2026年11月6日、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の第9弾キャストが発表されました。渡辺いっけいさんが演じる大久保忠寛の役紹介に、「もののふ」(武士を指す古い言葉)を口癖とする堅物の旗本、とあります。
脚本の味付けかと思いました。ところが、勝海舟が編んだこの人の歌集『桜園集』を開くと、巻末の小伝に同じ言葉が出てきます。同僚が付けた異名が「ものゝふ」だったのです。
この記事の結論
大久保一翁は、大政奉還の5年前に政権返上を説き、勝海舟とともに江戸城の明け渡しに当たった幕臣です。忠寛は本名で、一翁は隠居後の名です。
老中阿部正弘に登用され、目付・外国奉行・大目付などを務めました。維新後は静岡で旧幕臣をまとめ、第5代東京府知事、元老院議官になっています。
ただし、政権返上の論はその場で実行されたわけではありません。本人は幕府の役を3度免じられ、大政奉還の表舞台にもいませんでした。
- 5年
大政奉還より早く政権返上を説く - 3回
幕府の役を免じられた - 満70歳
没年齢(数え72歳)
この記事では、異名の出どころ、3度の免職、坂本龍馬と小栗忠順との接点、維新後の仕事までを、原文に当たりながら見ていきます。
話し相手は、大久保一翁AI(大久保一翁をモデルにしたAI)です。何を聞いても、物事の畳み方から話す人にしました。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに大久保一翁の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

はじめまして。大河の発表で、口癖は『もののふ』と紹介されていました。本当にそんなに言っていたのですか。

同役の者らに、そう呼ばれておったことは確かでござる。
いま問われれば、奥勤めの気風が緩むのを黙って見ておれなんだ、と答えたい。
さて、その話、どう畳みますかな。

読み終えた人が、あなたの名前を覚えて帰る形で畳むつもりです。

それは難題でござる。
世間で大久保と申せば、まず薩摩のほうでござるゆえ。
まずは大久保一翁の基本プロフィールと何をした人なのかを2分で知ろう
大久保一翁は、500石の旗本の家に生まれ、将軍の側勤めから幕府の中枢へ進んだ人物です。
大久保一翁の履歴を、3問で予想してみませんか
答えの根拠は、この記事の章に書いてあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 大久保一翁(おおくぼ いちおう)。名は忠寛(ただひろ)、はじめ忠正 |
| 通称・官途名 | 金之助、三市郎。志摩守、右近将監、伊勢守、越中守 |
| 生没年 | 文化14年11月29日(1818年1月5日)〜明治21年(1888年)7月31日 |
| 没年齢 | 満70歳(数え72歳) |
| 出身 | 江戸・二番町の屋敷 |
| 家格 | 500石の旗本 |
| 幕府での主な役 | 目付、蕃書調所頭取、外国奉行、大目付、会計総裁、若年寄 |
| 維新後の主な役 | 静岡藩権大参事、東京府知事、元老院議官。子爵 |
参考:大久保一翁|近代日本人の肖像(国立国会図書館)
参考:大久保忠寛|コトバンク
名前が2つあるので、資料を探すときは両方で引くのが近道です。『逆賊の幕臣』の役名は大久保忠寛で、事典もこの名を見出しにするものがあります。「一翁」を名のるのは慶応元年に隠居してからです。
生年は1817年と書く事典もあります。文化14年の大半が西暦1817年にあたるための表記で、11月29日は当時の暦(旧暦)の日付のため、いまの暦に直すと1818年1月5日になります。
同じ時代の大久保利通とは別人です。
利通は薩摩藩士で、一翁は徳川家の旗本でした。資料を探すと名字だけで混ざるので、下の名で区別するのが確実です。

