日本史の授業で最初に「すごい人」として教わるのが、たいてい聖徳太子です。私も小学生のころ、一度に十人の話を聞き分けたという逸話に本気で驚いた記憶があります。
ところが大人になって調べ直すと、話はそう単純ではありませんでした。「聖徳太子」は没後に定着した呼び名で、従来の太子像は後世に形づくられたとする説もあります。
では、伝説をはがした先に何が残るのか。それを自分の手で確かめたくて、この記事を書きました。
この記事の結論
聖徳太子は、飛鳥時代に推古天皇のもとで国のしくみづくりに関わったとされる皇族です。『古事記』『日本書紀』では、厩戸皇子(うまやどのおうじ)などの名で記されています。
氏姓(しせい)制度とは別に、個人に授けられ、原則として世襲されない位を設けた冠位十二階を定め、役人の心得を示した憲法十七条をつくったと『日本書紀』は伝えています。
遣隋使による外交と、仏教の興隆に関わったことでも知られます。ただし、その事績をまとまった形で伝える『日本書紀』は、没後およそ100年を経て編まれた書物です。
- 12の位
603年に定めた冠位十二階 - 17条
604年に定めた憲法 - 607年
小野妹子を隋へ派遣
順番は、プロフィール、3つの功績、実在をめぐる議論、最期、年表、後世への影響です。
語り手として、聖徳太子AI(聖徳太子をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。千四百年前の人がいま問われたらどう答えるか、想像しながら読んでみてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに聖徳太子の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

千四百年前の飛鳥の方と、こうしてお話しできるとは思いませんでした。
いまの教科書では聖徳太子という名で、日本史で最初に習う『すごい人』のひとりです。ご自身では、何をした人だと答えますか。

いきなり荷が重いのう。われもまた、ただの凡夫(ぼんぷ)にすぎぬ。
聖徳太子とは、後の世の人がわれに贈った名であろう。書物には厩戸(うまやど)の名で記されておるそうな。
推古の大王(おおきみ)のもと、蘇我馬子どのらと国のかたちを整える仕事に関わった。どこまでがわれの手かは、追い追い論じようぞ。
まずは聖徳太子の基本プロフィールと「何をした人か」を2分で知ろう
聖徳太子は、飛鳥時代の国づくりに関わったとされる皇族で、父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。
『古事記』『日本書紀』では厩戸皇子(うまやどのおうじ)などの名で記され、豊聡耳(とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)といった呼び名も伝わります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 『古事記』『日本書紀』では厩戸皇子(うまやどのおうじ)などと記される。厩戸王・豊聡耳・上宮王とも呼ばれる |
| 生没年 | 574年〜622年(没年を621年とする史料もある) |
| 出身 | 大和国(現在の奈良県)。父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女 |
| 活躍した時代 | 飛鳥時代(推古天皇の時代) |
| 主な功績 | 冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、遣隋使による外交と仏教の興隆 |
| 没した場所 | 斑鳩宮(現在の奈良県斑鳩町) |
参考:聖徳太子|コトバンク
参考:厩戸皇子|コトバンク
「聖徳」の名が使われた古い例として知られるのが、法起寺の塔の露盤銘です。原物は現存せず、後世の記録に写しが伝わっています。
そこには706年の年紀と「上宮太子聖徳皇」の表記があります。つまり「聖徳」の名が確認できるのは、没後80年以上たってからなのです。
参考:聖徳太子|コトバンク
参考:法起寺|コトバンク
生年の574年についても、確実ではないという指摘があります。没日も『日本書紀』は推古29年(621年)2月5日、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘などは推古30年(622年)2月22日と記し、一致していません。
生まれた年も亡くなった日も、一つに決まっていない人物なのです。

法起寺の塔の露盤銘に『上宮太子聖徳皇』とあります。706年の年紀で、亡くなって80年以上あとです。厩戸、豊聡耳、上宮王と呼び名もいくつもありますが、どれで呼べばいいですか。

