天は人の上に人を造らず|続きの一文と意味を諭吉AIと初版本からたどる

天は人の上に人を造らず|続きの一文と意味を諭吉AIと初版本からたどる 名言

「天は人の上に人を造らず」。この続きを知っていますか、という話は、もう定番の雑学になりました。私も何度か聞かされたことがあります。

続きまで読むと意味が変わる。たいていの説明は、そこまでです。

ただ、私が引っかかったのは、その手前でした。原文はこの一文を「と云へり」で結んでいます。誰かがそう言っている、という伝聞・引用の形です(この語尾をどう読むかには、解釈の余地があります)。

では福沢諭吉は、誰の言葉として引いたのか。気になって、初版本と明治の刊本を開いてみました。

この記事の結論

先に、分かったことを書きます。この一文を誰の言葉として引いたのかを説明した記述は、事典にも慶應義塾の公式サイトにも見あたりませんでした。

そのかわり、意外なものが出てきました。1908年刊の国語辞書『国語漢文中辞林』は、この句を「ミルトンの言なり」として立項しています。 今回読めたその項目の本文に、福沢の名前は出てきません。

  • 2か所
    冒頭の段落にある引用(「天は人の上に〜」の句と『実語教』)
  • 167件と66件
    明治〜昭和前期の刊本にみる「造らず」と「作らず」
  • 0件
    今回確認した事典・公式サイトで、「誰の言葉として引いたのか」を特定する記述

もうひとつ気づいたことがあります。結論の直前にも、引用が置かれていました。寺子屋の教科書『実語教』から引いた句です。つまりこの段落は、引用に始まり、結論の手前でもう一度、他人の言葉を借りています。

この記事では、続きの全文、「と云へり」の行方、表記のゆれ、そして初版本に刷られたもう一人の名前を、順に見ていきます。聞き手として、福沢諭吉AI(福沢諭吉をモデルにしたAI)にも登場してもらいました。

※以下の福沢諭吉AIの発言部分は、公開されている史料をもとに福沢諭吉の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。また、この記事で紹介する文面は、初版本の画像で確かめたものと、明治以降の刊本の全文テキストで確かめたものを分けて書いています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

旧一万円札のお顔としてしか存じ上げなかった福沢さんと、こうして言葉の話ができるとは。今日はあの有名な一文の、続きと出どころをうかがいます。よろしくお願いします。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

札に顔、でありますか。……私のような書生上がりの顔を、ありがたがって財布にしまうとは、くすぐったい話ですな。

まあ、その詮索はやめておきましょう。自分の書いた本の話なら、こちらも張り合いがあるという訳です。

HAGY(へいじい)
この記事を書いた人
HAGY(へいじい)
ウェブマーケティング(SEO・SNS)を仕事にしている歴史好きです。子どもの頃は、教科書や歴史漫画で偉人の名前を覚えるだけでした。高野山真言宗の尼僧と結婚し、空海を調べるうちに、その時代の空気や周りの人々まで気になるようになりました。これまでに100を超える偉人AIを作ってきました。

「天は人の上に人を造らず」の続きは?|初編冒頭の全文

この一文の続きは、現実には賢愚も貧富もあるという観察と、賢人と愚人の別は学ぶか学ばないかによって生じるという結論です。

まず原文を通しで読んでみましょう。青空文庫に入っている『学問のすすめ』の本文から、初編の第一段落をそのまま引きます。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

出典:青空文庫「福沢諭吉 学問のすすめ」初編

一つの段落のなかで、話は四つの段を進みます。並べると流れが見えます。

順番書かれていること形
① 書き出し天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず「と言えり」=引用の形
② 理屈だから人は生まれながら貴賤上下の差別がない地の文
③ 観察しかし現実には賢愚も貧富もあり、雲と泥ほど違う地の文
④ 結論賢人と愚人の別は学ぶと学ばざるとによってできる『実語教』からの引用を受けた地の文

