このサイトでは、小栗忠順の処刑、妻、子孫、横須賀と、何本も記事を書いてきました。書き進めるうちに、ずっと気になっていたことがあります。小栗の名言として出回る言葉の多くは、出典が書かれていないのです。
そこで今回は、言葉を10件集め、確認できる範囲で出典をたどりました。
この記事の結論
今回集めた小栗忠順の名言10件は、いずれも小栗本人の自筆文書から採ったものではありません。部下や関係者の回想、後世の著作などを通じて伝わっています。
有名な「一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうか成らうと云ふ一言是なり」は、部下だった福地源一郎が『幕府衰亡論』に書き、本人から直接聞いたと添えています。
「土蔵付き売家」は、勝海舟が編んだ『海軍歴史』に回想として収められていました。書き手については、関連資料から栗本鋤雲と考えられます。
一方で、「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない」など4件は、群馬県高崎市の東善寺が典拠を挙げて紹介しているものの、元の本との照合までは届いていません。
- 6件
明治の刊本で原文を確認 - 4件
東善寺の紹介でたどった言葉 - 2016年
施政方針演説で「どうか成らう」が引用された年
各項目には「出典・解釈・現代へのヒント」の表と解説を付けました。後半では「どうか成らう」の原文と広まった形を比べ、勝海舟や大村益次郎が小栗をどう語ったかも出典の確かさごとに整理しています。
語り手として、忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。自分の名で出回る言葉を本人が聞いたらどう返すか、想像しながら読んでみてください。
※以下の忠順AIの発言部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

小栗さん、今日はあなたの名言を10件持ってきました。先に言っておくと、あなたが自分で書いた文書から取れたものは1件もありません。

10のうち、私の筆が0。勘定としては、ずいぶん寂しい帳尻でございますな。
もっとも、役所の仕事は口で済ませることが多うございました。書き留めたのが部下や朋輩であれば、その者の耳を通った言葉ということになりましょう。
誰の耳を通ったのか、そこから聞かせていただきとうございます。
- 小栗忠順の名言を読む前に知りたい、どんな人物だったか
- 小栗の言葉は誰が書き残したのか、出典の2区分
- 小栗忠順の名言・伝承10選
- 名言①「一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうか成らうと云ふ一言是なり。幕府が滅亡したるは此一言なり」
- 名言②「病の癒ゆ可からざるを知りて薬せざるは孝子の所為に非ず。国亡び身斃るゝ迄は公事に鞅掌するこそ真の武士なれ」
- 名言③「政治武備商業製造等に於ては、外国を模範として我国の改善を謀らざる可からず」
- 名言④「既に軍艦を有する以上は、破損は有中の事なれば、之を修復するの処無かる可からず」
- 名言⑤「当時の経済は真に所謂遣り繰り身上にて……却って他の冗費を節する口実を得るの益あり」
- 名言⑥「旗号に熨斗を染出すも、猶土蔵付売家の栄誉を残す可し」
- 名言⑦「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない」
- 名言⑧「今日国家多事財政困難の時に当り、腰抜け武士に高禄を給するは無用なり、宜しく此等のものを削らざる可からず」
- 名言⑨「仮令旧例古格なりと雖も、無用の役員無用の役局は廃せざるべからず」
- 名言⑩「幕府の運命に付ての覚悟だけは聢りきめて置くことが必要であらう」
- 「どうか成らう」と「どうにかなろう」、原文と広まった形を並べる
- 小栗を語った人々の言葉、出典をたどれるもの・たどれないもの
- 小栗忠順の名言から見えてくる生き方・価値観
- よくある質問(FAQ)
- インタビュー後記 小栗の言葉は職場で生まれた
- 参考資料
小栗忠順の名言を読む前に知りたい、どんな人物だったか
小栗忠順は、遣米使節の目付として渡米し、勘定奉行として横須賀製鉄所の建設を進めた幕臣です。通称は又一、官途名は上野介で、「小栗上野介」の名でも知られます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 小栗忠順(おぐり ただまさ)。通称は又一、官途名は上野介 |
| 生没年 | 文政10年6月23日(1827年7月16日)〜慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)。満40歳(数え年42歳) |
| 出身 | 江戸・神田駿河台 |
| 主な役職 | 目付、外国奉行、勘定奉行など |
| 主な仕事 | 1860年の遣米使節、横須賀製鉄所の建設、フランス式の軍制改革、兵庫商社の提案 |
| 最期 | 新政府軍に捕らえられ、上野国の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼)で斬首 |
参考:小栗忠順|近代日本人の肖像|国立国会図書館
参考:本市ゆかりの幕臣・小栗上野介|高崎市
小栗が勘定奉行として財政を預かったのは、幕府の終わりが近い時期でした。長州征伐や将軍の上洛で支出がかさむなか、フランスの協力を得て横須賀製鉄所の建設を進めます。
鳥羽・伏見の戦いのあとは江戸城で主戦論を唱え、慶応4年1月15日(1868年2月8日)に職を離れました。上州の権田村に移り住んで間もなく新政府軍に捕らえられ、高崎市の資料によれば何の取り調べもないまま斬首されています。
ここから紹介する言葉の多くは、この財政と横須賀の仕事のなかで口にされたものです。生涯の流れは、次の記事にまとめています。