忠寛と一翁、どちらでお呼びすればよいですか。

隠居の名で結構でござる。
役を退いたあとの名のほうが、私には座りがよい。
大久保一翁はどんな人だった?同僚の異名は「ものゝふ」
大久保一翁は、同僚に「ものゝふ」と呼ばれるほど議論を重ねた、硬い性格の人として記録されています。「ものゝふ」は「もののふ」と読み、武士を指す古い言葉です。
出どころは『桜園集』の小伝で、ともに奥勤めをした神保霞栖という老人の話として載ります。
資料に残る見られ方を並べてみましょう。
| 語り手 | 伝わる評 | 資料 |
|---|---|---|
| 奥勤めの同僚 | 「ものゝふ」という言葉をたびたび口にするので、同じ異名を付けた | 『桜園集』小伝 |
| 小伝の筆者 | 「性硬直ニシテ動カズ」 | 『桜園集』小伝 |
| 山内容堂 | 「当世第一等の人物」 | 『続再夢紀事』 |
| 勝海舟 | 山岡鉄舟とともに「熱性で、切迫の方」 | 『氷川清話』 |
| 戸川残花 | 一癖ある者と評判をとった人 | 『海舟先生』 |
参考:桜園集(大久保一翁君小伝)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:続再夢紀事 第一|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:氷川清話|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:海舟先生|国立国会図書館デジタルコレクション
同じ硬さは、暮らしぶりにも表れます。小伝によると、幼いころ親戚から立派な着物を選ぶよう勧められても受け取らず、父を喜ばせました。生涯、外出でも美服を着なかったとあります。
刀剣と馬、書籍や筆硯、煙草と煎茶を好み、酒と三味線は好みませんでした。
文久2年に側用取次へ昇ったときは、前例の千石への加増を固く辞退しています。小伝は、以後この役に就く者の加増辞退が例になったと記します。
長崎奉行に任じられたときは赴任しませんでした。1年の在勤で何の公益を果たせるのか、任じるなら5年在勤させてほしいと内願した、と家族が伝えています。

禄が倍になる話を断るのは、もったいなくありませんか。

増えた禄は、いずれ返すときに面倒でござる。
役も禄も預かり物。身軽なほうがよろしい。
お手前なら、受け取りますかな。

正直に言うと、受け取ります。

正直でよろしい。
同役の者らも、腹の内はそうでござったろう。
一翁を本で詳しく読むなら、講談社+α新書の一冊があります。作品紹介の項目には「あだ名は『もののふ』」も挙がっています。
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大久保一翁の三大功績
大久保一翁の仕事は幅広いですが、後の歴史へのつながりが大きいのは次の3つです。
- 勝海舟を幕府に推薦した
- 大政奉還の5年前に政権返上を説いた
- 江戸城の明け渡しと江戸の取り締まりに当たった
どれも、一翁が表に立つより、誰かを支える形で残っている仕事です。順に見ていきましょう。
① 勝海舟を幕府に推薦した(1850年代)
大久保一翁は、まだ身分の低かった勝海舟を見いだし、上役に推薦した人物と伝わります。戸川残花『海舟先生』は、勝が「極めて微禄」のころ、一翁がその人となりを知って長官へ登用を推薦したと書きます。
同書は、一翁のほうが禄も地位も高く、勝に礼服を貸したこともある間柄だったと続けます。
一方で事典には、一翁を勝の門下とするものや、勝に師事したとするものもあります。勝を推したことと、勝に学んだことは両立します。
参考:大久保忠寛|コトバンク
記録で確かめられる接点もあります。小伝の履歴には、安政2年1月19日に「勝麟太郎ヲ同行ニ命セラル」とあります。大坂と伊勢の海岸を見分(現地調査)する旅に、勝を伴うよう命じられたのです。
参考:桜園集(大久保一翁君小伝)|国立国会図書館デジタルコレクション
勝海舟の側から見た幕末は、こちらの記事で紹介しています。