注目したいのは①と④です。この段落は引用で始まり、結論の直前にもう一つの引用が置かれています。 ④の結論そのものは地の文ですが、その根拠として引かれているのは、やはり他人の言葉です。

なお、④の結論は賢人と愚人の別に限られています。ただし初編は、このあと仕事の難しさと身分の話をはさんでから、貴賤や貧富にも同じ理屈を広げます。

「人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」という一節です。

『実語教』は、平安末期ごろに成立したとされる教訓書です。作者は未詳で、俗に空海の著といわれますが定説ではありません。江戸時代には寺子屋の教科書として広く使われました。

つまり、当時の読者のなかには子どものころに音読した人も少なくなかったであろう句です。それが結論の後ろ盾に置かれているように読めます。

なお「人はみな平等である」という一文だけを掲げると、③と④が消えます。本の題が『学問のすゝめ』である以上、続きまでを一つの論と読むほうが自然でしょう。

筆者
筆者

結論の手前に、寺子屋の教科書『実語教』の『人学ばざれば智なし』が置かれていました。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

寺子屋で読まれてきた句であります。

いま問われれば、難しい理屈を並べるより、耳に馴染んだ一句のほうが人に届く、と答えたいところですな。

もっとも、あの段落の要はその次の一行。学ぶと学ばぬとの差、ただそれだけの事であります。

『実語教』の句を受けた結論の先まで通して触れたい方は、朗読で聴く方法もあります(Audibleでの題は『学問のすすめ』)。朗読がどの版の本文によるかは確認できていないため、この記事で比べた初版本の表記どおりとは限りません。

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オーディオブック|Audible

『学問のすすめ』

福沢諭吉 朗読 那波一寿・5時間42分

この作品の聴きどころ

  • 「天は人の上に人を造らず」に続けて、生まれながらに貴賤上下の差別はない、と書き起こす冒頭
  • それでも賢い人と愚かな人、貧しい人と富める人がいるのはなぜか、という問い
  • 賢人と愚人の別は学ぶか学ばないかで生まれるとし、そのあと貴賤・貧富にも同じ理屈を広げていく論

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「と云へり」は、誰の言葉として引いたのか

ここが、この記事でいちばん確かめたかったところです。結果を先に書くと、福沢が誰の言葉として引いたのかを説明した記述は、今回の調査では見つかりませんでした。

慶應義塾の公式サイト、同大学メディアセンターのデジタルコレクション、コトバンクに入っている各事典を見ましたが、今回確認した範囲では、この伝聞形の相手を特定した説明は見あたりませんでした。

そのかわり、明治期の刊本を全文検索すると、当時の人がこの句をどう扱っていたかが見えてきました。

年書名この句をどう紹介しているか
1908年(明治41年)『国語漢文中辞林』(畠山健 閲、郁文舎)「天は人の上に人を作らず」を見出し語とし、「ミルトンの言なり。人は平等にして上下なしとの意」と説明。同書は俚諺・格言の例としても挙げる
1908年(明治41年)『古今名家随筆大観』(小宮水心 編、岡本偉業館)「天は人の上に人を作らず。(ミルトン)」と、作者名を添えて並べる
1909年(明治42年)『金声玉言』(高木武 編、文成社)「○天は人の上に人を造らず。(ミルトン)」と、名言集の一項目として掲載
1911年(明治44年)『国定新読本の研究』(豊田八十代 著、学海指針社)「個人の平等なることをいつた諺で、福澤翁の學問のすゝめの初にも見えてをる」
1913年(大正2年)『小学教授ポケット叢書』(田中好賢・迫小平 著、六盟館)「人は平等で尊卑の別はないといふ意の西諺」と説明

今回確認した明治末から大正初めの5点は、この句をミルトンの言葉、または「諺」「西諺」として扱っていました。 1911年の本だけが、あわせて福沢の名を出しています。