あなたの言葉を書き残した人を調べると、福地源一郎、栗本鋤雲、島田三郎、渋沢栄一と、みんな明治まで生きた人でした。

私は慶応4年に40で斬られました。生き残った者が書けば、生き残った者の帳面に私が載る。道理でございます。
福地は私の下で働いておった若い者、栗本は横須賀の相談相手でありました。
4人そろって明治まで長生きとは、私の言葉はずいぶん丈夫な者たちに預けられたものにて候。
小栗の言葉は誰が書き残したのか、出典の2区分
小栗の名言は、原文まで確認できたものと、紹介をたどっただけのものに分かれます。10件を、この2つに分けました。
| 区分 | どんな言葉か | 件数 |
|---|---|---|
| A|明治の刊本で原文を確認 | 福地源一郎や栗本鋤雲が書き残し、明治期に刊行された本の該当ページを国立国会図書館デジタルコレクションで読めたもの | 6件 |
| B|東善寺の紹介でたどった言葉 | 東善寺が書名を挙げて紹介しているが、その本の原文までは確認できなかったもの | 4件 |
区分Aも、小栗がその通りに話したことの証明ではありません。部下や同僚が「小栗はこう言った」と書いた記録です。福地は聞いてから20年以上あとに書いていて、言い回しには書き手の記憶と文体が混ざっていると考えたほうがよいでしょう。
それでも、誰が、いつ、どの本に書いたかが分かる言葉は、出典のない言葉とは重みが違います。
区分Bの東善寺は、小栗が最後の日々を過ごした高崎市倉渕町の寺です。寺のホームページは、多くの言葉に典拠の書名を添えています。その本を自分で開けなかったものを、区分Bにしました。

区分Aの6件も、結局は他人の書いたものです。そこは割り引いて読むつもりです。

左様、それでよろしい。口頭の報告は書付と突き合わせる。勘定方なら、それが筋でございます。
ただ、書いた者の名と日付がそろっておれば、少なくとも誰に問いただせばよいかは分かりましょう。
名のない書付は、帳面には載せられませぬ。
小栗忠順の名言・伝承10選
区分Aの6件を先に、区分Bの4件をあとに置きました。
- 書き残した人の名前と、載っている本が分かる言葉を先に置くこと
- 東善寺や検索上位のページで繰り返し紹介される言葉を落とさないこと
- 原文まで届かなかった言葉は、届かなかったと書いたうえで載せること
引用は、読みやすいように旧字を新字に改め、句読点を補っています。それでは1つずつ見ていきましょう。
名言①「一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうか成らうと云ふ一言是なり。幕府が滅亡したるは此一言なり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分A。福地源一郎『幕府衰亡論』。福地は「余が親しく其人に聞たる所」と、本人から直接聞いたと書いています |
| 解釈 | 国を滅ぼす一言があるとすれば、「どうにかなるだろう」だ。幕府が滅んだのは、この一言のせいだ |
| 現代へのヒント | 決めるべきことを「そのうち何とかなる」で先送りしていないか、確かめる目安になる |
小栗の名言のなかで、もっとも広く知られている言葉の一つです。福地は『幕府衰亡論』で、文久3年(1863年)の将軍上洛を前に、幕閣が攘夷への方針を決められなかったことを論じています。
その流れで「幕末の賢吏小栗上野介は曾て幕閣を評して曰く」と、この一言を引きました。
参考:幕府衰亡論(福地桜痴 著、1892年)コマ190|国立国会図書館デジタルコレクション
同じ箇所には、岩瀬忠震の「幕府の評議には可成丈(なるべくだけ)の字を厳禁すべし」という言葉も出てきます。福地は二つを「格言」と呼び、若いころは意味が分からなかったが、いまにして思えば実にその通りだった、と振り返ります。
この一言は、2016年1月22日の施政方針演説で、安倍晋三首相が引用しました。

2016年、首相が国会の施政方針演説であなたの言葉を引きました。終わらない議論と責任の回避を戒める文脈です。

ほう、150年ほど後の御老中が、私の小言を使われましたか。
評定の場で『どうか成らう』と言えば、その場は丸く収まります。収まった分だけ、決めるべきことが翌日に回る。
いま問われれば、あの一言は誰か一人を責めたものではなく、評定のやり方そのものへの小言だと答えとうございますな。
名言②「病の癒ゆ可からざるを知りて薬せざるは孝子の所為に非ず。国亡び身斃るゝ迄は公事に鞅掌するこそ真の武士なれ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分A。福地源一郎『幕末政治家』(民友社、1900年)の「小栗上野介」の項 |
| 解釈 | 治らない病だと分かっても薬を与えるのが孝行だ。国が亡び身が倒れるまで公の務めに励むのが、本当の武士だ |
| 現代へのヒント | 先の見えない仕事でも、手を止めずにやり切る、という一つの構え方 |
福地は『幕末政治家』で小栗に1項を割き、小栗は「不可的の詞」を口にしなかったと書きます。不可的の詞とは、もう無理だ、という言葉です。この言葉はその直後に、小栗の口癖のように紹介されています。
鞅掌(おうしょう)は、忙しく立ち働くことを指します。幕府を治らない病の親にたとえ、それでも薬をやめないのが子の務めだ、という理屈です。
参考:幕末政治家(福地桜痴 著、1900年)コマ142|国立国会図書館デジタルコレクション
福地は同じ項で、自分が小栗の下で働き、その苦労を目の前で見たと書いています。東善寺はこの言葉を「真の武士」という題で紹介しています。

