2027年の大河ドラマの題は『逆賊の幕臣』です。主人公は小栗忠順(おぐり ただまさ)。逆賊とは、朝廷にそむく者として新政府側からみなされた、という意味合いの言葉です。
では小栗は、何をした罪で斬られたのか。調べると、取り調べがあったかどうかで史料の書いていることが食い違いました。
この記事の結論
小栗忠順がなぜ斬首されたのかを、一つに確定できる史料は、今回確認できませんでした。 残っているのは嫌疑を記した追捕令と、処刑を届け出た藩の文書と、のちに編まれた記録で、それぞれ書いていることが違います。
追捕令には「陣屋等厳重に相構へ、加之砲台を築き」、つまり陣屋を構え砲台まで築いている、という嫌疑が書かれています。基本の命令は捕らえること。ただし三藩の手に余る場合は誅滅せよという条項も付いていました。
高崎藩が総督府へ出した届書の写しには「糺問(きゅうもん)の上」とあり、高崎市の文化財解説は「何の取り調べもなく」と書きます。どちらが実態かは決められません。
- 満40歳
没年齢(数え年42歳) - 2通り
斬首の日付(閏4月5日と6日) - 4月22日
追捕令が出された日(和暦)
この記事では、これまで挙げられてきた5つの見方を、当時の文書に残るもの・噂として広まったもの・後世の解釈に分けて見ていきます。首がどこへ運ばれたのかも追いました。
そして今回は、忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。分からないことは分からないと答える、慎重な語り口の対話としてお読みください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
また、小栗の没後に残された記録については、後の世に伝わったものとして伝えたうえで語ってもらう形にしています。

小栗さん、本日はよろしくお願いします。
いきなり難しいことをうかがいます。ご自身が斬られる理由について、あなたはどこまで知らされていたのでしょうか。

これは答えにくい問いにて候。
陣屋を構え砲台を築いておる、という疑いを示されたことは、そなたらの世の記録にも残っておるようですな。その先で何をどこまで問われたのかは、記録によって書きようが違うと聞き申した。
己がなぜ斬られたのかを、斬られた当人がいちばん申せぬ。妙な話でございます。
小栗忠順はなぜ斬首されたのか|5つの見方を一覧で確認
これまでに挙げられてきた「なぜ」を、先に並べておきます。大事なのは数ではなく、それぞれの出どころが違うことです。
| 見方 | 内容 | 出どころ | 今回確認できた強さ |
|---|---|---|---|
| ① 陣屋と砲台の嫌疑 | 権田村で陣屋を構え砲台を築き、容易ならざる企てがあるとされた | 追捕令の文言。『復古記』と明治以降の刊本に載る | 文言はたどれる。探索を行ったとする記録はあるが、その中身は今回確認できず |
| ② 武器と農兵 | 大砲と小銃を持ち、村で兵を集めていたとされた | 三藩の家記と高崎藩の届書写に、武器を請け取った記述がある | 引き渡しは複数の記録にある。数は藩ごとに違う |
| ③ 徳川埋蔵金 | 幕府の御用金を隠したとして狙われたとする見方 | 後世に広まった伝説 | 処刑の理由として書いた資料は今回確認できず |
| ④ 抗戦を唱えた経歴 | 徹底抗戦を主張した人物として危険視されたとする見方 | 館林市は抗戦の主張を、群馬県観光物産国際協会は実力を恐れられたことを記す | 経歴は確認できる。それが理由だと書いた史料は確認できず |
| ⑤ 現場の判断 | 追捕を命じた文書のもとで、捕縛後に斬首まで進んだ経緯を、現場の判断とみる見方 | 命令の本体が「追捕」だったこと、捕縛の翌日までに斬首されていること | 状況は指摘できるが、誰がいつ決めたかを示す記録は確認できず |
この5つは、確からしさの種類がそろっていません。①だけが、当時の文言としてたどれる嫌疑です。②は数字が動き、③は伝説、④と⑤は後世の読み取りにあたります。
一つ補足します。①の文言がたどれることと、そこに書かれた嫌疑が事実であることは、別の話です。ここを混ぜると、命令書がそのまま真相になってしまいます。