勝海舟に礼服を貸したそうですね。返ってきましたか。

それは聞いてくださるな。
勝との話は、始めるより終いのほうが骨が折れるのでござる。
② 大政奉還の5年前に政権返上を説いた(1862年)
文久2年10月20日、一翁は「断然政権を朝廷に奉還」する策を語っています。大政奉還の慶応3年10月から、ほぼ5年前です。場所は福井藩主だった松平春嶽の屋敷で、横井小楠が同席しました。
越前松平家側の記録『続再夢紀事』に、そのときの話が残っています。
其節ハ断然政権を朝廷に奉還せられ徳川家ハ神祖の旧領駿遠参の三州を請ひ受けて一諸侯の列に降らるへし
現代語訳そのときは思い切って政権を朝廷に返し、徳川家は家康公ゆかりの駿河・遠江・三河の3国をもらい受けて、一大名の列に下るべきです。
出典:続再夢紀事 第一(文久2年10月20日の条)
この発言には、前置きの条件があります。一翁はまず、攘夷(外国を打ち払うこと)は国のためにならないと朝廷へ言い立てるよう説きました。それでも攘夷の断行を命じられた場合の、最後の手が政権返上でした。
政権を返したあと天下がどうなるかは「予しめ測り知られねと」と認めています。それでも徳川家の美名は千年に伝わる、と続きます。同席した横井小楠は深く感服した、と同書は記します。
この論は、当時の幕府で実行されませんでした。一翁が説いたのは攘夷をめぐる局面の策で、5年後の大政奉還とは事情が違います。
それでも、同じ「政権を朝廷に返す」という選択肢を、将軍の側近の役にある者が口にしていた記録です。大政奉還そのものの流れは、こちらの記事で扱っています。

将軍のそばに仕える人が、政権を返せと言ったわけですね。怖くなかったのですか。

怖いのは、返すと決めぬまま潰れることでござる。
預かり物は、きれいなうちに返すのがよい。
あのとき返せば、返し方を選べたと、いま問われれば答えたい。
③ 江戸城の明け渡しと江戸の取り締まりに当たった(1868年)
慶応4年、一翁は会計総裁・若年寄として、勝海舟とともに江戸の無血開城に努めました。世界大百科事典は、陸軍総裁の勝と並べて「江戸の無血開城の実現に努力した」と書いています。
小伝の履歴から、この年の動きを抜き出します。
| 日付(慶応4年) | できごと |
|---|---|
| 1月23日 | 会計総裁を命じられる。即日、解職を願い出たと伝わる |
| 2月8日 | 若年寄を命じられる |
| 4月9日 | 勝海舟とともに池上本門寺の先鋒総督府へ出頭し、参謀に面接 |
| 4月15日 | 軍艦の引き渡しの一件が、一翁と勝に委ねられる |
| 閏4月2日 | 大総督府から「江府鎮撫万端取締」を委任される |
参考:桜園集(大久保一翁君小伝)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:桜園集(同・閏4月2日の沙汰)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:大久保忠寛|コトバンク
城を明け渡したあと、江戸の治安を任された点が要です。閏4月2日の沙汰は、「江府」つまり江戸の鎮撫と取り締まり全般を一翁に委ねています。新政府の側が、旧幕府の人間に江戸の維持を頼んだ形です。
一翁の働きが勝ほど語られないことには、記録の事情もありそうです。小伝は、この前後の奔走は記録に乏しく、維新の際に旧記の多くが破り棄てられたらしいと書いています。