ずいぶん遅れて、名が追いついてきたものよ。
厩戸に豊聡耳に上宮王。呼び名ばかりが増えて、中身は一人じゃ。
名などというものは、呼ぶ者の都合で変わっていくもの。そなたらが呼びやすい名で呼ぶがよかろう。
聖徳太子はどんな人だったのか
太子の人柄を伝える同時代の記録は、ほとんど残っていません。飛鳥時代は、文字で書かれた資料そのものが少ない時代でした。
手がかりの一つが、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背に刻まれた銘文です。そこには太子が「上宮法皇」と記されています。この像は太子の病気平癒と冥福を願って造られ、没した翌年の623年に完成したと銘文は伝えています。
参考:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の成り立ち(新川登亀男、2015年)|国立歴史民俗博物館 学術情報リポジトリ
参考:金堂 仏像|聖徳宗総本山 法隆寺
| 見られ方 | 内容 |
|---|---|
| 同時代に近いとされる記録 | 法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘は、太子を「上宮法皇」と記す。像の完成は没後の623年 |
| 後世のイメージ | 平安時代以降、太子を仏の生まれ変わりとみる太子信仰が広がり、多くの伝説が加わった |
| 伝わる逸話 | 一度に十人の訴えを聞いても取り違えなかったという話。『日本書紀』が「豊聡耳」の名の由来として記す |
参考:法隆寺金堂釈迦三尊像|コトバンク
参考:聖徳太子伝暦|コトバンク
表の三つ目が、冒頭で触れた「十人の話を同時に聞き分けた」という有名な逸話です。
参考:聖徳太子|コトバンク
ただし『日本書紀』は、太子の死から約100年後に編まれた書物です。生まれてすぐ言葉を発したという記述もあり、人物を理想化した部分が含まれていると考えられています。
平安時代には『聖徳太子伝暦』のような伝記も現れ、話はさらにふくらんでいきました。今のわたしたちが思い浮かべる太子像は、その積み重ねの上にあります。たとえば次のような話です。
- 生まれてすぐに言葉を発したという話
- 未来を見通したとする予言者としての姿
- 仏の生まれ変わりとして信仰の対象になったこと
こうして並べてみると、史実として確かめられる部分と、後世に加わった部分の境目が見えてきます。

『日本書紀』の『豊聡耳』の話です。一度に十人の訴えを聞き分けたというのは、本当ですか。

十人を一度に、とな。買いかぶりというものじゃ。十人が一度に話せば、聞き取れる者などおるまい。
できるとすれば、訴えを終いまで黙って聞く、そのくらいが関の山であろう。
して、そなたは十人の話を一度に聞けるか。

無理だと思います。だからこそ、子どものころにあの話を聞いて驚いたんです。

驚いてくれたのなら、書いた者も本望であろう。
じゃが、聞く者の数より、聞き終えるまで口を挟まぬほうが、よほど難しいものよ。
聖徳太子は何をした人?3つの功績
太子が関わったと『日本書紀』が伝える仕事のうち、教科書で必ず出てくるのが冠位十二階・憲法十七条・遣隋使の3つです。
- ① 冠位十二階を定め、氏族単位ではなく個人に授ける位のしくみをつくった(603年)
- ② 憲法十七条を定め、役人の心得を示した(604年)
- ③ 遣隋使による外交と、仏教の興隆に関わった(593年〜614年)
いずれも『日本書紀』に記されたもので、どこまでが太子個人の働きかは慎重に見られています。
① 冠位十二階を定めた(603年)
603年(推古11年)に定められたとされる冠位十二階は、役人を12の位に分け、位ごとに冠の色を変えて区別するしくみです。
位の名は、徳・仁・礼・信・義・智の六つを、それぞれ大小に分けたものです。
| 位の順 | 冠位の名 |
|---|---|
| 1・2 | 大徳・小徳 |
| 3・4 | 大仁・小仁 |
| 5・6 | 大礼・小礼 |
| 7・8 | 大信・小信 |
| 9・10 | 大義・小義 |
| 11・12 | 大智・小智 |
参考:冠位十二階|コトバンク
六つの言葉は、いずれも儒教で重んじられた徳目(人としてあるべき心のあり方)から取られたものと考えられています。
大切なのは、位が氏族ではなく個人に授けられ、原則として世襲されなかった点です。それまでの氏姓(しせい)制度には、氏族単位の地位が世襲される性格がありました。
ただし、この制度が当時の政治全体を作り変えたわけではありません。皇族や蘇我氏など有力な氏族には適用されなかったとみられています。