ここで気をつけたいことが二つあります。一つは、これらが福沢の没後に出た本だということです。もう一つは、ミルトンの著作のどこにあたるのかを、これらの本が示していないことです。

ですから、「この句の出どころはミルトンだった」とは書けません。今回言えるのは、明治から大正にかけての辞書や読本が、そういう紹介の仕方をしていたというところまでです。

それでも、1911年の本が「諺」、1913年の本が「西諺」と書いているのは示唆的です。少なくとも今回確認した明治末から大正初めの5点では、ことわざのように扱われる例が見られます。

筆者
筆者

1908年の国語辞書『国語漢文中辞林』は、この句を『ミルトンの言なり』として載せています。福沢さんの名前は出てきません。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

ほう、ミルトン。私の名は出て来ぬ、と。

その辞書は私の知らぬ本でありますから、何とも申せません。

ただ、言葉が私の名を離れて歩いておるなら、結構な事ではありませんか。名の付いた言葉だからありがたがる、というよりは、よほど健やかであります。

福沢自身が訳したアメリカ独立宣言と、どこまで重なるのか

この句の出どころとしてよく挙げられるものの一つが、アメリカ独立宣言の「All men are created equal」です。

確かめられることから書きます。福沢は独立宣言そのものを日本語に訳しており、その訳文は今も読めます。 『西洋事情』初編の巻之二です。

国立国会図書館デジタルコレクションで確認したところ、見出しは「千七百七十六年第七月四日亞米利加十三州獨立ノ檄文」となっていました。「宣言」ではなく「檄文」です。該当の一節はこう訳されています。

天ノ人ヲ生スルハ億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『西洋事情』初編 巻之二(コマ5)

大意は「天が人を生むのは億兆すべて同じ筋道で、動かすことのできない権利を与えている」というものです。この言い換えは本記事によるもので、福沢の文章にあるわけではありません。

書き出しが「天」から始まる点は、たしかによく似ています。

ただし、これを根拠に「あの一文は独立宣言の翻案である」と断定することはできません。

今回たどれたのは、ここまで
  • 福沢が独立宣言を訳した文章が残っていること
  • その訳文が「天ノ人ヲ生スルハ」で始まること
  • 慶應義塾の公式媒体が、独立宣言やジョン・ヒル・バートンの『ポリティカル・エコノミー』を経由して学んだ天賦人権の思想の表明で、独立宣言の一節がその原文ではないかともいわれている、と紹介していること

三つ目の書き方に注目してください。慶應義塾自身が「ともいわれている」という形にとどめています。

なお慶應義塾の英語版のページは、この一文を「Heaven, it is said, does not create one person above or below another.」と訳しています。

「it is said」、つまり「と云へり」を残した訳です。

英訳でも伝聞の形が保たれている。この一点だけでも、原文の語尾が軽く扱えないものだと分かります。

筆者
筆者

『西洋事情』では、独立宣言を『檄文』として訳し、『天ノ人ヲ生スルハ』と書き出しておられます。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

訳した事は確かであります。異国の文を日本の言葉に移すのは、骨の折れる仕事でしてな。

ただ、あの書き出しがどこから来たのかと問われると、私の口から言い切るのは気が進みませぬ。

まあ、考えてごらんなさい。君なら、二つを並べて同じものと判じますか。

筆者
筆者

書き出しが『天』なのは似ていますが、それだけで同じとは言えない気がします。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