会計総裁を命じられて、その日に辞めたいと言ったのですか。

金蔵の中を知る者なら、誰でもそう申しましょう。
幕府という大店の、閉める帳場でござる。
お手前、閉店の帳簿をお引き受けになったことは。

ありません。

それは幸せなお方でござる。
閉めるほうは、誰も褒めてくれませぬ。
大久保一翁はなぜ3度も職を解かれたのか
3度の免職は、井伊直弼との対立、安政の大獄の後始末、勘定奉行の就任5日後の解任です。理由が資料に書かれているのは前の2回で、3回目は小伝にも理由がありません。
| 時期 | 就いていた役 | 何があったか |
|---|---|---|
| 安政6年8月28日 | 西丸留守居 | 2か月前に京都町奉行から移され、職を免じられる。事典は安政の大獄による罷免、井伊直弼との対立と記す |
| 文久2年11月23日 | 講武所奉行 | 京都町奉行のときの取り計らいを咎められ、御役御免と差控(謹慎)の処分 |
| 元治元年7月26日 | 勘定奉行 | 7月21日に就任し、5日後に免職 |
参考:大久保忠寛|コトバンク
参考:桜園集(大久保一翁君小伝)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:続再夢紀事 第一(文久2年11月の処分)|国立国会図書館デジタルコレクション
2回目は皮肉な処分でした。処分の文面は「事実不分明之儀取計」でした。小伝は、これを鵜飼幸吉らを捕縛した件によると聞く、と書きます。安政の大獄で捕らえられた人物です。
井伊の時代には遠ざけられ、井伊が亡くなり追咎(死後の処分)が進むと、大獄の捕縛に関わった側として咎められました。同じ時に処分された者は20人余りいたとあります。
1度目の相手、井伊直弼の政治については、こちらで紹介しています。

勘定奉行が5日で終わるのは、さすがに短くないですか。

また罷免の話でござるか。
5日もあれば、十分に嫌われる男でござる。
坂本龍馬との関係は?逃げるよう伝えた記録が残る
大久保一翁は、捕り方の手配が進むなか、坂本龍馬に立ち退くよう伝えたと記録されています。同行した長府藩士、三吉慎蔵の日記です。寺田屋で襲われる5日前の慶応2年1月18日、大坂の夜でした。
坂本等事は探索厳密にて、目下長州人同行にて、入京の旨相知れ、其沙汰あり、手配致したるに付、早々立退き候方然るべしとのことに因り
現代語訳坂本らへの探索は厳しく、いま長州人と同行して京へ入ることが知れて命令が出た。手配したので、早く立ち退いたほうがよいとのことであった。
出典:維新土佐勤王史(三吉慎蔵の日記の引用)
日記は一翁を「大阪城代」と書きますが、小伝の履歴に城代への就任はありません。一翁はこのとき隠居の身で、大坂に滞在していました。
二人の接点は、これが初めてではありません。『維新土佐勤王史』は、龍馬が一翁を訪ねて攘夷への意見を質したこと、龍馬が一翁から春嶽へあてた書を携えて江戸から京へ向かったことを記します。
参考:維新土佐勤王史|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:維新土佐勤王史(文久3年4月の条)|国立国会図書館デジタルコレクション
大政奉還の考えについて、世界大百科事典は、龍馬は大久保の影響を受けたといわれている、と伝聞で書きます。そこから先は、確かめられる範囲を超えます。
三吉の日記の5日後に何が起きたかは、薩長同盟の記事で扱っています。

幕府側の人が、追われている龍馬に教えてしまったのですね。

それは、もののふの致すことでござるか、と問われれば困りますな。
隠居の身ゆえ、口が軽うなったのでござろう。
小栗忠順との関係は?同じ暗殺の風聞で名指しされた
大久保一翁と小栗忠順は、文久2年に同じ暗殺の風聞で名を挙げられています。京にいた永井主水正が、大久保越中・岡部駿河・小栗豊後の3人が関東で開国論を唱えているため、勅使の到着後に暗殺するとの風聞がある、と知らせてきました。
参考:続再夢紀事 第一(文久2年10月23日の条)|国立国会図書館デジタルコレクション
3人は、風聞に恐れて進退するのは本意ではないとして勤めを続けました。ただ勅使の到着が迫ると、万一の事があれば政府の汚点になるとして、辞職へ考えを改めたといいます。
一方で、幕府の最終局面では立場が分かれます。ブリタニカ国際大百科事典は、慶応4年の一翁について、小栗忠順ら主戦派とは対立関係にあったと書きます。
- 小栗忠順:慶応4年正月、抗戦を唱えて役職を解かれる
- 大久保一翁:同じ月の23日に会計総裁となり、事態の収拾に当たる
- 大久保一翁:閏4月2日に江戸の取り締まりを委ねられる
- 小栗忠順:閏4月6日、上州で斬首される
開国論で同じ列に並んだ2人が、幕府の閉じ方で別の道を行ったことが分かります。ただ、2人が直接交わした手紙や、相手をどう見ていたかを示す記録は、今回見つけられませんでした。
小栗忠順の生涯は、こちらの記事で紹介しています。

