薩長同盟をわかりやすく!いつ・誰と誰が結んだ?六か条の中身と龍馬の仲介を木戸の手紙から龍馬AIと検証

薩長同盟をわかりやすく!いつ・誰と誰が結んだ?六か条の中身と龍馬の仲介を木戸の手紙から龍馬AIと検証 出来事

「同盟」という言葉は、木戸孝允が龍馬に送った2通の手紙に出てきません。

薩長同盟を結んだ長州の木戸孝允(桂小五郎)は、その2日後に坂本龍馬へ送った手紙で、約束の中身を「六條」と呼びました。1か月後の礼状でも「六條之書」です。

この記事の結論

薩長同盟は、慶応2年1月21日(1866年3月7日)、京都で薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩の木戸孝允の間で結ばれた六か条の約束です。土佐出身の坂本龍馬と中岡慎太郎が間に立ちました。

目的は、幕府の第2次長州征討に備えることと、朝敵とされた長州の冤罪を朝廷から免じてもらうことでした。六か条には、戦になれば薩摩が2,000余の兵を京へ上げること、戦の勝ち負けにかかわらず朝廷へ働きかけることが書かれています。

龍馬の役割として史料で確かめられるのは、成立の席にいたことと、木戸が書き記した六か条の裏に「相違ない」と朱で書いたことです。この裏書は宮内庁書陵部に残っています。龍馬一人の働きで結ばれたとは、史料からは言えません。

  • 六か条
    木戸が書き残した約束
  • 1866年3月7日
    慶応2年1月21日
  • 2日後
    龍馬が寺田屋で襲われる

六か条の原文、龍馬の裏書と木戸の手紙、そして「龍馬が主役」という像を資料がどう書くのか。順に読みます。

語り手として、坂本龍馬AI(坂本龍馬をモデルにしたAI)に登場してもらいます。六か条の裏に朱を入れた本人です。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに坂本龍馬の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。龍馬は1867年12月10日(慶応3年11月15日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。没後の出来事は筆者が質問の中で伝え、それに答えてもらいます。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

龍馬さん、今日は薩長同盟の話です。木戸さんがあなたに送った手紙には「同盟」の字がなくて、「六條」と書いてありました。あの約束を、あなたは何と呼んでいましたか。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

名前かえ。そりゃあ後の世の者が付けた札じゃろう。

木戸さんが六條と書いたなら、わしも六條で通じる。裏書にもそう書いたきに。

名より中身ぜよ。おまんは薩長同盟ちゅう名を、どこで覚えたがじゃ。

筆者
筆者

学校の教科書です。いまの日本では、多くの人がそこで覚えます。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

若い者には決して漏らさんと書いた約束が、子どもの本に載っちゅうがか。

木戸さんが聞いたら、ひっくり返るぜよ。

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HAGY(へいじい)
この記事を書いた人
HAGY(へいじい)
ウェブマーケティング(SEO・SNS)を仕事にしている歴史好きです。子どもの頃は、教科書や歴史漫画で偉人の名前を覚えるだけでした。高野山真言宗の尼僧と結婚し、空海を調べるうちに、その時代の空気や周りの人々まで気になるようになりました。これまでに100を超える偉人AIを作ってきました。

薩長同盟とは?いつ・どこで・誰と誰が結んだのか

薩長同盟は、慶応2年1月21日に京都で、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が結んだ六か条の約束です。読み方は「さっちょうどうめい」で、事典によっては「薩長連合」「薩長盟約」とも呼びます。

項目内容
読み方さっちょうどうめい
いつ慶応2年1月21日(1866年3月7日)
どこで京都。事典は「薩摩藩邸」、2018年の研究書と鹿児島県は「小松帯刀邸」とする
誰と誰薩摩藩=小松帯刀・西郷隆盛/長州藩=木戸孝允(桂小五郎)
間に立った人坂本龍馬・中岡慎太郎(土佐藩を脱藩した志士)
内容六か条。幕府が長州を攻めたときの薩摩の対応と、長州の冤罪回復への尽力
残っている史料木戸が1月23日付で龍馬へ書いた六か条と、龍馬が2月5日に朱で書いた裏書(宮内庁書陵部)
別名薩長連合、薩長盟約、薩長和解連合
その後薩摩は第2次長州征討への出兵を拒否。幕府は敗れ、両藩は倒幕の中心に

