新撰組の生き残り一覧!最後の生き残りは誰?永倉新八・斎藤一の明治を新八AIと確かめた

新撰組の生き残り一覧!最後の生き残りは誰?永倉新八・斎藤一の明治を新八AIと確かめた まとめ・比較

「新撰組 生き残り」で検索すると、永倉新八を「唯一の生き残り」と書く記事と、斎藤一を「最後の生き残り」と書く記事が同じ画面に並びます。2人は同じ大正4年(1915年)に亡くなっています。

どちらが正しいかではなく、何を数えているのかが書かれていない。それが、この記事を書いた理由です。幹部か、隊長職か、隊士全体か。問いを分けると、答えは3つに割れます。

この記事の結論

京都時代の組長以上の幹部(御陵衛士へ移った人を除く)のうち、明治以降の足跡を資料で確かめられたのは、二番隊組長の永倉新八と三番隊組長の斎藤一の2人で、どちらも大正4年(1915年)に亡くなりました。

「最後の生き残り」が誰かは、数え方で変わります。幹部では、永倉より8か月長く生きた斎藤一が最後に亡くなっています。隊士全体では、昭和まで生きたとされる池田七三郎の名が挙がります。箱館で降伏したときの隊長・相馬主計は「最後の隊長」と呼ばれます。

ただし、隊士全員の生死を一覧にした公的な資料は、今回確認できませんでした。明治以降の足跡を資料で確かめられた6人と、昭和まで生きたとされる1人、あわせて7人を扱います。

  • 7人
    この記事で扱う生き残り
  • 1915年
    永倉・斎藤が没した大正4年
  • 110名
    板橋の供養塔に刻まれた名

以下では、7人の足跡を、公的な資料と図書館の回答に照らしながら追います。

語り手は、永倉新八AI(永倉新八をモデルにしたAI)です。幹部で生き残った2人のうち、先に亡くなったほうの人です。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに永倉新八の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。永倉は大正4年(1915年)1月に亡くなっているため、それ以降の出来事(同年9月の斎藤一の死、昭和まで生きた隊士、文化財の指定や博物館の展示など)は本人としては語らず、筆者が質問のなかで伝え、その反応を創作しています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

永倉さん、はじめまして。あなたが明治9年に板橋へ建てた供養塔は、いまも駅の東口を出てすぐの所に立っています。この記事では、あなたのほかに明治まで生きた隊士を数えます。最初に名前を挙げたいのは、誰ですか。

永倉新八AI
永倉新八AI

そりゃあ近藤さんさ。生き残りを数えるってのに、死んだ局長から始めるのかって顔をしてるね。

だが、わしが生き残りの話をするなら、残らなかった者から始めなきゃ筋が通らねえ。

あんたは、誰から数えるつもりだったんだい。

HAGY(へいじい)
この記事を書いた人
HAGY(へいじい)
ウェブマーケティング(SEO・SNS)を仕事にしている歴史好きです。子どもの頃は、教科書や歴史漫画で偉人の名前を覚えるだけでした。高野山真言宗の尼僧と結婚し、空海を調べるうちに、その時代の空気や周りの人々まで気になるようになりました。これまでに100を超える偉人AIを作ってきました。

新選組の「生き残り」とは誰のこと?「最後」と呼ばれる人は3通り

「最後の生き残り」と呼ばれるのは、京都時代の幹部では斎藤一、隊士全体では昭和まで生きたとされる池田七三郎です。箱館で降伏したときの隊長・相馬主計は「最後の隊長」と呼ばれます。「最後」と呼ばれる人物が3人いるのは、何を基準に数えるかが違うからです。

この記事では「生き残り」を、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いのあとも生存し、明治期に活動した記録や、生存したとする記述が確認できる元隊士とします。途中で隊を離れた者も含め、御陵衛士へ移った者は含めません。

