杉田玄白は何をした人?解体新書を世に出した蘭方医の功績を玄白AIと解説

genpaku sugita eyecatch 何をした人

学校で「杉田玄白といえば解体新書」と覚えた人は多いはずです。私もそうでした。

ところが調べ始めると、最初の一歩でつまずきます。訳文の中心にいたのは玄白ではなく、前野良沢という年上の医者でした。しかも『解体新書』の本には、その良沢の名前が載っていません。

では、杉田玄白は何をした人なのでしょうか。この居心地の悪さを確かめたくて、この記事を書いています。

この記事の結論

杉田玄白は、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳をまとめ、1774年に『解体新書』として刊行した江戸時代の蘭方医(らんぽうい)です。

ただし訳文の主力は前野良沢でした。玄白の働きは、翻訳を言い出し、人を集め、刊行まで運び、その経験を次の世代に渡したところにあります。

日本で最初に人体解剖を実見した人物でもありません。京都の山脇東洋は、玄白たちより17年前の1754年に、官の許しを得た人体解剖を観察しています。

  • 満83歳
    没年齢(数え85歳)
  • 104人
    塾に集まった門人
  • 1774年
    『解体新書』の刊行

この記事では、玄白の三つの功績、良沢の名が載っていない理由、死因と最期、生涯の年表までを順にたどります。読み終えるころには、「訳した人」とは違う輪郭が見えてくるはずです。

語り手として、杉田玄白AI(杉田玄白をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。当時の空気や、本人がどう感じていたかを想像する手がかりにしてください。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに杉田玄白の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

筆者
筆者

玄白先生、はじめまして。教科書では『解体新書を訳した人』として習いましたが、どうやらそれだけでは足りないようです。まずはご自身が何者なのか、あなたの言葉で教えていただけますか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

わしが杉田玄白じゃ。若狭小浜の藩に仕えた医者でな、江戸の藩邸に生まれ、江戸で患者を診て過ごした。

そなたの言うとおり、『解体新書』を訳した男として覚えられておるらしいが、それは少し話が大きすぎる。

蘭語を読み解いたのは、わしよりも良沢殿であった。わしは、やろうと言い出して、人を集めて回った男よ。

まずは杉田玄白の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう

細かい話に入る前に、人物の全体像を表でつかんでみましょう。

項目内容
名前杉田玄白(すぎた げんぱく)※名は翼(よく)、字は子鳳(しほう)、号は鷧斎(いさい)・九幸(きゅうこう)
生没年1733年〜1817年(満83歳で死去。数え年では85歳)
出身江戸・牛込の小浜藩下屋敷で誕生。藩は若狭国小浜藩(現在の福井県小浜市)
活躍した時代江戸時代の中期から後期
主な功績『解体新書』の刊行、私塾・天真楼での門人育成、回想録『蘭学事始』の執筆

杉田玄白は、若狭国小浜藩の外科医だった杉田甫仙(ほせん)の三男として生まれました。生まれた場所は小浜ではなく、江戸にあった藩の下屋敷です。

つまり玄白は、生まれも育ちも基本的には江戸の人でした。ただし幼いころには父に従って小浜で過ごした時期もあります。

肩書きの「蘭方医」とは、オランダ経由で伝わった西洋の医術を行う医者のことです。当時の日本の医学の主流は、中国由来の漢方でした。

玄白が生きたころ、幕府が公認した西洋との貿易の窓口は、長崎・出島のオランダ商館にほぼ限られていました。オランダ語の書物は入ってきても、それを読める日本人はごくわずかです。

筆者
筆者

先生は江戸のお生まれなのですね。医者の家に生まれた子どもは、やはり医者になるものと決まっていたのでしょうか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

決まっておったというより、ほかの道を思いつかなんだ、というほうが近いのではあるまいか。

父は小浜藩の外科医、わしはその三男でな。家の稼業をそのまま継いだまでのこと。

ただ、蘭書を自ら読み解こうなどとは、父の代には思いもよらぬことであったろうな。西玄哲どのに外科を教わったあたりから、道が少しずつ延びていったようじゃ。

杉田玄白の三つの功績

玄白の一生をたどると、性質の違う三つの仕事が見えてきます。どれも単独ではなく、前の仕事が次の仕事を呼んでいます。

玄白の仕事を分けると三つになる
  • ① オランダ語の解剖書を訳し、『解体新書』として世に出したこと
  • ② 私塾「天真楼」で門人を育て、蘭学の輪を広げたこと
  • ③ 80歳を過ぎて『蘭学事始』を書き、草創期の記録を残したこと

