日本史の授業で最初に「すごい人」として教わるのが、たいてい聖徳太子です。私も小学生のころ、一度に十人の話を聞き分けたという逸話に本気で驚いた記憶があります。
ところが大人になって調べ直すと、話はそう単純ではありませんでした。「聖徳太子」は没後に定着した呼び名で、従来の太子像は後世に形づくられたとする説もあります。
では、伝説をはがした先に何が残るのか。それを自分の手で確かめたくて、この記事を書きました。
この記事の結論
聖徳太子は、飛鳥時代に推古天皇のもとで国のしくみづくりに関わったとされる皇族です。『古事記』『日本書紀』では、厩戸皇子(うまやどのおうじ)などの名で記されています。
氏姓(しせい)制度とは別に、個人に授けられ、原則として世襲されない位を設けた冠位十二階を定め、役人の心得を示した憲法十七条をつくったと『日本書紀』は伝えています。
遣隋使による外交と、仏教の興隆に関わったことでも知られます。ただし、その事績をまとまった形で伝える『日本書紀』は、没後およそ100年を経て編まれた書物です。
- 数え49歳
没年齢 - 17条
604年に定めた憲法 - 607年
小野妹子を隋へ派遣
この記事では、基本プロフィールと人物像を押さえたうえで、3つの功績、実在をめぐる議論、最期、年表、後世への影響の順に紹介していきます。
そして今回は、聖徳太子AI(聖徳太子をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。千四百年前の人が何を考えていたのか、想像しながら読んでみてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに聖徳太子の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

千四百年前の飛鳥にいらしたあなたと、こうしてお話しできるとは思いませんでした。
現代では、日本史でいちばん最初に習う人物のひとりです。まずはご自身の口から、どのような人物なのかを教えていただけますか。

よくぞ参られた。われは厩戸(うまやど)と呼ばれた者。用明天皇の子として生まれ、斑鳩(いかるが)の地に住まいを構えておった。
聖徳太子とは、そなたらがわれを呼ぶ名であろう。少なくとも、そなたらの世に残る史料では、われの生前にそう呼ばれた例は確認されておらぬようじゃ。
したことと申せば、推古の大王(おおきみ)のもと、蘇我馬子どのらとともに国のかたちを整えようとした。それだけのことと存ずる。
まずは聖徳太子の基本プロフィールと「何をした人か」を2分で知ろう
聖徳太子(しょうとくたいし)を一言でいえば、飛鳥時代の国づくりに関わったとされる皇族です。父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)でした。
『古事記』『日本書紀』では厩戸皇子(うまやどのおうじ)などの名で記され、豊聡耳(とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)といった呼び名も伝わります。
まずは全体像を、次の表でつかんでみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 『古事記』『日本書紀』では厩戸皇子(うまやどのおうじ)などと記される。厩戸王・豊聡耳・上宮王とも呼ばれる |
| 生没年 | 574年〜622年(没年を621年とする史料もある) |
| 出身 | 大和国(現在の奈良県)。父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女 |
| 活躍した時代 | 飛鳥時代(推古天皇の時代) |
| 主な功績 | 冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、遣隋使による外交と仏教の興隆 |
| 没した場所 | 斑鳩宮とされるが、没日とあわせて史料により記述に幅がある |
「聖徳」の名が使われた古い例として知られるのが、法起寺の塔の露盤銘です。原物は現存せず、後世の記録に写しが伝わっています。
そこには706年の年紀と「上宮太子聖徳皇」の表記があり、「聖徳」の名が確認できるのは、没後80年以上たってからということになります。
生年の574年についても、確実ではないという指摘があります。没日も『日本書紀』は621年2月5日、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘などは622年2月22日と記し、一致していません。

