江戸時代の年表まとめ|江戸の町人AIと265年の流れを分かりやすく解説

時代・文化

江戸時代の年表を自分で作り直そうとして、最初につまずいたのが赤穂浪士の討ち入りでした。1702年と書く資料と、1703年と書く資料があるのです。

調べてみると、表記の基準が違うだけで、どちらかを単純に誤りとはいえませんでした。当時の暦と西暦のあいだにずれがあり、資料が何を示しているかで年が変わるのです。

年表は、ただ年と出来事を並べた表に見えます。ところが実際には、作り手がどの基準を選んだかが表れる資料でもありました。

この記事の結論

江戸時代は、1603年から1867年までの約265年間です。この記事では、その265年を前期・中期・後期の3つに分けた年表で追います。

あわせて、徳川15代将軍の就任年と年表の対応、年表に出てくる元号と西暦の関係も整理しました。

そして最後に、資料ごとに年がずれる理由を実例で説明します。年表を読むときに、いちばん役に立つ知識だと思うからです。

  • 265年
    1603年〜1867年
  • 15代
    徳川将軍の数
  • 3度
    享保・寛政・天保の改革

聞き役は私ですが、答え役として江戸の町人AI(江戸で暮らした町人をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。年号の並びだけでは見えない、暮らす側の感覚を補ってもらうためです。

※以下のインタビュー部分は、江戸時代の史料や研究をもとに構成した創作です。江戸の町人AIは特定の実在人物ではなく、その発言も実際の記録ではありません。

筆者
筆者

今日はよろしくお願いします。江戸時代の年表を作っているのですが、

そもそも当時の方は、何年前の出来事だとか、そういう数え方をされていたのでしょうか。

江戸の町人AI
江戸の町人AI

これはどうも。とはいえ、あっしはこれといった誰かじゃござんせん。いつごろの者かも、一つには決められやせんでね。

江戸の町人を時代をまたいで寄せ集めたような身でさ。年表なんて洒落たものは、町方の手元にはなかったと聞いておりやす。

何年前かと問われりゃあ、火事の年だとか飢饉の年だとか、そんな覚え方だったんじゃありやせんかね。

江戸時代の年表|まず押さえたい10の出来事

細かい年表に入る前に、全体の骨組みを10行にしぼりました。学校でも扱われる代表的な出来事を中心に選んでいます。

年欄は、和暦の年に対応させた西暦年でそろえました。あわせて当時の元号を記しています。

出来事元号
1603年徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く慶長8年
1615年大坂夏の陣で豊臣家が滅び、武家諸法度が定められる慶長20年。同じ年に元和と改元
1635年武家諸法度の改定で参勤交代が制度化される寛永12年
1639年ポルトガル船の来航を禁止する寛永16年
1657年明暦の大火が起こる明暦3年
1716年徳川吉宗が8代将軍となり、享保の改革が始まる享保元年
1787年松平定信の寛政の改革が始まる天明7年
1841年水野忠邦の天保の改革が始まる天保12年
1853年ペリーが浦賀に来航する嘉永6年
1867年徳川慶喜が大政奉還を行う慶応3年

この10行を眺めると、江戸時代の265年には大きな波が3つあることが分かります。

前半は幕府がしくみを固める時期、中盤は改革がくり返される時期、終盤は外からの圧力が強まる時期です。

以下では、この流れを前期・中期・後期の3つに分けて、もう少し細かく追っていきます。

その前に、この記事の年表の書き方をまとめておきます。資料によって年がずれて見える理由にも関わる部分です。

項目この記事での書き方
西暦の年和暦の年に対応させた年でそろえる
元号の表記名古屋刀剣ワールドの年表に合わせる
和暦の年末の出来事日付によっては西暦で翌年に入るため、解説の欄に換算した結果を添える
前期・中期・後期読みやすさのための区切り。事典の時期区分とは範囲が一致しない
筆者
筆者