大徳から小智まで、12色の冠です。皇族や蘇我氏には及ばなかったとみられていますが、効き目はありましたか。

見ればすぐ位が分かるのは、便利であったろうな。
もっとも、それをわれが定めたと言い切られると、いささか気が引ける。大王も馬子どのもおられたのだからのう。
定めを一つ作れば世が変わる、というほど容易くはない。それは今も昔も同じであろう。
② 憲法十七条を定めた(604年)
翌604年(推古12年)に示されたとされる憲法十七条は、役人が守るべき心得を17か条にまとめたもので、今の憲法とは性格が異なります。
よく引かれるのは、次の三つの条文です。
- 第一条「以和為貴(和を以て貴しと為し)」……和を重んじ、むやみに争わないことを基本とせよ
- 第二条「篤敬三宝(篤く三宝を敬え)」……三宝、すなわち仏・法・僧を敬え
- 第十七条「夫事不可独断(それ事は独り断むべからず)」……大事は一人で決めず、皆と論じ合え
第一条の「和」は、ただ仲良くすることではありません。続く文では、上下がやわらいで話し合えば、おのずと物事は通じる、という趣旨が述べられています。
第十条には「我必非聖 彼必非愚(われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず)」という一節もあります。自分が正しいと決めてかからない、という心得です。
役人の作法を説く文章のなかに、こうした言葉が並ぶ。読んでいて、ここで手が止まりました。
なお憲法十七条は、全文が『日本書紀』に引用された形で伝わる文章で、太子が本当に作ったのか、いつ成立したのかについては議論が続いています。
参考:十七条憲法|コトバンク

第十条の『われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず』です。役人の心得に、なぜこの一文が要ったのでしょう。

その条をわれが書いたと決まったわけではござらぬ。そこは先に申しておこう。
じゃが、聖に非ず、愚に非ず。誰が書いたにせよ、われにはいちばん耳の痛い一句じゃ。われもまた凡夫ゆえな。
いま問われれば、和を説くより先に、まず己を疑えと言うておる一句と読みたい。
③ 遣隋使による外交と、仏教の興隆に関わった(593年〜614年)
三つ目は、607年に小野妹子を送った遣隋使と、四天王寺・法隆寺に伝わる創建への関わりです。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 593年 | 四天王寺が伝える創建年。『日本書紀』には物部守屋との戦いに際した誓願と造営の記述がある |
| 600年 | 『隋書』にみえる最初の遣隋使。『日本書紀』に記載はない |
| 607年 | 小野妹子を隋へ送る |
| 608年 | 隋の使者・裴世清(はいせいせい)が来日する |
| 614年 | 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らを隋へ送る |
参考:小野妹子|コトバンク
参考:四天王寺の歴史|和宗総本山 四天王寺
607年の使いが有名なのは、そのとき持参した国書のためです。
『隋書』倭国伝には「日出處天子致書日沒處天子無恙(日の出づる処の天子、書を日の沒する処の天子に致す。恙なきや)」と記されています。
隋の皇帝・煬帝(ようだい)はこれを見て不機嫌になり、無礼な書は二度と取り次ぐなと命じたと『隋書』は伝えています。
参考:小野妹子|コトバンク
ただし『隋書』は倭の王を「多利思北孤(たりしひこ)」という男性の王として記しています(事典の表記は「多利思比孤」)。この国書を太子が書いたと断定するには、史料が乏しいのです。
仏教については、四天王寺と法隆寺の名がよく挙がります。四天王寺は「日本仏法最初の官寺」を掲げ、593年の創建を伝えています。
法隆寺のほうは、父・用明天皇の願いを継いで607年に完成したと、金堂の薬師如来像の光背銘に記されています。
ただし、この像と銘文そのものがいつ作られたかについては議論があり、銘の年紀をそのまま創建年とみてよいかは慎重に扱われています。
ここまでの3つの功績は、どれも「太子が関わったと伝わる」ものでした。古代史の研究者が、太子の生涯と功績を語った講義があります。
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- 紹介文は「その実像には様々な説があり、真相は定まっていない」とする
- 聖徳太子の生涯と功績についての解説
- 講師は京都大学名誉教授で、東アジアを視野に入れた古代史研究で知られる
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『日出づる処の天子』の国書です。煬帝は不機嫌になったのに、翌年には隋の使者が来ています。書いた人は、何を狙ったのでしょう。