大河では小栗が主人公です。同じ風聞で名前の並んだ相手を、どう見ていましたか。

評が割れておる男でござる。
ただ、私は畳む役に回り、あの男は畳まぬ役に回った。
同じ船で、舵の切り方が違うただけかと存ずる。
維新後の大久保一翁は静岡と東京で何をした?
維新後の一翁は、静岡で藩政を支え、東京府知事として明治の東京を預かりました。慶応4年8月、幼い徳川家達に従って駿河へ移り、明治2年8月に静岡藩権大参事となっています。
- 静岡:藩の中老として藩政を執る。渋沢栄一の商法会所を監督
- 東京:明治5年5月25日、東京府知事に就任
- 東京:同年10月、知事の在任中に養育院が創立
- 中央:明治8年に教部少輔、明治10年に元老院議官
渋沢栄一との接点は、この静岡にあります。幸田露伴『渋沢栄一伝』は、「藩の中老は大久保一翁で、一翁が実際の藩政を執つて居た」と書きます。渋沢が立てた商法会所を監督する側に、一翁がいました。
養育院は、孤児や困窮者を保護した施設です。東京都健康長寿医療センターの源流にあたり、同センター長の許俊鋭氏は、江戸の七分積金を引き継いで渋沢栄一・大久保一翁によって建設された、と説明しています。
参考:東京都健康長寿医療センターの歴史と特色|メディカルノート
明治政府での日々は、本人の筆が面白いです。文部省に出仕したころの書簡の草案が小伝に載っていて、話すに足る仕事が一つもなく、印を押してばかりいると嘆きます。
俸金は褒美か罪か分からない、と続き、いずれ議論になれば「盗之心得」とでも答えようか、とまで書きました。旧幕臣が新政府の給金を受ける居心地の悪さを、冗談にしたように私には読めます。
参考:桜園集(文部省出仕後の書簡の草案)|国立国会図書館デジタルコレクション

幕府が終わったあとに、東京の知事になるのはどんな気分でしたか。

閉めた店の留守番を頼まれたようなものでござる。
印を押すだけの日も、役に立つ日も、給金は同じ。
怖いのは、そのことに慣れることと存ずる。
大久保一翁の死因と最期
大久保一翁は明治21年7月31日に病死しました。小伝は「病死」と書くのみで、病名は挙げていません。同じ日に従二位へ進められています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 明治21年(1888年)7月31日 |
| 年齢 | 満70歳(数え72歳) |
| 死因 | 小伝は「病死」。病名の記載なし |
| 没時の役職 | 元老院議官、子爵 |
| 没後 | 勅使が邸を訪れ、白絹と金が下賜された |
| 葬地 | 当初は「青山塋域」(青山の墓域)。現在の墓所は多磨霊園 |
参考:桜園集(大久保一翁君小伝)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:明治百傑伝|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:多磨霊園 園内マップ|東京都公園協会
勝海舟は『氷川清話』で、山岡鉄舟も一翁も「熱性で、切迫の方だつたから、可哀さうに若死をしたよ」と語っています。満70歳を「若死」と呼ぶところに、長生きした勝の軽口がのぞきます。
その勝が、一翁の死から4年後の1892年に歌集『桜園集』を編んで出しました。幕府の終わりをともに引き受けた相手の歌を、勝が本にして残したことになります。