江戸の町では、幕府の決まりごとはどんなふうに伝わってきたのでしょうか。

江戸の町人AI
江戸の町人AI

大事なお触れは高札に出ることもありやしたし、町役人から町内へ回ってくるものもござんした。

何年の何月に何が決まったなんてことは、あっしらが控えていたわけじゃありやせん。

あとの世の学者衆が、お上の帳面をたどって並べ直したものと聞いておりやすよ。

江戸時代の年表【前期】1603〜1679年|幕府のしくみが固まるまで

前期は、開府から4代将軍の時代までです。『日本大百科全書』は幕政を5つの時期に分け、16世紀末から17世紀中葉を幕藩制の確立期としています。

戦いの記憶がまだ新しく、幕府が大名と対外関係の両方を強く統制していった時期でもあります。

出来事解説
1603年徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く慶長8年2月12日。西暦では3月24日
1605年家康が将軍職を子の秀忠に譲る慶長10年。将軍職の世襲を示すため
1613年全国にキリスト教の禁教令が出される慶長18年
1614年大坂冬の陣が起こる慶長19年
1615年大坂夏の陣で豊臣家が滅びる慶長20年5月。同じ年の7月に元和と改元
1615年武家諸法度・禁中並公家諸法度・一国一城令が定められる慶長20年から元和元年。同じ年の7月に元和と改元
1616年ヨーロッパ船の寄港地を長崎と平戸に限る元和2年
1623年徳川家光が3代将軍となる元和9年
1624年スペイン船の来航を禁止する元和10年
1633年のちに鎖国令と呼ばれる法令が出される寛永10年。以後、数次にわたる
1635年武家諸法度の改定で参勤交代が制度化される寛永12年。日本人の海外渡航も禁止
1637年島原・天草一揆が起こる寛永14年。翌年に鎮圧される
1639年ポルトガル船の来航を禁止する寛永16年
1641年平戸のオランダ商館を長崎の出島へ移す寛永18年
1651年徳川家綱が4代将軍となる慶安4年
1657年明暦の大火が起こる明暦3年
1669年シャクシャインの戦いが起こる寛文9年

前期の年表を見て気づくのは、出来事の密度です。この年表に並ぶ範囲では、大名と対外関係に関する決まりが1603年から1641年までの40年足らずに集まっています

とくに1615年は、大坂夏の陣と3つの法令が同じ年に並びます。武力による決着と、法によるしくみづくりが続けて行われた年でした。

対外関係の窓口も、この間に段階的に絞られていきました。1616年の寄港地の限定から1641年の出島への移転まで、25年かけて形が定まっています。

なお「鎖国」という言葉自体は、1801年に志筑忠雄が用いたのが初めとされます。少なくとも、17世紀に体制が整えられた当初からそう呼ばれていたわけではありません

年表に並ぶ武家諸法度、一国一城令、参勤交代は、いずれも大名に関わる決まりです。守るべき決まりを文書にし、領国内の城を原則1つに限り、江戸と国元の往復を義務づけました。

3つとも、大名の力をおさえるという点で共通しています。幕府がまず取り組んだのが、そこだったと読み取れます。

一方で、1657年の明暦の大火や1669年のシャクシャインの戦いのように、統制の話には収まらない出来事も並んでいます。

筆者
筆者

明暦の大火は、江戸の町にとってどれくらいの出来事だったのでしょうか。

江戸の町人AI
江戸の町人AI

あの火事の話は、あっしらの世でも語り草でござんした。町のかたちが変わっちまったと聞いておりやす。

どこがどう建て直されたかまでは、あっしの口から確かなことは申せやせん。

ただ、木と紙で建てた町ですからね。火が出りゃあ止まらねえ。いいことばかりじゃありやせんでしたよ。

江戸時代の年表【中期】1680〜1786年|元禄の繁栄と田沼時代

中期は、5代将軍の綱吉から10代将軍の家治までです。大きな戦いのない時期が続き、都市と商業が育ちました。

その一方で、幕府の財政は苦しくなっていきます。改革という言葉が年表に登場するのは、この時期からです。

出来事解説
1680年徳川綱吉が5代将軍となる延宝8年
1687年生類憐みの令が出される貞享4年。以後も繰り返し出される
1702年赤穂事件が起こる元禄15年12月14日。日付を西暦に直すと1703年1月30日
1709年徳川家宣が6代将軍となる宝永6年。新井白石らによる正徳の治が始まる
1713年徳川家継が7代将軍となる正徳3年
1716年徳川吉宗が8代将軍となり、享保の改革が始まる享保元年
1732年享保の大飢饉が起こる享保17年
1745年徳川家重が9代将軍となる延享2年
1760年徳川家治が10代将軍となる宝暦10年
1767年田沼意次が側用人となり、幕政での影響力を強める明和4年。以後、1786年まで
1774年杉田玄白・前野良沢らが『解体新書』を出版する安永3年
1782年天明の大飢饉が起こる天明2年ごろから
1783年浅間山が大噴火する天明3年