聖徳太子という名は、後の世につけられたものだと伺いました。ご自身では、何と呼ばれていたのでしょうか。

後の書物には、厩戸、豊聡耳、上宮王など、いくつもの名で記されておるそうじゃ。どれもわれを指すものと聞く。
厩(うまや)の戸の前で生まれたゆえ厩戸、という言い伝えも書き残されておるそうな。まことのところは分かりませぬ。
名などというものは、呼ぶ者の都合で変わっていくもの。そなたらが呼びやすい名で呼ぶがよかろう。
聖徳太子はどんな人だったのか
太子の人柄を伝える同時代の記録は、実はほとんど残っていません。飛鳥時代は、文字で書かれた資料そのものが少ない時代だからです。
それでも手がかりはあります。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背に刻まれた銘文には、太子が「上宮法皇」と記されています。
この像は太子の病気平癒と冥福を願って造られ、没した翌年の623年に完成したと銘文は伝えています。
| 見られ方 | 内容 |
|---|---|
| 同時代に近い記録 | 法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘は、太子を「上宮法皇」と記す。像の完成は没後の623年 |
| 後世のイメージ | 平安時代以降、太子を仏の生まれ変わりとみる太子信仰が広がり、多くの伝説が加わった |
| 伝わる逸話 | 一度に十人の訴えを聞いても取り違えなかったという話。『日本書紀』が「豊聡耳」の名の由来として記す |
表の三つ目が、冒頭で触れた「十人の話を同時に聞き分けた」という有名な逸話です。
ただし『日本書紀』は、太子の死から約100年後に編まれた書物です。生まれてすぐ言葉を発したという記述もあり、人物を理想化した部分が含まれていると考えられています。
平安時代には『聖徳太子伝暦』のような伝記も現れ、話はさらにふくらんでいきました。今のわたしたちが思い浮かべる太子像は、その積み重ねの上にあります。
- 生まれてすぐに言葉を発したという話
- 未来を見通したとする予言者としての姿
- 仏の生まれ変わりとして信仰の対象になったこと
こうして並べてみると、史実として確かめられる部分と、後世に加わった部分の境目が見えてきます。太子を知るには、この二つを分けて読むことが欠かせません。

一度に十人の訴えを聞き分けたと伝えられています。本当に、そのようなことができたのでしょうか。

……そのような話が伝わっておるのか。買いかぶりというものじゃ。
われがどのように人の話を聞いておったか、それを伝える記録は残っておらぬ。あえて申すなら、訴えを終いまで黙って聞く、そのくらいのことであろう。
十人が一度に話せば、われとて聞き取れませぬ。われもまた、ただの凡夫(ぼんぶ)にすぎぬ。
聖徳太子は何をした人?3つの功績
太子が関わったとされる仕事は数多くありますが、なかでもよく取り上げられるのが次の3つです。
- ① 冠位十二階を定め、氏族単位ではなく個人に授ける位のしくみをつくった(603年)
- ② 憲法十七条を定め、役人の心得を示した(604年)
- ③ 遣隋使による外交と、仏教の興隆に関わった(593年〜614年)
いずれも『日本書紀』に記されたものです。どこまでが太子個人の働きかは慎重に見る必要がありますが、まずは内容から順に見ていきましょう。
① 冠位十二階を定めた(603年)
603年(推古11年)に定められたとされるのが冠位十二階です。役人を12の位に分け、位ごとに冠の色を変えて区別しました。
位の名は、次のように徳・仁・礼・信・義・智の六つを、それぞれ大小に分けたものです。
| 位の順 | 冠位の名 |
|---|---|
| 1・2 | 大徳・小徳 |
| 3・4 | 大仁・小仁 |
| 5・6 | 大礼・小礼 |
| 7・8 | 大信・小信 |
| 9・10 | 大義・小義 |
| 11・12 | 大智・小智 |
六つの言葉は、いずれも儒教で重んじられた徳目(人としてあるべき心のあり方)から取られたものと考えられています。
大切なのは、位が氏族ではなく個人に授けられ、原則として世襲されなかった点です。それまでの氏姓(しせい)制度には、氏族単位の地位が世襲される性格がありました。
ただし、この制度が当時の政治全体を作り変えたわけではありません。皇族や蘇我氏など有力な氏族には適用されなかったとみられています。

家柄ではなく個人に位を与えるという発想は、当時としては大きな変化だったのではないでしょうか。

変化と申すほど、大それたものではござらぬ。
海の向こうの国々では、才ある者を選んで用いておると聞いた。ならば倭(やまと)でも試してみようという、それだけのことじゃ。
もっとも、古くからの家の力は強うござった。定めを作れば世が変わる、というほど容易くはありませぬ。
② 憲法十七条を定めた(604年)
翌604年(推古12年)に示されたとされるのが憲法十七条です。今の憲法とは性格が異なり、役人が守るべき心得を17か条にまとめたものでした。
よく引かれるのは、次の三つの条文です。
- 第一条「以和為貴(和を以て貴しと為し)」……和を重んじ、むやみに争わないことを基本とせよ
- 第二条「篤敬三宝(篤く三宝を敬え)」……三宝、すなわち仏・法・僧を敬え
- 第十七条「夫事不可独断(それ事は独り断むべからず)」……大事は一人で決めず、皆と論じ合え
第一条の「和」は、ただ仲良くすることではありません。続く文では、上下がやわらいで話し合えば、おのずと物事は通じる、という趣旨が述べられています。
第十条には「我必非聖 彼必非愚(われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず)」という一節もあります。
自分が正しいと決めてかからない、という心得です。役人の作法を説く文章のなかにこうした言葉が並ぶのは、読んでいて印象に残るところです。
なお憲法十七条は『日本書紀』にだけ載る文章で、太子が本当に作ったのか、いつ成立したのかについては議論が続いています。