それで十分。似ておるものを見ると、人はすぐに親子にしたがる。

確かめずに親子と決めてしまうのは、空論の始まりでありますよ。

「造らず」か「作らず」か|初版本と刊本のべ240件の表記

表記にも、ゆれがあります。今でも「造らず」と「作らず」の両方を見かけます。

まず初版本です。慶應義塾大学メディアセンターのデジタルコレクションで『學問のすゝめ』初編の画像を開き、冒頭を読み取ってみました。

一 天ハ人の上ニ人を造らず人の下ニ人を造らずと云へり

出典:慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション「學問のすゝめ. 初編」

「造らず」、そして「と云へり」です。 初版本は清朝体の活字で組まれており、旧字・旧仮名がまじりますが、この二点は読み取れます。

では、後の刊本はどうか。国立国会図書館の「次世代デジタルライブラリー」で、明治以降の図書を全文検索して数えました。

表記該当した資料今回確認できた最も古い例
人の上に人を造らず167件1897年(明治30年)『中学国文典』ほか
人の上に人を作らず66件1893年(明治26年)『経国大策百年之安危』
人の上に人をつくらず7件1915年(大正4年)『国民教育之精神』
人を造らずと云へり33件1898年(明治31年)『福沢全集』
人を造らずと言へり5件1929年(昭和4年)『最近の社会運動』

数のうえでは「造らず」が多数です。初版本の表記とも一致します。

ただし、今回の検索で最も古い例が出たのは「作らず」のほうでした。1893年(明治26年)の『経国大策百年之安危』に「天は人の上に人を作らず、又人の下に人を作らず」とあります。

この結果には限界があります。検索できるのは著作権の保護期間が満了した図書に限られ、本文は機械による文字認識(OCR)から起こされたものです。古い活字の読み取りには誤りが残ります。

そして1872年の初版本そのものは、今回の全文検索では該当しませんでした。初版が「造らず」であることは画像で確かめ、その後の広がり方は刊本の全文検索で数えた。 二つは別の作業だと考えてください。

筆者
筆者

明治以降の刊本を数えたら、『造らず』が167件、『作らず』が66件でした。でも、いちばん古い例は1893年の『作らず』なんです。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

字一つで、そこまで数えられましたか。根気のよい事であります。

私の本は偽版もずいぶん出回りましたが、この字の違いがそのせいかどうかは分かりませぬ。

どちらが正しいかは、最初の版を開けば済む話。私が今ここで「こちらだ」と申しても、証拠にはなりませんよ。

この一文は誰が書き、いつ出た本なのか

「福沢諭吉の言葉」として紹介されるこの一文ですが、初版本を開くと、名前は一つではありません。

初版本を開くと、次のことが確かめられます。

確認できたこと初版本の内容
著者の表示本文の第一行に「學問のすゝめ」、次に「福沢諭吉 小幡篤次郎 同著」と連名
体裁茶色表紙、本文は西洋紙の両面刷り二十四頁。清朝体の活字を二十三字詰八行に組んだもの
端書末尾に「明治四年未十二月」の年月と、福沢諭吉・小幡篤次郎の連名。慶應義塾の活字版で印刷して出したと述べている
端書の趣旨郷里の中津に学校を開くにあたり、学問の趣意を記したものと書かれている

小幡篤次郎は、初編を書くきっかけになった中津市学校の初代校長にあたる人物です。 慶應義塾の公式媒体も、初編が福澤と小幡の連名であることを明記しています。

連名になった経緯について、本記事は出典を確認できていません。確かなのは、書誌のうえで両名の同著として世に出たことです。この記事では便宜上「福沢の著作」と呼びますが、初編についてはこの前提でお読みください。

刊行年にも、ひとつ注意がいります。事典類は「1872年(明治5)2月刊」としますが、本のなかに見つかるのは「明治四年未十二月」という端書の年月だけでした。

当時は旧暦を使っており、この「明治四年十二月」は西暦では1872年の1月から2月にあたります。

そのため、この本については、和暦と西暦で刊行年が違って見えます。

ちなみに1898年(明治31年)に出た『福沢全集』の全文テキストを見ると、初編の見出しは「學問のすゝめ初編 福澤諭吉著」と表示され、小幡の名は現れません。

ただし本記事は、この全集の版面そのものを開いておらず、OCRテキストで確かめたにとどまります。

筆者
筆者

初版本の一行目の次に、『福沢諭吉 小幡篤次郎 同著』と刷られていました。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