参考:薩長同盟|コトバンク
参考:薩長連合|コトバンク
参考:尺牘(龍馬裏書)|宮内庁書陵部

日付は、改訂新版 世界大百科事典が「正月21日」、日本大百科全書が「1866年1月21日」で、同じ日です。

1月21日は当時の暦(旧暦)の日付で、いまの暦では1か月ほど先の1866年3月7日にあたります。

場所の書き方も1つではありません。日本大百科全書・ブリタニカは「京都の薩摩藩邸」、山川は「京都の鹿児島藩邸」と書きます。

一方、神田外語大学が2018年に出したプレスリリース(町田明広氏の著書の紹介)は「京都の小松帯刀邸」、鹿児島県の公式サイトは「京都の小松帯刀宅」です。

参考:坂本龍馬は薩長同盟締結時には仲介役ではなかった(プレスリリース)|神田外語大学

小松の屋敷の場所も、説明が動いてきました。一条通堀川には2008年に「小松帯刀寓居参考地」の碑が建ち、向かいの近衛家堀川邸を有力な候補地としていました。この碑は2015年8月1日に撤去されました(京都市の資料)。

近年は、近衛家の別邸「御花畑」を小松の屋敷とする説明が見られます。鹿児島県黎明館の研究報告(町田剛士、2017年)は、場所を「小松邸(近衛家別邸御花畑)」とし、間取りの分かる絵図を同館の玉里島津家資料で確認したと記します。

京都市北区の紫明学区の紹介も、ここで締結されたと書きます。

参考:薩長同盟成立|鹿児島県
参考:KA144 小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他|京都市 いしぶみデータベース
参考:幕末薩摩外交 情報収集の点からみた薩長同盟(『黎明館調査研究報告』第29集)|鹿児島県歴史・美術センター黎明館
参考:紫明学区の概要|京都市北区
参考:薩長同盟締結地(近衛家別邸・御花畑屋敷跡)|ニッポン旅マガジン

薩長同盟はなぜ結ばれた?敵同士だった2つの藩が近づくまで

薩摩と長州が手を結んだ直接のきっかけは、幕府が長州をもう一度攻めると決めたことでした。山川 日本史小辞典は、1865年に幕府が再征を表明したあと、薩摩藩が諸侯会議による処分を主張して長州に近づいた、と説明します。

対立から接近までの流れ(事典から)
  • 文久3年8月18日(1863年)|八月十八日の政変。薩摩と会津が、長州勢と尊攘派の公家を京都から追う
  • 元治元年7月(1864年)|禁門の変。長州軍が京都に迫り、薩摩も戦って長州を破る。長州は朝敵となり、第1次長州征討へ
  • 元治元年12月27日(1865年1月24日)|長州の恭順を受け、幕府が戦わずに撤兵令を出す。西郷は手を下さずに制圧する策を主張した(世界大百科事典)
  • 慶応元年3月(1865年)|高杉晋作らの挙兵を経て、長州の藩論が幕府との対決に傾く
  • 慶応元年9月(1865年)|幕府が長州再征の勅許を得る。薩摩は諸侯会議による処分を主張し、長州に接近
  • 同じころ|龍馬・中岡の斡旋で、長州が薩摩藩の名義で長崎から洋式の武器を買う
  • 慶応2年1月21日(1866年)|京都で六か条が結ばれる

参考:長州征伐|コトバンク
参考:薩長連合|コトバンク

2つの藩は、1年半前まで京都で正面からぶつかっていました。八月十八日の政変で長州を追ったのは薩摩と会津で、禁門の変では薩摩の兵が長州兵と撃ち合っています。

長州から見れば、薩摩は会津と並ぶ相手でした。木戸は1月23日の手紙で、六か条を若い者に漏らさぬよう用心している、と書き添えています。

今日の処にては決而少年不覊之徒へ洩らし候は終に大事にも干係仕候事に付、必心は相用ひ居申候

現代語訳今日のところでは、若い跳ねっ返りの者たちへ決して漏らさぬように、漏れれば大事に関わることなので、必ず用心しております。

出典:坂本龍馬關係文書 第一(木戸孝允より龍馬へ、慶応2年1月23日)