海の向こうの天子を怒らせたのなら、筆を執った者は肝を冷やしたであろう。
その書をわれが記したと決める手立ては、乏しいと聞く。それでも翌年には隋の使いが来た。怒られても、縁は切れなんだわけじゃ。
学ぶ側であっても、卑しくある必要はない。そう考えて筆を執った者がおったなら、わるくない話じゃ。
聖徳太子は実在しなかった?教科書から消えたと言われる理由
伝承の背景に、斑鳩を拠点とした有力な王族が実在したとみる研究者は多いというのが現状です。「教科書から消えた」ほうも、2017年告示の学習指導要領に「聖徳太子」の名が残っています。
議論の中心は、実在したか否かではなく、後世に形づくられた人物像や事績の範囲のほうにあります。
1999年、大山誠一氏は著書『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)で、『日本書紀』の描く聖徳太子像は編纂時に形づくられたものだとする説を本格的に展開しました。
この説は広く知られました。一方で研究者からの批判も多く、どこまでが後世の造形なのかをめぐる議論は今も続いています。
| 論点 | 現在の見方 |
|---|---|
| 伝承の背景に人物はいたか | 斑鳩を拠点とした有力な王族の存在は、多くの研究者が認めている |
| 事績はすべて本人のものか | 『日本書紀』の記述には理想化が含まれるとみられ、どこまでが本人の働きかは検討が続いている |
| 教科書から消えたのか | 消えていない。2017年告示の小学校・中学校の学習指導要領にも「聖徳太子」の名がある |
参考:〈聖徳太子〉の誕生(大山誠一 著)|吉川弘文館
参考:聖徳太子非実在説のその後|サイエンスポータル(JST)
参考:聖徳太子(小学校学習指導要領)|学習指導要領LOD
参考:中学校学習指導要領 歴史的分野 内容の取扱い(聖徳太子の政治)|学習指導要領LOD
「教科書から消えた」と言われるようになったのは、2017年の出来事がきっかけでした。2月14日に公表された学習指導要領の改定案では、中学校で「厩戸王(聖徳太子)」の表記が示されます。
意見公募には、小中学校で同じ人物の表記が異なるのは問題である、厩戸王に変えることには反対である、といった意見が寄せられました(文部科学大臣の国会答弁)。
3月31日に告示された学習指導要領では「聖徳太子」の表記になりました。
参考:第193回国会 衆議院 文部科学委員会 第3号(2017年3月8日)松野文部科学大臣の答弁|国会会議録検索システム
参考:第193回国会 参議院 文教科学委員会 第4号(2017年3月22日)松野文部科学大臣の答弁|国会会議録検索システム
参考:中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 社会編|文部科学省
史料が少ない人物ほど、後の時代のイメージが重ねられていきます。同じことは、邪馬台国の女王・卑弥呼にも言えるでしょう。

1999年に、『日本書紀』の描く聖徳太子像は編纂のときに形づくられた、という説が出ました。ここにいるのは、どちらの太子ですか。

われの姿が後から形づくられた、とな。はて、ならばここにおるわれは、どちらのわれであろうのう。
のちの世の筆が足したものなら、疑うのも道理じゃ。疑うてよい。
して、そなたはどこまでがわれの仕事と思う。