親が治らない病だと分かったら、私なら薬をやめて楽にさせたくなるかもしれません。

それも一つの孝行。されど、病の重さを見誤る医者のほうが、よほど罪深い。
治らぬと知って薬を出す者と、治ると思い込んで薬を出す者では、同じ薬でも出し方が違います。
貴殿の世では、治らぬと分かった仕事を、皆さま途中で投げ出されますかな。

投げ出す人もいます。でも、引き継ぎだけはきちんとしてから、という人が多いと思います。

それならば、私の言うたことと半分は同じにて候。
国が倒れるまで務めるのも、倒れたあとに困らぬよう引き継ぐのも、薬をやめぬという点では変わりませぬ。
名言③「政治武備商業製造等に於ては、外国を模範として我国の改善を謀らざる可からず」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分A。福地源一郎『幕末政治家』の「小栗上野介」の項。小栗の主張を福地がまとめた一文です |
| 解釈 | 政治・軍備・商業・製造は、外国を手本にして日本を改めなければならない |
| 現代へのヒント | 外から学ぶことを、遠慮や体面で止めないという姿勢 |
1860年、小栗は遣米使節の目付としてアメリカへ渡りました。福地によれば、使節が帰国したころは鎖国・攘夷の議論が盛んで、ほかの者は皆口を閉ざしていたといいます。そのなかで小栗一人が、はばかることなくアメリカの文明を説いたと書いています。
この文は、小栗の発言をそのまま書き写したものではありません。福地が「と論じて幕閣を聳動せしめたり」と、小栗の主張の中身を地の文でまとめた形です。
参考:幕末政治家(福地桜痴 著、1900年)コマ142|国立国会図書館デジタルコレクション
清沢洌も『日本外交史』上巻(1942年)で、この一節を福地の記述として引いています。帰国後に何をしたかは、名言④からの横須賀の話に続きます。
参考:日本外交史 上巻(清沢洌 著、1942年)コマ191|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:万延元年遣米使節|コトバンク
参考:小栗忠順の通貨交渉|東善寺

帰国した使節のなかで、黙らなかったのはあなた一人だった、と福地は書いています。

一人とは、福地の筆が走った。
フィラデルフィアの造幣局では、小判とドル金貨を並べて分析させました。量って見せられたものを、見なかったことにはできませぬ。
黙っておった者を責める気はございませぬ。大老が城の門前で討たれた年に帰ってきたのでございますゆえ。
名言④「既に軍艦を有する以上は、破損は有中の事なれば、之を修復するの処無かる可からず」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分A。勝海舟『海軍歴史』(海軍省、1889年)巻二十一に、「予」の一人称で書かれた回想として収められています。東善寺は栗本鋤雲『匏庵遺稿』の言葉として紹介しています |
| 解釈 | 軍艦を持つ以上、壊れるのは当たり前だ。直す場所がなくてはならない |
| 現代へのヒント | 道具を買うときに、修理と維持の仕組みまで一緒に考える |
横須賀製鉄所の出発点にある言葉です。『海軍歴史』は、元治元年(1864年)に小栗と栗本がフランス公使ロッシュに製鉄所の計画を相談したことから書き起こしています。
フランス側は、佐賀藩が幕府に献納した機械では小修理が精いっぱいで、ドックを造る仕事には足りないと答えました。そこで「予」が江戸へ出て小栗に相談したときの言葉が、これです。有中(ありうち)の事とは、よくあることという意味です。
『海軍歴史』は回想の書き手の名を記していません。ただ、福地が土蔵附の話に「栗本匏庵翁の自著に見えたり」と添え、東善寺も栗本『匏庵遺稿』の言葉として紹介しているため、この記事では「予」を栗本鋤雲として読んでいます。
参考:海軍歴史 8(勝安芳 著、1889年)コマ85|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:小栗上野介の言葉「土蔵付き売家の栄誉」|東善寺
小栗は続けて、外国から古い船を買っても修理する場所がなければすぐ使えなくなり、壊れるたびに外国へ回航すれば往復の費用も大きい、と述べています。