並べていただくと、よく分かり申す。
一つ目は、当時の命令書に残っておる嫌疑にて候。二つ目の武器の受け渡しも、藩の届書にあると聞きました。
残りは、そこに後の世の解釈や言い伝えが重なったものもありましょう。どれが正しいかは、私にも申せませぬ。
小栗忠順の処刑の理由を史料からたどる
ここからは一つずつ見ていきます。どの資料が、いつ出た、どういう立場の本なのかを添えながら読んでいきます。
- 新政府軍が示した嫌疑は、何と書かれていたのか
- 武器と農兵は、どこまで確認できるのか
- 徳川埋蔵金の噂は、処刑の理由として書かれているのか
- 取り調べはあったのか(ここで史料が食い違います)
- 誰が斬ると決めたのか
残る「抗戦を唱えた経歴」という見方は、ほかの幕臣がどう扱われたかと並べたほうが分かりやすいので、章をあらためます。
① 嫌疑は何と書かれていたか|「陣屋等厳重に相構へ」
慶応4年閏4月1日(1868年5月22日)、三藩の役人が権田村に到着します。東善寺によれば、役人は東山道総督府の回文を示し、「陣屋等厳重に相構候加之砲台を築き」という嫌疑をかけました。
追捕令があて先としたのは、高崎・安中・吉井の三藩です。太政官が編んだ『復古記』も高崎藩の届書写も吉井藩とします。後世の刊本には小幡藩と書くものがあり、伝わる過程で異同が生じたようです。
同じ文言は、明治以降の刊本にも載っています。蜷川新(にながわ あらた)の『維新前後の政争と小栗上野の死』(日本書院、1928年)は、三藩あての命令文を次のように引いています。
小栗上野介近日、其領地上州権田村に陣屋等厳重に相構へ、加之砲台を築き、不容易企有之趣き諸方注進難聞捨、深く探索を加候処、逆謀判然、上は天朝に対し奉り不埒至極、下は主人慶喜恭順の意に相戻り候に付、追捕の儀其藩々へ申附候
現代語訳小栗が権田村で陣屋を厳重に構え、砲台まで築き、容易ならざる企てがあるとの知らせが各方面から届いた。探索を加えたところ反逆の企てが明らかなので、追捕を各藩に申し付ける。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(日本書院、1928年)
この文言は、次の資料でたどれます。
- 『復古記』第11冊(太政官編、内外書籍、1931年):4月22日付、差出は東山道総督府執事、あて先は松平右京亮(高崎)・板倉主計頭(安中)・吉井鉄丸
- 『読史余録』(塚越芳太郎、民友社、1901年):東山道総督が三藩に出した檄として引く
- 写本『麗斎叢書』(国立国会図書館デジタルコレクション):三藩あて御達書の写しを収める
写本については、全文検索用のテキストで本文を読んだだけで、原本の画像との照合はしていません。
つまり、嫌疑の文言そのものは複数の資料でたどれます。
探索についても、『復古記』が収める新田俊純の従軍事蹟に、総督府から巨細に探索せよと命じられ、絵図面にして届け出たという記述があります。
ただし、その探索で何がどこまで確かめられたのかは、今回確認できませんでした。
東善寺は、小栗が現地を見るよう促したところ、役人は観音山の建物を見て疑いなしと同意した、と記しています。調べたうえでの嫌疑だったのかが、ここで揺らぎます。
なお蜷川は、小栗の妻・道子の妹の子にあたります。水沼河原に立つ顕彰碑の文字も蜷川が書いており、身内の立場から書かれた本として読む必要があります。

嫌疑の文言と、実際に取られた手続きが合っていません。この読み分けについて、どうお考えになりますか。

嫌疑の文言は残っても、その前にどのような探索がなされたのか、中身までは残っておらぬようですな。
陣屋と申されても、雨露をしのぐ家にすぎませぬ。見ていただければ済む話であったはず、と今にして思い申す。
疑いなしと申した役人がおったのに、数日後には別の兵が私を縛りに来た。そこは私にも分かり申さぬ。
② 武器と農兵|引き渡した数が資料で違う
嫌疑の中身として具体的なのは、武器と兵です。小栗が権田村で大砲と小銃を持ち、農兵を訓練していた、という筋書きになります。
武器の引き渡し自体は、同時代の文書に出てきます。高崎藩が総督府へ出した届書の写しは、閏4月1日に三藩が権田村へ人数を出し、小栗父子が所持していた「大小砲其外」を請け取った、と書いています。
数になると記録が割れます。『復古記』所収の吉井信謹家記は「大砲二門、小銃五挺」を差し出したとし、石原戒造編『幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ』(マネジメント社、1934年)は「大砲一門、小銃二十挺」と書きます。
大河内輝聲家記と安中藩記は数を挙げず、「大小砲その外の器械を請け取った」とだけ記します。
農兵のほうは、今回参照した高崎市の文化財・観光ページや館林市、事典類には出てきません。菩提寺の東善寺は、抗戦の準備という見方そのものを通説の誤りとして否定しています。
武器があることが、ただちに反逆を意味するわけではありません。武器を差し出した相手が、そのあと捕らえられている。この順序の説明のつきにくさが残ります。