数え方答え根拠にした資料
京都時代の幹部(組長以上。御陵衛士へ移った人を除く)で最後まで生きた人斎藤一。大正4年9月28日(1915年)没。永倉新八は同年1月5日没コトバンク、会津若松観光ナビ、南アルプス市立図書館の回答
箱館で降伏したときの隊長(最後の隊長)相馬主計。没年は今回確認できず、笠間市は「明治の前期まで生存したことは史実」と記す笠間市、新島村
隊士全体で最後の生き残りとして名前が挙がる人池田七三郎(旧名・稗田利八)。昭和まで生きたと紹介されることが多く、隊士録に項目がある。生没年は今回確認できず国立国会図書館サーチ(隊士録の立項のみ)

参考:新選組の足跡をたどる|会津若松観光ナビ
参考:市長コラム「新撰組最後の隊長」(平成30年1月)|笠間市
参考:「司馬遼太郎の小説に登場する斎藤一の墓の場所を知りたい。」(南アルプス市立図書館)|レファレンス協同データベース

会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会のサイトは、斎藤一を「大正4(1915)年、新選組最後の生き残りとして死去」と書いています。何を基準にした「最後」かは示されていませんが、永倉より8か月あとに亡くなった事実とは合います。

参考:「八重と人々」斎藤一|会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会

本文は「新選組」と書きます。事典や自治体の資料には「新撰組」と書くものもあり、永倉の談話をまとめた本の書名も『新撰組顛末記』です。どちらかが正しいという話ではないため、検索語として、タイトルにだけ「新撰組」を使っています。

参考:新撰組(各事典の見出し表記)|コトバンク

生存説と死亡説が分かれる人物もいます。原田左之助(佐之助とも)は、上野戦争の負傷がもとで慶応4年5月に亡くなったとされています。一方で、大陸に渡ったという伝承もあります。

大正12年(1923年)の愛媛新報には「阪本龍馬を刺した松山藩士原田佐之助」という記事が載っていました(愛媛県立図書館の回答。「阪本」は原文のまま)。

慶応4年5月に亡くなったとする資料が多く、明治以降の足跡を示す公的な資料は今回見つからなかったため、7人には入れていません。

参考:「「愛媛新報」大正12年6月8日夕刊に、原田佐之助に関する記事があるか。」(愛媛県立図書館)|レファレンス協同データベース

筆者
筆者

斎藤一さんは、明治には藤田五郎と名乗っていました。あなたより8か月あと、大正4年の9月に東京で亡くなっています。斎藤さんを『最後の生き残り』と呼ぶ資料もあります。

永倉新八AI
永倉新八AI

斎藤が、わしより後まで生きたってのかい。そいつはわしの死んだあとの話だ、知りようがねえ。

黙って最後まで残ってたってのは、聞けばなんだか斎藤らしい気がするね。

『最後』の札はあいつにくれてやるよ。わしは、残った者が一人でも多いほうがうれしいんだ。

新選組の生き残り一覧!明治以降まで生きた7人の改名・仕事・没年

7人のうち、没年月日まで公的な資料で確かめられたのは、永倉新八と斎藤一の2人だけです。残る5人は、年だけ分かる人、二説ある人、没年を確認できない人に分かれます。

表は新選組の生存者全員ではなく、この記事で取り上げる7人です。右の列に、何で確かめたかを書きました。

幹部の多くは明治を迎えていません。局長の近藤勇は慶応4年4月25日(1868年)に板橋で斬首され、一番隊組長の沖田総司は同年5月30日に病死、副長の土方歳三は明治2年5月11日(1869年)に箱館で戦死しました。

参考:会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~|会津若松市
参考:五稜郭の歴史(箱館戦争から現在)|函館市