こうして並べると、玄白の持ち場が見えてきます。新しい知識を訳すだけで終わらせず、外へ広げ、後に残すところまで手がけた点が共通しています。一つずつ見ていきましょう。

① オランダ語の解剖書を訳し、『解体新書』として世に出した(1774年)

玄白の名が歴史に残った最大の理由が、この一冊です。まずは刊行までの流れを表で確認してみましょう。

出来事
明和8年3月4日(西暦1771年4月18日)江戸・小塚原の刑場で腑分け(解剖)を実見。持参した『ターヘル・アナトミア』の図と照らし合わせる
明和8年3月5日実見の翌日、前野良沢の家に集まって翻訳を始める
1773年(安永2年)訳がほぼ仕上がり、予告版として『解体約図』を出版する
安永3年(1774年)8月『解体新書』を刊行(本文4巻+図1巻の5冊)

出発点は、明和8年3月4日の腑分けの見学でした。和暦の日付なので、西暦に直すと1771年4月18日にあたります。

処刑された人の遺体を前に、玄白たちはオランダ語の解剖書を開いて見比べます。

玄白がのちに『蘭学事始』で書き残したところによれば、そこに描かれていた内臓の形は、目の前の人体とぴたりと一致していました当時の日本で信じられていた説明とは、明らかに違っていたのです。

玄白たちは、その翌日から翻訳にとりかかります。オランダ語の辞書らしい辞書もない時代でした。

刊行までにかかった年数は、資料によって3年半とするものと4年とするものがあります。いずれにせよ、数年がかりの仕事でした。

なお『解体新書』の本文は漢文で書かれています。図を描いたのは秋田藩士の小田野直武で、原書の銅版画を写して木版にしたものです。

刊行の前年には『解体約図』という予告版も出しています。『解体新書』本編をいきなり出すのではなく、要点をまとめた図を先に世に出した形です。

筆者
筆者

腑分けをご覧になった日のことを、うかがってもよろしいでしょうか。何がいちばん、先生の心を動かしたのですか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

あの日のことは、軽々しくは語れぬ。まずは、亡骸を検めさせていただいた身であると申しておく。

そのうえで言うならば、驚いたのは書物のほうじゃ。蘭書の図と、目の前のかたちがどれほど近かったかは、後にわしが書き残したとおりよ。

それまで正しいと教わってきたものが、その場で崩れた。ならばこの書を読まねばならぬ。そう思うたまでのこと。

② 私塾「天真楼」で門人を育て、蘭学の輪を広げた

『解体新書』を出したあと、玄白のもとには全国から学びたい人が集まりました。玄白は江戸に私塾を開き、その人たちを受け入れます。塾の名は天真楼(てんしんろう)といいました。

この塾がどれだけの広がりを持っていたかは、次の数字が教えてくれます。

天真楼に集まった門人の広がり
  • 1805年の時点で、門人は畿内と7道38か国におよび、104人を数えた
  • その数は、玄白自身が1805年に書いた『玉味噌』から分かる
  • 門人のひとり大槻玄沢は、のちに江戸で蘭学塾「芝蘭堂」を開いた

国立国会図書館のレファレンス事例によると、1805年の『玉味噌』に記された門人数は「畿内・7道38カ国に百四人」とされています。

38か国は当時の日本のかなりの範囲にあたります。知識が江戸の一部屋から全国へ散っていったことが分かります。

とくに大きかったのが、大槻玄沢の存在です。玄沢は玄白に学んだあと、自分の塾である芝蘭堂を開きました。国立国会図書館は芝蘭堂を「江戸に最初の蘭学塾」と説明しています。

つまり玄白は、自分で全部をやろうとはしませんでした。訳は良沢を頼り、門人の玄沢は自分の塾を開く。人から人へ渡っていくなかで、蘭学は限られた人の営みから、広く学ばれる学問へ変わっていきます。