武器を請け取ったという届書と、そのあと捕らえたという届書が、同じ一通のなかに並んでいます。

引き渡したという記録が残っておるのであれば、少なくともその時点で、戦う備えを弱める振る舞いには見えましょう。
そこから先、腹の内がどうであったかまでは、記録では計れますまい。
その場で何挺を渡したかも、藩によって書きようが違うと聞き申した。私の口から数を申し立てるべきではござらぬ。
③ 徳川埋蔵金|処刑の理由として書かれているのか
小栗の処刑は、しばしば徳川埋蔵金と結び付けて語られます。勘定奉行として幕府の金庫を握っていた人物だから、金の在りかを知る者として消された、という筋書きです。
ところが、今回確認した自治体・寺・事典の資料に、埋蔵金を処刑の理由として書いたものはありませんでした。新政府軍が示した嫌疑にも、金の話は出てきません。
研究の側では、高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新 『小栗日記』を読む』(岩波書店、2013年)があります。出版社の内容紹介は、埋蔵金の噂を処刑後の掠奪の背景として挙げており、処刑の理由としてではありません。
同じ内容紹介は「官軍によって処刑されるに至ったのはなぜか」と、理由を問いの形で書いています。本文がどう答えているかは、本記事では確認していません。
伝説が処刑と結び付いたのは、説明のつかない死に、分かりやすい動機をあてはめたかったからかもしれません。ここは筆者の推測であり、そう書いた史料があるわけではありません。

埋蔵金の話は、いまも小栗さんの名前とセットで語られています。

勘定を預かった者の宿命でございましょうな。
金の在りかを知る者は、金を隠した者だと思われる。役目柄、そう見られるのは覚悟のうちにて候。
とはいえ、隠した覚えを語れば作り話になり申す。ここは黙っておくのが筋と存ずる。
④ 取り調べはあったのか|史料で記述が食い違う
まず命令の中身です。三藩に命じられているのは追捕、つまり捕らえることでした。蜷川も、これは「追捕」であって「殺害の命」ではなかったと注記しています。
ただし命令には続きがあります。追捕が三藩の手に余る場合は本陣へ申し出よ、先鋒諸隊をもって一挙に誅滅せよ、という一文です。捕らえきれないときの手当ては、あらかじめ書かれていました。
では、捕らえたあとに取り調べはあったのか。ここで史料が食い違います。
高崎藩が総督府へ出した届書の写しが『太政官日誌』第25号に載っています。処刑した側が出した報告です。
(前略)保太郎殿糺問之上(中略)上野介父子首級并武器類等ハ御総督府ヘ護送仕候
現代語訳原保太郎殿が糺問(取り調べ)をしたうえで斬首し、上野介父子の首級と武器類は総督府へ護送しました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『太政官日誌』慶応4年 第5巻(太政官)所収「高崎藩届書写」
『復古記』が収める三藩の家記は、もっと細かく書いています。高崎藩の大河内輝聲家記と安中藩記は、閏4月5日に「保太郎糺問を遂げ候上」で斬首したと記します。
吉井信謹家記はさらに細かく、5日に使員の「御糺問の上」捕縛して三ノ倉の本陣へ引き立て、翌6日に三藩の隊長が本陣へ出張して「立会糺問」をしたのち斬首した、という流れを書いています。
一方、高崎市が編んだ『高崎市史』(1927年)は、小栗父子について「二人一モ訊問セズ」、つまり一度も訊問しなかったと書いています。現在の高崎市の文化財解説も「何の取り調べもなく」です。
古い刊本も同じ側に立ちます。川崎三郎『戊辰戦史』(博文館、1894年)は、次のように記します。
忠順ハ、此時、自ラ十分ニ其志ヲ明ニシ得ベキヲ信シテ疑ハサリキ。而シテ、官軍ノ意必殺ニ在ルヲ以テ、一ノ問フ所アラズ
現代語訳忠順はこのとき、自分の考えを十分に説明できると信じて疑わなかった。しかし官軍の意図は必殺にあったので、一つも問うところがなかった。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション 川崎三郎『戊辰戦史』(博文館、1894年)
本山荻舟『近世数奇伝』(金桜堂書店ほか、1921年)も「唯一回の訊問をも受けず」と書いています。官軍の意図が必殺にあったという部分は、書き手の判断であって、根拠は示されていません。
整理すると、処置にあたった三藩の家記と届書はいずれも糺問があったとし、明治以降に編まれた記録は訊問がなかったとする、という分かれ方をしています。
どちらが実態かを、本記事では決められません。届書や家記は処置した側の報告文書です。後世の記録も、成立した時期・編者・典拠がそれぞれ違います。双方とも、史料の性格を踏まえて読む必要があります。
言えるのは、捕らえてから翌日までに斬首まで進んでおり、その間に何がどこまで行われたのかを、史料から一つに決められないということです。
なお東善寺は、閏4月1日に見分へ来たのは三藩の役人、その後に捕縛したのは西軍だったと書き分けています。