名前(隊での立場)明治以降の名・仕事没年(和暦)墓・史料の所在確かめた資料
永倉新八(二番隊組長)杉村義衛。松前藩に戻り、維新後は剣道をおしえた。晩年は小樽大正4年1月5日(1915年)。満75歳(数え77)菩提寺は小樽の量徳寺コトバンク、北海道博物館、小樽観光協会
斎藤一(三番隊組長)山口二郎、のち藤田五郎。警視庁、東京教育博物館に勤務大正4年9月28日(1915年)。満71歳(数え72)会津若松・阿弥陀寺の「藤田家の墓」会津若松市、会津若松観光ナビ、南アルプス市立図書館の回答
相馬主計(箱館での隊長)明治3年(1870年)に新島へ終身の流罪。寺子屋を開き、流刑制度の廃止で赦免本記事では確認できず。笠間市は「明治の前期まで生存」と記す新島に碑。新島村博物館に肖像画笠間市、新島村
島田魁(二番隊伍長)維新後は西本願寺に勤務。隊士名簿『英名録』と『島田魁日記』を残す1900年(明治33年。展示の「没後120年」から)遺品は京都・霊山歴史館霊山歴史館
中島登(隊士)箱館の弁天岬台場に幽閉中、隊士ら31名の姿を描く。明治3年(1870年)に赦免され、多摩へ帰る明治20年(1887年)『戦友姿絵』は市立函館博物館市立函館博物館デジタルアーカイブ、戊辰戦争終結150周年記念サイト
市村鉄之助(隊士)土方歳三の形見を日野へ届け、大垣へ戻ったとされる明治6年(1873年)病死説と、明治10年(1877年)西南戦争戦死説市村家の墓は大垣・全昌寺大垣市立図書館の回答
池田七三郎(隊士。旧名・稗田利八)子母澤寛の聞き書きに応じたとされる今回確認できず。昭和まで生きたとされる本記事では確認できず国立国会図書館サーチ(隊士録への掲載を確認。昭和まで生存したことを示す一次資料は今回確認できず)

参考:永倉新八(日本人名大辞典)|コトバンク
参考:第11回特別展「新選組永倉新八と会津藩士栗田鉄馬‐二人のサムライが歩んだ幕末・近代‐」|北海道博物館
参考:会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~|会津若松市
参考:史跡・名勝|東京都新島村
参考:「新選組と戊辰戦争」(2020年夏)|霊山歴史館
参考:「『戦友姿絵』人気投票の開催に係る報道依頼について」(PDF)|市立函館博物館
参考:「美濃大垣出身の新選組隊士であった市村辰之助・鉄之助兄弟について知りたい。」(大垣市立図書館)|レファレンス協同データベース
参考:鉄扇(資料番号S63-0023)|市立函館博物館デジタルアーカイブ
参考:中島 登|戊辰戦争終結150周年記念 函館・みなみ北海道

年齢は満年齢で書きました。事典の「77歳」と市のページの「72歳」は数え年です。永倉は天保10年4月11日(旧暦。新暦では1839年5月23日)生まれ、斎藤は弘化元年(1844年)生まれで、満年齢ではそれぞれ75歳と71歳になります。

島田魁の1900年は、霊山歴史館が2020年の展示に「没後120年-新選組の語り部 島田魁の遺品-」という章を立てていることから年を割り出したもので、月日までは公的な資料で確かめていません。

市村鉄之助の二説は、大垣市立図書館の回答がそのまま二説として挙げているものです。兄の辰之助は明治5年(1872年)に亡くなったと、同じ回答にあります。

新選組の隊士が全部で何人いたかは、資料によって数え方が違います。日本大百科全書は「最盛期には総勢約200人」と書くにとどまり、生き残りの総数を数えた公的な資料は今回確認できませんでした。だから、この記事は「7人のうち」で数えます。

参考:新選組(日本大百科全書)|コトバンク

沖田の病気の始まりと最期の資料がどう割れているかは、漫画『終末のワルキューレ』の描写と照らし合わせた記事で詳しく扱っています。

筆者
筆者

7人の表を作りました。あなたの次の行が斎藤さん、その下に相馬主計さん、島田魁さんと続きます。島田さんは隊士名簿と日記を遺して、明治33年に亡くなっています。あなたの名前の横に、誰を並べてほしいですか。

永倉新八AI
永倉新八AI

横には島田魁を置いてくれ。斎藤じゃねえのかって? あいつは一人で立ってるほうが似合うのさ。

島田は名簿を手元に残した男だろう。名前を残す仕事をした者どうしで並べてもらいたいね。

近藤さんや土方さんの名前がこの表に入らねえのは、ちょいと寂しいがな。

永倉新八の明治は?杉村義衛と名を変え、板橋の供養塔から小樽へ

永倉新八は松前藩に戻って杉村義衛と改名し、明治9年(1876年)に板橋へ近藤勇と新選組隊士の供養塔を建て、晩年を小樽で過ごして大正4年1月5日(1915年)に亡くなりました。