筆者
筆者

全国から百人を超える門人が集まったと聞きます。先生は、どんなつもりで若い人を迎えられたのでしょう

杉田玄白AI
杉田玄白AI

気負ってはおらぬよ。訪ねてくる者があれば、知っておることを話す。それだけのことじゃ。

ただ、一つだけ思うておったことがある。わしらが難儀したところで、次の者まで同じように難儀するのは惜しい、とな。

学問は、独り占めして腐らせるものではあるまい。渡してゆけば、わしより先へ行く者も出てこよう。

③ 80歳を過ぎて『蘭学事始』を書き、草創期の記録を残した(1815年)

三つ目の功績は、書き残したことです。1815年(文化12年)、80歳を過ぎた玄白は、蘭学が始まったころの日々を回想録にまとめました。

この本の来歴は、少し変わっています。表で整理してみましょう。

項目内容
成立1815年(文化12年)に脱稿。玄白の晩年の回想として書かれた
江戸時代の書名『蘭東事始』『和蘭事始』などの書名を持つ写本として、幕末まで伝わった
明治の刊行1869年(明治2年)、福沢諭吉が玄白の子孫・杉田廉卿と木版で刊行
『蘭学事始』の名この刊行より後、『蘭学事始』の名で広く知られるようになった

注目したいのは、この本が玄白の生前には出版されていないという点です。写本として一部の人の間で読まれるにとどまりました。

世に広く知られるようになったのは、玄白の死からおよそ50年後のことです。1869年(明治2年)、福沢諭吉が玄白の子孫である杉田廉卿と木版で刊行しました。

国立国会図書館によると、それまでは『蘭東事始』『和蘭事始』の書名を持つ写本で伝わっており、この刊行より後に『蘭学事始』の名で広まりました。

福沢諭吉自身も緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ人物です。蘭学の草創を記した本が、蘭学で育った世代の手で世に出たことになります。

福沢諭吉については、こちらの記事で詳しく紹介しています。

『蘭学事始』には、訳語が見つからずに苦労した場面などが書かれています。ただし書かれたのは出来事から40年以上あとの回想です。細部をそのまま事実として読むには注意がいります。

筆者
筆者

80歳を越えてから、40年以上も前のことを書き残そうと思われたのはなぜですか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

あのころを知る者が、次々といなくなったからじゃ。良沢殿も、淳庵どのも、もうおらぬ。

わし一人が残ってしまえば、語る者がなくなる。ならば覚えておるうちに書いておこうと思うたのよ。

ただし四十年も前の話でな。思い違いもあろう。そこは読む者が割り引いてくれるとありがたい。

『解体新書』に前野良沢の名がないのはなぜ?

ここが、この記事でいちばんお伝えしたい部分です。『解体新書』の訳者として名が出ているのは玄白であり、訳の中心にいた前野良沢の名はありません。

まず、それぞれの立場を整理してみましょう。

人物果たした役割本での扱い
前野良沢長崎でオランダ語を学んだ経験を持ち、翻訳の主力となった名が載っていない
杉田玄白翻訳を言い出し、仕事をまとめ、刊行まで運んだ「杉田玄白訳」と署名
中川淳庵『ターヘル・アナトミア』を入手する仲立ちをし、翻訳にも加わった「中川淳庵校」と署名
石川玄常翻訳に加わった「石川玄常参」と署名
桂川甫周翻訳に加わった「桂川甫周閲」と署名

『山川 日本史小辞典』は、「翻訳の主力は前野良沢だったが、名を出していない」とはっきり記しています。玄白ひとりの仕事ではなかったことは、事典のうえでも共通の理解です。

国立国会図書館も良沢について、「『解体新書』を訳述する際、オランダ語の能力が最も高く指導的な役割を果たした」と説明しています。

そのうえで同館は、良沢が「刊行するにあたり訳者としての名前を出すことを拒絶した」と記しています。名がないのは、忘れられたからでも軽んじられたからでもありません。

では、なぜ拒んだのでしょうか。理由については諸説あります。

理由の説明としては、次の2つをよく見かけます。

良沢の名がない理由として語られること
  • 幕府の出版取締りへの配慮:とがめを受けたときに、盟主格の良沢へ累が及ばないようにしたという見方
  • 訳の出来に満足しなかった:広く流れている説明だが、その根拠は本記事の調査では確認できなかった

