。じゃが真田幸貫公が老中となり、海の防ぎを考える者が要った。そこに学問を持っておったのがわしじゃ。
顧問も軍議役も御雇も、家柄がくれたものではござらぬ。道理を知る者が要る場に、道理を知る者がおった。それだけのことじゃ。
佐久間象山の読み方は「しょうざん」と「ぞうざん」のどっち?
事典の見出しは「しょうざん」が多く、今回確認した事典のなかでは『ブリタニカ国際大百科事典』だけが「ぞうざん」を見出しにしています。どちらかが誤りというわけではなく、資料によって扱いが違います。
| 資料 | 読み | 記述 |
|---|---|---|
| 『日本大百科全書』 | しょうざん | 「一般には『しょうざん』というが、地元の長野では『ぞうざん』ということが多い」 |
| 『山川 日本史小辞典』『旺文社日本史事典』『百科事典マイペディア』 | しょうざん | いずれも「ぞうざん」とも読むと添える |
| 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 | しょうざん | 「号は『ぞうざん』ともよむ」。「さくま-ぞうざん」の空見出しもある |
| 『ブリタニカ国際大百科事典』 | ぞうざん | 見出しが「さくまぞうざん」。「『しょうざん』とも読む」と添える |
| 国立国会図書館「近代日本人の肖像」 | しょうざん | 書誌の著者標目も「サクマ, ショウザン」 |
| 京都市 石碑データベース | しょうざん | 碑の名の読みが「しょうざんせんせいそうなんひ」 |
| 信州松代観光協会 | (読み仮名なし) | モデルコースのURLに「zozan」が使われている |
参考:佐久間象山|コトバンク
「しょうざん」は事典と国の機関の読み、「ぞうざん」は地元の読み。表にすると、そう並び立っているのが見えます。
松代の象山神社を「ぞうざんじんじゃ」と案内する観光サイトもあります。「本人は『しょうざん』と呼んでほしかった」という話や、信濃教育会が全集で「ぞうざん」に統一したという話も、個人サイトやWikipediaで見かけます。
神社の公式の読み仮名も、これらの話の原典も、今回はたどれませんでした。
この記事では、事典の多数にならって「しょうざん」と書きます。松代で「ぞうざん」と聞いても、別の人ではありません。

松代の人は「ぞうざん」と呼ぶそうですね。いま呼ぶなら、どちらが耳になじみますか。

ほう、死んだあとの世まで、わしの号ひとつ読みが定まらぬのか。面白いではないか。
号は字で書くものじゃ。わしは筆で「象山」と記した。音は、読む者の口に任せる。
それより、そなたは松代で何と呼んでおった。耳になじむかどうかは、まずそなたが声に出して試してからのことであろう。
佐久間象山の三大功績 海防八策・江戸の塾・電信の実験
象山の仕事は、藩への意見書、江戸での教育、松代での実験という、性質の違う三つに分けられます。
- ① 1842年の「海防八策」で、西洋式の大砲と艦船の製造を藩主に説いたこと
- ② 江戸の塾で、勝海舟・吉田松陰ら幕末の人物を教えたこと
- ③ 1849年に松代で電信の実験に成功したと事典が記すこと
一つ目は紙の上の話、二つ目は人の話、三つ目は機械の話です。順に見ていきましょう。
① 海防八策で西洋式の軍備を藩主に説いた(1842年)
1842年(天保13年)、象山は老中・真田幸貫に「海防八策」を上書し、西洋式の大砲と艦船の製造が急務だと説きました。幸貫は松代藩主で、前年の1841年に老中となり海防掛を兼ねていました。
| 年(和暦) | できごと |
|---|---|
| 1833年(天保4年) | 江戸に遊学し、儒学者・佐藤一斎の門に入る。3年後に松代へ帰る |
| 1839年(天保10年) | 江戸に私塾を開く(『山川 日本史小辞典』は「象山書院」と呼ぶ) |
| 1841年(天保12年) | 藩主・真田幸貫が老中に就任し、海防掛を兼ねる |
| 1842年(天保13年) | 幸貫の顧問に抜擢され、海外事情を研究して「海防八策」を上書。江川太郎左衛門(英龍)に入門し、西洋砲術を学ぶ |
| 1844年(弘化元年) | オランダ語を学び始める |
象山が最初に学んだのは儒学でした。『日本大百科全書』は、一斎からは経書の講義を受けず「文章詩賦を学んだと伝えられる」と記しています。
海防八策は、砲台と大砲、大船と軍艦の整備に加え、村々に学校をおこすことや、賞罰を明らかにすることも挙げた8項目の上書です。
『長野市誌』によれば、象山はそのなかで、大砲と軍艦をつくることがもっとも急務だと強調していました。
参考:真田幸貫と佐久間象山(『長野市誌』第四巻 歴史編 近世二)|長野市デジタルミュージアム(ADEAC)
参考:佐久間象山(矢嶋道文)|jshet.net
ただし、上書の相手は藩主個人です。幸貫は老中でしたが、海防八策が幕府の政策になったとする記述は、今回参照した事典にはありません。
オランダ語を学び始めたのは1844年、海防八策の2年後です。海防を論じてから蘭学へ進む。この順番を意外に思う人もいるでしょう。
『改訂新版 世界大百科事典』は、象山が「みずからオランダ語を学び、武士層の間に蘭学が広がる道をきり開いた」と評しています。「日本で初めて」ではなく、道を開いた人。この事典の言い方が、私にはしっくりきます。