長州側の編纂史『防長回天史』にもとづく編者の叙述は、薩摩と通じたと知れれば士気が緩むので秘した、と理由を書いています。木戸の手紙そのものは理由を記しません。

薩摩の側でも、1863年の政変や第1次長州征討では幕府側だった藩が、大久保利通らの画策で反幕の色を強めていました(日本大百科全書・旺文社日本史事典)。

もう1つ、物のやりとりがありました。龍馬と中岡の斡旋で、長州が薩摩藩と亀山社中から武器を買ったとされます(山川 日本史小辞典)。日本大百科全書は「薩摩藩名による長崎での長州藩の洋式武器購入」とします。

高知県立坂本龍馬記念館によると、薩摩名義で買われた船がユニオン号で、1866年7月の長州征討のときに亀山社中が使いました。朝敵とされた長州が、薩摩の名を借りて武器を買ったことになります。

参考:龍馬について|高知県立坂本龍馬記念館

長州の高杉晋作については、こちら。

筆者
筆者

1年半前に撃ち合った相手と、京都で向かい合う。長州の人たちは、それを飲めたのですか。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

腹の底までは、わしにも見えんぜよ。

木戸さんは手紙に、若い者には決して漏らさんと書いちゅう。そこを読めば察しはつくじゃろう。

じゃが次の戦は目の前に迫っちょった。撃ち合うた恨みと次の戦と、おまんならどっちを先に片づける。

筆者
筆者

次の戦です。負けてしまえば、恨みも晴らせませんから。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

おまんは話が早いのう。

長州の若い衆にそう言うて回ってくれたら、わしも楽じゃったに。

六か条の中身は?木戸孝允が書き残した約束を読む

六か条の中身は、幕府と長州が戦になったときの薩摩の動きと、戦の勝ち負けにかかわらず朝廷へ働きかけること、そして一橋・会津・桑名が邪魔をすれば決戦もやむなし、という3つの柱でできています。倒幕の文字はありません。

原文は、木戸が慶応2年1月23日付で龍馬に送った手紙に残ります。『坂本龍馬關係文書』第一(1926年)の翻刻から、各条の要点を表にしました。条の番号は読みやすさのために付けたもので、原文は「一、」で始まる6つの項目です。

条原文の要点読み替えると
第1条戦と相成候時は直様二千余之兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両所相固め候事戦になれば薩摩は2,000余の兵を急いで京へ上げ、大坂にも1,000ほど置き、京と大坂を固める
第2条戦自然も我勝利と相成候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力之次第有之候との事長州が勝ちそうな気配があるときは、その節に朝廷へ申し上げて必ず尽力する
第3条万一戦負色に有之候とも、一年や半年に決て潰滅致候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度有之候との事万一負け色でも、半年や1年で潰れはしないので、その間に必ず尽力する
第4条是なりにて幕兵東帰せしときは、屹度朝廷へ申上、直様冤罪は従朝廷御免に相成候都合に屹度尽力との事戦にならず幕府の兵が東へ帰れば、朝廷へ申し上げ、長州の冤罪が免じられるよう必ず尽力する
第5条兵士をも上国の上、橋会桑等も如只今次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に及決戦候外無之との事薩摩が兵を上げたうえで、一橋・会津・桑名が今のように朝廷を抱え込み、正義を妨げて周旋の道を遮るなら、ついには決戦のほかない
第6条冤罪も御免之上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽力仕候事は不及申、いずれ之道にしても今日より双方皇国之御為め皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽して尽力可致との事冤罪が免じられたあとは、双方が誠心で力を合わせ、皇国のために尽力する。いずれにしても今日から、双方が皇威の回復を目標に誠心を尽くす

参考:坂本龍馬關係文書 第一(六か条の翻刻)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:木戸孝允文書 第二(同じ書簡の翻刻)|国立国会図書館デジタルコレクション

第2条の語尾だけは翻刻で字が割れます。『木戸孝允文書』は「候とき」、『坂本龍馬關係文書』は「候とも」で、表は前者によりました。黎明館の研究報告が引く文も「候とき」です。宮内庁書陵部の原本の字は確認していません。

読み替えの欄は筆者の現代語訳です。

六か条のうち4つは「尽力」で終わります。薩摩が約束しているのは、まず朝廷への働きかけです。

兵を動かすのは第1条の「京坂を固める」と第5条の「決戦」の2か所で、第5条が相手として名指すのは幕府全体ではなく、木戸の文面が「朝廷を擁し」ていると書く一橋・会津・桑名です。第1条は相手を書いていません。