永倉が残した回想の記録は2つあり、成立の仕方が違います。

永倉新八の回想、2つの記録の違い
  • 『浪士文久報国記事』:永倉の自筆の手記。明治9年ごろに自分で記したもので、1998年に全文が翻刻された(木村幸比古編著・訳『新選組戦場日記』PHP研究所)
  • 『新撰組顛末記』:大正2年(1913年)に小樽新聞に連載された永倉のインタビューをまとめたもの。北海道立図書館の回答によれば、連載は3月17日から6月11日まで全70回で、社会部記者の吉島力が取材し、社会部長の加藤眠柳が原稿をまとめた
  • 国立国会図書館サーチで確認できた範囲では、図書として最も古いのは私家版の『新撰組永倉新八:故杉村義衛の壮年時代』(杉村義太郎編、1927年)。『新撰組顛末記』という書名は、新人物往来社の1971年刊が最古

参考:『新選組戦場日記 永倉新八「浪士文久報国記事」を読む』|PHP研究所
参考:『新撰組顛末記』(角川新書)商品ページ|KADOKAWA
参考:「『小樽新聞』の連載が「新選組顛末記」としてまとまっている…」(北海道立図書館)|レファレンス協同データベース
参考:『新撰組永倉新八 : 故杉村義衛の壮年時代』(杉村義太郎編、1927)書誌|国立国会図書館サーチ

『新撰組顛末記』を「永倉の著書」と呼ぶ記事を見かけますが、本人が語り、記者が起こし、社会部長がまとめた連載です。自分の筆で書いたのは、そのおよそ37年前の『浪士文久報国記事』のほうでした。

慶応4年(1868年)、永倉は近藤勇と別れて靖共隊(せいきょうたい)を結成し、今市や会津などで戦いました。その年の1月、鳥羽・伏見の戦いで新選組を指揮したのは、負傷した近藤に代わった土方歳三です。開戦から敗走までの経過は、別の記事でたどりました。

戦いのあと永倉は松前藩に戻り、藩医の杉村家の婿養子となって杉村義衛と名を改めました。日本人名大辞典は「維新後は剣道をおしえた」と記します。

明治9年(1876年)、永倉が発起人となり、旧幕府の典医・松本順の協力を得て、近藤勇と新選組隊士の供養塔が建てられました。側面には110名の名が刻まれています。所在は東京都北区滝野川7-8-10、寿徳寺の境外墓地で、JR板橋駅の東口を出てすぐです。

参考:近藤勇と新選組隊士の墓|東京都北区観光ホームページ

明治の足跡には、はっきりしない時期が長くあります。2026年9月の北海道新聞は、維新以降の足跡に不明な点が多いとしたうえで、永倉が東京で旧秋山愛生舘の創業者・秋山康之進と同居し、ともに働いたことが資料から新たに分かったと報じました。

参考:「新選組の永倉新八、札幌・旧秋山愛生舘の創業者と東京で同居 資料を確認」2026-09-04|北海道新聞

晩年は小樽で過ごしました。菩提寺は小樽市入船の量徳寺で、永倉新八のミニ資料館が常設されています。生誕日の5月23日には「がむしん祭」が開かれます。

参考:月刊 小樽自身 2021年5月号|小樽観光協会

大正4年1月5日(1915年)、永倉は亡くなりました。日本人名大辞典は「77歳」と書き、これは数え年です。死因は事典に記載がありません。

筆者
筆者

明治9年ごろに筆で書いた手記と、大正2年に小樽新聞の記者へ語った70回の連載。同じ仲間の話を、筆と口で二度残したことになります。二度目に初めて口にできた名前は、ありますか。