海防八策を書いたとき、オランダ語はまだ学んでいなかったそうですね。砲と船が要ると、何で分かったのですか。

天保十二年に幸貫公が海防の掛を担われ、翌年わしは異国の船をどう防ぐかを考えねばならなかった。砲と船が要る。それは蘭書を読まずとも、道理で分かる。
なぜそのあと蘭語へ進んだか。いま問われれば、その砲がなぜ飛び、船がなぜ動くのか、理を元から確かめたくなった、と答えたいところじゃ。道理が先、学びが後でござる。
② 江戸の塾で勝海舟・吉田松陰ら幕末の人物を教えた(1839年・1851年)
象山は江戸で塾を開き、勝海舟や吉田松陰を含む門人を教えました。開塾の年は、『山川 日本史小辞典』が1839年(「象山書院」)、『日本大百科全書』が1851年とします。同じ塾か別の塾かは、事典からは決められません。
門人の名前は、資料によって書かれ方が違います。事典と解説記事が門人として挙げる人物を、確認できた範囲で表にしました。
| 人物 | 事典の記述 | 確認できた記述 |
|---|---|---|
| 勝海舟 | 『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』など多数が門人とする。妻・順の兄 | 複数の事典が門人とする |
| 吉田松陰 | 1851年(嘉永4年)に入門(『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』『百科事典マイペディア』) | 複数の事典が入門の年まで記す |
| 加藤弘之 | 象山に兵学・洋学を学ぶ(各事典。年の記載なし) | 各事典が記す |
| 河井継之助 | 1853年の江戸遊学の際に「一時、佐久間象山にも師事」(『日本大百科全書』) | 事典が記す |
| 小林虎三郎 | 「江戸で佐久間象山にまなぶ」(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)。象山とともに横浜開港を唱えた | 事典が記す |
| 山本覚馬 | 「佐久間象山の塾に学び」(『日本大百科全書』) | 事典が記す |
| 坂本龍馬 | 象山の項では複数の事典が門人に数える。ただし「坂本竜馬」の項には象山の記述がない | 象山の項にあり、龍馬の項にはない |
| 橋本左内 | コトバンク収録の各事典の「橋本左内」の項に、象山への言及がない | 今回確認した事典には記載なし |
参考:坂本竜馬|コトバンク
参考:橋本左内|コトバンク
橋本左内の名は、事典ではなく観光サイトや解説記事のほうで見かけます。龍馬は象山の項に名が出るだけで、入門の記録そのものにはたどり着けませんでした。
入門者の名簿は、『象山全集』巻5(増訂版)に収められています。長野市立長野図書館の調査回答は名簿を「及門禄」と表記し、嘉永4年の欄に「細川越中守様御家来 八月九日 宮部鼎蔵」の名があるとしています。
参考:宮部鼎蔵が佐久間象山に入門したかどうかが知りたい|レファレンス協同データベース(長野市立長野図書館)
松陰との関係には続きがあります。1854年(嘉永7年)、松陰は下田でアメリカの艦船に乗り込もうとして失敗し、象山は連座して江戸で投獄され、松代での蟄居を命じられました。
『日本大百科全書』は、象山が「愛弟子吉田松陰に暗に外国行きを勧めた」と記しています。
下田の事件の前、長崎へ発つ松陰に、象山は送別の詩「送吉田義卿 九月十八日」を贈りました(『象山全集』第2巻所収)。
県立長野図書館の調査回答によれば、松陰は下田でもこの詩を携えており、そのため象山も連座したとされます。
参考:吉田松陰が黒船に密航しようとした時に、佐久間象山から送られた詩がある|レファレンス協同データベース(県立長野図書館)
勝海舟の「海舟」という号は、象山が書いた「海舟書屋」の額から取ったと伝えられています。勝については、こちらの記事でまとめています。

長崎へ向かう松陰さんに贈った詩を、松陰さんは下田でも持っていたそうですね。それで、あなたも江戸で投獄され、松代で蟄居になりました。弟子の密航に連座するのは、覚悟のうえでしたか。

吉田に詩を贈ったのはまことじゃ。あれを吉田が下田まで持っておったゆえ、江戸の牢と、松代での蟄居につながったと聞く。
覚悟かどうかは知らぬ。弟子が海の向こうを見に行こうというとき、師が知らぬ顔でいられるものか。
牢を出てから書いた『省諐録』に、わしは過ちを省みる、と題をつけた。何を省みたかは、読んだ者が決めればよい。
③ 松代で電信の実験に成功し、地震予知器や電気治療機も伝わる(1849年〜)
1849年(嘉永2年)、象山は松代でオランダの文献をもとに指示電信機を作り、電信の実験に成功したと『改訂新版 世界大百科事典』は記しています。ペリーがモールス電信機を将軍に献上する1854年より、5年前のことです。
機械の話は、三つ伝わっています。
- 電信の実験(1849年)… オランダの『理学原始第2版』(1847年)をもとに指示電信機を作った(『改訂新版 世界大百科事典』「電信」)。実験の場所を旧松代藩鐘楼とするのは、真田宝物館によれば「言われており」の範囲
- 地震予知器… 真田宝物館の収蔵品目録は、象山が「コンストマグネート」と呼んだ馬蹄形の磁石を「象山作と伝えられる」と記す。地震などの前に鉄片が離れる、という原理
- 電気治療機… 同じ目録に「ガルハニセスコックマシネ」として載る。1862年(文久2年)、象山が妻の病気の治療に試したと書状に記しているという
参考:電信|コトバンク
参考:旧松代藩鐘楼|真田宝物館
参考:真田宝物館収蔵品目録『機械・彫刻・勲章』|真田宝物館
三つのうち、年と中身まで事典にあるのは電信の実験だけです。鐘楼の近くに「日本電信発祥之地」の碑は立っていますが、事典が書くのはペリーの献上より5年早いという前後関係までです。
「日本で初めて」と言い切った資料は、今回見つけられませんでした。
残る二つは「象山作と伝えられる」品で、「発明した」「地震を予知した」とまでは目録にありません。