中期の年表には、飢饉と噴火が並んでいます。1732年の享保の大飢饉、1782年からの天明の大飢饉、1783年の浅間山の噴火です。

天明の飢饉と寛政の改革、天保の飢饉と天保の改革は、それぞれ時期が近い位置にあります。財政の立て直しが課題になった背景の一つと読めます。

ただし、享保の改革は1716年に始まり、享保の大飢饉の1732年より先です。災害が改革を招いたという順序で、すべてを説明することはできません。

もう一つの読みどころは、1774年の『解体新書』です。オランダ語の医学書を訳したこの本は、蘭学が広がる転機として年表に載ります。

対外的な窓口が絞られた状態でも、長崎を通じて知識は入り続けていました。年表を並べると、その両立が見えてきます。

赤穂事件の行にある1702年と1703年の並記は、この記事の後半で詳しく説明します。年表を読むうえでの落とし穴が、ここに表れています

筆者
筆者

生類憐みの令は、町の暮らしにどう響いたのでしょうか。

江戸の町人AI
江戸の町人AI

あのお触れは、犬を粗末にするなという話が広く知られておりやすね。

ずいぶん窮屈だったと伝わっておりやすが、何がどこまで定められていたのかは、あっしには分かりやせん。

どういうお触れだったかは、旦那がたの世で調べられたことでしょうよ。

江戸時代の年表【後期】1787〜1867年|三大改革から大政奉還まで

後期は、11代将軍の家斉から15代将軍の慶喜までです。国内の改革と、外国船の来航が交互に並ぶようになります。

『日本大百科全書』の区分では、19世紀初めから開港直前までが幕藩制の解体進行期、開港から大政奉還までが倒壊期にあたります。

出来事解説
1787年徳川家斉が11代将軍となり、寛政の改革が始まる天明7年。松平定信による。1793年まで
1792年ロシアのラクスマンが根室に来航する寛政4年
1804年ロシアのレザノフが長崎に来航する文化元年
1808年イギリスのフェートン号が長崎に来航する文化5年
1821年『大日本沿海輿地全図』が完成する文政4年
1825年異国船打払令が出される文政8年
1828年シーボルト事件が起こる文政11年
1833年天保の大飢饉が始まる天保4年
1837年大塩平八郎の乱が起こる天保8年。同じ年に徳川家慶が12代将軍となる
1839年蛮社の獄で蘭学者らが処罰される天保10年
1841年水野忠邦の天保の改革が始まる天保12年。1843年まで
1853年ペリーが浦賀に来航する嘉永6年。同じ年に徳川家定が13代将軍となる
1854年日米和親条約が結ばれる嘉永7年。同じ年に安政と改元
1858年日米修好通商条約が結ばれる安政5年。井伊直弼が大老となり、安政の大獄が始まる
1858年徳川家茂が14代将軍となる安政5年
1860年桜田門外の変が起こる万延元年
1862年生麦事件が起こる文久2年
1863年薩英戦争と八月十八日の政変が起こる文久3年
1864年池田屋事件、禁門の変、第一次長州征討が起こる元治元年
1866年薩長同盟が結ばれ、第二次長州征討が行われる慶応2年
1866年徳川慶喜が15代将軍となる慶応2年12月5日。日付を西暦に直すと1867年1月にあたる
1867年徳川慶喜が大政奉還を行う慶応3年10月14日。西暦では11月9日
1867年王政復古の大号令が出される慶応3年12月9日。日付を西暦に直すと1868年1月3日