船を買う話より先に、直す場所の話をしているのが意外でした。

勘定奉行ならば、そこから考えます。買う銭は一度で済みますが、直す銭は船が沈むまで出てまいります。
壊れるたびに外国まで回せば、往きと帰りの日数だけ船は働きませぬ。働かぬ船に払う給金ほど、もったいないものはございませぬ。
名言⑤「当時の経済は真に所謂遣り繰り身上にて……却って他の冗費を節する口実を得るの益あり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分A。名言④と同じ『海軍歴史』巻二十一の回想。巨額の費用を心配した「予」に、小栗が笑って答えた言葉として書かれています |
| 解釈 | いまの財政はどうせやりくりだ。造船所を建てると決めれば、かえってほかの無駄遣いを削る口実ができる |
| 現代へのヒント | 大きな支出を決めることで、ほかの出費を見直すきっかけにする |
名言④のあと、フランスに任せることが決まります。それでも「予」は、費用の大きさをためらいました。そのときに小栗が笑って返したのが、この言葉です。
当時の経済は真に所謂遣り繰り身上にて、仮令此事を起さざるも其財を移して他に供するが如きにあらず。故に是非無かる可らざるのドック修船所を取立るとならば、却って他の冗費を節する口実を得るの益あり
出典:勝安芳『海軍歴史』(海軍省、1889年)巻二十一
この事業をやめても、その分のお金がほかへ回るわけではない、という見立てです。同じ回想は、製鉄所の費用を1年60万ドル、4年で総計240万ドルと見積もったことも記しています。
参考:海軍歴史 8(勝安芳 著、1889年)コマ85|国立国会図書館デジタルコレクション

大きな出費を決めれば、ほかの無駄を削る口実になる。いまの会社でも通じそうな理屈です。

4年で240万ドル。それを聞いて青くならぬ者はおりませぬ。
されど、何も建てねば、その銭は誰かの宴や、要りもせぬ役目の給金に溶けてしまう。大きな柱を一本立てれば、細かい出費に『造船所があるゆえ』と言えるのでございます。
笑うて申したと書かれておりますか。半分は本気、半分は自分を励ます笑いでございましたろう。
名言⑥「旗号に熨斗を染出すも、猶土蔵付売家の栄誉を残す可し」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分A。名言⑤に続く『海軍歴史』巻二十一の回想。福地源一郎『幕末政治家』は別の文面で載せ、「此事は栗本匏庵翁の自著に見えたり」と添えています |
| 解釈 | 幕府を人に譲る日が来ても、造船所という蔵の付いた家として渡せるなら、それは名誉だ |
| 現代へのヒント | 自分が去ったあとにも使えるものを残す、という仕事の測り方 |
名言⑤の言葉は、このように続きます。造船所が完成すれば、幕府の旗に熨斗(のし)を付けて人に贈ることになっても、「土蔵付きの売家」という栄誉は残せる、という意味です。
回想の書き手は、割注で「上野の此語は一時の諧謔にあらず」と書いています。冗談ではなかった、というのです。小栗は幕府が長く続かないと分かっていて、それでも続くあいだは務めを果たそうとし、親しい者との会話ではいつもこの口ぶりだった、と続きます。
参考:海軍歴史 8(勝安芳 著、1889年)コマ85|国立国会図書館デジタルコレクション
文面は資料ごとに違います。福地『幕末政治家』は「仮令徳川氏が其幕府に熨斗を附けて他人に贈る迄も、土蔵附の売家たるは又快からずや」、塚越芳太郎『読史余録』(1901年)は「猶土蔵付売家の栄誉を残すべし」としています。
参考:幕末政治家(福地桜痴 著、1900年)コマ142|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:読史余録(塚越芳太郎 著、1901年)コマ245|国立国会図書館デジタルコレクション
なお、石原戒造編『幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ』(1934年)には「せめて土蔵附売家と書きたいですからなあ、ハヽヽヽ」という会話の形も見られます。これは村松梢風の小説からの抜き書きで、実際の会話として引かれたものではありません。
参考:幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ(石原戒造 編、1934年)コマ39|国立国会図書館デジタルコレクション
横須賀製鉄所は慶応元年(1865年)にくわ入れ式を行い、建設の途中で明治政府に引き継がれました。誰が造ったと言えるのかは、次の記事で検証しています。

あなたが斬られて3年後、明治4年に1号ドックが完成し、横須賀造船所と名前が変わりました。いまも在日米軍の基地の中で使われています。

明治4年……私の知らぬ年でございます。売家の買い手は、蔵をちゃんと使うてくれましたか。
蔵だけ残って、中が空では、熨斗を付けた甲斐がございませぬからな。
横須賀製鉄所の計画から斬首までを一冊で追える新書も出ています。目次には第五章に「横須賀製鉄所設立の背景」「横須賀製鉄所のドック」の節があり、名言④〜⑥の背景にあたる時期を扱っています。
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この作品のポイント
- 第五章:「横須賀製鉄所設立の背景」「横須賀製鉄所のドック」の節
- 第六章:「主戦か恭順か」「罪なくして斬られる」の節
- 巻末:小栗上野介略年譜
BOOK☆WALKERで電子書籍版を販売しています(2026年11月3日時点。販売状況は変わることがあります)。
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名言⑦「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分B。東善寺は、島田三郎「懐舊談」『同方会報告』第1号(1895年6月)17頁を典拠に挙げています。東善寺には島田三郎の文章が原文として掲載されています。ただし、今回は『同方会報告』の原刊本との照合まではできていません |
| 解釈 | 幕府はいずれ終わるかもしれないが、日本という国の行く末は終わらない |
| 現代へのヒント | いまの組織の寿命と、その仕事が役立つ期間を分けて考える |
東善寺の紹介では、横須賀の造船所を計画していたころの会話です。大金をかけて造っても、完成するころ幕府がどうなっているか分からない、と案じた幕臣に、小栗がこう答えたとされます。東善寺は、相手を鈴木兵庫頭重嶺とする見方(大坪指方による)も紹介しています。
伝えたのは、明治期に政治家として活動した島田三郎です。国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索では、この文言は見つかりませんでした。
名言⑥の「土蔵付売家」と、言っていることはよく似ています。幕府の終わりを前提にしながら、造る理由を幕府の外に置いているところです。