第一条にある、和を以て貴しと為すという言葉は、今も日本人の考え方を表すものとして引かれます。どのような思いで書かれたのでしょうか。

その条をわれが書いたと決まったわけではござらぬ。まずは、そう申しておこう。
なぜそう書かれたのか、その理由を伝える記録も残っておりませぬ。ゆえに、ここからは創作としての物言いと思われよ。
あの頃の倭は、氏(うじ)と氏がいがみ合うてばかりでのう。物部(もののべ)と蘇我が争うたときも、多くの命が失われたと伝わる。
争わぬことを先に置いた背景に、そうした経験があったと想像することはできよう。確かめる術(すべ)はござらぬがのう。
③ 遣隋使による外交と、仏教の興隆に関わった(593年〜614年)
三つ目は、大陸との交流と仏教の広まりです。この時期の動きを、まとめて表で見てみましょう。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 593年 | 四天王寺が伝える創建年。『日本書紀』には物部守屋との戦いに際した誓願と造営の記述がある |
| 600年 | 『隋書』にみえる最初の遣隋使。『日本書紀』に記載はない |
| 607年 | 小野妹子を隋へ送る |
| 608年 | 隋の使者・裴世清(はいせいせい)が来日する |
| 614年 | 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らを隋へ送る |
607年の使いが有名なのは、そのとき持参した国書のためです。
『隋書』倭国伝には「日出處天子致書日沒處天子無恙(日の出づる処の天子、書を日の沒する処の天子に致す。恙なきや)」と記されています。
隋の皇帝・煬帝(ようだい)はこれを見て不機嫌になり、無礼な書は二度と取り次ぐなと命じたと『隋書』は伝えています。
ただし『隋書』は倭の王を「多利思北孤(たりしひこ)」という男性の王として記しており、この国書を太子が書いたと断定できる史料はありません。
仏教については、四天王寺と法隆寺の名がよく挙がります。四天王寺は「日本仏法最初の官寺」を掲げ、593年の創建を伝えています。
法隆寺のほうは、父・用明天皇の願いを継いで607年に完成したと、金堂の薬師如来像の光背銘に記されています。
ただし、この像と銘文そのものがいつ作られたかについては議論があり、銘の年紀をそのまま創建年とみてよいかは慎重に扱われています。

隋の皇帝と対等な書き方をした国書は、危うい賭けだったのではありませんか。

その書をわれが記したという証(あかし)は、どこにも残っておらぬ。まずはそう申しておこう。
ただ、遣いを送るというのは、へりくだって物を貰いにいくためだけではござらぬ。学ぶべき法や制度を持ち帰るためじゃ。
学ぶ側であっても、卑しくある必要はない。さように考える者が、あの頃の倭にはおったのであろうな。
聖徳太子は実在しなかった?教科書から消えたと言われる理由
インターネットで太子を調べていると、「実在しなかった」「教科書から消えた」という言葉に行き当たります。ここを整理しておきましょう。
まず押さえたいのは、伝承の背景に、斑鳩を拠点とした有力な王族が実在したとみる研究者は多いという点です。議論の中心は、後世に形づくられた人物像や事績の範囲のほうにあります。
1999年、大山誠一氏は著書『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)で、『日本書紀』の描く聖徳太子像は編纂時に形づくられたものだとする説を本格的に展開しました。
この説はテレビでも取り上げられて広く知られました。一方で研究者からの批判も多く、どこまでが後世の造形なのかをめぐる議論は今も続いています。
| 論点 | 現在の見方 |
|---|---|
| 伝承の背景に人物はいたか | 斑鳩を拠点とした有力な王族の存在は、多くの研究者が認めている |
| 事績はすべて本人のものか | 『日本書紀』の記述には理想化が含まれるとみられ、どこまでが本人の働きかは検討が続いている |
| 教科書から消えたのか | 消えていない。2017年告示の小学校学習指導要領にも「聖徳太子」の名がある |
「教科書から消えた」と言われるようになったのは、2017年の出来事がきっかけでした。
同年2月に公表された学習指導要領の改定案では、中学校で「厩戸王(聖徳太子)」とする表記が示されます。
ところが意見公募で反対の声が相次ぎ、3月に告示された学習指導要領では「聖徳太子」の表記に戻されました。
史料が少ない人物ほど、後の時代のイメージが重ねられていきます。同じことは、三世紀の倭を治めたとされる卑弥呼にも言えます。