永倉新八AI
永倉新八AI

どっちに先に出た名前かなんて、いまここで比べてみせる気はねえよ。

ただ、筆で書くのと人にしゃべるのとじゃ、名前の顔つきが違う。しゃべると、そいつの笑い声までついてくるんだ。

あんたも書くばかりじゃなく、誰かにしゃべってみるといい。

斎藤一の明治は?藤田五郎として警視庁に勤め、会津の阿弥陀寺に眠る

斎藤一は戊辰戦争のあいだに山口二郎、明治になって藤田五郎と名を変え、警視庁と東京教育博物館に勤めたのち、大正4年9月28日(1915年)に亡くなりました。墓は本人の希望で、会津若松の阿弥陀寺にあります。

会津戦争のとき、斎藤は負傷した土方歳三に代わって隊長となって指揮し、土方が仙台へ向かうことに反対して会津に残りました。永倉とは別の道で、会津まで新選組に残った人です。

参考:会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~|会津若松市

斎藤一(藤田五郎)の明治の歩み
  • 斗南へ:松平家が明治維新後に青森で斗南藩として再興すると、自らも移り住み、上京後も関係を保った(共同通信)
  • 改名と結婚:藤田五郎と名乗り、会津藩士の娘・時尾と結婚した(会津若松市)
  • 仕事:警視庁に勤め、のち東京教育博物館に勤めた(会津若松市)。「八重の桜」プロジェクト協議会のサイトは、警部まで昇進して明治24年(1891年)に退職し、東京高等師範学校附属東京教育博物館の守衛兼剣術師範、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務めたとする
  • 墓:本人の希望により、会津若松市七日町の阿弥陀寺に妻時尾とともに眠る。墓石は「藤田家の墓」(会津若松観光ナビ)

参考:斎藤一(共同通信)|コトバンク
参考:「八重と人々」斎藤一|会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会
参考:阿弥陀寺|会津若松観光ナビ

警視庁勤務の裏づけになる史料として、霊山歴史館は2020年の展示に「斎藤一警視局名簿」を出品しています。

参考:「新選組と戊辰戦争」(2020年夏)|霊山歴史館

没日は、会津若松観光ナビが大正4年(1915年)9月28日に71歳で亡くなったと記し、南アルプス市立図書館の回答が引く『新選組大人名事典 上』も9月28日としています。同じ回答によれば、亡くなった場所は東京・本郷真砂町の自宅です。

遺言により会津の阿弥陀寺に永眠した、と観光ナビは書いています。会津若松市のページは「享年72歳」で、こちらは数え年です。

会津若松市の「会津と新選組」のページは、斎藤の生没年を(1844~1916)と表記しています。同じ市の観光ビューローのページ、協議会のサイト、事典、人名事典はいずれも1915年なので、本記事は1915年で書きます。

阿弥陀寺では毎年9月に「会津新選組まつり斎藤一忌」が開かれ、2026年は9月21日でした。会津戦争を含む戊辰戦争の全体の流れは、こちらの記事にまとめています。

参考:会津新選組まつり斎藤一忌|会津若松観光ナビ

筆者
筆者

斎藤さんのお墓は会津若松の阿弥陀寺にあって、本人がそう望んだと伝わります。いまも毎年9月に斎藤一忌が開かれています。あなたは小樽で暮らしています。眠る場所は、もう決めていますか。

永倉新八AI
永倉新八AI

会津か。あいつの決めそうなことだと、わしは勝手に思うね。

わしのほうは決めちゃいねえよ。小樽の海が見える所なら、文句は言わねえさ。

最後の隊長・相馬主計はどうなった?新島への流罪と、資料ごとの書き分け

相馬主計は箱館で降伏したときの新選組の隊長で、明治3年(1870年)に新島へ終身の流罪となり、島で寺子屋を開いたのち、流刑制度の廃止で赦免されました。没年は今回確認できず、笠間市は「明治の前期まで生存したことは史実」と書いています。

相馬について書く自治体の資料は3つあり、呼び方と流罪の理由が少しずつ違います。

事柄笠間市(市長コラム)新島村(博物館の常設展示)新島村(史跡・名勝)
呼び方「新撰組最後の隊長」。笠間市出身の元笠間藩士・相馬主殿「新撰組の最後の隊長」「新撰組最後の隊長と知られる相馬主計」
流罪の理由—「降伏の際に責任を取り新島へ流刑」「坂本竜馬殺害に関わったとして『流罪終身』」
年「明治の前期まで生存したことは史実」—明治3年に流刑
島での暮らしと資料著書『贈友談話』の画像を掲載肖像画が発見され、博物館へ寄託展示新島の娘と結婚し、寺子屋を開いた。流刑制度の廃止に伴い赦免。島を去る際の和歌を刻んだ「相馬主計の碑」がある