前者について『改訂新版 世界大百科事典』は、「幕府の出版取締りをおしはかって、もし幕府のとがめを受けたとき、先輩で盟主格の良沢に累を及ぼさないための配慮とみられる」と説明しています。

大切なのは、どちらか一方を正解として断定しないことです。確かなのは、訳の中心に良沢がいたという事実と、それでも本に名が残らなかったという結果のほうです。

なお現在の国立国会図書館の書誌では、『解体新書』の訳者は「杉田玄白・前野良沢・中川淳庵・桂川甫周訳」と表示されています。本そのものの署名と、いま図書館が示す訳者の並びは別のものです。

筆者
筆者

本に良沢先生のお名前がないことは、今でも議論になっています。先生は、この点をどうお考えでしたか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

そのことを問われても、いまのわしから仔細を申し立てることはできぬのう。

なにゆえ良沢殿の名が出ておらぬか。あとから言葉を足して飾るのは、良うないことじゃ。

言えるのは一つじゃ。あの訳は、良沢殿なくしては形にならなんだ。それだけは、はっきりしておる。

杉田玄白の死因と最期

玄白は文化14年4月17日(1817年6月1日)、江戸の自宅で亡くなりました。最期の状況を表で確認しておきましょう。

項目内容
没年月日文化14年4月17日(1817年6月1日)
場所江戸の自宅
年齢満83歳(数え年では85歳)
死因死因を直接伝える史料は確認できていません
墓所東京都港区の栄閑院

「杉田玄白の死因」はよく検索される疑問です。ところがはっきりした答えは残っていません。

高齢だったことから老衰と推測する解説は見かけますが、史料で確かめられる話ではないのです。

事典の多くは「85歳で没」と記しています。これは数え年の表記です。1733年10月20日生まれで1817年6月1日没なので、満年齢では83歳になります。

当時としては、長寿の部類に入ります。80歳を越えてなお筆を執っていた点は、この人物を語るときによく挙げられます。

死の2年前まで回想録を書いていたことは、晩年まで筆を執り続けていた証しといえます。なお「九幸」は、晩年の玄白が用いた号です。

筆者
筆者

先生は80歳を越えてなお筆を執られました。長く続けられたのは、なぜだとお考えですか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

さて、なぜであろうな。医者が己の身を見立てるのは、いちばん当てにならぬものよ。

運がよかった、としか申せぬ。同じ道を歩んだ者のなかには、志の半ばで倒れた者もおる。

ただ、やりたいことが残っておるうちは、人はなかなか枯れぬのかもしれぬ。そう思うことはある。

杉田玄白の生涯を年表で振り返る

ここまでの話を、時間の流れに沿って並べ直してみます。なお日付まで分かる出来事は、和暦を先に書いています。旧暦の日付をそのまま西暦の月日として読むと、ずれが生じるためです。

年齢も入れていません。旧暦生まれの人物は、出来事ごとに換算が必要になり、機械的な引き算では誤りが出るからです。

出来事解説
1733年(享保18年)江戸牛込の小浜藩下屋敷で生まれる父は小浜藩の外科医・杉田甫仙。玄白はその三男
1740年(元文5年)父に従い小浜へ移り住む(1745年まで)生まれ育ちは江戸だが、少年期に小浜で過ごした時期がある
1749年(寛延2年)外科医・西玄哲にオランダ流の外科を学ぶ幕府に仕える医師のもとで、西洋系の外科を身につけた
1753年(宝暦3年)小浜藩医として召し抱えられる父と同じく、藩に仕える医者の道に入る
1754年(宝暦4年)山脇東洋による解剖を知らされる京都で行われたこの解剖が、のちの腑分けの下地になった
1757年(宝暦7年)日本橋で町医者として開業する藩に籍を置いたまま、江戸の町で患者を診た
1769年(明和6年)父の死去にともない家督を相続し、藩の侍医となる30人扶持を継ぎ、藩医としての立場が固まる
明和8年3月4日(西暦1771年4月18日)小塚原の刑場で腑分けを実見する『ターヘル・アナトミア』の図と実物を照らし合わせた
明和8年3月5日前野良沢の家に集まり、翻訳を始める実見の翌日には動き出していたと事典は記す
1773年(安永2年)予告版『解体約図』を出版する『解体新書』の刊行に先立ち、要点をまとめた図を世に問うた
安永3年(1774年)8月『解体新書』を刊行する本文4巻と図1巻の5冊。図は小田野直武が担当
1815年(文化12年)回想録が成るのちに『蘭学事始』として広まる書。写本では『蘭東事始』『和蘭事始』などの書名で伝わった
文化14年4月17日(1817年6月1日)江戸の自宅で死去する満83歳(数え85歳)。墓所は現在の東京都港区
1869年(明治2年)福沢諭吉が杉田廉卿と『蘭学事始』を刊行する玄白の死からおよそ50年後に、広く読まれるようになった