ここは、事典の説明が割れるところでもあります。日本大百科全書は「両藩有志の秘密の約束」で「幕府討滅を明文の目的にしたものではない」と書きます。

旺文社日本史事典は「討幕のための秘密軍事同盟」、ブリタニカと山川は「攻守同盟」、世界大百科事典は「長州再征の対処案6か条」です。

同じ6つの文を読んでいるのに、名づけ方が違います。

参考:薩長連合|コトバンク

木戸は六か条の前に、なぜこの手紙を書くのかも記しています。

戦不戦とも後来之事に相係り候皇国之大事件に付、御同様に承知仕候て相違義有之候ては、終にかゝる苦身尽力も水之泡と相成

現代語訳戦になるかどうかにかかわらず、後世に関わる皇国の大事件なので、互いの理解に食い違いがあっては、これほどの苦心と尽力も水の泡になってしまう。

出典:坂本龍馬關係文書 第一(木戸孝允より龍馬へ、慶応2年1月23日)

そして、「此書状之裏へ乍失敬御返書御認め被下候て(失礼ながらこの書状の裏へ返書をお書きくださって)」送り返してほしい、と頼みました。裏書は、龍馬が勝手に書いたものではなく、木戸が求めたものでした。

参考:坂本龍馬關係文書 第一(木戸孝允より龍馬へ、慶応2年1月23日)|国立国会図書館デジタルコレクション

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龍馬の仲介は史料でどこまで確かめられる?朱の裏書と2通の手紙

史料で確かめられる龍馬の役割は、1月21日の席にいたこと、六か条の裏に2月5日に朱で「相違ない」と書いたこと、木戸が龍馬の上京で趣旨が通じたと書いたことの3つです。

龍馬が西郷や小松を説いて回った場面は、同時代の史料では今回確かめられませんでした。残っている史料は次のとおりです。

史料日付所蔵分かること
木戸孝允の手紙(六か条)慶応2年1月23日(1866年3月9日)宮内庁書陵部(木戸家文書)六か条の文面。龍馬の上京で趣旨が小松・西郷に通じたこと。裏書の依頼
龍馬の裏書(朱書き)慶応2年2月5日(1866年3月21日)同上(同じ紙の裏)六か条が小松・西郷・木戸・龍馬の同席で談じたとおりで相違ないこと
小松帯刀の手紙慶応2年2月6日(1866年3月22日)『坂本龍馬關係文書』第一に翻刻木戸あて。船の件で村田新八・川村与十郎を差し出して相談させること
木戸孝允の礼状慶応2年2月22日(1866年4月7日)京都国立博物館(重要文化財)裏書を見て安堵したこと。寺田屋の見舞い
編者の叙述1926年『坂本龍馬關係文書』第一龍馬が木戸を訪ねてなじった経過(長州側の編纂史『防長回天史』による)。入京日の1月20日は日記にもとづく編者注

参考:尺牘(龍馬裏書)|宮内庁書陵部
参考:坂本龍馬関係書状 慶応二年二月二十二日 木戸孝允より龍馬あて|文化遺産オンライン
参考:坂本龍馬關係文書 第一(編者の叙述と書簡)|国立国会図書館デジタルコレクション

龍馬の裏書は、木戸の手紙の裏の、ちょうど真ん中に書かれています(高知県立坂本龍馬記念館)。文面は短いものです。

表に御記被成候六條は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違無之候。後来といへども決して変り候事は無之は神明の知る所に御座候。丙寅二月五日 坂本龍

現代語訳表に書かれた六か条は、小松・西郷の両氏と木戸さん、龍(私)も同席して談じたところで、少しも相違ありません。今後も決して変わることがないのは、神明の知るところです。

出典:坂本龍馬關係文書 第一(龍馬の裏書、慶応2年2月5日)

「小西両氏」は小松帯刀と西郷隆盛、「老兄」は木戸を指します。龍馬自身の言葉は、同席していたことと、内容が談じたとおりであることを保証するだけです。

木戸の側にも、龍馬の働きに触れた一節があります。1月23日の手紙の冒頭です。

御上京に付候ては折角の旨趣も小西両氏等へ得と通徹、且両氏どもよりも将来見込之辺も御同座にて委曲了承仕

現代語訳あなたが上京された折に、せっかくの趣旨が小松・西郷の両氏にしっかり通じ、両氏からも将来の見込みを同じ席で詳しく聞くことができました。

出典:坂本龍馬關係文書 第一(木戸孝允より龍馬へ、慶応2年1月23日)