取り調べがあったと書く文書と、一度もなかったと書く記録が、両方残っています。

そのように分かれておるのですか。
私の側から、どちらが本当であったかを申し立てるのは筋が違いましょう。ここからは創作としての物言いと思われよ。申し開きを尽くせたという心持ちは、ついに残らなんだ。
尽くせたかどうかは、私の心持ちではなく、残された文書で計るほかありますまい。
⑤ 誰が斬ると決めたのか
現場に来た総督府の使員として、原保太郎・豊永貫一郎・大音竜太郎の3人の名が『高崎市史』に挙がっています。『復古記』も、原と豊永が三藩の兵を監督したと記します。
処刑のときに立てられた札の文言を伝える記録も残っています。『高崎市史』と『碓氷郡志』(群馬県碓氷郡編、1923年)は、「其方儀、朝廷に対し奉り叛状明白に付、天誅を蒙らしむる者也」という趣旨の宣告を載せています。
家臣にあてた札には、主人の企てを助けた罪が明白なので梟首にする、という趣旨が書かれています。罪の内容を告げたとされる文言が、後世の編纂物に伝えられているわけです。
ただし、斬首を最終的に誰がどの権限で決めたのかを直接示す文書は、今回確認できませんでした。捕縛から斬首までの経過は家記に残っているのに、決定そのものの部分だけが分かりません。

札の『叛状明白』は、追捕令の『逆謀判然』とほぼ同じ趣旨の言葉です。

最後に掲げられた言葉も、初めの嫌疑とほぼ同じ趣旨であった、ということになりますな。
それを短いと見るか、動かなかったと見るかは、読む人に委ねとうございます。
私が申せるのは、その札を読む立場には、もうおらなんだ、ということだけにて候。
小栗忠順の最期|捕縛から斬首までの経緯
役を解かれてから斬首までは、3か月あまりです。並べてみると、最後の数日だけが急に速く動いていることが分かります。
| 年月日(和暦) | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 慶応4年1月15日 | 1868年2月8日 | 御役御免となる |
| 慶応4年3月1日 | 1868年3月24日 | 権田村へ移り、東善寺に仮住まいする |
| 慶応4年3月4日 | 1868年3月27日 | 押し寄せた一団と衝突したと東善寺は記す |
| 慶応4年4月22日 | 1868年5月14日 | 東山道総督府が三藩へ追捕を命じる(『復古記』の日付) |
| 慶応4年閏4月1日 | 1868年5月22日 | 三藩が権田村へ人数を出し、大小砲などを請け取る |
| 慶応4年閏4月4日夕 | 1868年5月25日 | 総督府の使員が高崎城下へ入り、出兵を達する(届書写) |
| 慶応4年閏4月5日 | 1868年5月26日 | 捕縛される。高崎・安中の家記と高崎藩の届書写は、この日の斬首とする |
| 慶応4年閏4月6日 | 1868年5月27日 | 吉井信謹家記・高崎市・東善寺は、この日の斬首とする |
| 慶応4年閏4月7日 | 1868年5月28日 | 養嗣子の又一忠道が高崎で斬首される |
日付は資料によって動きます。しかも、同じ『復古記』の中で食い違っています。並べるとこうなります。
| 斬首の日 | そう記している資料 |
|---|---|
| 閏4月5日 | 『復古記』の本文、同書所収の大河内輝聲家記(高崎藩)・安中藩記、『太政官日誌』の高崎藩届書写、『日本大百科全書』 |
| 閏4月6日 | 『復古記』所収の吉井信謹家記、高崎市、館林市、東善寺、国立国会図書館、『高崎市史』が載せる札の日付 |
処置にあたった三藩のうち、高崎と安中が5日、吉井が6日と書いている形です。同じ現場にいた藩の記録どうしで1日ずれています。
この記事は本文で閏4月6日を採りました。ただしどちらかが誤りと決められるわけではありません。
同時に斬られた家臣の人数も割れています。高崎市と東善寺は3人とし、館林市は「家来4人とともに」と記します。高崎市は、翌日の又一忠道の斬首にも家臣3名が伴ったとしています。
東善寺には家臣や従者の墓も並びますが、内訳までは示されていません。
場所の呼び方も分かれます。高崎市と東善寺は水沼河原(現在の高崎市倉渕町水沼)、館林市は三ノ倉の河原とします。東善寺は三ノ倉へ連行されたのち水沼河原で斬首されたとしており、連行先と処刑地の違いと読めます。