勝海舟に『若死』と言われていますが、どう思いますか。

あの男は、何事も終いが遅うござる。
長生きもいたしましょう。
大久保一翁の生涯を年表で振り返る
小伝の履歴を土台に、事典で補いました。旧暦の日付を含むため、年の欄は和暦と西暦の年どうしの対応を基本にしています。
免職と再登用が、同じ人物の年表とは思えない頻度で続きます。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 文化14年(1818年1月) | 江戸二番町の屋敷に生まれる | 父は忠向、母は中川氏 |
| 天保元年(1830年) | 12月、将軍家斉の小納戸となる | 小伝は14歳と書く(数え。満13歳) |
| 天保13年(1842年) | 父の死去を受け、家督を継ぐ | 500石 |
| 嘉永2年(1849年) | 名を忠寛に改める | はじめは忠正 |
| 安政元年(1854年) | 徒頭、ついで目付・海防掛 | 老中阿部正弘の人材登用 |
| 安政2年(1855年) | 勝海舟を伴って大坂・伊勢の海岸を見分 | 小伝の履歴に記載 |
| 安政3年(1856年) | 蕃書調所の事務を担う | 洋学の研究教育機関 |
| 安政4年(1857年) | 長崎奉行に任じられるが赴任せず、駿府町奉行へ | 1年在勤に疑問を呈したと伝わる |
| 安政5年(1858年) | 禁裏付となる | 京都の朝廷を監察する役 |
| 安政6年(1859年) | 京都町奉行、西丸留守居を経て免職 | 1度目 |
| 文久元年(1861年) | 蕃書調所に復帰し、外国奉行 | 桜田門外の変の翌年 |
| 文久2年(1862年) | 大目付、側用取次。政権返上を説く | 本禄を500石から千石へ増やす話を辞退 |
| 文久2年(1862年) | 講武所奉行に移され、免職 | 2度目。処分は11月 |
| 元治元年(1864年) | 勘定奉行に就き、5日で免職 | 3度目 |
| 慶応元年(1865年) | 隠居し、一翁と改める | 家督は子の三市郎(父と同じ通称。のちの三郎)へ |
| 慶応2年(1866年) | 大坂で坂本龍馬に立ち退きを伝える | 三吉慎蔵の日記 |
| 慶応4年(1868年) | 会計総裁、若年寄。江戸の取り締まりを委任 | 8月に駿河へ |
| 明治2年(1869年) | 静岡藩権大参事 | 藩政の輔翼 |
| 明治5年(1872年) | 東京府知事 | 第5代 |
| 明治8年(1875年) | 教部少輔 | 12月 |
| 明治10年(1877年) | 元老院議官 | 没するまで在任 |
| 明治20年(1887年) | 子爵となる | 勲功による |
| 明治21年(1888年) | 7月31日、病死 | 満70歳(数え72歳) |
40代の5年余りに、昇進と免職がほぼ交互に並んでいます。それでも3度とも呼び戻されました。困るたびに実務を任せられる人が要った、と私は読んでいます。
幕府が倒れたあとの20年は、静岡、東京、元老院と役が続きます。入口が江戸の明け渡しだったところに、この人らしさがあります。
2027年大河『逆賊の幕臣』で大久保一翁を演じるのは渡辺いっけいさん
2026年11月6日、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の大久保忠寛役に、渡辺いっけいさんが発表されました。役紹介は「堅物の旗本」から始まります。
役紹介の言葉を、史料と並べてみます。
| 役紹介の言葉 | 史料で確かめられること |
|---|---|
| 「もののふ」を口癖とする | 『桜園集』小伝の同僚の話と一致 |
| 勝の海防意見書に目を留めた | 『海舟先生』は勝の登用の推薦を伝える。意見書がきっかけかどうかは今回確認できず |
| 左遷と登用を繰り返す | 免職3回。いずれも復帰している |
| 誰よりも早く「大政奉還」を唱えた | 文久2年10月の政権返上論は『続再夢紀事』で確認できる。最初の提唱者かどうかは、この記録だけでは決められない |
参考:NHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」で山時聡真が福沢諭吉、武井壮が中浜万次郎に!古田新太も参加|映画ナタリー
「もののふ」が史料に根を持つ言葉だと分かっただけでも、放送の見方が少し変わります。ドラマがこの異名をどう使うのか、奥勤めの若いころから描くのかは、放送を待つところです。
渡辺いっけいさんは『龍馬伝』の千葉重太郎、『青天を衝け』の藤田東湖など、大河ドラマへの出演を重ねてきました。
参考:NHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」で山時聡真が福沢諭吉、武井壮が中浜万次郎に!古田新太も参加|映画ナタリー
第9弾までの配役全体は、相関図の記事で整理しています。