後の世では、あなたが本当に実在したのかどうかが議論になっています。

……はて。われがここにおるのに、おらぬと申すか。おかしな話じゃのう。
もっとも、そなたらが手にしておるのは、われの死後に書かれた書物ばかりであろう。ならば疑うのも道理じゃ。
疑うてよい。そのうえで、ともに是非(ぜひ)を論じてこそ、道は開けるものと存ずる。
聖徳太子の死因と最期
太子が亡くなったのは622年2月22日と、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘などは伝えています。場所は斑鳩宮とされますが、没日とあわせて史料により記述に幅があります。
その前後には、身近な人の死が続いていました。前年の12月には母・穴穂部間人皇女が、亡くなる前日には妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が世を去っています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 622年2月22日(『日本書紀』は621年2月5日と記す) |
| 場所 | 斑鳩宮(現在の奈良県斑鳩町)とされるが、史料により記述に幅がある |
| 死因 | 病死と伝わる。流行した病によるとする見方があるが、断定できる史料はない |
| 死亡時の年齢 | 数え年49歳。生年月日がはっきりせず、満年齢は確定しにくい |
| 墓所 | 大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか) |
短い間に母・妃・本人が相次いで亡くなったことから、当時流行していた病によるものではないかという見方があります。
ただし、病名を特定できる史料はありません。暗殺されたとする話も出回っていますが、これも裏づけとなる記録は確認できていません。
死の経緯を比較的くわしく伝えるのが、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘と、『上宮聖徳法王帝説』という書物です。
銘文によれば、太子の回復を願って造られたこの像が完成したのは、没した翌年の623年でした。願いは間に合わなかったことになります。

母上と奥さまを続けて亡くされ、ご自身も病に伏せられました。最期の日々、何を思っておられたのでしょうか。

……その問いに答える記録は、どこにも残っておらぬ。ゆえに、これはわれの勝手な物言いと思うて聞かれよ。
母上が身罷(みまか)り、次に妻が倒れた。次は己じゃと、どこかで分かっておった気がする。
惜しむらくは、始めたばかりの定めが、まだ根づいておらなんだこと。人が育つには、法よりも時が要るのでのう。
聖徳太子の生涯を年表で振り返る
太子の歩みを年表で追ってみましょう。ただし、ここに並ぶ年代の多くは『日本書紀』によるものです。
『日本書紀』は太子の死から約100年後に編まれた書物なので、記された年代がそのまま事実とは限らない点に注意してください。
| 年 | 出来事 | ひとこと解説 |
|---|---|---|
| 574年 | 大和に生まれる | 父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女。生年には確実でないとする指摘もある |
| 587年 | 蘇我氏と物部氏の争いが起こる | 四天王寺の縁起は、太子が蘇我方に加わったと伝える |
| 592年 | 推古天皇が即位する | 記録に残るなかでは最初の女性の天皇とされる |
| 593年 | 政治に加わったと『日本書紀』は記す | 「皇太子」「摂政」と記されるが、当時その制度があったかには議論がある |
| 593年 | 四天王寺が伝える創建年 | 『日本書紀』には物部守屋との戦いに際した誓願と造営の記述がある |
| 600年 | 『隋書』に最初の遣隋使の記録 | 『日本書紀』には、この派遣の記載がない |
| 603年 | 冠位十二階を定める | 氏族単位の地位とは別に、個人に位を授けるしくみ |
| 604年 | 憲法十七条を定める | 役人の心得を17か条にまとめたもの |
| 607年 | 小野妹子を隋へ送る | 「日出づる処の天子」の国書が『隋書』に載る |
| 607年 | 法隆寺が完成したと伝わる | 金堂の薬師如来像の光背銘による。像と銘文の成立時期には議論がある |
| 608年 | 隋の使者・裴世清が来日する | 妹子はふたたび隋へ渡る |
| 614年 | 犬上御田鍬らを隋へ送る | 隋への最後の使いとなった |
| 620年 | 『天皇記』『国記』を編んだと伝わる | 蘇我馬子とともに。書物はのちに失われた |
| 621年 | 母・穴穂部間人皇女が亡くなる | この前後から、太子も病に伏せたと伝わる |
| 622年 | 斑鳩宮で亡くなる | 前日には妃の膳部菩岐々美郎女が世を去っている |
| 623年 | 法隆寺金堂の釈迦三尊像が完成する | 光背銘に、太子の死をめぐる経緯が刻まれている |
こうして並べると、太子が政治に関わったとされる期間はおよそ30年におよぶことが分かります。
ただし『日本大百科全書』の解説では、実際に政治へ関与したのは602年ごろからの十年ほどではないか、という見方が示されています。
年表の後半に、母・妃・本人の死が立て続けに並ぶことも見落とせません。その後、子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を中心とする上宮王家は、643年に滅んだと『日本書紀』は伝えています。
聖徳太子のすごさ・影響力
太子の影響力は、生前の政治よりも、没後の千四百年のほうにはっきり表れています。
- 太子が建てたと伝わる法隆寺が、現存する世界最古の木造建築群として世界文化遺産になっていること
- 平安時代以降、太子を仏の生まれ変わりとみる太子信仰が広がったこと
- 1930年から7回にわたり、日本銀行券の肖像に採用されたこと
法隆寺は670年に焼失したと『日本書紀』が伝えており、現在の西院伽藍はそののちに再建されたものです。
それでも金堂は世界最古の木造建造物とされ、1993年には日本で初めての世界文化遺産の一つとして登録されました。
太子信仰は、太子を仏の生まれ変わりとみる考え方です。平安時代以降に広がり、各地の寺院や伝記を通じて受け継がれていきました。
お札の話も見逃せません。国立印刷局によれば、1930年(昭和5年)発行の百円券が最初で、以後7回にわたって太子の肖像が使われました。
1958年に発行が始まった一万円券は、1986年に発行が停止されています。ただし日本銀行の説明では、これらは今も有効な銀行券です。