三か月のうち、静かであったのは初めの二か月にて候。
村に用水を通し、山に小さな家を建てる。そういう日々でありました。
最後の数日だけが、まるで別の暦のように過ぎていったと存ずる。
榎本武揚は生き延び、退いた小栗は斬られた
小栗が斬られた理由を考えるとき、避けて通れない比較があります。新政府と戦った榎本武揚のほうが、生き延びているのです。三人の処遇を並べてみます。
| 人物 | 戊辰戦争での立場 | その後 |
|---|---|---|
| 榎本武揚 | 艦隊を率いて箱館で戦い、降伏した | 投獄ののち赦され、海軍卿・逓信大臣などを歴任した |
| 勝海舟 | 江戸開城の交渉にあたった | 明治政府で海軍卿・枢密顧問官などを務めた |
| 小栗忠順 | 抗戦を唱えたが容れられず、役を解かれて領地へ移った | 捕縛の翌日に斬首された |
この落差は、昭和初期に出た顕彰の本にも嘆きとして引かれています。小栗を偲ぶ本には、会津の松平容保も箱館の榎本武揚も命は助けられたのに、田舎に引き込んでいた小栗だけがこうなった、という趣旨の嘆きが引かれています。
ただし、ここから「見せしめにされた」と言い切るのは早いところです。時期が違います。小栗が捕らえられたのは江戸の開城から3週間ほどのちで、戦いの帰趨(きすう)がまだ定まっていない時期でした。
榎本が降伏したのは翌年で、戦いが終わったあとです。助命の交渉にあたる人も時間もありました。同じものさしで並べにくい、という前置きは必要になります。
館林市は、小栗が鳥羽・伏見の敗戦後に徹底抗戦を主張していたと記します。群馬県観光物産国際協会は、実力を恐れた西軍によって斬られたと書きます。ただし、それが処刑の理由だったと述べた史料は今回確認できませんでした。

あなたのあとに、榎本武揚さんは新政府で大臣まで務めています。

聞けば、そうであったそうな。
恨みを申す筋の話ではござらぬ。国に人が要るなら、使えるものは使うのが道理にて候。
ただ、戦わずに引いた者が先に斬られたという順序だけは、いまもうまく飲み込めませぬ。
小栗忠順の首はどこへ運ばれたのか
処刑のあと、首はすぐには権田村に戻りませんでした。この行方については、館林市と東善寺がそれぞれ経緯を公表しています。
| 時期 | 出来事 | 伝えている資料 |
|---|---|---|
| 斬首の直後 | 首級と武器類を総督府へ護送したと、高崎藩が届け出る | 『太政官日誌』の届書写 |
| 斬首の直後 | 首級が高崎へ、翌日に館林の総督府へ送られる | 東善寺 |
| 館林到着後 | 館林城で総督・岩倉具定の首実検を受ける | 館林市・東善寺 |
| その後 | 泰安寺に預けられ、墓所がないため法輪寺の墓地に埋められる | 館林市・東善寺 |
| 明治2年 | 権田村の人々が掘り出し、東善寺へ運んで遺体とともに葬る | 館林市・東善寺 |
又一忠道の首級については、館林市が父子ともに館林へ送られたとし、東善寺は別に下斉田村へ渡されたと記します。ここは資料が分かれます。
掘り出しにあたったのは、権田村の村役人・中島三左衛門ら数人です。館林市は、下野国高橋村の名主や館林の住人が手引きしたこと、取り調べにあたった館林藩士のもとで罪に問われなかったことまで記しています。
時期の書き方は資料で異なります。館林市は一周忌にあたる夜とし、東善寺は明治2年の春とします。同じ出来事を指していると読めますが、日付の細かさが違います。
1928年に出た蜷川の本は、首の所在を不明と書き、いくつかの噂を並べていました。いま自治体と寺がたどれる経緯のほうが、1928年の本より詳しくなっています。