同著と刷ってあるなら、同著であります。誰がどう呼ぼうと、本に刷ってある通りに読んでいただければ結構。

あれは中津に学校を開くにあたって、学問の趣意を記したもの。小幡君は、その学校の初代校長であります。

上の句だけが独り歩きした道すじ|明治の教材から

続きが忘れられたのは最近のことではありません。今回見た明治末から大正初めの教材関係の本では、すでに上の句だけが取り上げられています。

明治の教材ではどう扱われたか
  • 1912年(明治45年)の『高等小学読本参考』は、この句の語釈を「天は等級をつけて人を造らない、平等に人を造るものである」とだけ記す
  • 同年の『高等小学各科教授細目』は、この句を「引用法」という文章技法の例として挙げる
  • 1913年(大正2年)の『小学教授ポケット叢書』は「慈善」の課に置き、「人は平等で尊卑の別はないといふ意の西諺」と説明する
  • 1908年(明治41年)の『作文活法』は、助詞の働きを教える例文として原文を長めに引く

今回確認した語釈の例は、「平等」という説明で完結しています。 学ぶと学ばざるとの話は、そこには出てきません。

そして、原文にない言葉が付け足された例もあります。1915年(大正4年)の『国民教育之精神』は、福沢の言葉として次のように引いています。

天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず只その働きに與ふるなり

出典:『国民教育之精神』(山内佐太郎 著、弘道館、1915年)

末尾の「只その働きに與ふるなり」は、冒頭の一文の続きではありません。ただし初編の少し先には、諺として「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」が引かれています。

同じ初編の別の一節が、冒頭の一句と一つに結びついた形です。

上の句だけを取り出して「平等」と説明したり、初編の別の一節と結びつけたりする。今よく言われる「続きを知らない」という現象は、100年以上前の教師向けの本にも、似た形で見つかります。

筆者
筆者

1912年の教師向けの本は、この句を『平等に人を造るものである』とだけ説明していました。学問の話は出てきません。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

『学問のすゝめ』から学問を抜いたら、題しか残りませんな。先生方もなかなか大胆であります。

もっとも、一句だけなら覚えやすい。覚えやすいものが残るのは、書物でも唄でも同じ事でしょう。

この一文で知られる福沢諭吉とは、どんな人だったのか

言葉の背景を押さえるために、書き手の輪郭も見ておきます。福沢諭吉は幕末から明治にかけての著述家・教育者で、慶應義塾を興した人物です。

項目内容
名前福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)※慶應義塾では「福澤諭吉」と表記
生没年1835年1月10日〜1901年2月3日。満66歳(数え年では68歳)
出身大坂の中津藩蔵屋敷に生まれ、豊前中津藩(現在の大分県中津市)で育つ
活躍した時代幕末から明治
主な著作『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』

福沢は明治政府ができたあとも官職に就きませんでした。学校と新聞という、政府の外側にある場所から書き続けた人です。

この立場は、言葉を読むうえで無視できません。福沢の文章の多くは読者に向けて印刷されたもので、本人の著作が刊本として多く残っています。

だからこそ、出どころをたどれます。今回の作業も、その利点に乗せてもらいました。

66年の生涯を年表で

年出来事
1835年大坂の中津藩蔵屋敷に生まれる
1855年大坂の適塾に入門する
1858年江戸・築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に蘭学塾を開く(慶應義塾の起源)
1860年咸臨丸でサンフランシスコへ渡る
1862年幕府の使節に随行してヨーロッパへ渡る
1866年『西洋事情』初編を刊行
1868年芝新銭座へ移転し、塾を「慶應義塾」と命名
1872年『学問のすゝめ』初編が世に出る(端書の年月は明治四年十二月)
1876年『学問のすゝめ』十七編を刊行
1880年『学問のすゝめ』が合本として刊行される
1882年『時事新報』を創刊
1899年『福翁自伝』を刊行
1901年東京・三田の自邸で死去