冠位十二階も遣隋使も、太子ひとりではなく、推古天皇や蘇我馬子と進めた仕事だと思います。

それなら、われも肩の荷が下りる。
ともに是非(ぜひ)を論じてこそ、道は開けるものと存ずる。
聖徳太子の死因と最期
太子は推古30年(622年)2月22日に斑鳩宮で亡くなったと、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘などは伝えています。
ただし『日本書紀』は没日を推古29年(621年)2月5日と記しており、没日は史料により幅があります。
その前後には、身近な人の死が続いていました。推古29年12月(621年末から622年初めごろ)には母・穴穂部間人皇女が、亡くなる前日には妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が世を去っています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 推古30年(622年)2月22日(『日本書紀』は推古29年(621年)2月5日と記す) |
| 場所 | 斑鳩宮(現在の奈良県斑鳩町) |
| 死因 | 病死と伝わる。流行した病によるとする見方があるが、断定できる史料は乏しい |
| 死亡時の年齢 | 数え年49歳。生年月日がはっきりせず、満年齢は確定しにくい |
| 墓所 | 大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか) |
参考:法隆寺金堂釈迦三尊像|コトバンク
参考:上宮聖徳法王帝説|コトバンク
参考:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の成り立ち(新川登亀男、2015年)|国立歴史民俗博物館 学術情報リポジトリ
参考:金堂 仏像|聖徳宗総本山 法隆寺
短い間に母・妃・本人が相次いで亡くなったことから、当時流行していた病によるものではないかという見方があります。
ただし、病名を特定できる史料は乏しく、暗殺されたとする話にも、裏づけとなる記録は確認できていません。
死の経緯を比較的くわしく伝えるのが、この光背銘と、『上宮聖徳法王帝説』という書物です。銘文によれば、太子の回復を願って造られたこの像が完成したのは、没した翌年の623年でした。
願いは、間に合わなかったことになります。

法隆寺の釈迦三尊像は、回復を願って造られ、完成は翌年の623年でした。その直前に母上と妃も亡くなっています。何の病だったのですか。

いま聞けば、像を願うてくれた者たちに詫びたい気がするのう。
病の名を問われても、われには答えられぬ。
母と妻と己と、短い間に続いたのなら、そなたらが流行り病を疑うのも無理はあるまい。
聖徳太子の生涯を年表で振り返る
太子が政治に関わったとされる期間は、593年から622年までのおよそ30年におよびます。ただし年表に並ぶ年代の多くは『日本書紀』によるもので、記されたとおりの年とは限りません。
| 年 | 出来事 | ひとこと解説 |
|---|---|---|
| 574年 | 大和に生まれる | 父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女。生年には確実でないとする指摘もある |
| 587年 | 蘇我氏と物部氏の争いが起こる | 四天王寺の縁起は、太子が蘇我方に加わったと伝える |
| 592年 | 推古天皇が即位する | 記録に残るなかでは最初の女性の天皇とされる |
| 593年 | 政治に加わったと『日本書紀』は記す | 「皇太子」「摂政」と記されるが、当時その制度があったかには議論がある |
| 593年 | 四天王寺が伝える創建年 | 『日本書紀』には物部守屋との戦いに際した誓願と造営の記述がある |
| 600年 | 『隋書』に最初の遣隋使の記録 | 『日本書紀』には、この派遣の記載がない |
| 603年 | 冠位十二階を定める | 氏族単位の地位とは別に、個人に位を授けるしくみ |
| 604年 | 憲法十七条を定める | 役人の心得を17か条にまとめたもの |
| 607年 | 小野妹子を隋へ送る | 「日出づる処の天子」の国書が『隋書』に載る |
| 607年 | 法隆寺が完成したと伝わる | 金堂の薬師如来像の光背銘による。像と銘文の成立時期には議論がある |
| 608年 | 隋の使者・裴世清が来日する | 妹子はふたたび隋へ渡る |
| 614年 | 犬上御田鍬らを隋へ送る | 隋への最後の使いとなった |
| 620年 | 『天皇記』『国記』を編んだと伝わる | 蘇我馬子とともに。書物はのちに失われた |
| 推古29年12月(621年末〜622年初め) | 母・穴穂部間人皇女が亡くなる | この前後から、太子も病に伏せたと伝わる |
| 622年 | 斑鳩宮で亡くなる | 前日には妃の膳部菩岐々美郎女が世を去っている |
| 623年 | 法隆寺金堂の釈迦三尊像が完成する | 光背銘に、太子の死をめぐる経緯が刻まれている |
30年という長さには、留保がつきます。『山川 日本史小辞典』は、実際に政治に関与したのは602年ごろからの約10年間と考えられる、と書いているからです。
一方、『日本大百科全書』は593年に推古天皇の皇太子となって国政を担当したと記し、関与の始まりを早くみています。
参考:聖徳太子|コトバンク
年表の後半に、母・妃・本人の死が立て続けに並ぶことも見落とせません。その後、子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を中心とする上宮王家は、643年に滅んだと『日本書紀』は伝えています。