ペリーが幕府に電信機を献上する5年前に、松代で電信を動かしたそうですね。手元にあったのはオランダの本だけ。本だけで機械は作れるものですか。

作ってみれば分かる。わしは作った。
蘭書に書いてある理は、紙の上では誰のものでもない。材料を揃え、自分の手で組んで、動いたときにはじめてわしのものになるのじゃ。嘉永二年に松代で試したのは、そういうことでござる。
異国の船が機械を献上する前に、信濃の山の中で同じ理が動いておった。そう思うと、少し愉快ではないか。
佐久間象山の死因と最期 京都・三条木屋町で暗殺されるまで
佐久間象山の死因は暗殺です。元治元年7月11日(1864年8月12日)、京都の三条木屋町で、熊本藩士・河上彦斎らに襲われて亡くなりました。満53歳でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 元治元年7月11日(1864年8月12日) |
| 場所 | 京都・三条木屋町。碑は中京区木屋町通御池上る西側に立つ |
| 状況 | 「騎馬で山階宮家よりの帰途、この地で暗殺された」(京都市 石碑データベース) |
| 実行者 | 河上彦斎(熊本藩士)。各事典は「同志とともに」「尊攘派の仲間とともに」と記す |
| 直接の原因 | 「禁門の変を前にして、天皇を彦根へ移すよう画策していたことが、その直因」(『改訂新版 世界大百科事典』) |
| 年齢 | 満53歳(数え年では54歳) |
| 死後 | 佐久間家は断絶し、屋敷は藩に没収された(真田宝物館)。1870年、子の恪二郎による家名の再興が認められる |
参考:NA086 象山先生遭難碑|京都市 石碑データベース
参考:河上彦斎|コトバンク
蟄居のあいだに象山の考えは攘夷論から和親開国論へ変わり、そのための体制として公武合体を唱えるようになったと『日本大百科全書』は説明しています。
蟄居を解かれたのは文久2年12月29日、西暦では1863年2月17日です。
参考:降幡浩樹「佐久間象山の顕彰活動について」『松代』第25号(2012年)|真田宝物館
元治元年3月(1864年)、象山は幕府の命で京都へ上りました。役目は海陸御備向手付御雇で、一橋慶喜に時務を建策し、公武合体と開国を説きました。
上洛から4か月後、象山は山階宮家からの帰り道で襲われました。京都市の石碑データベースは、碑から東へ52尺(約16メートル)の地点が遭難の場所だと碑文から読み取っています。
実行者のうち、名前が各事典に出てくるのは河上彦斎だけです。ほかの人物は、資料によって姓も所属も違います。『島根県大百科事典』は、隠岐出身の松浦虎太郎(虎吉)を「刺客の一人だったと伝えられる」としています。
参考:隠岐出身で、幕末に佐久間象山を暗殺したといわれる松浦虎太郎(虎吉)について知りたい|レファレンス協同データベース(島根県立図書館)
ここから先は、資料の確かさに差があります。
- 実行者の名前… 各事典に出てくるのは河上彦斎だけ。ほかの人物は資料によって姓も所属も違う
- 斬奸状の掲示場所… 紹介記事は祇園社の前に掲げられたとする。原文と掲示場所を示す史料までは、たどれなかった
- 馬の鞍… 西洋鞍だったとする話は紹介記事と観光案内にあり、京都市の碑で確かめられるのは「騎馬」まで
斬奸状(ざんかんじょう:殺害の理由を書いた文書)は、紹介記事によれば、西洋の学問を唱えて開国を主張したことや、天皇を彦根へ移す企てを理由に挙げていたとされます。
西洋鞍で馬に乗っていたから反感を買った、という説明も観光案内などで見かけます。ただ、鞍の種類と暗殺の動機を結びつける資料は、今回参照した事典にはありません。
碑は1915年(大正4年)、象山先生遺跡表彰会が建てました。碑文の下段の漢文には「実元治元年七月十一日也」と、暗殺の日付が刻まれています。建立の年と建立者は、『京都日出新聞』1915年11月1日の記事によります。