参考:市長コラム「新撰組最後の隊長」(平成30年1月)|笠間市
参考:常設展示|東京都新島村(新島村博物館)
参考:史跡・名勝|東京都新島村

表の「—」は、その資料から引いていない項目です。名前は、笠間市が「相馬主殿」、新島村が「相馬主計」(常設展示は「相馬主計(主殿)」)と書き、国立国会図書館サーチは「相馬主計」で立項しています。

流罪の理由は、同じ新島村のサイトのなかで、展示の案内では降伏の責任、史跡の案内では坂本龍馬殺害への関与の嫌疑と、2通りに書かれています。どちらかに決める材料は、本記事では持っていません。

隊長に就いた日付と、赦免の年、最期の様子は、公的な資料では今回確認できませんでした。東京で自ら命を絶ったと書く紹介記事もありますが、同じ理由で本記事では採っていません。

新島村博物館の研究紀要(平成20年)には、あさくらゆう「新選組 -最後の隊長-」が収められ、日野市は2009年に『相馬主殿回想録』を新選組のふるさと歴史館叢書の第5輯として刊行しました。相馬を調べるなら、この2点が入口になります。

参考:デジタル資料室|東京都新島村(新島村博物館)
参考:『相馬主殿回想録』書誌|国立国会図書館サーチ

筆者
筆者

相馬主計さんは、流された新島で寺子屋を開いたそうです。あなたの剣の稽古と、どこか似ていますか。

永倉新八AI
永倉新八AI

箱館まで行った者が、島で筆を持ったってのはいい話だね。

わしが教えたのは剣だ。いま聞かれりゃ、仕事というより食い扶持だったと答えるよ。

ただ、教えりゃ仲間の太刀筋も一緒に伝わる。そいつは悪くねえ。

島田魁・中島登・市村鉄之助・池田七三郎はどうなった?残る4人の足跡

残る4人のうち、中島登は明治20年(1887年)、島田魁は1900年(明治33年)に亡くなっています。市村鉄之助の没年には二説あり、池田七三郎の没年は今回確認した資料では確定できませんでした。

4人の足跡、確かめられた範囲
  • 島田魁:二番隊伍長。慶応元年(1865年)6月ごろ作成の隊士名簿『英名録』(約150名)と、箱館降伏後の謹慎中に記した『島田魁日記』上下2冊が遺品として残る。維新後は西本願寺に勤めた
  • 中島登:箱館の弁天岬台場に幽閉されていたあいだに、ともに戦った隊士ら31名を描いた『戦友姿絵』を残した。明治3年(1870年)に赦免されて多摩へ帰り、明治20年(1887年)に亡くなった
  • 市村鉄之助:大垣藩の重臣・小原鉄心に直属する家臣の子。慶応3年(1867年)秋に兄・辰之助とともに入隊し、土方歳三の形見を日野の佐藤家へ運んだのち大垣へ戻ったとされる。没年は明治6年病死説と明治10年西南戦争戦死説
  • 池田七三郎:旧名・稗田利八。昭和まで生きた元隊士として隊士録に名があり、子母澤寛の聞き書きに応じたとされる。生没年:未確認

参考:新選組隊士名簿 英名録|霊山歴史館
参考:鉄扇(資料番号S63-0023)|市立函館博物館デジタルアーカイブ
参考:中島 登|戊辰戦争終結150周年記念 函館・みなみ北海道
参考:企画展『結成160年 新選組奮戦録』見どころ紹介|霊山歴史館
参考:「『戦友姿絵』人気投票の開催に係る報道依頼について」(PDF)|市立函館博物館
参考:「美濃大垣出身の新選組隊士であった市村辰之助・鉄之助兄弟について知りたい。」(大垣市立図書館)|レファレンス協同データベース