テレビというもので、あなたの口癖が全国に流れることになります。

それは存じませぬが、口癖を広められるのは困ったものでござる。
同役の者らが聞けば、さぞ喜びましょう。
大久保一翁のすごさと影響力
一翁のすごさは、派手な手柄より、人と役目の後始末を引き受け続けた点にあります。
敵味方の双方から仕事を頼まれた点は、もっと知られてよいでしょう。山内容堂は文久2年、大開国論を説く一翁に「当世第一等の人物」と感服しました。
慶応4年閏4月2日には、新政府の大総督府が江戸の鎮撫と取り締まりを一翁に委ねました。旧幕府の人間に、城を明け渡したあとの江戸を任せたことになります。
一方で、容堂の評は越前松平家側の記録に残る言葉で、勝の評も後年の談話です。「すごさ」の多くは、周りの人の証言で組み立てられています。

勝海舟より有名になりたいとは思いませんでしたか。

名は、禄より返しにくうござる。
持たぬほうが楽かと存ずる。
大久保一翁の歩みから考える現代へのヒント
ここからは筆者の解釈です。史料に残る行動を、いまの仕事に置き換えてみました。
| 一翁の歩み | 現代へのヒント(筆者の解釈) |
|---|---|
| 攘夷を押し切られた場合の最後の手を、先に言葉にした | 最悪の場合の手を、平時に決めておく |
| 長崎奉行に「1年では足りない」と内願した | 役目を受ける前に、成果が出る条件を確かめる |
| 本禄を千石へ増やす話を辞退し、前例を変えた | 受け取らないことも、組織の慣習を動かす |
| 3度の免職のあとも役に戻った | 意見で外されても、実務の信用は残る |
| 勝を推薦し、自分は裏方に回った | 人を推す仕事は、名前が残らなくても効く |
事業でも組織でも、始め方を語る人は多いものです。終わらせ方を先に言える人は、昔も今も少ないように私には思えます。
幕府のような大きな組織の閉じ方を、5年前に口にしていた人がいました。