元治元年の3月に幕府の命で京都へ上り、その4か月後に三条木屋町で襲われました。上洛の命が来たとき、断る道はなかったのですか。

赦された身に、幕府から京へ上れとの命じゃ。断れるかどうかより、わしに断る理由がなかった。
蟄居のあいだに、わしの論は攘夷から開国へ移っておった。開国を説く場が京にあるなら、行かぬ道理がござらぬ。
その先に何が待っておったかは、そなたのほうがよう知っておろう。わしから語ることはない。
佐久間象山の生涯を年表で振り返る
ここまでの話を、年の順に並べます。年齢の欄は置いていません。旧暦の2月生まれで、出来事ごとに満年齢がずれるためです。
和暦の年末は、西暦では翌年になります。年表の西暦は、和暦の年に対応する年で書いています。赦免は文久2年12月29日(1863年2月17日)で、事典にも1862年とするものと1863年初めとするものがあります。
| 年(和暦) | できごと | 解説 |
|---|---|---|
| 1811年(文化8年) | 松代に生まれる | 文化8年2月28日(1811年3月22日)。父は松代藩の祐筆 |
| 1826年ごろ(文政9年ごろ) | 漢学の修業を始める | 『山川 日本史小辞典』は「16歳から」と記す(数え年) |
| 1833年(天保4年) | 江戸に遊学し、佐藤一斎の門に入る | 一斎からは経書の講義を受けず、文章詩賦を学んだと伝えられる。3年後に松代へ帰る |
| 1839年(天保10年) | 江戸に私塾を開く | 『山川 日本史小辞典』は「象山書院」と呼ぶ。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は「神田で塾をひらく」と記す |
| 1841年(天保12年) | 藩主・真田幸貫が老中に就任 | 海防掛を兼ねる |
| 1842年(天保13年) | 「海防八策」を幸貫に上書。江川英龍に入門 | 幸貫の顧問として海外事情を研究。西洋砲術を学び始める |
| 1844年(弘化元年) | オランダ語を学び始める | 『日本大百科全書』は「34歳のとき」と記す(数え年) |
| 1849年(嘉永2年) | 松代で電信の実験に成功 | 『理学原始第2版』をもとに指示電信機を作る(『改訂新版 世界大百科事典』「電信」) |
| 1851年(嘉永4年) | 江戸で塾を開き、砲術・兵学を教える。吉田松陰が入門 | 京都大学附属図書館の解説は開塾を1850年とする |
| 1853年(嘉永6年) | ペリー来航。藩の軍議役となり、老中・阿部正弘に「急務十条」を提出 | 『日本大百科全書』による |
| 1854年(嘉永7年) | 松代藩が横浜応接所の警備を命じられ、軍議役として横浜へ | 横浜を開港地の候補に唱えた(横浜市歴史博物館) |
| 1854年(嘉永7年) | 吉田松陰の下田踏海に連座。江戸で投獄され、松代で蟄居 | 松陰が米艦への乗船を試みたのは嘉永7年3月27日夜(しずおか文化財ナビ) |
| 1854年(嘉永7年=安政元年) | 『省諐録』成稿 | 出獄後に筆録。学問・海防・時事の57条。11月に安政と改元され、事典は安政元年と記す |
| 1862年(文久2年) | 妻の病気の治療に電気治療機を試す | 書状に記す(真田宝物館の収蔵品目録) |
| 文久2年12月29日(1863年2月17日) | 赦免 | 蟄居を解かれる(真田宝物館の研究論文) |
| 元治元年3月(1864年) | 幕命で上洛。海陸御備向手付御雇 | 一橋慶喜に時務を建策し、公武合体・開国を説く |
| 元治元年7月11日(1864年8月12日) | 三条木屋町で暗殺される | 満53歳。佐久間家は断絶 |
| 1871年(明治4年) | 『省諐録』刊行 | 勝海舟が序文を書く |
年表では、1854年に3行が集まっています。横浜で警備に当たり、弟子の密航に連座して投獄され、その年のうちに『省諐録』を書き上げました。
1842年の海防八策から1864年の上洛まで22年ありますが、そのうち1854年からの数年は松代での蟄居です。
蟄居の年数は、『日本大百科全書』が9年間、京都市の碑が8年間と合いません。年表には、年数ではなく日付のほうを残しました。
象山が生きた1840〜60年代の開国期の流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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この本の読みどころ
- 作品紹介によると、第11巻は「江戸時代後期」を扱い、【電子特別版】はまんがのみを収録した版です
- 作品紹介に象山の名前は出てきません。象山が生きた時代の流れを押さえるための1冊です
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佐久間象山のすごさ・影響力 開国の先覚者の碑と、門人に残ったもの
象山のすごさは、弟子の顔ぶれだけではありません。資料からたどれることを四つに絞ります。
- 海のない松代の藩士でありながら、1842年に西洋式の大砲と艦船の製造を藩主に説いたこと
- 自分でオランダ語を学び、『改訂新版 世界大百科事典』が「武士層の間に蘭学が広がる道をきり開いた」と評すること
- 勝海舟・吉田松陰・加藤弘之・河井継之助・小林虎三郎らを教え、名前が各事典の門人の欄に並ぶこと
- 1954年に横浜・野毛山に「開国の先覚者佐久間象山の碑」が建ち、松代には1938年に象山神社が創建されたこと
二つ目を少し詳しく見ます。同じ事典は、象山が「西洋の軍事力の基礎をその自然科学にまでさかのぼってとらえ」たと書いています。大砲を買うのではなく、大砲が動く理屈から学ぼうとした人だった、と私は読みました。
四つ目の横浜の碑は、1854年に松代藩が横浜応接所の警備を命じられ、象山が軍議役として横浜へ行った縁によります。
横浜市歴史博物館は、象山が横浜を開港地に唱えたことを紹介しています。碑は1954年10月1日、佐久間象山顕彰会が建てました。
参考:佐久間象山と横浜|横浜市歴史博物館
参考:開国の先覚者佐久間象山の碑|横浜市西区「そぞろ歩き63」
参考:横浜市西区の野毛山公園の中にある佐久間象山の顕彰碑について知りたい|レファレンス協同データベース(横浜市中央図書館)
一方で、人物像には別の見方もあります。『日本大百科全書』は象山の「エリート意識」に触れ、歴史街道の記事は「偏狭にして度量がない」と、評判が必ずしもよくなかったことを紹介します(誰の評か、出典は示されていません)。
どちらも後世に伝わった人物像で、本人の性格として断定できるものではありません。
2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、吉田松陰役(中村倫也さん)の役紹介に「江戸では佐久間象山や安積艮斎の門下生となって」とあります。象山役は、2026年10月19日時点で発表されていません。
参考:中村倫也、13年ぶり大河ドラマ出演 「逆賊の幕臣」寛一郎・斎藤工・西岡徳馬ら追加キャスト4名発表|シネマトゥデイ
発表ずみの配役と人物の関係は、こちらにまとめています。