島田魁は、記録を残した人です。霊山歴史館は「維新後は西本願寺に勤め、日記など新選組に関連した多くの史料を遺しています」と紹介し、2020年の展示では「西本願寺辞令」「葬儀関係文書」を出品しました。

『島田魁日記』の現代語訳は、2003年にPHP研究所から出版されています。

参考:「~初心者向け古文書教室~ 新選組の史料を読もう」2024-06-01|霊山歴史館
参考:『新選組日記 : 永倉新八日記・島田魁日記を読む』書誌|国立国会図書館サーチ

中島登の『戦友姿絵』は、市立函館博物館が所蔵しています。2022年の人気投票では、描かれた人物のうち中島登・近藤勇・土方歳三・山口二郎・中島三郎助父子・甲賀源吾・野村利三郎の7名が候補になりました。山口二郎は、斎藤一が戊辰戦争のあいだに使った名です。

市村鉄之助については、大垣市立図書館の回答が、兄の辰之助は「局長附人数」、鉄之助は「両長召抱人」として入隊したと伝えています。日野の佐藤家にしばらく身を寄せたのち大垣へ戻ったとされ、市村家の墓は大垣市船町の全昌寺にあります。

池田七三郎は、流山市のページやレファレンス協同データベースでは経歴を見つけられませんでした。

隊士録のうち『新選組大人名事典』(2001年)、『新選組全隊士徹底ガイド』(2004年)などに項目があることは、国立国会図書館サーチの件名検索で確かめられます。

参考:「新選組の歴史について、できるだけ参考文献が明記されている本が知りたい。」(大阪府立中央図書館)|レファレンス協同データベース

筆者
筆者

中島登さんは、捕らわれていたあいだに31人の仲間を描き残しました。あなたなら、誰から描きますか。

永倉新八AI
永倉新八AI

描くなら藤堂平助だな。あいつは明治を見ずに死んだ。顔を覚えてる者が減る前に、誰かが描いておかなきゃならねえ。

もっとも、わしの絵じゃ、本人が見たら怒って斬りかかってくるだろうがね。

生き残りが残したもの、碑・墓・史料はどこにある?

永倉が建てた板橋の供養塔、島田が残した名簿と日記、中島が描いた『戦友姿絵』。生き残った3人は、それぞれの形で仲間の名前を残しました。

場所何があるか公式ページの記述
東京都北区滝野川(JR板橋駅東口)近藤勇と新選組隊士供養塔明治9年建立。永倉新八が発起人、松本順が協力。110名の名を刻む。2003年12月10日に北区指定文化財。供養祭は4月25日またはその直前の日曜
北海道小樽市入船 量徳寺永倉新八の菩提寺永倉新八のミニ資料館を常設。生誕日5月23日に「がむしん祭」
福島県会津若松市七日町 阿弥陀寺「藤田家の墓」(斎藤一)本人の希望により妻時尾とともに眠る。毎年9月に斎藤一忌
東京都新島村相馬主計の碑、肖像画島を去る際の和歌を刻んだ碑。肖像画は新島村博物館に寄託展示
北海道函館市 市立函館博物館『戦友姿絵』(中島登)弁天岬台場幽閉中に隊士ら31名を描いたもの
京都市 霊山歴史館島田魁の遺品『英名録』、『島田魁日記』、西本願寺辞令、葬儀関係文書など
岐阜県大垣市船町 全昌寺市村家の墓大垣市立図書館の回答による

参考:近藤勇と新選組隊士の墓|東京都北区観光ホームページ
参考:月刊 小樽自身 2021年5月号|小樽観光協会
参考:阿弥陀寺|会津若松観光ナビ
参考:常設展示|東京都新島村(新島村博物館)

板橋の供養塔の所在は、板橋区ではなく北区滝野川です。駅名が板橋なので取り違えやすいのですが、板橋区の散策コースのページも、墓の住所を北区滝野川7-8-10と書いています。供養祭の4月25日は、近藤勇が板橋で斬首された日です。