記念館は、龍馬が寺田屋で手を負傷していたため、2週間後の2月5日に裏書し、2月6日に手紙を添えて届けたと説明します。

木戸は2月22日の礼状で「御裏書拝見安堵仕居申候(裏書を拝見して安堵しております)」と伝えました。この礼状は京都国立博物館にあり、重要文化財です。

参考:所蔵品|高知県立坂本龍馬記念館

では、龍馬が西郷を説いた場面はどこから来たのか。『坂本龍馬關係文書』の編者は、龍馬が1月20日に京へ入り、まだ何も決まっていないと聞いて木戸をなじり、木戸が長州の側からは口を開けないと答え、その後に西郷が自ら口を開いて六か条を列した、と叙述します。

ただしこの叙述は、長州側がまとめた編纂史『防長回天史』にもとづくと編者が注記しています。龍馬の日記や桂久武の日記から1月20日という日付を補った、とも添えられています。

同時代の手紙ではなく、のちに整えられた経過です。

筆者
筆者

両手を傷めて2週間後に、筆は持てたんですか。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

寺田屋で両手をやられたあとじゃき、楽な仕事じゃなかったと言うちょこう。

朱にしたわけを聞くがか。それは内緒ぜよ。

筆者
筆者

結ばせた、とは一言も書いていませんね。書く気はなかったのですか。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

ほう、鋭いのう。わしが書いたがは、席におったことと、中身に相違がないことだけじゃ。

手柄話は裏書に書くもんじゃないき。

誰が偉いかより、紙が残ったことのほうが面白いと思わんか。

筆者
筆者

思います。紙が残っているから、いまこうして確かめられます。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

ほうじゃろう。

それなら、傷めた手で朱を入れた甲斐があったちゅうもんぜよ。

この場面を漫画で読むなら、『お〜い!竜馬』があります。薩長同盟から寺田屋までがどの巻に描かれているかは、龍馬の漫画をまとめた記事で確かめています。漫画の龍馬が、木戸の手紙の龍馬よりどこで一歩前に出るか。見比べる楽しみがあります。

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小松帯刀・西郷隆盛・木戸孝允・中岡慎太郎は何をした?事典が書く役割

約束を結んだのは薩摩の小松帯刀と西郷隆盛、長州の木戸孝允の3人で、龍馬と中岡慎太郎はその間に立った人です。事典は、龍馬と中岡の働きを「周旋」「斡旋」「仲介」「立会い」と、少しずつ違う言葉で書いています。

当事者と周旋者(事典の記述から)
  • 小松帯刀(1835〜1870年)|薩摩藩の家老。1862年に家老となり、1866年に西郷とともに木戸と盟約を結ぶ(日本大百科全書)。京都の寓居が締結地とする研究がある。満34歳(数え36歳)で大坂に没
  • 西郷隆盛(1828〜1877年)|薩摩藩士。第1次長州征討では手を下さずに制圧する策を主張(世界大百科事典)。1866年に小松とともに木戸と六か条を結ぶ
  • 木戸孝允(1833〜1877年)|長州藩士。初めの名は桂小五郎。「京都の薩摩藩邸で小松帯刀・西郷隆盛と薩長同盟を結び」(世界大百科事典)。六か条を書き残した人
  • 坂本龍馬(1836〜1867年)|土佐藩を脱藩した志士。事典は両藩の間を周旋したと書く。史料で確かめられるのは成立の席にいたことと裏書
  • 中岡慎太郎(1838〜1867年)|土佐藩を脱藩した志士。「薩長同盟を構想し、坂本竜馬とともに奔走」(世界大百科事典)。日本大百科全書は「坂本龍馬の協力により同盟を成功させた」と書く

参考:小松帯刀|コトバンク
参考:木戸孝允|コトバンク
参考:中岡慎太郎|コトバンク

中岡慎太郎の項を読むと、「薩長同盟」の項とは主役が入れ替わっています。日本大百科全書は中岡が「坂本龍馬の協力により」同盟を成功させた、と書きます。世界大百科事典では、中岡が同盟を「構想」した人です。

龍馬と中岡の2人を、事典は「坂本龍馬・中岡慎太郎の周旋」とひとまとめにすることが多いのですが、人物の項目ごとに読むと、どちらを主語にするかで書き方が変わっています。