横浜の野毛山には「開国の先覚者」の碑が立ち、松代には神社まであります。一方で、評判は必ずしもよくなかったという紹介もあります。先覚者と煙たい人と、ご本人にはどちらがしっくりきますか。

碑に神社とな。わしを祀る社が松代に建っておるとは、それは初耳じゃ。
先覚者と煙たい男と、どちらがしっくりくるか。正しい理を正しいと言い張る者は、だいたい煙たがられる。わしにそれをやめる気はない。後のほうが、わしらしいであろうな。
先覚者という呼び名は、あとから来た者が付けるものじゃ。わしは先を見たのではない。理に合うことを言うたら、世のほうが後ろにおった。
松代と京都に残る佐久間象山ゆかりの地 象山神社・宅跡・遭難之碑
象山ゆかりの地は、生まれ育った長野市松代と、暗殺された京都の2か所に集まっています。横浜にも碑があります。ただ、松代の象山記念館はいま休館中です。
| 場所 | 確かめられたこと |
|---|---|
| 象山神社(長野市松代町松代1502) | 1938年(昭和13年)創建。境内に高義亭、京都から移築した茶室・煙雨亭、象山宅跡、生誕の碑と生誕200年のブロンズ像。長野駅からバス約30分「松代八十二銀行前」下車、徒歩約10分(信州松代観光協会) |
| 佐久間象山宅跡(長野県指定史跡) | 生家の跡。敷地約877.8平方メートル。母屋のほか道場・学問所があり、古井戸が残る。象山神社に隣接。1960年指定(真田宝物館) |
| 旧松代藩鐘楼(長野市指定文化財) | 1801年再建。象山が1849年に電信の実験に成功した場所と「言われており」、近くに「日本電信発祥之地」の碑(真田宝物館) |
| 象山記念館(長野市松代町松代1446-6) | 1967年開館。2024年12月29日から休館中(冷暖房の故障と老朽化)。長野市の通知では休館期間は2027年3月末まで。資料は真田宝物館と、一部は文武学校で公開(信州松代観光協会・真田宝物館) |
| 象山先生遭難之碑(京都市中京区木屋町通御池上る西側) | 1915年建立。碑から東52尺が遭難の場所(京都市 石碑データベース) |
| 開国の先覚者佐久間象山の碑(横浜市西区・野毛山) | 1954年10月1日、佐久間象山顕彰会が建立。碑銘は平沼亮三市長の筆(横浜市西区・横浜市中央図書館の調査回答) |
参考:象山神社|信州松代観光協会
参考:象山記念館 〜休館のお知らせ〜|信州松代観光協会
参考:お知らせ「佐久間象山関係資料について」|真田宝物館
記念館は、電気の治療器や医薬用蒸留器などの遺品を展示してきた施設です。再開の日付は、長野市の通知には書かれていません。
参考:象山記念館の休館について(長野市観光文化部)|真田宝物館
象山の墓は、京都・妙心寺の塔頭(たっちゅう:大きな寺の中にある小さな寺)である大法院にあります。墓石には「象山佐久間先生墓」と刻まれ、側面に「考子恪建」とあります。
松代の蓮乗寺にも、1922年(大正11年)に象山と恪二郎の墓が建てられました。どちらも真田宝物館の研究論文で確かめられます。
参考:降幡浩樹「佐久間象山の顕彰活動について」『松代』第25号(2012年)|真田宝物館
佐久間象山の思想「東洋の道徳、西洋の芸術」と現代へのヒント
象山の思想を一言で表すのが、『省諐録』にある「東洋の道徳、西洋の芸術」です。「芸術」は、ここでは技術の意味です(『日本大百科全書』)。
読み下しは、次のとおりです。
東洋の道徳、西洋の芸術、精粗遺さず、表裏兼ね該え、よって以て民物を沢し、国恩に報ず
出典:『省諐録』(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「佐久間象山」の引用による)
道徳は東洋のものを守り、技術は西洋のものを細かいところまで取り入れて、民と国に報いる、という趣旨です。
『省諐録』は1854年、下田踏海の連座で投獄されたあとに書かれた本で、学問・海防・時事についての57条から成ります。刊行は死後の1871年で、勝海舟が序文を書きました。
参考:省諐録|コトバンク
題の意味は「過ちを省みる記録」ですが、『日本大百科全書』は「自責の念はほとんど見られず、自己の思想と行動を正当化」した本だと評します。
思想には限界もありました。『改訂新版 世界大百科事典』によれば、象山の社会観は幕藩体制の階層秩序を自然のものと見る朱子学のままで、日本と西洋の価値の平等を認めるものではありませんでした。
開国論も、押しつけられた開国を日本が世界を席巻する第一歩に転じようとするものだった、と同じ事典は続けます。
ここから先は、私の受け取り方です。
| 佐久間象山の歩み | 筆者が受け取ったヒント |
|---|---|
| 海防を論じたあとで、オランダ語を学び始めた | 問題に気づいてから学ぶ順番でも遅くない |
| 大砲そのものより、大砲が動く理屈(自然科学)までさかのぼった | 道具を買う前に、道具の仕組みを知る |
| 道徳は東洋、技術は西洋と分けた | 何を変えて何を変えないかを、先に決めておく |
| 社会観は朱子学のままで、西洋との対等は認めなかった | 新しい技術を取り入れても、ものの見方は古いままになりうる |
四つ目の行は、象山を持ち上げるためではなく、自分に当てはめるために書きました。技術だけ新しくして、考え方は変わらない。これは象山だけの話ではないように思えます。