首を取り返したのは、お城の人でも幕府の人でもなく、権田村の人たちでした。

それは……聞いてよいものか、迷う話にて候。
知行地とは申せ、私はあの村にわずか二月ほど住んだだけの者でございます。用水を通し、山に家を建てかけただけの。
その者たちが夜に他領の寺へ忍んだと聞けば、礼を申すより先に、無事であったかを尋ねとうございます。
小栗忠順の墓と顕彰碑|「罪なくして此所に斬らる」
墓は、小栗が最後の日々を過ごした東善寺(高崎市倉渕町権田)にあります。境内の墓と、処刑の場所に立つ碑は、それぞれ別の時期に地元の人々が建てたものです。
- 供養墓:境内にある父子主従の墓。東善寺は明治初年に権田の村人が建てたものとする
- 本墓:供養墓から数分登った寺山にあり、遺体と取り返された首級が葬られたとされる
- 県指定史跡:高崎市は「小栗上野介忠順の墓」を群馬県指定史跡(昭和28年指定)として紹介する
- 顕彰慰霊碑:水沼河原に立つ碑。昭和7年(1932年)に地元の有志が建てた
碑には「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。文字を書いたのは蜷川新で、小栗の妻・道子の妹の子にあたる人物です。
東善寺は、この碑を建てるとき、碑文の「罪なくして」に高崎警察署長が異議を唱えたと伝えています。処刑から60年以上たっても、罪の有無を石に刻むことは簡単ではなかったようです。
養嗣子の又一忠道は、翌日に高崎で斬られました。東善寺は城内、高崎市は城下と記します。享年21と伝わりますが、満年齢か数え年かは示されていません。
妻の道子は身重のまま会津へ逃れ、6月10日に女児を産んで国子と名づけたと東善寺は記します。のちに東京へ出て、明治18年(1885年)に亡くなりました。
なお、この出来事を「処刑」と呼ぶかどうかも、資料によって分かれます。自治体や事典は処刑・斬首と書き、菩提寺の東善寺は取り調べがなかった以上それは処刑ではないとして、殺害という語を使っています。