土蔵付き売家と、同じことを別の言い方で言っているように聞こえます。

同じ問いなら、相手を見て答えを変えたでありましょう。算盤の置き方は相手で変わりますゆえ。
とはいえ、島田という者の聞き書きを私は読んでおりませぬ。貴殿らの世の者が、原本で確かめてくだされ。
名言⑧「今日国家多事財政困難の時に当り、腰抜け武士に高禄を給するは無用なり、宜しく此等のものを削らざる可からず」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分B。東善寺は、勢多桃陽『小栗上野介』(少年読本第四十編、博文館、1901年)を典拠に挙げています。原文は確認できていません |
| 解釈 | 国が多事で財政が苦しいいま、働かない武士に高い禄を与えるのは無駄だ。削らなければならない |
| 現代へのヒント | 慣例で続いている支出を、いまの役割に照らして見直す |
東善寺によれば、勢多桃陽の本は、小栗が「しばしば人に語って曰く」としてこの言葉を紹介しています。特定の場面ではなく、繰り返し口にしていた言葉として書かれているわけです。
参考:小栗上野介の言葉 4「腰抜け武士に高禄は無用」|東善寺
小栗が亡くなって33年後に出た本です。著者がどこからこの言葉を得たのかは、東善寺の紹介からは分かりません。
福地も『幕末政治家』で、小栗が無駄な出費を省き、余計な役人を減らしたために「俗士輩の怨府」、つまり恨みの的になったと書いています。言葉の文面は確認できなくても、小栗がこうした方針を取ったことは区分Aの資料からも分かります。

腰抜け武士、とはずいぶん強い言葉です。しかも明治の少年向けの読本に載っています。これで恨まれなかったはずがありません。

禄は働きへの払いにて候。働かぬ者に払い続ければ、働く者の払いが削られます。
恨まれたかどうかは、私が斬られた後の顛末を見れば、貴殿のほうがよくご存じでございましょう。
もっとも、少年の読む本に載るほど行儀の悪い物言いだったとすれば、いささか面目ない話にて候。
名言⑨「仮令旧例古格なりと雖も、無用の役員無用の役局は廃せざるべからず」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分B。名言⑧と同じく、東善寺が勢多桃陽『小栗上野介』(1901年)を典拠に紹介。原文は確認できていません |
| 解釈 | たとえ昔からのしきたりであっても、要らない役人や要らない役所はなくさなければならない |
| 現代へのヒント | 「前からそうだから」を、残す理由にしない |
名言⑧と一緒に紹介されている言葉です。旧例古格とは、昔からの例やしきたりのことです。
参考:小栗上野介の言葉 4「腰抜け武士に高禄は無用」|東善寺
群馬県教育会の『群馬県史』第2巻(1927年)にも、ほぼ同じ言い回しが出てきます。
雑誌『上毛及上毛人』に載った早川珪村の文章を引く形で、小栗が「旧例古格を打破し、無用の役員、無用の役局を廃止する事」を改革の第一着手にした、と書いています。発言の引用ではなく、方針の説明です。
参考:群馬県史 第2巻(群馬県教育会 編、1927年)コマ478|国立国会図書館デジタルコレクション

役所を減らすと言えば、その役所にいる人は皆、敵に回りますね。

左様。役所を一つ減らせば、敵が一つ増えるのではなく、そこに勤める者の数だけ増えます。
それでも、要らぬ役所の書付を回すために、要る役所の手が止まる。それを見過ごすのは怠慢でございます。
いまの役所は、増えておりますか、減っておりますか。