「東洋の道徳、西洋の芸術」の「芸術」は、技術という意味だそうですね。いまは、スマートフォンの部品も自動車の設計も、国をまたいで行き来しています。道徳は東洋、技術は西洋という分け方は、いまでも通じますか。

部品が国をまたぐ、とな。それは芸術が、もはやどこの国のものでもなくなった、ということであろう。
東洋、西洋と書いたが、いま問われれば、分けたかったのは人の道と物の理じゃ、と答えたい。物の理は、誰が組んでも同じに動く。砲も電信もそうでござった。
その分け方なら、いまでも立つはずじゃ。立たぬと思うなら、どこが立たぬか、試してから申されよ。

私は、技術のほうが先に人の考え方を変えてしまうように感じます。

そうかもしれぬ。わしとて、蟄居のあいだに論が攘夷から開国へ動いた。何が先に動いたのかと問われれば、いまのわしにも、はっきりとは答えられぬ。
じゃが、だからこそじゃ。変えてよいものと、変えてはならぬものを、先に決めておく。
技術が何を運んで来ようと、それを決めるのは技術ではない。そこだけは手放すな。
あなたは佐久間象山の生き方から、何を受け取りますか。
よくある質問(FAQ)
佐久間象山の読み方は「しょうざん」と「ぞうざん」のどちらですか?
どちらも使われている読みです。事典の見出しは「しょうざん」が多く、『日本大百科全書』は「地元の長野では『ぞうざん』ということが多い」と書いています。
佐久間象山は何をした人ですか?
松代藩士の学者です。1842年に「海防八策」で西洋式の軍備を説き、江戸の塾で勝海舟や吉田松陰らを教えました。1849年には松代で電信の実験に成功したとされます。のちに開国論を唱え、1864年に京都で暗殺されました。
佐久間象山の死因は何ですか?誰に暗殺されたのですか?
暗殺です。元治元年7月11日(1864年8月12日)、京都の三条木屋町で、熊本藩士・河上彦斎らに襲われて亡くなりました。ほかの実行者の名前は資料で割れています。事典は、天皇を彦根へ移す案が直接の原因だったとしています。
勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬は、本当に佐久間象山の弟子ですか?
勝海舟と吉田松陰は門人です。各事典が門人として記し、松陰の入門は1851年です。坂本龍馬は、象山の項では門人に数えられますが、「坂本竜馬」の項には象山の記述がありません。
佐久間象山の妻は勝海舟の妹ですか?
はい。妻の順(順子)は勝海舟の妹で、象山の正妻です。『山川 日本史小辞典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』と、松田和晃氏の論文で確認できます。
佐久間象山の子孫はいますか?
象山には子の恪二郎がいました。佐久間家は象山の死後に断絶しましたが、1870年(明治3年)に恪二郎による家名の再興が認められています(真田宝物館の研究論文)。現在の子孫は、今回の資料では分かりませんでした。
『省諐録』とは何ですか?
象山が1854年に書いた本で、学問・海防・時事についての57条から成ります。「東洋の道徳、西洋の芸術」の言葉はこの本にあります。刊行は1871年で、勝海舟が序文を書きました。岩波文庫に収められています。
象山神社と象山記念館はどこにありますか?
どちらも長野市松代町です。象山神社は1938年の創建で、宅跡の隣です。象山記念館は2024年12月29日から休館中で、長野市の通知では2027年3月末までです(2026年10月時点)。資料は真田宝物館で公開されています。
佐久間象山の墓はどこにありますか?
京都・妙心寺の塔頭である大法院にあります。松代の蓮乗寺にも、1922年(大正11年)に象山と恪二郎の墓が建てられました(真田宝物館の研究論文)。
ドラマで佐久間象山を演じた俳優は誰ですか?2027年の大河にも出ますか?
『JIN-仁-』完結編では市村正親さんが演じました。2027年の大河『逆賊の幕臣』では、吉田松陰役の紹介文に象山の名前がありますが、象山役は2026年10月19日時点で発表されていません。
インタビュー後記 佐久間象山は「弟子の名前で語られてきた人」
この記事を書き始めたとき、象山は私のなかで、勝海舟と吉田松陰の記事に出てくる脇役でした。書き終えてみると、順番が逆に見えます。海防を論じ、蘭学を学び、電信を試した人のところへ、弟子たちが集まってきたのだと。
調べるほど、輪郭がぼやけるところもありました。読み方は一つに決まらず、暗殺の実行者も河上彦斎のほかは名前が割れたままです。
それでも、弟子の記事に名前だけ出てくる人を一度まん中に置いてみると、幕末の見え方が少し変わります。開国論を説いた人が、上洛から4か月で暗殺された。その事実だけで、この時代の速さが伝わってくるのです。