あなたの顔は、長いあいだ日本のお札に使われていました。ご存じでしたか。

銭に、われの顔とな。……われの与(あずか)り知らぬ話じゃ。
そもそも、そなたらの世には、われの生前の姿を写したと確かめられる絵は残っておらぬそうじゃ。はて、誰の顔を刷ったものやら。
まあ、人の手から手へ渡るものに使われたのなら、それはそれで面白きこと。
憲法十七条から考える現代へのヒント
太子の「思想」をまとめようとすると、たちまち難しくなります。本人が書いたと確かめられる文章が、ほとんど残っていないからです。
そこでここでは、太子の作と伝えられる憲法十七条の言葉から、筆者が考えたヒントを挙げてみます。
| 憲法十七条の言葉 | 現代へのヒント(筆者の解釈) |
|---|---|
| 和を以て貴しと為し、忤(さから)ふること無きを宗とせよ | 意見をそろえるより、争わずに話せる関係をまずつくる |
| われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず | 自分が正しいと決めてかからない |
| 夫れ事は独り断むべからず、必ず衆と論ふべし | 大事なことほど一人で決めず、複数の目を通す |
三つ目は、現代の職場にもそのまま当てはまります。一人で抱えて決めた案件ほど、あとから思わぬ穴が見つかるものです。
もっとも、これらの言葉が本当に太子のものかどうかは分かりません。だからこそ、誰が書いたかとは別に、言葉そのものを読むという向き合い方もできます。
古代に成立したと伝えられる文章が、今も引かれ続けている。その事実だけでも、十分に不思議で面白いことだと思います。