なくなった役所もあれば、新しくできた役所もあります。差し引きでは、なかなか減りません。

差し引きで減らぬ、とは耳の痛い帳尻にて候。
新しく建てる者はおっても、古いものを畳む者がおらぬ。150年経っても、そこは変わらぬ次第。
名言⑩「幕府の運命に付ての覚悟だけは聢りきめて置くことが必要であらう」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 区分B。東善寺によれば、昭和5年(1930年)3月7日に渋沢栄一が語った内容を、白石喜太郎が記録したもの。原文は確認できていません |
| 解釈 | 幕府の行く末についての覚悟だけは、しっかり決めておく必要があるだろう |
| 現代へのヒント | 先が読めないときほど、最悪の場合の腹づもりだけは先に決めておく |
東善寺の紹介によれば、慶応3年(1867年)の場面です。渋沢栄一は、パリ万国博覧会に向かう徳川昭武に随行することになり、出発前に横浜で勘定奉行の小栗にあいさつしました。そのときに小栗から言われた言葉として、渋沢が晩年に語ったといいます。
渋沢が語ったのは、63年後の1930年です。東善寺は記録の英訳名を挙げていますが、日本語の書名と頁は書かれていないため、原文までたどれませんでした。
これから海外へ出る若者に、幕府が続く前提で動くな、と言い含めたようにも読めます。

パリへ発つ渋沢に、幕府の行く末を覚悟しておけ、と言ったとされています。渋沢がそれを語ったのは63年後です。

渋沢という者が、63年も経ってから私の名を出してくれたとは、律儀な男にございますな。
異国にいるあいだに国元がひっくり返っても、慌てぬように。もし私がそう申したのなら、そういう心づもりであったと答えとうございます。
送り出す者に『大丈夫だ』と言うのは、勘定奉行の仕事ではございませぬゆえ。
「どうか成らう」と「どうにかなろう」、原文と広まった形を並べる
名言①は、明治の原文では「どうか成らう」でした。東善寺などが使う「どうにかなろう」は、それを現代の言い方に直した形です。資料ごとの文面を並べました。
| 資料 | 文面 |
|---|---|
| 福地源一郎『幕府衰亡論』(本記事が見たのは1892年刊の版) | 一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうか成らうと云ふ一言是なり |
| 田中萃一郎『東邦近世史』(1902年) | 一言以て国を亡ぼす可きものありや『どうか成らう』と云ふ一言是なり |
| 牧野謙次郎『維新伝疑史話』(1938年) | 後日の事は其の時に臨んでどうか成ることならん……此の其の時に臨んでどうかなるの一語は、豈に真に所謂一言以て国を喪すべき者ならずや |
| 東善寺のホームページ | 一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうにかなろうと云う一言、これなり |
| 2016年1月22日の施政方針演説(衆議院の会議録) | 一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうかなろうと云う一言、これなり |
| 同じ演説(参議院の会議録) | 一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうか成らうと云ふ一言是なり |
参考:東邦近世史(田中萃一郎 著、1902年)コマ362|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:維新伝疑史話(牧野謙次郎 著、1938年)コマ159|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:小栗上野介の言葉・「どうにかなろう」は国を滅ぼす|東善寺
参考:第190回国会 衆議院 本会議 第6号(2016年1月22日)|国会会議録検索システム
参考:第190回国会 参議院 本会議 第5号(2016年1月22日)|国会会議録検索システム
同じ日の同じ演説が、衆議院と参議院の会議録で違う表記になっています。衆議院は現代の仮名づかいに、参議院は福地の原文どおりに記録しました。引用の直後に首相は「どうにかなるではいけません」と続けていて、「どうにかなろう」の形はこの言い換えとも重なります。
牧野謙次郎は、場面も違う形で紹介しています。フランスから兵を借りる案が退けられたあと、閣老たちの言葉を聞いた小栗が嘆いた言葉だ、というのです。福地は「曾て幕閣を評して」と書くだけで、場面を特定していません。

『どうか成らう』が『どうにかなろう』に変わっていました。意味は同じでも、少し軽く聞こえます。

『どうか』でも『どうにか』でも、そのあと誰も動かぬのであれば、帳尻は同じでございます。
私が嫌うたのは、言い方より、その先送りでありましょう。
小栗を語った人々の言葉、出典をたどれるもの・たどれないもの
小栗については、本人の言葉のほかに、ほかの人が小栗を評した言葉もよく出回っています。原文まで確認できたのは、勝海舟と福地源一郎の評です。
| 語った人 | 言葉(要旨) | 出典の確かさ |
|---|---|---|
| 勝海舟 | 「精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にも略ぼ通じて、而かも誠忠無二の徳川武士」「度量の狭かつたのは、あの人のためには惜しかつた」 | 『海舟全集』第10巻(改造社、1929年)に談話として収録。原文を確認 |
| 福地源一郎 | 「其人となり精悍敏捷にして多智多弁」。役人をあざけったため「満廷の人に忌まれ」た | 『幕末政治家』(1900年)。原文を確認 |
| 大村益次郎 | 小栗の献策を用いて実際にやっていたら「我々は幾んど生命がなかつたであらう」 | 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(1928年)が、伝記『土方伯』398〜402頁を典拠に挙げて紹介。『土方伯』の該当頁は未確認 |
| 東郷平八郎 | 日本海海戦に勝てたのは、小栗が横須賀に造船所を造っておいたおかげだ | 東善寺に伝わる話。東郷が1912年に小栗の孫に贈ったとされる書「仁義禮智信」は東善寺に残るが、発言の典拠は示されていない |
| 大隈重信 | 明治の近代化は小栗の構想をなぞったものだ、という趣旨 | 出典として挙げられることのある『大隈侯一言一行』(1922年)の全文検索では、該当する語句が見つからなかった。OCRの読み取り漏れの可能性は残る |
参考:海舟全集 第10巻(勝安芳 著、1929年)コマ289|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:維新前後の政争と小栗上野の死(蜷川新 著、1928年)コマ147|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:東郷平八郎と小栗家|東善寺
勝の評は褒め言葉だけではありません。「三河武士の長所と短所とを両方具へて居つた」と言い、度量の狭さを惜しんでいます。勝と小栗は幕府の終わり方をめぐって立場が違いました。その勝が、小栗を幕末の一人物と認めているところに重みがあります。
大村益次郎の言葉は、小栗が生きていたら新政府軍は負けていた、という語り方のよりどころとしてよく使われます。どこまで出どころをたどれたかは、IF記事で詳しく書きました。