象山の門人として名前の挙がる人物の記事もあります。あわせて読むと、この塾から出た人の幅が見えてきます。
大河の役紹介で、象山と並んで吉田松陰の師として名前が挙がる安積艮斎の記事はこちらです。
参考資料
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|佐久間象山」※生没年月日の和暦と西暦(文化8年2月28日=1811年3月22日、元治元年7月11日=1864年8月12日)、実名が国忠のち啓であること、父が松代藩の祐筆であること、1833年の佐藤一斎入門、1839年の開塾、1842年の海防八策、1854年の連座と蟄居、1862年の赦免、1864年の上洛と暗殺の出典
- コトバンク「佐久間象山」※読み方の見出しと注記(『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』『百科事典マイペディア』『ブリタニカ国際大百科事典』『山川 日本史小辞典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『旺文社日本史事典』)、名・字・通称、「下級武士の子」、一斎に文章詩賦を学んだと伝えられること、江川入門と1844年の蘭学、塾の年(1839年・1851年)、門人の名、急務十条、密航を「暗に勧めた」こと、蟄居「9年間」、赦免の年(1862年・1863年初め・1863年)、彦根遷座が直因であること、三条木屋町・河上彦斎、「東洋の道徳、西洋の芸術」の出典が『省諐録』であること、「芸術」が技術の意であること、「武士層の間に蘭学が広がる道をきり開いた」「西洋の軍事力の基礎をその自然科学にまでさかのぼってとらえ」、思想の限界、「エリート意識」、妻が勝海舟の妹であることの出典
- コトバンク「省諐録」※1854年成稿、出獄後に筆録、57条、1871年初刊と勝海舟の序、題意「過ちを省みる記録」、「自責の念はほとんど見られず」の評の出典
- コトバンク「電信」※1849年に松代で『理学原始第2版』をもとに指示電信機を作り実験に成功したこと、ペリーのモールス電信機献上の5年前であることの出典(『改訂新版 世界大百科事典』)
- コトバンク「河上彦斎」※熊本藩士であること、「同志とともに」三条木屋町で象山を暗殺したことの出典
- コトバンク「真田幸貫」※1841年に老中となり海防掛を兼ねたこと、象山を顧問にしたことの出典
- コトバンク「吉田松陰」※1851年の象山入門、1854年の下田での密航失敗の出典
- コトバンク「河井継之助」※1853年の江戸遊学の際に「一時、佐久間象山にも師事」したことの出典(『日本大百科全書』)
- コトバンク「小林虎三郎」※「江戸で佐久間象山にまなぶ」こと、象山とともに横浜開港を唱えたことの出典(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)
- コトバンク「加藤弘之」※象山に兵学・洋学を学んだことの出典
- コトバンク「山本覚馬」※「佐久間象山の塾に学び」の出典(『日本大百科全書』)
- コトバンク「橋本左内」※収録の各事典に象山への言及がないことの確認
- コトバンク「坂本竜馬」※収録の各事典に象山への言及がないことの確認
- 京都市 石碑データベース「NA086 象山先生遭難碑」※碑の所在地、「8年間松代で蟄居」「1864年3月上京」「騎馬で山階宮家よりの帰途」、碑から東52尺が遭難の場所であること、1915年に象山先生遺跡表彰会が建立したこと(『京都日出新聞』1915年11月1日)、碑文の「実元治元年七月十一日也」、碑名の読みの出典
- しずおか文化財ナビ「吉田松陰寓寄処」※松陰が嘉永7年3月27日夜に小舟で米艦へ向かい、拒否されて自首したことの出典
- 文化遺産オンライン「〔嘉永七年〕六月六日付坪井信良書簡(浄界宛)」※下田踏海事件に象山が連座し、江戸で投獄されていた時期の書簡であることの出典
- 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ「(佐久間象山)山水図並題詩」※解説に「1850年に江戸で私塾を開き」「吉田松陰は嘉永4年に入門」とあることの出典
- 真田宝物館「佐久間象山宅跡(長野県指定史跡)」※「五両五人扶持の下級武士」、敷地約877.8平方メートル、母屋・道場・学問所と古井戸、1864年の断絶と屋敷の没収、1960年の指定、象山神社に隣接することの出典
- 真田宝物館「旧松代藩鐘楼」※1801年再建、1849年の電信実験の場所と「言われており」、「日本電信発祥之地」の碑の出典
- 真田宝物館 収蔵品目録『機械・彫刻・勲章』(PDF)※地震予知器(コンストマグネート。「象山作と伝えられる」)、電気治療機(ガルハニセスコックマシネ。1862年に妻の治療に試したと書状に記す)の出典