あなたの碑には『罪なくして』と刻まれています。それを書いたのは、身内にあたる方でした。

身内の筆であるなら、なおのこと、私からは何とも申せませぬ。
罪があったかなかったかは、斬られた側が言うことではござらぬと存ずる。
ただ、その石を建てるのに骨を折った方々がいたことだけは、ありがたく受け取っておきます。
小栗忠順は何をした人だったのか|生涯のふり返り
処刑のことから調べ始めた方のために、人物の輪郭も置いておきます。斬られたところだけが知られがちですが、その前に何をしていた人なのかも見ておきます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 小栗忠順(通称は又一、官途名は上野介) |
| 生没年 | 1827年〜1868年(満40歳没・数え42歳) |
| 出身 | 江戸・神田駿河台 |
| 主な功績 | 遣米使節としての通貨交渉、横須賀製鉄所の建設、兵庫商社の提案 |
1860年の遣米使節では、目付として渡米し、フィラデルフィア造幣局で日米の金貨の分析を求めました。通貨の交換比率を数字で詰めようとした交渉として知られます。
1865年に起工した横須賀製鉄所は、幕府が倒れたあとも工事が止まりませんでした。新政府に引き継がれ、明治4年(1871年)に1号ドックが完成しています。
仕事は残り、本人は残りませんでした。この対比が、小栗忠順という人物をいまも語らせています。生涯と功績は、こちらの記事でくわしく紹介しています。
よくある質問(FAQ)
小栗忠順はなぜ斬首されたのですか?
理由を一つに確定できる史料は今回確認できませんでした。追捕令は陣屋を構え砲台を築いたという嫌疑を挙げ、処刑のときの札は「叛状明白」と記しますが、その中身を裏づける調査の記録は確認できていません。
取り調べは本当になかったのですか?
史料で記述が食い違います。高崎藩が総督府へ出した届書の写し(『太政官日誌』第25号)には「糺問之上」とあり、取り調べがあったと読めます。一方、『高崎市史』は「二人一モ訊問セズ」と書きます。どちらが実態かは決められません。
いつ、どこで処刑されましたか?
場所は水沼河原(現在の高崎市倉渕町水沼)です。日付は、高崎市・東善寺・吉井信謹家記が慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)とし、高崎・安中の家記と高崎藩の届書写は閏4月5日として、資料が分かれます。
罪状は何と書かれていたのですか?
二つに分けて見る必要があります。追捕令に書かれたのは、陣屋を構え砲台を築き容易ならざる企てがある、という嫌疑です。処刑のときの札には「朝廷に対し奉り叛状明白に付、天誅を蒙らしむる者也」という趣旨が記されています。
小栗忠順の首はどうなったのですか?
館林へ送られて首実検を受けたのち、法輪寺の墓地に埋められました。その後、権田村の人々が掘り出し、東善寺で遺体とともに葬ったと、館林市と東善寺が記しています。
家族はどうなりましたか?
養嗣子の又一忠道は翌日に高崎で斬首されました。享年21と伝わります。妻の道子は身重のまま会津へ逃れ、6月10日に女児を産んだと東善寺は記しています。
小栗忠順の墓はどこにありますか?
群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺にあります。境内の供養墓とは別に、寺山に本墓があるとされ、高崎市は「小栗上野介忠順の墓」を群馬県指定史跡として紹介しています。
徳川埋蔵金が処刑の理由だったのですか?
そう語られることはありますが、今回確認した資料に、埋蔵金を処刑の理由として書いたものはありませんでした。研究の側では、処刑後の掠奪の背景として触れられています。
インタビュー後記|食い違いが残る、ということ
今回は忠順AIに登場してもらい、小栗忠順が斬首された理由をたどりました。
調べてみて意外だったのは、資料が足りないのではなく、同じ出来事について書いていることが食い違うことでした。処刑した側の届書は糺問をしたと書き、のちに編まれた市史は一度も訊問しなかったと書きます。
日付も、斬首の日が1日ずれたまま両方が残っています。私たちが「なぜ」と問うとき、出てくるのは一つの答えではなく、食い違ったままの複数の記録でした。
説を一つ選んで断定するほうが、読み物としては収まりがよいのだと思います。けれど、首を掘り返しに行った村人がいたことのほうが、どの説よりも記憶に残りました。
小栗が生きていたら歴史はどうなったのか。その問いは、別の記事でたどっています。
同じ幕臣でありながら、戦わない道を選んで生き延びた人物についても紹介しています。
参考資料
- 高崎市「小栗上野介忠順終焉の地」(高崎市文化財情報)※閏4月5日の捕縛、「何の取り調べもなく」翌日水沼川原で斬首されたこと、昭和7年の碑の建立
- 高崎市「小栗上野介忠順の墓」(高崎市文化財情報)※群馬県指定史跡であること、東善寺境内に父子の墓があること、「『反逆の企て』があるとされ」という記述
- 高崎市「本市ゆかりの幕臣・小栗上野介」(デジタル広報高崎)※閏4月6日=5月27日の対応、倉渕町水沼の烏川河原で斬首されたこと