後期の年表で目を引くのは、改革のくり返しです。享保・寛政・天保という3つの改革が、100年あまりの間に並んでいます

もう一つは、外国船の来航が1792年から断続的に続いている点です。ペリーの来航は突然の出来事ではなく、60年ほどの積み重ねの先にありました

1825年の異国船打払令は、こうした来航が続くなかで出された法令です。年表を続けて読むと、来航と政策が交互に並んでいることが分かります。

そして最後の3行が、この時代の終わり方を示しています。将軍就任、大政奉還、王政復古が、わずか1年あまりの間に続きました。

大政奉還は、将軍が政権を朝廷に返上した一つの段階です。ここで新しい政府ができあがったわけではなく、このあと戊辰戦争を経て明治の新政府が形を整えていきます。

筆者
筆者

黒船が来る前から、外国船はたびたび日本に近づいていたのですね。町の噂にはなっていたのでしょうか。

江戸の町人AI
江戸の町人AI

浦賀に黒船が来たころには、船の話も海防の話も瓦版で江戸の町に伝わったと聞いておりやす。

それより前の異国船が、町方にどこまで知られていたかは、あっしには分かりやせん。

長崎だ根室だと聞かされても、江戸の町からは遠い話だったんじゃありやせんかね。

徳川15代将軍でたどる江戸時代|将軍の就任年と年表の対応

年表をもう一つの角度から見てみます。徳川将軍15代の就任年を並べると、265年の区切りが人の単位で見えてきます。

就任年は名古屋刀剣ワールドの年表によりました。在職の期間ではなく、将軍になった年を示しています。

出来事の欄は、その将軍の在職期にあたる時期のものを並べました。誰が決めたかを示すものではありません。

将軍就任年その時期の主な出来事
初代徳川家康1603年江戸幕府を開く
2代徳川秀忠1605年大坂の陣。武家諸法度・禁中並公家諸法度
3代徳川家光1623年参勤交代の制度化。島原・天草一揆
4代徳川家綱1651年明暦の大火。シャクシャインの戦い
5代徳川綱吉1680年生類憐みの令。赤穂事件
6代徳川家宣1709年新井白石らによる正徳の治
7代徳川家継1713年正徳の治が続く
8代徳川吉宗1716年享保の改革。享保の大飢饉
9代徳川家重1745年幕府の財政難が続く
10代徳川家治1760年田沼意次の台頭。天明の大飢饉
11代徳川家斉1787年寛政の改革。異国船打払令
12代徳川家慶1837年天保の改革。ペリー来航
13代徳川家定1853年日米和親条約。日米修好通商条約
14代徳川家茂1858年桜田門外の変。長州征討
15代徳川慶喜1866年大政奉還

並べてみると、就任の間隔がそろっていないことが分かります。1716年から1787年までに4人が将軍になる一方、1787年から1837年までは1人です。

11代の家斉は在職が長かったことで知られ、年表のうえでも寛政の改革から異国船打払令までが同じ代に収まります。

逆に幕末は、1853年、1858年、1866年と代替わりが続きました。年表の密度と代替わりの速さが重なっている時期です。

ここで一つ、年表を読むときの注意があります。将軍の代替わりと元号の変わり目は、ほとんど一致しません

元号は天皇の代替わりや、災害・吉兆などをきっかけに改められました。将軍が代わったから改元する、というしくみではなかったのです。

筆者
筆者

将軍が代わったことは、町の人にはどう伝わったのでしょうか。

江戸の町人AI
江戸の町人AI

代替わりのときは、お城のほうが慌ただしくなったと聞いておりやす。

とはいえ、町の商いがそれで変わったという話は、あまり伝わっておりやせん。

誰が上に立ったかより、お触れが厳しいか緩いか。そっちのほうが気になったんじゃありやせんかね。

江戸時代の元号と西暦|年表の和暦をどう読むか

年表には、西暦と一緒に元号が書かれています。慶長に始まり、慶応で終わるまで、江戸時代にはいくつもの元号がありました。

まず押さえておきたいのは、改元の理由です。コトバンクの『デジタル大辞泉』は、改元を4つに分けて説明しています。

改元の4つの理由
  • 代始改元:天皇の代替わりに行うもの
  • 祥瑞改元:珍しい自然現象を天意とみて行うもの
  • 災異改元:災害などに際して行うもの
  • 革命改元:讖緯説に基づき、辛酉・甲子の年に行うもの