刊行の規模についても、数字の性格を分けておきます。慶應義塾の公式媒体によれば、合本が出た1880年に福澤自身が試算したところ、およそ70万冊、初編だけで偽版を含め22万冊でした。

一方、事典が伝える約340万という数字は、明治30年ごろまでの流布部数として「いわれ」ている推計です。記録された発行部数ではありません。

筆者
筆者

1880年の試算で、およそ70万冊。初編だけで偽版を含めて22万冊だったそうですね。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

偽版まで合わせての数でありますから、きちんとした帳面ではありませんよ。

それより君、70万冊のうち、何冊が終わりまで読まれたと思います。

筆者
筆者

冒頭の一文だけで止まった人も、多かったかもしれません。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

でありましょうな。売れた数と読まれた数は別の勘定。

そこを混ぜると、商いも学問も見誤るという訳です。

続きのさらに先|「同等」とは何を指していたのか

続きを読んだ人が次に引っかかるのは、では平等とは何なのか、というところでしょう。福沢はその問いに、二編で答えています。

項目内容
本文「その同等とは有様の等しきを言うにあらず、権理通義の等しきを言うなり」
出どころ『学問のすゝめ』二編。1880年の合本『学問ノススメ』に「但シ其同等トハ有樣ノ等シキヲ云フニ非ズ權理通義ノ等シキヲ云フナリ」とある
趣旨同等とは、置かれた境遇が等しいことではなく、権利や道理のうえで等しいことを指す

この語も、表記が揺れています。青空文庫の底本はこの箇所だけを「権理道義」とし、1925年の『国体と倫理』も「權理道義」と引いていました。本記事は合本の表記に合わせて「権理通義」としています。

初編で言う「同じ位」は、暮らしぶりが同じという意味ではありません。 賢愚も貧富もある、と初編が認めていたのと矛盾しない読み方が、二編で示されています。

こう並べると、初編の冒頭から結論までの筋が通ります。権利のうえでは等しい。しかし現実には差がある。賢愚の別は学ぶか学ばないかによって生じる。だから学問を勧める。

一文だけを掲げると、この筋の入口しか見えません。逆に言えば、続きを一度読めば、あとは忘れにくい話でもあります。

筆者
筆者

二編には『権理通義の等しきを言うなり』とあります。暮らしぶりが同じ、という意味ではないんですね。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

有様まで同じになれと言われたら、背の高い者は膝を折って歩かねばなりますまい。

背の高さも、持って生まれた才も、人によって違う。それを同じにせよという話ではありませんよ。

道理のうえで等しく扱われる。まずはそこからという訳です。

それでも、この一文が残った理由

ここまで、誰の言葉として引かれたのかは特定できず、後世の刊本では表記にも揺れがあることを見てきました。それでもこの一文は残っています。

今回の調査で見えてきたこと
  • 今回確認した事典・公式サイトに、「と云へり」の相手が示されていないこと
  • 「造らず」と「作らず」が、どちらも明治の刊本で使われていること
  • 今回見た明治末の教師向け参考書が、続きを外して「平等」とだけ語釈していたこと

考えてみると、この不安定さも、この一文がさまざまな文脈で使われてきた一因なのかもしれません。誰の言葉かがはっきりしないぶん、引く側が自分の主張に引き寄せやすかった、という見方はできます。

実際、同じ句が、平等を説く側からも、それを「妖語」と呼んで批判する側からも引かれていました。

もっとも、それは後世の使い方の話です。福沢がこの句をどんな気持ちで置いたのかは、今回あたった史料からは確かめられません。

言葉が本人の手を離れて生き続ける。それ自体は珍しいことではありません。ただ、引くときに、どこまでが確かめられた話で、どこからが伝えられてきた話なのかを知っておくと、その一文の扱いは少し変わってくるように思います。

筆者
筆者

この一文は、いまも福沢さんの名前とともに引かれています。『続きを知っていますか』は、もう定番の雑学です。

福沢諭吉AI
福沢諭吉AI

続きのほうが雑学になったとは、妙な出世をしたものであります。

ただ、私の名が付いておるからありがたい、というのはおやめなさい。それでは門閥をありがたがるのと変わりがないではありませんか。

続きまで読んで、学ぶか学ばぬかを自分で決める。独立自尊であります。

よくある質問(FAQ)

「天は人の上に人を造らず」の続きは何ですか?

「されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして」と続き、そのあと現実には賢愚も貧富もあるという観察が入ります。そして『実語教』の句を受けて「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」と結ばれます。

本当の意味は「みんな平等」ではないのですか?

平等を否定してはいません。ただし初編は、平等を掲げたあとに現実の差を並べ、賢愚の別は学ぶか学ばないかによって生じると述べます。二編では「その同等とは有様の等しきを言うにあらず、権理通義の等しきを言うなり」と説明しています。

これは誰の言葉ですか?

『学問のすゝめ』初編の冒頭にありますが、原文は「と云へり」という伝聞の形です。誰の言葉として引いたのかを説明した記述は、今回確認した事典や公式サイトには見あたりませんでした。明治の辞書には、ミルトンの言葉や西洋のことわざとして載せるものがあります。

アメリカ独立宣言が元になっているのですか?

福沢自身が『西洋事情』初編で独立宣言を訳しており、「天ノ人ヲ生スルハ億兆皆同一轍ニテ」と始まります。慶應義塾の公式媒体も、独立宣言の一節が原文ではないかという見方を「ともいわれている」と紹介するにとどめています。

「造らず」と「作らず」、どちらが正しいのですか?

初版本の画像では「造らず」と読めます。明治以降の刊本を全文検索すると、「造らず」が167件、「作らず」が66件、「つくらず」が7件でした。ただし今回の検索で最も古い例が出たのは1893年の「作らず」で、機械による文字認識を通した結果です。

どの本のどこに書いてあるのですか?

『学問のすゝめ』初編の冒頭、第一段落の一行目です。初編は一冊の小冊子として出され、その後1876年までに十七編まで刊行されて、1880年に合本になりました。

いつ書かれた本ですか?

事典類は1872年(明治5)2月の刊行としますが、初版本のなかに見つかるのは「明治四年未十二月」という端書の年月です。明治4年12月は、西暦では1872年の1月から2月にあたります。

英語では何と言いますか?

慶應義塾の英語版のページは「Heaven, it is said, does not create one person above or below another.」と訳しています。「it is said」が「と云へり」にあたります。

インタビュー後記|語尾ひとつを追いかけた記録

今回は、一文の語尾から始めました。「と云へり」という四文字が気になって、初版本と明治の刊本を開いた、それだけの調査です。

分かったことより、分からなかったことのほうが多く残りました。誰の言葉として引いたのかは特定できず、ミルトン説の根拠にもたどり着けていません。

それでも、開いてよかったと思っています。結論の直前に『実語教』からの引用が置かれていたこと、今回見た明治の辞書が福沢の名を出さずに載せていたこと。 この二つは、原文と当時の本を並べなければ気づけませんでした。

有名な言葉ほど、私たちは出どころを確かめずに使います。この一文のように、続きを外しても通じてしまう言葉なら、なおさらです。

福沢諭吉AIにも、あの書き出しがどこから来たのかだけは、最後まで言い切らせませんでした。本人が語れば説明がつくように見えますが、それは記事の都合です。あなたは、この一文をどう読みますか。

福沢の言葉として広まっているものを35件集め、一件ずつ原文の所在を確かめた記事もあります。心訓七則や「ペンは剣よりも強し」も、そちらで取り上げています。

生涯と功績をひととおり知りたい方は、こちらをどうぞ。

参考資料

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