小松帯刀は、1866年の時点で満30歳の家老でした。京都観光Naviは、小松が西郷隆盛と大久保利通を登用し、亀山社中と龍馬を支援したと紹介します。

木戸は1月23日の手紙で、船の件について「小松大夫呑込呉不申候ては実以困迫(小松殿が呑み込んでくれなければ本当に困る)」と漏らしています。船の件で、長州側が了解を求めた相手が小松だったことが分かる一節です。

参考:龍馬ゆかりの地 エリア6|京都観光Navi
参考:坂本龍馬關係文書 第一(木戸孝允より龍馬へ、慶応2年1月23日)|国立国会図書館デジタルコレクション

この船は、木戸の手紙では「乙丑丸」と呼ばれています。薩摩の名義で買われ、亀山社中が動かした船で、薩摩側では桜島丸、ユニオン号の名でも知られます。

参考:坂本龍馬關係文書 第一(木戸孝允より龍馬へ、慶応2年1月23日)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:ユニオン号|Wikipedia

西郷隆盛の生涯は、こちらへ。

「龍馬が主役」は史料どおり?事典・記念館・研究者の書き方を比べる

「龍馬が薩長同盟を結ばせた」という像は、史料よりも強い言い方です。事典は「周旋」、記念館は「立会い」、2018年の町田明広氏の研究書は「証人」と書きます。仲介の活動、会談への立会い、合意内容の保証のどこを重く見るかが、資料によって異なります。

資料龍馬の位置づけ書き方
改訂新版 世界大百科事典(コトバンク)周旋坂本龍馬と中岡慎太郎の周旋で、小松・西郷と桂が締結
日本大百科全書「薩長連合」立会い坂本龍馬の立会いのもと、小松・西郷と木戸が交渉
山川 日本史小辞典斡旋・仲介両名の斡旋で武器購入。坂本らの仲介で締結
高知県立坂本龍馬記念館立会い龍馬立会いのもとに盟約が成立。木戸の手紙を、小松と西郷を「徹底的に説得してくれた」ことへの謝意と読む
高橋秀直(『史林』88巻4号、2005年)周旋同盟は慶応元年9月に成立しており、六か条はその展開の一段階。龍馬の周旋による妥協(抄録)
町田明広『薩長同盟論』(人文書院、2018年)証人1月18日段階で小松と木戸の間で大筋が決まり、遅れて来た龍馬を木戸が証人とした。「小松・木戸覚書」と呼ぶのが妥当(大学のプレスリリース)
伊東潤(PRESIDENT Online、2026年)薩摩側の使者「立役者ではないが、仲介者ではあった」

参考:坂本龍馬は薩長同盟締結時には仲介役ではなかった(プレスリリース)|神田外語大学
参考:薩長同盟の展開 六ヶ条盟約の成立|京都大学学術情報リポジトリ
参考:龍馬はあくまで「薩摩側の使者」|PRESIDENT Online

町田氏と高橋氏の研究は、別の方向から同じことを言っています。六か条は、1月21日にゼロから生まれた約束ではない、という点です。高橋氏は前年の9月に同盟は成立していたとし、町田氏は3日前の18日に大筋が決まっていたとします。

一方で、木戸自身は龍馬の上京で趣旨が小松・西郷に「通徹」したと書き、裏書を龍馬に求めました。龍馬が何もしなかった、という話でもありません。

龍馬が木戸をなじった場面は、長州側の編纂史による叙述でした。その場面から組み立てると、龍馬は主役になります。木戸の手紙と裏書からは、同席と内容の保証が確かめられます。交渉にどこまで関わったかは、解釈が分かれます。

筆者
筆者

龍馬さんの没後ですが、2018年に、あなたは仲介役ではなく証人だった、という本が出ました。木戸さんが書いた「六條」も、同盟ではなく覚書と呼ぶべきだと。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

証人か。悪うない肩書きじゃのう。

仲介役でも証人でも、あの席におったことは変わらんぜよ。

覚書ちゅう呼び名は木戸さんに聞いてみんといかん。あの人は手紙が長いき、返事に半日はかかるじゃろう。

研究者の見方を本1冊で読むなら、町田明広氏の一般向けの新書があります。上の表の『薩長同盟論』とは別の本です。

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薩長同盟のあと何が起きた?寺田屋・第2次長州征討・将軍の死