太子の歩みを物語として読むなら、蘇我馬子との対立も描く学習まんががあります。本文で見た、史料で確かめられる部分と読み比べてみてください。
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学習まんが|BOOK☆WALKER
この本の読みどころ
- 作品紹介は、国を思い、民を思う厩戸皇子を「現代的絵柄で描く」としています
- 仏教を利用しようとする蘇我馬子と、厩戸皇子の意見が対立していきます
- 作品紹介は、日本の国の礎を築いた人物として太子を描くとしています
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聖徳太子のすごさ・影響力
太子の影響力は、生前の政治よりも、没後の千四百年のほうにはっきり表れています。法隆寺、太子信仰、そしてお札の肖像です。
- 太子が建てたと伝わる法隆寺が、現存する世界最古の木造建築群として世界文化遺産になっていること
- 平安時代以降、太子を仏の生まれ変わりとみる太子信仰が広がったこと
- 1930年の百円券を最初に、合わせて7回、日本銀行券の肖像に採用されたこと
法隆寺は670年に焼失したと『日本書紀』が伝えており、現在の西院伽藍はそののちに再建されたものです。それでも金堂は世界最古の木造建造物とされ、1993年には日本で初めての世界文化遺産の一つとして登録されました。
参考:法隆寺伽藍|聖徳宗総本山 法隆寺
参考:法隆寺金堂|文化遺産オンライン
参考:法隆寺地域の仏教建造物|文化庁 文化遺産オンライン
太子信仰は、太子を仏の生まれ変わりとみる考え方です。平安時代以降に広がり、各地の寺院や伝記を通じて受け継がれていきました。
お札の話も見逃せません。国立印刷局によれば、1930年(昭和5年)発行の百円券を最初に、合わせて7回、太子の肖像が使われました。1958年に発行が始まった一万円券は、1986年に発行が停止されています。
ただし日本銀行の説明では、これらは今も有効な銀行券です。
参考:初めて聖徳太子の肖像が登場したお札 日本銀行兌換券 乙100円|国立印刷局 お札と切手の博物館
参考:銀行券の偽造防止技術について|日本銀行
参考:その他有効な銀行券・貨幣|日本銀行

1958年発行の一万円札です。肖像はあなたで、お札の肖像は合わせて7回。1986年に発行は止まりましたが、いまも使えます。顔を刷られるのは、どんな気分ですか。

銭に顔を、それも7回も刷られるとは、われの与(あずか)り知らぬ話じゃ。
人の手から手へ渡るものに使われたのなら、それはそれで面白きこと。
発行が止まってなお使えるとは、銭のほうが、われよりよほど息が長い。
憲法十七条から考える現代へのヒント
太子本人が書いたと確かめられる文章はほとんど残っておらず、太子の「思想」を一つにまとめることはできません。代わりに、太子の作と伝えられる憲法十七条の言葉を、筆者の解釈で読んでみます。
| 憲法十七条の言葉 | 現代へのヒント(筆者の解釈) |
|---|---|
| 和を以て貴しと為し、忤(さから)ふること無きを宗とせよ | 意見をそろえるより、争わずに話せる関係をまずつくる |
| われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず | 自分が正しいと決めてかからない |
| 夫れ事は独り断むべからず、必ず衆と論ふべし | 大事なことほど一人で決めず、複数の目を通す |
三つ目は、現代の職場にもそのまま当てはまります。一人で抱えて決めた案件ほど、あとから思わぬ穴が見つかるものです。
もっとも、これらの言葉が本当に太子のものかどうかは分かりません。だからこそ、誰が書いたかとは別に、言葉そのものを読むという向き合い方もできます。
古代に成立したと伝えられる文章が、今も引かれ続けている。その事実だけでも、十分に不思議で面白いことだと思います。