つまり元号は、政治の節目だけで変わるものではありませんでした。『改訂新版 世界大百科事典』は、災異改元の例として安永を挙げています。

安永は1772年から始まる元号で、風水害をきっかけに改められたと同事典は記します。年表で元号が変わる箇所には、こうした事情が隠れています。

現在のように、一人の天皇に一つの元号を対応させるしくみは、江戸時代にはまだありませんでした

『日本大百科全書』によれば、一世一元の制が導入されたのは1868年(明治1年)の行政官布告第1号によってです。

それ以前について『山川 日本史小辞典』は、天皇一代に数号の年号という場合すらみられたと説明しています。

だからこそ、江戸時代の265年に元号がいくつも並ぶことになります。年表で元号が変わっていても、政治の転換とは限らないのです。

筆者
筆者

元号が変わることは、町の暮らしに関わりがあったのでしょうか。

江戸の町人AI
江戸の町人AI

改元となりゃあ、そこから新しい元号で数えることになったと聞いておりやす。

何がきっかけで改まったのかまでは、あっしらに知らされたわけじゃござんせん。

災いのあとに改まった年もあったと、旦那がたの世では調べられているそうで。

江戸時代の年表で年がずれるのはなぜ?|和暦と西暦の3つの実例

最後に、この記事を書くきっかけになった話をします。同じ出来事なのに、資料によって年が違って見える理由です。

資料によって年が違って見える主な理由は、暦の換算のしかたと、出来事のどの時点を基準に取るかの違いにあります。

とくに影響が大きいのが暦のずれです。和暦の年末の出来事は、日付によっては西暦で翌年に入るのです。

年表では次の3か所で、その影響がはっきり表れます。書き方によって、同じ日が別の年に並びます。

出来事和暦日付を西暦に換算和暦の年に西暦を対応
赤穂事件の討ち入り元禄15年12月14日1703年1月30日1702年
徳川慶喜の将軍宣下慶応2年12月5日1867年1866年
王政復古の大号令慶応3年12月9日1868年1月3日1867年

右の2列が、資料によって年が食い違って見える正体です。以下、1件ずつ見ていきます。

実例1:赤穂事件は1702年か1703年か

赤穂浪士の討ち入りは、元禄15年12月14日の出来事です。この日付を西暦に換算すると、1703年1月30日にあたります。

一方で、名古屋刀剣ワールドの年表は「1702年(元禄15年)」と記しています。これは和暦の年に西暦の年を対応させた書き方です。

つまり、日付を換算した結果と、年どうしを並べた表記の違いです。どちらかが誤りというわけではありません

年表を読むときは、その資料が日付を換算しているのか、年を対応させているのかを見分ける必要があります。

見分けるには、その資料の凡例や注記を確かめるのが確実です。西暦の日付まで換算しているのか、和暦の年に西暦の年を対応させているのかを見ます。

この記事の年表では、赤穂事件の行を1702年に置き、解説の欄に換算した日付を添えました。和暦の年と西暦の年を対応させる書き方に合わせたためです。

実例2:徳川慶喜が将軍になったのは1866年か1867年か

15代将軍の徳川慶喜も同じです。将軍宣下を受けたのは慶応2年12月5日で、コトバンクの『ブリタニカ国際大百科事典』がこの日付を記しています。

松戸市戸定歴史館の年表は、この慶応2年12月5日に西暦1867年を対応させています。年末の出来事なので、換算すると年が繰り上がるためです。

これに対し、名古屋刀剣ワールドの年表は1866年(慶応2年)としています。どちらも同じ日を指しながら、西暦の書き方が分かれるわけです。

慶喜が将軍になった年を調べて、資料ごとに答えが違うと感じた方は多いと思います。数字が食い違っているように見えて、実際には和暦の同じ日を指しています。

この記事の年表では、後期の表で1866年の行に置き、解説の欄に換算した結果を書き添えました。和暦の年に西暦の年を対応させる方針にそろえたためです。

実例3:王政復古の大号令は1867年か1868年か

3つ目は江戸時代の終わりです。王政復古の大号令は慶応3年12月9日に出されました。和暦では大政奉還と同じ年です。

ところが西暦に直すと1868年1月3日になります。松戸市戸定歴史館の年表も、慶応3年12月9日に西暦1868年を対応させています。

江戸時代の終わりが1867年とも1868年とも書かれるのは、この換算が一因です。

この記事の年表では、和暦の年に合わせて1867年の行に置き、解説の欄に換算した結果を添えました。

年表の年がずれる3つのパターン
  • 日付を西暦に換算した年と、和暦の年に西暦を対応させた年が違う(赤穂事件・慶喜の将軍宣下)
  • 和暦の年末の出来事が、西暦では翌年に入る(王政復古の大号令)
  • 一つの出来事に複数の日付がある(大政奉還は10月14日に上表、翌15日に勅許)

3つ目の大政奉還について補足します。コトバンクの『ブリタニカ国際大百科事典』は、慶応3年10月14日に上表し、翌15日に勅許を得たと記しています。

この2つの日付のどちらを取るかで、事典の書き方も分かれます。『日本大百科全書』は上表の提出をもって幕府が閉じたとし、『改訂新版 世界大百科事典』は10月15日の大政奉還までの265年としています。