いまの読者に、一つだけ言うなら何ですか。

始める前に、畳み方を一行書いておかれよ。
書いたものは、使わずに済めばそれがいちばんでござる。
よくある質問(FAQ)
大久保一翁の読み方は?
「おおくぼ いちおう」と読みます。本名の忠寛は「ただひろ」です。一翁は慶応元年に隠居してからの名で、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の役名は大久保忠寛です。
大久保一翁と大久保利通は親戚ですか?
別の家の人物です。一翁は三河以来の徳川家臣の流れをくむ旗本で、利通は薩摩藩士でした。親戚関係を示す記述は、今回見た資料にはありません。
大久保一翁と大久保忠世の関係は?
同じ大久保一族です。『桜園集』に載る系図に、小田原の祖とされる忠世と、一翁の父の忠向が同じ一族として並びます。
大久保一翁の子孫や息子は?
小伝によると、長男から三男までは早く亡くなり、四男の三郎が旧来の家督を継ぎました。子爵家は五男の業が継ぎ、業の死後は弟の立が相続しています。現在の子孫については、今回の資料では分かりませんでした。
大久保一翁と勝海舟の関係は?
一翁が勝の登用を推薦したと『海舟先生』は伝えます。慶応4年にはともに事態の収拾に当たり、一翁の没後に勝は歌集『桜園集』を編みました。
大久保一翁の墓はどこですか?
現在の墓所は、東京都府中市の多磨霊園(11区1種2側3番)です。小伝には当初の葬地として「青山塋域」とあります。多磨霊園の開設は1923年なので、没後に移された墓です。移した時期は確認できていません。
大久保一翁はどんな人でしたか?
同僚に「ものゝふ」と異名を付けられ、小伝に「性硬直」と書かれた人です。加増を辞退し、美服を着なかったと伝わります。温厚な調整役というより、議論を曲げない実務家の像が資料には残っています。
インタビュー後記 閉じる人の名前は残りにくい
幕末の人物を調べていると、始めた人の話ばかり読むことになります。黒船、攘夷、討幕。一翁の履歴はその逆で、免職と後始末が並びます。
文部省時代の手紙の草案は、何度か読み返しました。給金は褒美か罪か、いっそ盗みと答えようか。元幕臣のこの冗談は、150年たってもよく効きます。
歴史マニアとしての意見を一つ書くなら、幕府の閉じ方に関わった人の仕事が、開いた人の陰に隠れたままなのはもったいないと思います。
もののふという言葉も、一翁の場合は刀を振るう話になりません。自分の役を賭けて、言いにくいことを言う話です。
冒頭で、脚本の味付けかと思ったと書きました。味付けではありませんでした。2027年1月、渡辺いっけいさんの「もののふ」を、同僚の異名だと知ったうえで聞けます。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション 大久保一翁著、勝安芳編『桜園集』(1892年)附録「大久保一翁君小伝」※異名「ものゝふ」、人物像
- 同書 履歴(安政2年の見分) ※勝麟太郎の同行
- 同書 履歴(文久2年〜元治元年) ※免職の日付と処分の文面
- 同書 履歴(慶応4年) ※会計総裁、池上本門寺
- 同書 履歴(閏4月2日) ※大総督府の委任
- 同書 文部省出仕後の書簡の草案 ※「盗之心得」
- 同書 履歴(没年) ※「病死」「青山塋域」、子の順序
- 国立国会図書館デジタルコレクション 村田氏寿・佐々木千尋『続再夢紀事』第一(日本史籍協会、1921年)文久2年10月20日条 ※政権奉還の発言
- 同書 文久2年10月23日条 ※山内容堂の評、暗殺の風聞
- 同書 文久2年11月の処分 ※免職の文面
- 国立国会図書館デジタルコレクション 瑞山会編『維新土佐勤王史』(1912年)※龍馬が一翁を訪ねたこと
- 同書 文久3年4月の条 ※春嶽あての書の携帯
- 同書 慶応2年1月の条 ※三吉慎蔵の日記の引用
- 国立国会図書館デジタルコレクション 戸川残花『海舟先生』(1910年)※勝の推薦、礼服、評判
- 国立国会図書館デジタルコレクション 勝安芳述、吉本襄撰『氷川清話』(1927年の版)※「熱性で、切迫の方」
- 国立国会図書館デジタルコレクション 幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波書店)※静岡藩の中老、商法会所
- 国立国会図書館デジタルコレクション 干河岸貫一編『明治百傑伝』(1902年)※勅使と下賜
- 国立国会図書館「大久保一翁|近代日本人の肖像」※生没年の西暦換算
- 国立国会図書館「明治政府を支えた幕臣等|近代日本人の肖像」※第5代東京府知事
- 国立国会図書館「大久保一翁関係文書|憲政資料」※書簡の内容、旧蔵者履歴
- コトバンク「大久保忠寛」※日本大百科全書(勝の門下)、改訂新版 世界大百科事典、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(勝に師事)の記述
- コトバンク「大久保一翁」※日本人名大辞典の記述
- 東京都公園協会「多磨霊園 園内マップ」※現在の墓所の区画
- コトバンク「武士」※「もののふ」の語義
- メディカルノート「東京都健康長寿医療センターの歴史と特色」※養育院の説明
- 映画ナタリー「NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』で山時聡真が福沢諭吉、武井壮が中浜万次郎に!古田新太も参加」※配役、役紹介、大河ドラマの出演歴










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