第十七条の『事は独り断むべからず』は、いまの会議にも当てはまります。意見の違う相手とは、どう向き合えばいいでしょう。

人は皆、己が正しいと思うておる。われとて同じじゃ。
ならば、どちらが正しいかを決める前に、まず互いの言い分を終いまで聞いてみることじゃ。
存外、そこで話が済むこともあるものでのう。
あなたは聖徳太子の生き方から、何を受け取りますか。
よくある質問(FAQ)
聖徳太子は何をした人ですか?
飛鳥時代に推古天皇のもとで、国のしくみづくりに関わったとされる皇族です。冠位十二階や憲法十七条を定め、遣隋使による外交と仏教の興隆に関わったと『日本書紀』は伝えています。どこまでが本人の働きかは慎重に見られています。
厩戸皇子と聖徳太子は同じ人ですか?
一般には同じ人物を指します。『古事記』『日本書紀』では厩戸皇子などの名で記され、「聖徳」の名の古い例は706年の年紀をもつ法起寺塔の露盤銘です。原物は現存せず、後世の記録に写しが伝わっています。
聖徳太子は実在しなかったのですか?
伝承の背景に、斑鳩を拠点とした有力な王族が実在したとみる研究者は多くいます。議論の中心は、『日本書紀』などで後世に形づくられた人物像や事績の範囲のほうです。1999年に出た説をきっかけに広く知られました。
聖徳太子の死因は何ですか?
病死と伝えられます。推古30年(622年)2月22日に亡くなったとされ、前日には妃が、推古29年12月には母が世を去っていました。流行した病によるとする見方がありますが、病名を特定できる史料は乏しいのが実情です。
憲法十七条にはどんなことが書かれていますか?
役人が守るべき心得が、17か条にまとめられています。第一条の「和を以て貴しと為し」、第二条の「篤く三宝を敬え」、第十七条の「事は独り断むべからず」がよく引かれます。
聖徳太子のお札は今も使えますか?
使えます。1958年に発行が始まった一万円券は1986年に発行が停止されましたが、日本銀行はこれらを今も有効な銀行券としています。
聖徳太子はどんな人でしたか?
人柄を伝える同時代の記録は、ほとんど残っていません。『日本書紀』は一度に十人の訴えを聞き分けたと記しますが、死後100年ほどたって書かれたものです。仏の生まれ変わりとする太子像は、平安時代以降に形づくられました。
インタビュー後記 聖徳太子は「伝説と史実のあいだにいる人」
小学生のころに驚いた十人の話は、亡くなって100年ほどあとに編まれた書物に載る話でした。
調べ終えて残ったのは、「分からない」という言葉の多さです。生年も、没日も、憲法十七条の作者も、はっきりとは決まっていません。
それでも、法隆寺の建物は今も立っていますし、冠位や十七条という言葉は千四百年後の教科書に載り続けています。
私は、この「分からない」の多さを減点だとは思いません。確かめられないことと、確かに残っているものが、同じ人物のまわりに並んでいる。史料のそろった人物だと、こうはならないでしょう。
十人の話を鵜呑みにしていた小学生の私より、どこまでが伝説かを数えながら読めるいまのほうが、太子をよほど面白く読めているはずです。
史料が少ないという点では、紫式部も似た立場にいます。本名も分からないまま、『源氏物語』だけが残った人です。
参考資料
- コトバンク「聖徳太子」※生没年・事績・「聖徳」の名の初出(法起寺塔露盤銘の706年の年紀)、「豊聡耳」の名が訴訟裁定の能力にちなむこと、政治への関与を602年ごろからの約10年間とみる『山川 日本史小辞典』の記述、593年に推古天皇の皇太子となって国政を担当したとする『日本大百科全書』の記述の出典
- コトバンク「厩戸皇子」※『古事記』『日本書紀』に記される呼び名の出典
- コトバンク「冠位十二階」※十二階の名称と趣旨の出典
- コトバンク「十七条憲法」※条文の内容と成立をめぐる議論の出典
- コトバンク「小野妹子」※607年・608年の遣隋使、『隋書』倭国伝の国書の一節と煬帝の反応、倭王を「多利思比孤」と表記していることの出典(『隋書』の表記は「多利思北孤」)