勝さんは褒めたあとに、度量が狭かったのが惜しい、と刺しています。心当たりはありますか。

褒めてから一本刺す。あの男らしい物言いでございます。
度量が狭いとは、勘定が細かいということでもございます。細かい勘定をする者がおらねば、度量の広い方々の気前のよさは、どこからも払われませぬ。
まあ、それを口に出すあたりが、狭いと言われる所以でありましょうが。
小栗忠順の名言から見えてくる生き方・価値観
10件を見渡すと、言葉の多くが横須賀とお金の話に集まっています。人生訓のような言葉は、ほとんどありません。勘定奉行として、何に払い、何を削るかを考えていた人の言葉です。
- 先送りへの警戒:「どうか成らう」を国を滅ぼす一言とし、幕閣の決められなさを嫌った
- 終わりを前提にした仕事:幕府が長く続かないと見ながら、「真の武士」や「土蔵付売家」の言葉で務めを続ける理由を語った
- 費用と維持まで数える目:軍艦は壊れるもの、造船所は冗費を削る口実になる、と出費の先まで見ていた
- 慣例への遠慮のなさ:腰抜け武士への高禄、無用の役局を、しきたりでも削るべきだとした(区分B)
これは、残された言葉から浮かび上がる人物像です。小栗が内心でどう考えていたかを、これだけで決めることはできません。書き残した福地も栗本も、小栗に近く、小栗を高く評価していた人たちです。
幕府の終わりを見越しながら手を止めないという筋だけは、福地の記録にも、栗本の回想にも、東善寺が紹介する島田三郎の聞き書きにも共通して出てきます。後世が小栗をどう受け取ってきたかは、この繰り返しに表れていると言えるでしょう。