六か条のあと、薩摩は幕府の第2次長州征討への出兵を拒み、幕府軍は長州に敗れ、将軍家茂は大坂城で亡くなりました。その前に、龍馬自身の身にも事件が起きています。

六か条からの半年
  • 慶応2年1月23日(1866年3月9日)|木戸が大坂で六か条を書く。同じ日の深夜、伏見の寺田屋で龍馬が捕り方に襲われ、両手を負傷
  • 2月5日(3月21日)|龍馬が朱で裏書
  • 2月22日(4月7日)|木戸が龍馬へ礼状。裏書を見て安堵し、寺田屋の見舞いを書く
  • 6月7日(7月18日)|第2次長州征討が大島口で始まる。14日芸州口、16日石州口、17日小倉口と続く(日本大百科全書)
  • 7月20日(8月29日)|将軍徳川家茂が大坂城で死去。満20歳
  • 9月2日(10月10日)|幕府と長州が休戦協定を結ぶ(世界大百科事典)

参考:長州征伐|コトバンク
参考:坂本龍馬関係書状 慶応二年二月二十二日 木戸孝允より龍馬あて|文化遺産オンライン

寺田屋の襲撃は、六か条の2日後でした。木戸が大坂で手紙を書いたのと同じ1月23日の深夜です。ただし、捕り方が同盟を知って踏み込んだと示す記録は、今回読んだ範囲にはありません。襲撃の夜のことは、別の記事で3人の記録から確かめています。

薩摩が出兵を拒んだことは、精選版 日本国語大辞典と世界大百科事典の「長州征伐」の項にあります。六か条の第1条は「戦になれば兵を京へ上げる」でしたが、事典が記す実際の薩摩の動きは、出兵の拒否と、幕府の権威回復を妨げようとしたことでした。

幕府軍は洋式の武器を備えた長州軍に苦戦しました。将軍家茂が7月20日に大坂城で亡くなると、それを機に休戦へ進みます。世界大百科事典は、第2次長州征伐の失敗で「幕威は地に落ち」、薩長の盟約は倒幕へ進んだと結んでいます。

参考:薩長同盟|コトバンク

家茂の死因と最期は、別の記事で確かめています。

筆者
筆者

第1条の2,000の兵が京へ上ったという話は、事典に出てきません。薩摩は幕府の出兵命令を断りました。あの兵の話はどこへ行ったんでしょう。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

そこはおまんが調べてくれ。

幕府の言うことを薩摩が聞かんかった。それだけで日本の絵はずいぶん変わったろうのう。

大きい話は、紙の一条より先を走るもんぜよ。

その後の大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦いへと続く流れは、それぞれ別の記事で追っています。

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薩長同盟の流れを年表で確認(和暦・西暦)

六か条が結ばれたのは、長州が朝敵となってから1年半後、幕府の再征が始まる4か月半前でした。西暦の日付は、国立天文台の暦日データベースで和暦の月日を換算したものです。

和暦西暦出来事
文久3年8月18日1863年八月十八日の政変。薩摩・会津が長州勢を京都から追う
元治元年7月1864年禁門の変。長州は朝敵となる
元治元年12月27日1865年1月24日第1次長州征討の撤兵令。長州の恭順を受け、幕府軍は戦わずに引く
慶応元年3月1865年高杉晋作らの挙兵で、長州の藩論が対決へ
慶応元年9月1865年幕府が長州再征の勅許を得る
慶応2年1月20日1866年3月6日龍馬が京へ入る(編者注:桂久武の日記と龍馬の日記による)
慶応2年1月21日1866年3月7日薩長同盟。小松・西郷と木戸が六か条を結ぶ
慶応2年1月22日1866年3月8日木戸、この日まで京に滞在(編者注:龍馬の日記による)
慶応2年1月23日1866年3月9日木戸が大坂で六か条を書き、龍馬に裏書を求める。同夜、寺田屋事件
慶応2年2月5日1866年3月21日龍馬が朱で裏書
慶応2年2月22日1866年4月7日木戸が龍馬へ礼状
慶応2年6月7日1866年7月18日第2次長州征討が始まる
慶応2年7月20日1866年8月29日将軍家茂が大坂城で死去
慶応2年9月2日1866年10月10日幕府と長州が休戦協定
慶応3年11月15日1867年12月10日龍馬が近江屋で死去。中岡は17日