こうして並べると、玄白の人生の転機が30代の終わりから40歳ごろに集中していることが分かります。腑分けの見学から『解体新書』の刊行まで、わずか数年のあいだの出来事です。

一方で、その前には十数年にわたる町医者としての年月があり、後には40年以上の長い晩年が続きます。教科書が描く「解体新書の人」は、長い一生のごく一部にすぎません。

なお1765年に藩の奥医師になった、1776年に天真楼を開いた、1807年に隠居したという記述も広く見かけます。ただし本記事では、事典や公的資料で年を確認できなかったため、年表には入れていません。

筆者
筆者

30代の終わりからの数年で、先生の人生は大きく動きました。振り返って、あの数年はどんな時間でしたか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

振り返れば、慌ただしい数年であったよ。腑分けを見た翌日から集まり、それきり、あの書に取りつかれた。

四十に手が届こうかというころの話でな。若い盛りとは、とても言えぬ年じゃ。

人が動き出すのに、年はさほど関わりないのかもしれぬ。少なくとも、わしの場合はそうであった。

杉田玄白のすごさ・影響力

玄白の評価は、「日本で初めて解剖した人」でも「ひとりで訳した人」でもありません。後世から見て意味が大きかったのは、次の3点です。

後世から見て意味が大きかった点
  • 体系的な西洋解剖学書として、日本で初めて訳し出したこと
  • 予告版を先に出したうえで、刊行までやり遂げたこと
  • 門人を育て、回想録を残して、次の世代が続けられる形にしたこと

順に見ていきます。まず翻訳についてですが、それ以前にも西洋医学の断片は日本に入っていました。玄白たちが成し遂げたのは、一冊の解剖書を体系だてて訳したことです。

国立国会図書館は『解体新書』を「体系的な西洋解剖学書の最初の翻訳」と説明しています。原書のすべてを訳し切ったわけではなく、のちに門人の大槻玄沢が訳し直しています。

次に、刊行まで運んだ実務の力です。当時、西洋の書物を出版することには慎重さが求められました。玄白たちは前年に予告版『解体約図』を出し、その翌年に『解体新書』を刊行しています。

三つ目が、広げ方です。天真楼には全国から門人が集まり、そのひとり大槻玄沢は、国立国会図書館が「江戸に最初の蘭学塾」と説明する芝蘭堂を開きました。知識が一代で終わらなかったことが、蘭学がその後も伸びた理由の一つです。

一方で、玄白が自分の力だけで医学を変えたわけではありません。京都では山脇東洋が17年前に人体解剖を観察し、長崎では通詞たちが西洋の知識を訳し続けていました。玄白は、その流れのなかで大きな一歩を刻んだ人物です。

筆者
筆者

後の世では、先生は蘭学の道を開いた人として知られています。ご自身では、何がいちばんの仕事だったとお考えですか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

いちばん、と言われても困るのう。後の世の物差しは、わしの持ち合わせておらぬものじゃ。

ただ、己のしたことを一つだけ挙げよと言われれば、書を出したことよりも、続く者が出たことを選ぶ。

わし一代で終わっておれば、ただの物好きの道楽で済んだ話ではあるまいか。

杉田玄白の歩みから考える現代へのヒント

玄白の生き方には、今の私たちが働くうえで参考になる部分があります。ここから先は史実の解説ではなく、筆者の解釈として読んでください。

玄白の歩みそこから考えられること
自分より読める人(前野良沢)を頼った得意な人に頼ることは、手柄を手放すことと同じではない
予告版を出してから本番を刊行した大きな仕事ほど、小さく試してから出したほうが通りやすい
門人を育て、次の世代に託した自分の代で完結させないことが、仕事を長持ちさせる
80歳を過ぎて経験を書き残した記録がなければ、苦労の過程は誰にも伝わらない