- 高崎市「小栗上野介の関連史跡」※又一忠道が閏4月7日に高崎城下で斬首されたこと、享年21、顕彰慰霊碑と観音山小栗邸跡
- 館林市「小栗上野介忠順と館林」※首級が館林へ送られ岩倉具定の首実検を受けたこと、泰安寺から法輪寺への埋葬、掘り出しの経緯と関与者、家来4人とともに斬首されたとする記述
- 公益財団法人群馬県観光物産国際協会「小栗上野介」※「何の取り調べもなく」斬首されたこと、実力を恐れた西軍によるとする記述
- 東善寺「権田村での最後の64日間」※閏4月1日に三藩の役人が回文を示したこと、「陣屋等厳重に相構候加之砲台を築き」の文言、現地を見た役人が疑いなしと同意したこと、捕縛と斬首の経緯
- 東善寺「お殿様のお首級迎え」※首級が高崎から館林へ送られた経緯、法輪寺からの掘り出しと東善寺への埋葬
- 東善寺「小栗上野介父子主従の墓」※供養墓と本墓の別、葬られている家臣・従者の名、又一忠道の享年
- 東善寺「顕彰慰霊碑」※碑文「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」、昭和7年の建立、書が蜷川新であること、建碑時のいきさつ
- 東善寺「通説の誤り」※埋蔵金説と抗戦準備説を否定する立場、「処刑」という語を用いない理由
- 東善寺「小栗上野介忠順の略歴」※権田村への土着、妻・道子の没年
- 東善寺「会津へ逃れた小栗道子夫人」※道子が中島三左衛門らに護られて会津へ逃れたこと、6月10日に女児を産み国子と名づけたこと、明治2年春に会津を発ったこと
- 国立国会図書館「小栗忠順|近代日本人の肖像」※生没年(慶応4年閏4月6日=1868年5月27日)、歴任した役職
- 国立国会図書館デジタルコレクション『太政官日誌』慶応4年 第5巻(太政官)※第25号所収の「高崎藩届書写」。閏4月1日に大小砲などを請け取ったこと、「保太郎殿糺問之上」の文言、斬首を「翌五日」と読める日付、首級と武器類を総督府へ護送したこと。※全文検索用のテキストで確認し、原本の画像との照合はしていません
- 国立国会図書館デジタルコレクション 太政官編『復古記』第11冊(内外書籍、1931年)※東山道戦記の明治元年閏四月五日の条。追捕令の全文と4月22日という日付、あて先が高崎・安中・吉井の三藩であること、原・豊永が三藩兵を監督したこと
- 国立国会図書館デジタルコレクション 高崎市編纂『高崎市史』(1927年)※「二人一モ訊問セズ」という記述、閏四月六日付の宣告の札の文言、使員として原保太郎・豊永貫一郎・大音竜太郎の名を挙げていること
- 国立国会図書館デジタルコレクション 群馬県碓氷郡編『碓氷郡志』(1923年)※又一と家臣にあてた宣告の札の文言
- 国立国会図書館デジタルコレクション 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(日本書院、1928年)※三藩あて命令文の全文、「追捕」であって殺害の命ではないという注記、首の所在を不明とする記述。※著者は小栗の妻の妹の子にあたり、身内の立場から書かれた本です
- 国立国会図書館デジタルコレクション 塚越芳太郎『読史余録』(民友社、1901年)※東山道総督が三藩に出した檄として、同じ文言を引いていること
- 国立国会図書館デジタルコレクション 川崎三郎『戊辰戦史』(博文館、1894年)※捕縛の経緯と、一つも問うところがなかったという記述、監軍として原保太郎・豊永貫一郎の名を挙げていること
- 国立国会図書館デジタルコレクション 本山荻舟『近世数奇伝』(金桜堂書店ほか、1921年)※「唯一回の訊問をも受けず」という記述
- 国立国会図書館デジタルコレクション 石原戒造編『幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ 横須賀海軍工廠創設の由来』(マネジメント社、1934年)※大砲一門・小銃二十挺を引き渡して三藩が撤兵したという記述、ほかの幕臣と比べた嘆きの引用
- 国立国会図書館デジタルコレクション『麗斎叢書』(写本)※三藩あて御達書の写しが収められていること。※本記事は全文検索で読める本文を確認したにとどまり、原本の画像は確認していません
- 岩波書店 高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新 『小栗日記』を読む』(2013年)※埋蔵金の噂を処刑後の掠奪の背景として挙げていること、処刑に至った理由を問いの形で提示していること。※本記事は内容紹介を確認したにとどまり、本文は読んでいません
- コトバンク「小栗忠順」(『日本大百科全書』『ブリタニカ国際大百科事典』ほかを収録)※処刑日を閏4月5日とする記述、「不穏のたくらみをするものとして討伐を受け」という記述
- 国立国会図書館「榎本武揚|近代日本人の肖像」※箱館で降伏したのち赦され、海軍卿・逓信大臣などを歴任したこと
- 国立国会図書館「勝海舟|近代日本人の肖像」※明治政府での役職






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