- コトバンク「上宮聖徳法王帝説」※太子の死をめぐる記述の出典
- コトバンク「天皇記・国記」※620年の編纂と散逸の出典
- コトバンク「法隆寺金堂釈迦三尊像」※623年の完成と光背銘(「上宮法皇」の表記、没日、母・妃の死)の出典
- コトバンク「聖徳太子伝暦」※平安時代の伝記の出典
- 聖徳宗総本山 法隆寺「法隆寺伽藍」※607年ごろの完成と670年の焼失、再建の出典
- 文化遺産オンライン「法隆寺金堂」※世界最古の木造建造物としての位置づけの出典
- 和宗総本山 四天王寺「四天王寺の歴史」※593年の建立と物部氏との争いの出典
- 国立印刷局 お札と切手の博物館「初めて聖徳太子の肖像が登場したお札 日本銀行兌換券 乙100円」※1930年発行と、以後7回の採用の出典
- 日本銀行「銀行券の偽造防止技術について 一万円券(聖徳太子)・五千円券(聖徳太子)ほか」※発行開始と発行停止の年月日の出典
- 日本銀行「その他有効な銀行券・貨幣」※現在も有効な銀行券であることの出典
- 学習指導要領LOD「聖徳太子」※平成29年(2017年)告示の小学校学習指導要領に掲載されていることの出典
- 吉川弘文館「〈聖徳太子〉の誕生」(大山誠一 著、歴史文化ライブラリー65、1999年5月)※大山誠一氏の説の初出となる著書の書誌(書名・著者・シリーズ・刊行年月)の出典
- サイエンスポータル(JST)「聖徳太子非実在説のその後」※大山氏の説の内容と、研究者からの批判・議論が続いていることの出典
- 国立国会図書館サーチ「聖徳太子 : 実像と伝説の間」(石井公成 著、春秋社、2016年)※実在をめぐる研究状況の出典
- 聖徳宗総本山 法隆寺「金堂 仏像」※薬師如来像の光背銘(用明天皇の請願と推古15年(607年)の完成)、釈迦三尊像の光背銘(推古30年(622年)の発病と翌年の完成)の出典
- 国立歴史民俗博物館 学術情報リポジトリ 新川登亀男「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の成り立ち」『国立歴史民俗博物館研究報告』第194集(2015年3月)※光背銘の全文(「上宮法皇」の表記、法興元31年12月の「鬼前太后」の死、2月21日の「干食王后」の死と翌日の「法皇」の死、癸未年3月の像の完成)の出典
- コトバンク「法起寺」※塔の露盤銘が『聖徳太子伝私記』に引かれて伝わること、706年(慶雲3年)に三重塔の露盤が完成したことの出典
- 文化庁 文化遺産オンライン「法隆寺地域の仏教建造物」※1993年の世界遺産登録と、構成資産が法隆寺・法起寺であることの出典
- 国会会議録検索システム「第193回国会 衆議院 文部科学委員会 第3号(2017年3月8日)」松野博一文部科学大臣の答弁※2月14日に公表された改訂案で中学校社会科の表記を「厩戸王(聖徳太子)」としたこと、3月15日までパブリックコメントを実施していたことの出典
- 国会会議録検索システム「第193回国会 参議院 文教科学委員会 第4号(2017年3月22日)」松野博一文部科学大臣の答弁※パブリックコメントに、小中学校で表記が異なるのは問題である、厩戸王に変えることには反対である、などの意見が寄せられたことの出典
- 学習指導要領LOD「ア (1)のアの(ア)の「世界の古代文明」については…」(中学校学習指導要領 2017年3月告示 歴史的分野 内容の取扱い)※中学校学習指導要領に「聖徳太子の政治」の文言があり、古事記・日本書紀で「厩戸皇子」などと表記されることに触れる注記があることの出典
- 文部科学省『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 社会編』(PDF)※まえがきの「平成29年3月31日に…中学校学習指導要領の改訂を行った」の記述(告示日)の出典





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