10件のうち、横須賀とお金の話が6件ありました。思っていたより、ずっと実務の言葉です。

6割が勘定の話。私の口から出た言葉としては、まことに正直な割合でございます。
人に教えを垂れるより、帳面を見ていたい性分でございます。
名言として残すつもりで申したものは、一つもございませぬ。それが10も残ったとあれば、聞いておった者の耳がよかったのでございましょう。
よくある質問(FAQ)
小栗忠順の一番有名な名言は何ですか?
もっとも広く知られているものの一つが、「一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうか成らうと云ふ一言是なり」です。部下だった福地源一郎が『幕府衰亡論』に書き、本人から直接聞いたと添えています。2016年の施政方針演説でも引用されました。
「土蔵付き売家」とはどういう意味ですか?
横須賀製鉄所を造っておけば、いずれ幕府を人に譲ることになっても、蔵の付いた家として渡せる、という意味です。勝海舟『海軍歴史』に収められた回想と、福地源一郎『幕末政治家』に文面が残ります。回想の書き手は、冗談ではなかったと注記しています。
「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない」は本当に小栗の言葉ですか?
東善寺は、島田三郎「懐舊談」『同方会報告』第1号(1895年)を典拠に挙げ、島田の文章を原文として掲載しています。ただし、今回は『同方会報告』の原刊本との照合まではできていません。文面は伝えた人の聞き書きです。
小栗忠順に辞世の句はありますか?
今回調べた範囲では、小栗の辞世として伝わる歌や句は見つかりませんでした。東善寺が紹介する小栗の言葉の一覧にも、辞世は挙げられていません。最期の経緯は、処刑の理由を扱った記事で史料からたどっています。
小栗忠順の名言の出典は、どこで確かめられますか?
区分Aの6件は、国立国会図書館デジタルコレクションに、福地源一郎『幕府衰亡論』『幕末政治家』や勝海舟『海軍歴史』の該当ページがあります。区分Bの4件は、東善寺のホームページが典拠の書名を示しています。
インタビュー後記 小栗の言葉は職場で生まれた
小栗の名言を10件たどって、私は名言集というより、職場の聞き書き集だと感じました。
福地は部下として、栗本は横須賀の相談相手として小栗の言葉を聞き、渋沢は出発前のあいさつで聞いたと語っています。どれも机を挟んだ仕事の場面です。
人生を語った言葉ではなく、予算や人員や船の修理をめぐって出た言葉が、部下や関係者の回想、後世の著作などを通じて残りました。
今回の10件に自分で書いた言葉がないぶん、小栗の言葉は相手の顔と一緒に残っています。誰の本に載っているかを一件ずつ確かめると、その言葉を聞いた人との関係まで見えてくるのです。
小栗の名を冠した記録には『小栗日記』があり、東善寺が権田村での日々の部分を現代語にして公開しています。普請や来客を書き留めた記録で、名言らしい言葉は見当たりません。そのそっけなさも含めて、この人らしいと私は思っています。
小栗の言葉を書き残した栗本鋤雲が、どんな人だったかはこちらの記事にまとめています。
小栗と立場が違った勝海舟の名言も、同じように出どころをたどっています。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション『幕府衰亡論』(福地桜痴 著、垣田純朗、1892年)コマ190※名言①の原文。福地が本人から直接聞いたと記す箇所、岩瀬忠震の「可成丈」の言葉。※同書には出版者・刊年の異なる版が複数あり、本記事が見たのはこの版です
- 国立国会図書館デジタルコレクション『幕末政治家』(福地桜痴 著、民友社、1900年)コマ142※名言②③の原文、名言⑥の別の文面と「栗本匏庵翁の自著に見えたり」の割注、福地の小栗評、冗費・冗員を省いて恨まれたこと
- 国立国会図書館デジタルコレクション『海軍歴史』8(勝安芳 著、海軍省、1889年)コマ85※名言④⑤⑥の原文と割注、元治元年の製鉄所計画の経緯、1年60万ドル・4年で240万ドルの見積もり
- 国立国会図書館デジタルコレクション『読史余録』(塚越芳太郎 著、民友社、1901年)コマ245※名言⑥の別の文面
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東邦近世史』(田中萃一郎 著、1902年)コマ362※名言①の明治期の引用例
- 国立国会図書館デジタルコレクション『維新伝疑史話』(牧野謙次郎 著、牧野巽、1938年)コマ159※名言①を別の場面で紹介する例
- 国立国会図書館デジタルコレクション『群馬県史』第2巻(群馬県教育会 編、1927年)コマ478※名言⑨と同趣旨の方針の記述(早川珪村の文章を引く形)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『日本外交史』上巻(清沢洌 著、東洋経済新報社、1942年)コマ191※名言③を福地の記述として引く例
- 国立国会図書館デジタルコレクション『幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ』(石原戒造 編、マネジメント社、1934年)コマ39※「土蔵附売家」の会話体。村松梢風の小説からの抄録で、実際の会話の記録ではありません
- 国立国会図書館デジタルコレクション『大隈侯一言一行』(市島謙吉 著述、高須梅渓 執筆、早稲田大学出版部、1922年)※大隈重信の小栗評の出典として挙げられることがある書物。※全文検索では流布する文言に当たる語句は見つかりませんでした
- コトバンク「万延元年遣米使節」※使節の構成と目付「小栗豊後守忠順」
- 東善寺「小栗忠順の通貨交渉」※フィラデルフィア造幣局での小判とドル金貨の分析
- 東善寺「小栗上野介・権田村での最後の64日間」※『小栗日記』の権田村での部分の現代語訳
- 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集』第10巻(勝安芳 著、改造社、1929年)コマ289※勝海舟の小栗評
- 国立国会図書館デジタルコレクション『維新前後の政争と小栗上野の死』(蜷川新 著、日本書院、1928年)コマ147※大村益次郎の言葉とされる述懐と、その典拠に挙げられた『土方伯』398〜402頁
- 国会会議録検索システム「第190回国会 衆議院 本会議 第6号」(2016年1月22日)※安倍晋三首相の施政方針演説での引用(衆議院の会議録の表記)
- 国会会議録検索システム「第190回国会 参議院 本会議 第5号」(2016年1月22日)※同じ演説の参議院の会議録の表記
- 東善寺「小栗上野介の言葉 幕府の運命、日本の運命」※名言⑦の典拠(島田三郎「懐舊談」)と名言⑩の典拠(渋沢栄一の談話を白石喜太郎が記録)
- 東善寺「小栗上野介の言葉 4『腰抜け武士に高禄は無用』」※名言⑧⑨の典拠(勢多桃陽『小栗上野介』)
- 東善寺「小栗上野介のことば 1 真の武士」※名言②を「真の武士」の題で紹介
- 東善寺「小栗上野介の言葉・『どうにかなろう』は国を滅ぼす」※名言①の現代表記での紹介
- 東善寺「小栗上野介の言葉『土蔵付き売家の栄誉』」※名言④⑥の紹介と『匏庵遺稿』への言及
- 東善寺「小栗上野介忠順」※東善寺が紹介する小栗の言葉の一覧
- 東善寺「東郷平八郎と小栗家」※東郷平八郎の謝辞として伝わる話と、贈られたとされる書
- 国立国会図書館「小栗忠順|近代日本人の肖像」※生没年と役職
- 高崎市「本市ゆかりの幕臣・小栗上野介」※最期の日付と場所
- 横須賀市「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」※くわ入れ式と、1号ドックが米海軍基地内で稼働していること







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