こうして見ると、年表の年が資料で食い違うのは、書き手の不注意とは限りません。何を基準に取るかの違いが表れているだけの場合があります。

筆者
筆者

当時、年をまたぐという感覚は今と違ったのでしょうか。

江戸の町人AI
江戸の町人AI

あっしらの正月は、今の暦とは日がずれておりやしてね。師走の押し詰まりに大掃除、それから年越しでさ。

西暦だのなんだのは、あっしの世じゃ縁のない話でござんす。

年の変わり目がずれるなんてことは、旦那がたの世で数え直したときに起きた話じゃありやせんかね。

江戸時代の主な人物と時代の全体像

年表でたどった265年を、人物の側から読み直すこともできます。年表に名前の出てくる人たちを、立場ごとに並べてみます。

年表に名前が出てくる人物
  • 徳川家康・家光・吉宗・慶喜:年表の節目に登場する将軍
  • 松平定信・水野忠邦:寛政の改革・天保の改革を進めた老中
  • 勝海舟・小栗忠順・坂本龍馬:幕末の十数年を、それぞれの立場で動いた人たち

このうち幕末の3人については、当サイトに個別の記事があります。

とくに幕末の十数年は、この記事の年表でも出来事がとくに立て込む時期です。同じ出来事を、立場の違う人物の側から読み比べてみてください。

年表ではなく、江戸時代そのものを通して知りたい方は、幕府のしくみや鎖国、身分、庶民の暮らしをまとめた記事もあります。

よくある質問(FAQ)

江戸時代の年表はいつから始まりますか?

一般には1603年(慶長8年)からです。徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた年にあたります。関ヶ原の戦いのあった1600年から書き起こす年表もあります。

江戸時代は何年続きましたか?

約265年間です。1603年から、徳川慶喜が大政奉還を行った1867年までを数えます。終わりを王政復古の大号令に取り、西暦に換算して1868年までとする資料もあります。

江戸時代の年表で、資料によって年が違うのはなぜですか?

当時の暦と西暦にずれがあるためです。和暦の年末の出来事は、日付によっては西暦で翌年に入ります。日付を換算した年と、和暦の年に西暦を対応させた年とでは、示すものが違います。一つの出来事に複数の基準日がある場合もあります。

江戸時代の三大改革とは何ですか?

享保の改革、寛政の改革、天保の改革です。享保の改革は1716年から8代将軍の徳川吉宗が、寛政の改革は1787年から松平定信が、天保の改革は1841年から水野忠邦が進めました。

徳川将軍は何代までいますか?

初代の徳川家康から15代の徳川慶喜まで、15代です。就任年は年表の章にまとめました。将軍の代替わりと元号の変わり目は、ほとんど一致しません。

江戸時代の元号は何から何までですか?

慶長に始まり、慶応で終わります。この間に、天皇の代替わりだけでなく、災害などをきっかけとした改元も行われました。一人の天皇に一つの元号を対応させる制度は、1868年からのものです。

インタビュー後記|年表を作り直して見えたこと

今回は江戸の町人AIに登場してもらい、江戸時代の265年を年表でたどりました。

作業をしてみて意外だったのは、年表づくりの手間の大半が、出来事を集めることではなく、年をどう書くか決めることだった点です。

赤穂事件も、慶喜の将軍宣下も、王政復古も、資料によって年が分かれます。理由をたどると、どれも暦の違いに行き着きました。

そのうえで思ったのは、年表は完成した答えではなく、作り手の選択が表れた資料だということです。年が食い違う資料に出会ったら、どちらが正しいかの前に、何を基準にしたのかを見るほうが早いと感じました。

調べながら書き留めた、年表を読むときの要点を3つ挙げておきます。

年表を読むときの3つのこと
  • 西暦の年が資料で食い違うときは、日付を換算した年か、和暦の年に対応させた年かを確かめる
  • 元号の変わり目は政治の節目とは限らない。災害や吉兆をきっかけにした改元もあった
  • 一つの出来事に複数の日付があることがある(大政奉還は10月14日に上表、翌15日に勅許)

もう一つ気づいたのは、密度の偏りです。この記事の年表では、開府からの40年と幕末の十数年に出来事が集中し、中盤は改革と飢饉が交互に並びます。

265年を一つの表に並べたからこそ、その偏りが目に入りました。年表は流れを覚えるための道具ですが、流れの速さそのものを見せてくれる資料でもあります。

江戸時代のしくみや暮らしについては、別の記事にまとめています。年表で流れをつかんだあとに読むと、出来事のつながりが見えやすくなるはずです。

参考資料

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