参考:板橋散策コース|板橋区

北区のページが記すのは110名という人数だけで、誰の名があるかは載っていません。

新島の「相馬主計の碑」に刻まれた和歌の文面と碑の所在地は、村のページには載っていません。訪ねる場合は新島村博物館に問い合わせるのが確実でしょう。

このほか、北海道博物館は2025年に特別展「新選組永倉新八と会津藩士栗田鉄馬」を開き、文書や絵画241点を並べました。霊山歴史館は2026年夏に「新選組隊士列伝」展を開きました。

参考:「新選組・永倉新八×会津藩士・栗田鉄馬…北海道博物館で文書や絵画241点」2025-07-31|北海道新聞
参考:「新選組隊士列伝」(2026年夏)|霊山歴史館

筆者
筆者

板橋の供養塔は、2003年に北区の文化財になりました。いまも毎年4月25日ごろに供養祭があって、人が集まります。あなたが名前を刻んだ110人の前に、です。

永倉新八AI
永倉新八AI

文化財ってのは、役所のお墨付きってことかい。板橋で首を斬られた近藤さんの墓にねえ。

長生きはしてみるもんだ。いや、わしはもう死んでるんだったな。

毎年人が来るなら、それでいい。名前は、読む者がいるうちは死なねえからな。

よくある質問(FAQ)

新選組の生き残りは何人いますか?

この記事では、明治以降の足跡を資料で確かめられた永倉新八・斎藤一・相馬主計・島田魁・中島登・市村鉄之助の6人と、昭和まで生きたとされる池田七三郎の7人を扱いました。隊士全員の生死を一覧にした公的な資料は、今回確認できませんでした。

新選組の最後の生き残りは誰ですか?

数え方で変わります。京都時代の幹部では、大正4年9月28日(1915年)に亡くなった斎藤一です(永倉新八は同年1月5日没)。隊士全体では池田七三郎の名が挙がり、箱館で降伏したときの隊長・相馬主計は「最後の隊長」と呼ばれます。

永倉新八と斎藤一は、明治になってから会ったことがありますか?

2人が明治以降に会ったことを示す記録は、本記事が確かめた事典・自治体・図書館の回答のなかには見つかりませんでした。永倉は松前・東京・小樽、斎藤は斗南から東京へ移りました。東京にいた時期が重なるかどうかも含め、確かめた資料に記録はありませんでした。

新選組の生き残りに子孫はいますか?

永倉新八については、子孫による著書『子孫が語る永倉新八』(杉村悦郎、新人物往来社、2009年)があり、北海道立図書館の回答がこれを引いています。斎藤一は会津藩士の娘・時尾と結婚しましたが、子については確かめた資料に記述がありませんでした。

なぜ斎藤一は生き残れたのですか?

理由を説明した資料は、今回確認できませんでした。分かっているのは経緯です。会津戦争で負傷した土方歳三に代わって指揮し、土方の仙台行きに反対して会津に残り、のちに斗南へ移って、藤田五郎として警視庁に勤めました。

永倉新八の死因は何ですか?

日本人名大辞典は「大正4年1月5日死去」「77歳」と記し、死因を書いていません。北海道博物館や小樽観光協会のページにも死因の記載はありません。ネット上には病名を挙げる記事もありますが、公的な資料では今回確認できませんでした。

インタビュー後記 数えるより、名簿を読みたい

生き残りを数える記事を書き終えて、私が最も長く見ていたのは、人数ではなく名簿でした。永倉が刻んだ110名、島田が遺した名簿の約150名、中島が描いた31名です。

「最後」と呼ばれる人は3人に割れますが、生き残った者が残した名前の数は、数え方で変わりません。

永倉は明治9年に碑を建て、同じころに手記を書き、およそ37年後に新聞記者へ語りました。島田は箱館の謹慎中に日記を書き、その日記も名簿も遺品として残りました。中島は幽閉中に絵筆を取っています。

それぞれが違う形で残した名前を、いまも私たちは読むことができます。

だから私の意見は一つです。「最後の生き残りは誰か」を決めるより先に、生き残りが残した名簿を読んだほうが、新選組には近づける。この記事の表は、そのための入口のつもりで作りました。

参考資料

コメント

タイトルとURLをコピーしました