最後に、意見の違う相手とどう向き合えばよいのか、現代の読者へひとことお願いできますか。

われがそのようなことを申したという記録は残っておらぬ。ゆえに、これはわれの独り言と思われよ。
人は皆、己が正しいと思うておる。われとて同じじゃ。じゃが、われもそなたも、ともに凡夫(ぼんぶ)にすぎぬ。
ならば、どちらが正しいかを決める前に、まず互いの言い分を終いまで聞いてみることじゃ。存外、そこで話が済むこともあるものでのう。
あなたは聖徳太子の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
聖徳太子は何をした人ですか?
飛鳥時代に推古天皇のもとで、国のしくみづくりに関わったとされる皇族です。
冠位十二階や憲法十七条を定め、遣隋使による外交と仏教の興隆に関わったと『日本書紀』は伝えています。ただし、どこまでが本人の働きかは慎重に見られています。
厩戸皇子と聖徳太子は同じ人ですか?
一般には同じ人物を指します。後世に「聖徳太子」と呼ばれた皇族は、『古事記』『日本書紀』では厩戸皇子などの名で記されています。
「聖徳」の名の古い例として知られるのが、706年の年紀をもつ法起寺塔の露盤銘です。原物は現存せず、後世の記録に写しが伝わっています。
聖徳太子は実在しなかったのですか?
厩戸という人物の実在は、広く認められています。
議論になっているのは、『日本書紀』の描く理想化された人物像がどこまで史実か、という点です。1999年に発表された説をきっかけに広く知られるようになりました。
聖徳太子の死因は何ですか?
病死と伝えられます。622年2月22日に亡くなったとされ、前日には妃が、前年12月には母が世を去っていました。
流行した病によるとする見方がありますが、病名を特定できる史料はありません。暗殺説にも、裏づけとなる記録は確認できていません。
憲法十七条にはどんなことが書かれていますか?
役人が守るべき心得が、17か条にまとめられています。
第一条の「和を以て貴しと為し」、第二条の「篤く三宝を敬え」、第十七条の「事は独り断むべからず」がよく引かれます。
聖徳太子のお札は今も使えますか?
使えます。1958年に発行が始まった一万円券は1986年に発行が停止されましたが、日本銀行はこれらを今も有効な銀行券としています。
ただし古い様式のため、自動販売機などでは使えないことがあります。
聖徳太子はどんな人でしたか?
人柄を伝える同時代の記録は、ほとんど残っていません。
『日本書紀』は、一度に十人の訴えを聞いても取り違えなかったと記していますが、これは死後100年ほどたって書かれたものです。
仏の生まれ変わりとする太子像は、平安時代以降の信仰のなかで形づくられていきました。
インタビュー後記|聖徳太子は「伝説と史実のあいだにいる人」
今回は聖徳太子AIに登場してもらいました。
調べ終えて残ったのは、「分からない」という言葉の多さです。生年も、没日も、憲法十七条の作者も、はっきりとは決まっていません。
それでも、法隆寺の建物は今も立っていますし、冠位や十七条という言葉は千四百年後の教科書に載り続けています。
確かめられないことと、確かに残っているものが、同じ人物のまわりに並んでいる。そのちぐはぐさこそが、この人物のいちばん面白いところだと感じました。
史料が少ないという点では、卑弥呼や紫式部も似た立場にいます。よければ、こちらの記事ものぞいてみてください。
参考資料
- コトバンク「聖徳太子」※生没年・事績・「聖徳」の名の初出
- コトバンク「厩戸皇子」※生前の呼び名
- コトバンク「冠位十二階」※十二階の名称と趣旨
- コトバンク「十七条憲法」※条文の内容と成立をめぐる議論
- コトバンク「小野妹子」※607年・608年の遣隋使
- コトバンク「上宮聖徳法王帝説」※太子の死をめぐる記述
- コトバンク「天皇記・国記」※620年の編纂と散逸
- コトバンク「法隆寺金堂釈迦三尊像」※623年の完成と光背銘
- コトバンク「聖徳太子伝暦」※平安時代の伝記
- 聖徳宗総本山 法隆寺「法隆寺伽藍」※607年ごろの完成と670年の焼失、再建
- 文化遺産オンライン「法隆寺金堂」※世界最古の木造建造物としての位置づけ
- 和宗総本山 四天王寺「四天王寺の歴史」※593年の建立と物部氏との争い
- 国立印刷局 お札と切手の博物館「初めて聖徳太子の肖像が登場したお札 日本銀行兌換券 乙100円」※1930年発行と、以後7回の採用
- 日本銀行「銀行券の偽造防止技術について ― 一万円券(聖徳太子)・五千円券(聖徳太子)ほか」※発行開始と発行停止の年月日
- 日本銀行「その他有効な銀行券・貨幣」※現在も有効な銀行券
- 学習指導要領LOD「聖徳太子」※平成29年(2017年)告示の小学校学習指導要領に掲載
- 吉川弘文館「〈聖徳太子〉の誕生(大山誠一 著、歴史文化ライブラリー65、1999年5月)」※実在論の出典
- サイエンスポータル(JST)「聖徳太子非実在説のその後」※大山誠一氏の説と、それをめぐる議論
- 国立国会図書館サーチ「聖徳太子 : 実像と伝説の間(石井公成 著、春秋社、2016年)」※実在をめぐる研究状況




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