とくに一つ目が印象的です。翻訳を始めたころの玄白のオランダ語力は、十分とはいえませんでした。国立国会図書館も、蘭語にもっとも通じていた良沢が指導的な役割を果たしたと説明しています。

それでも玄白は翻訳を言い出し、読める人を頼り、形にするところまで運びました。できる人を巻き込むこの身の処し方があったからこそ、『解体新書』は世に出たのだと筆者は考えています。

あなたは杉田玄白の生き方から、何を受け取りますか。

筆者
筆者

最後に、いまを生きる私たちに向けて、何か言葉をいただけますか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

そなたらの世のことは、わしには分からぬ。ゆえにこれは、老人の独り言と思うて聞き流してくれ。

わし一人の蘭語では到底およばず、良沢殿を頼って事を起こした。できぬことを隠さなんだのが、唯一の取り柄やもしれぬ。

一人でできることなど、たかが知れておる。そなたも、そう気負わずともよいのではあるまいか。

よくある質問(FAQ)

杉田玄白は何をした人ですか?

オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳をまとめ、1774年に『解体新書』として刊行した江戸時代の蘭方医です。

私塾「天真楼」で門人を育て、晩年には回想録『蘭学事始』を書き残しました。

杉田玄白は解体新書をひとりで翻訳したのですか?

いいえ。前野良沢・中川淳庵・桂川甫周らとの共同作業でした。

『山川 日本史小辞典』は「翻訳の主力は前野良沢だったが、名を出していない」と記しています。玄白の役割は、翻訳を始め、刊行まで運んだところにあります。

なぜ解体新書に前野良沢の名前がないのですか?

国立国会図書館は、良沢が刊行にあたって訳者としての名前を出すことを拒絶した、と記しています。

その理由には諸説あります。『改訂新版 世界大百科事典』は、幕府のとがめが良沢に及ばないための配慮とみられる、と説明しています。

杉田玄白の死因は何ですか?

死因を直接伝える史料は確認できていません。文化14年4月17日(1817年6月1日)に江戸の自宅で亡くなり、満83歳(数え85歳)でした。

高齢だったため老衰とする解説もありますが、断定できる記録は残っていません。

杉田玄白は日本で初めて人体解剖をした人ですか?

いいえ。京都の山脇東洋が1754年(宝暦4年)に官の許しを得た人体解剖を観察し、1759年にその記録『蔵志』を刊行しています。

玄白たちが小塚原で腑分けを見学したのは1771年で、山脇より17年あとのことでした。

杉田玄白はどこの出身ですか?

生まれたのは江戸・牛込にあった小浜藩の下屋敷です。藩は若狭国小浜藩(現在の福井県小浜市)でした。

幼いころに父とともに小浜で過ごした時期がありますが、生涯の多くは江戸で過ごしています。

杉田玄白はどんな人でしたか?

史料から確かめられるのは、翻訳を言い出して刊行まで運んだこと、門人を育てたこと、晩年に記録を残したことです。

性格そのものを伝える同時代の記録は限られるため、人物像の細かい部分は、後世に語られてきたものと区別して読む必要があります。

インタビュー後記|杉田玄白は「訳した人」ではなく「世に出した人」

今回は杉田玄白AIに登場してもらいました。

調べる前、私は玄白を「オランダ語の本を訳した天才」だと思っていました。資料をたどると、その像はかなり違っていました。

玄白の特徴は、語学の力そのものより、共同の仕事を形にする役割のほうにあります。ひとりの天才が世界を変えるという話より、こちらのほうがずっと現実的で、励まされる気もします。

杉田玄白が世に出した『解体新書』そのものについては、底本や翻訳の進め方、訳し切れなかった部分まで、別の記事で詳しくたどっています。

同じ江戸時代の空気を知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

参考資料

コメント

タイトルとURLをコピーしました