- 真田宝物館「お知らせ」(2025年8月26日「佐久間象山関係資料について」)※象山関係資料が真田宝物館で展示されていること、記念館が休館中であることの出典
- 信州松代観光協会「象山神社」※1938年創建、高義亭・煙雨亭・宅跡・生誕の碑とブロンズ像、所在地とアクセスの出典
- 信州松代観光協会「象山記念館(休館中)」※1967年開館、電気の治療器や医薬用蒸留器の展示、休館の理由、所在地の出典
- 信州松代観光協会「象山記念館 〜休館のお知らせ〜」(2024年12月16日)※休館の理由と、資料が真田宝物館・文武学校で公開されることの出典
- 長野市観光文化部「象山記念館の休館について」(2024年10月4日。真田宝物館掲載のPDF)※休館期間が2024年12月29日から2027年3月末までであることの出典
- 真田宝物館 降幡浩樹「佐久間象山の顕彰活動について―佐久間家法要帳の分析を中心に―」『松代』第25号(2012年。PDF)※文久2年12月29日に蟄居を解かれたこと、1870年の家名再興、子の恪二郎(新撰組の近藤勇のもとに身を寄せ、1877年没)、大法院の墓と「考子恪建」の刻銘、1922年の蓮乗寺の墓の出典
- 長野市デジタルミュージアム『長野市誌』第四巻 歴史編 近世二「真田幸貫と佐久間象山」※海防八策の8項目と、大砲・軍艦を最も急務としたことの出典
- 国立天文台 暦計算室「日本の暦日データベース」(1862年)※文久2年12月29日が1863年2月17日にあたることの確認
- 信州松代観光協会「旧松代藩鐘楼」※電信実験の場所が「言い伝え」であることの出典
- 信州松代観光協会「佐久間象山の足跡をたどるコース」※モデルコースのURLに「zozan」が使われていることの出典
- 横浜市歴史博物館「佐久間象山と横浜」(2014年企画展)※1854年の横浜応接所警備、象山が横浜を開港地に唱えたことの出典
- 横浜市西区「そぞろ歩き63 開国の先覚者佐久間象山の碑」※1954年建立、碑銘が平沼亮三市長の筆であること、松代藩の軍議役として横浜へ来たことの出典
- レファレンス協同データベース(横浜市中央図書館)「横浜市西区の野毛山公園の中にある佐久間象山の顕彰碑について知りたい」※『横浜西区史』により、昭和29年10月1日に佐久間象山顕彰会が建立したことの出典
- レファレンス協同データベース(島根県立図書館)「隠岐出身で、幕末に佐久間象山を暗殺したといわれる松浦虎太郎(虎吉)について知りたい」※『島根県大百科事典』が松浦虎太郎(虎吉)を「刺客の一人だったと伝えられる」とすることの出典
- レファレンス協同データベース(長野市立長野図書館)「宮部鼎蔵が佐久間象山に入門したかどうかが知りたい」※『象山全集』巻5(増訂)の「及門禄」(同回答の表記)に嘉永4年8月9日の宮部鼎蔵の入門が載ることの出典
- レファレンス協同データベース(県立長野図書館)「吉田松陰が黒船に密航しようとした時に、佐久間象山から送られた詩がある」※送別の詩「送吉田義卿 九月十八日」が松陰の長崎行きの際に贈られ、下田の事件でも松陰が携えていたため象山が連座したとされること、『象山全集』第2巻に収められていることの出典
- 杏林大学 松田和晃「安政四年の佐久間象山と勝海舟」『杏林社会科学研究』33巻1号(2017年9月)(PDF)※順が勝海舟の妹で「象山の正妻として嫁いでいる」ことの出典
- jshet.net 矢嶋道文「佐久間象山」※海防八策が「西洋式大砲と艦船製造の急務を訴える」ものであること、天皇彦根遷座論の出典
- シネマトゥデイ「中村倫也、13年ぶり大河ドラマ出演 「逆賊の幕臣」寛一郎・斎藤工・西岡徳馬ら追加キャスト4名発表」(2026年10月9日)※吉田松陰役の役紹介「江戸では佐久間象山や安積艮斎の門下生となって」の出典
- ステラnet「大河ドラマ『逆賊の幕臣』記事一覧」※2026年10月19日時点の配役発表記事に象山役がないことの確認
- ザテレビジョン「JIN-仁- 完結編 出演者・キャスト一覧」※佐久間象山役が市村正親さんであることの出典
- 歴史街道「佐久間象山〜「和魂洋才」、異相の先覚者」(2017年7月11日)※「偏狭にして度量がない」と評判が必ずしもよくなかったとする紹介の出典(誰の評か、出典の明示はありません)
- エキサイトニュース(BEST TIMES)「河上彦斎 〜幕末の兵学者・佐久間象山を暗殺した男〜」(2017年1月24日)※斬奸状の内容と祇園社前への掲示、西洋鞍の話を紹介する記事。本記事では帰属を付けて紹介するにとどめ、根拠にはしていません







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