参考:日本の暦日データベース|国立天文台

締結日として1月22日という日付を見かけることがありますが、事典と記念館はそろって21日です。

22日は、『坂本龍馬關係文書』の編者が、叙述の「翌夜」を22日とみる可能性を注記し、龍馬の日記によれば木戸は22日まで京にいたと添えた日です。

編者注はもう1つ、龍馬が京に入ったのは20日で、木戸が翌日に帰ろうとしていた前日だった、とも記します。龍馬が着いてから六か条が結ばれるまでは、長く見ても2日です。

参考:坂本龍馬關係文書 第一(編者注)|国立国会図書館デジタルコレクション

龍馬の全体像は次の記事にあります。

角川の『まんが人物伝 坂本龍馬』は、第4章を「薩長同盟の成立」とし、監修者のポイントでも龍馬の大きな功績に「薩長同盟の成立を仲介したこと」を挙げています。この学習まんがの龍馬は、いまも仲介者です。

子どもと読むときは、この記事の表と見比べてみてください。

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よくある質問(FAQ)

薩長同盟とは何ですか?簡単に教えてください

慶応2年1月21日(1866年3月7日)に京都で、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が結んだ六か条の約束です。幕府が長州を攻めたときの薩摩の動きと、長州の冤罪回復への尽力が書かれています。坂本龍馬と中岡慎太郎が間に立ちました。

薩長同盟はいつ結ばれましたか?

慶応2年1月21日で、西暦では1866年3月7日です。事典と高知県立坂本龍馬記念館がこの日付で一致しています。木戸は翌22日まで京にいました。

薩長同盟は誰と誰が結んだのですか?

薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)です。間に立ったのは土佐藩を脱藩した坂本龍馬と中岡慎太郎で、龍馬は六か条の裏に「相違ない」と朱で書きました。

薩長同盟の目的は何ですか?

六か条から読めるのは、第2次長州征討に備えて薩摩が兵を京へ上げること、朝廷へ働きかけること、長州の冤罪を免じてもらうことです。「倒幕」の文字はなく、事典の見方も、討幕を明文の目的にしないとするものと「討幕のための秘密軍事同盟」とするものに分かれます。

薩長同盟はどこで結ばれましたか?

京都です。事典は「薩摩藩邸」、2018年の研究書と鹿児島県は「小松帯刀邸」とします。小松の屋敷については、近衛家の別邸「御花畑」とする説明があります。一条通堀川に建っていた「小松帯刀寓居参考地」の碑は、2015年に撤去されています。

薩長同盟で坂本龍馬は何をしたのですか?

史料で確かめられる範囲は、成立の席にいたこと、六か条の裏に2月5日付で朱書きして内容を保証したこと、木戸が龍馬の上京で趣旨が通じたと書いたことです。事典はこれを「周旋」「立会い」と書きます。龍馬が西郷を説いた場面は、長州側の編纂史にもとづく叙述です。

薩長同盟と薩長盟約、薩長連合の違いは何ですか?

同じ出来事の呼び名の違いです。世界大百科事典は「薩長同盟」、日本大百科全書と山川 日本史小辞典は「薩長連合」を見出しにし、デジタル大辞泉は「薩長盟約」も挙げます。当事者の木戸は手紙で「六條」と呼んでいました。

薩長同盟の裏書はどこにありますか?

宮内庁書陵部に、木戸家文書の一部として伝わっています。巻子本1軸です。木戸が龍馬に送った2月22日付の礼状は重要文化財で、京都国立博物館にあります。

薩長同盟のあと、龍馬はどこで襲われましたか?

伏見の寺田屋です。六か条の2日後、慶応2年1月23日(1866年3月9日)の深夜に、伏見奉行所の捕り方に襲われ、両手を負傷しました。

インタビュー後記 真ん中に書かれた朱

木戸の手紙の裏に、龍馬の朱書きがあります。記念館の説明では、裏の、ちょうど真ん中です。

木戸は、互いの理解に食い違いがあれば苦心が水の泡になると書いて、裏書を頼みました。

寺田屋で両手を傷めてから2週間後に書いたものです。裏書は短い保証文で、それを裏の端ではなく真ん中に据えた。頼まれた仕事を軽く扱わない人だと、私は読みます。

龍馬が裏書に記した「御同席にて談論せし所にて毛も相違無之候」という一節を、私は重く受け止めます。その席にいて、内容を保証した。それだけで十分に大きな仕事です。

小松や西郷は、この約束を何と呼んでいたのか。2月6日の小松の手紙には船の話しか出てきませんでした。木戸の「六條」に並ぶ言葉を、薩摩側のほかの手紙から探してみます。

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