明治4年にできた石造りのドックが、横須賀でいまも使われています。船を入れて水を抜き、船底を修理するための施設です。
その設計図もそろって残っていて、実物と図面の両方が日本遺産の構成文化財になっています。150年以上が過ぎた今も、現役です。
この記事の結論
横須賀製鉄所と横須賀造船所は、別の施設ではありません。 同じ場所の呼び名が、明治4年(1871年)に変わったものです。
そして、その1871年も施設全体が完成した年ではありません。この年に竣工したのは1号ドックで、拡張はその後も続きます。
- 慶応元年11月15日
くわ入れ式(横須賀市の表記では1865年) - 240万ドル・4か年
当初の構想(『山川 日本史小辞典 改訂新版』) - 150年以上
1号ドックが使われている年数(明治4年1月竣工)
この記事では、名前がなぜ変わったのか、誰が造ったのか、そしていま何が見られるのかを、公的資料でたどります。
そして今回は、忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。小栗はこの事業の起案者とされる人物ですが、1号ドックの竣工を見ないまま、慶応4年(1868年)に亡くなっています。
小栗の没後の出来事は、本人の知らないことばかりです。そこは「そなたらの世の史料では」と伝え聞く形で語ってもらいます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
小栗の没後の出来事については、後の世に伝わったものとして伝えたうえで語ってもらう形にしています。

小栗さん、本日はよろしくお願いします。
まず基本的なところから伺います。横須賀製鉄所と横須賀造船所は、違う施設なのでしょうか。

同じ場所にございます。
私が関わりましたころは製鉄所と呼んでおりました。名が改まったのは私の亡きあとと聞き及びます。
なにゆえ改まったか、そこはそなたらの世の記録に当たっていただくのがよろしかろう。
横須賀製鉄所と横須賀造船所の違いは?同じ場所の、時期による呼び名です
先に答えを書きます。違う施設ではありません。同じ場所が、時期によって別の名前で呼ばれています。
日本大百科全書の記述にしたがって並べると、こうなります。
| 時期 | 名称 | できごと |
|---|---|---|
| 1865年(慶応元)8月 | 横須賀製鉄所 | 建設に着手 |
| 1866年(慶応2)10月 | 横須賀製鉄所 | 開業 |
| 1871年(明治4)4月 | 横須賀造船所 | 改称(1号ドックの竣工は同年1月) |
| 1903年(明治36)11月 | 横須賀海軍工廠 | 海軍工廠へ改組 |
つまり「横須賀製鉄所」は幕末から明治初期の呼び名、「横須賀造船所」は明治4年からの呼び名です。検索すると別々に出てくるので混乱しますが、場所は同じです。
ややこしいのは、この場所より先に横浜にも製鉄所が造られていたことです。横須賀市によれば、フランス公使ロッシュが「大規模な造船施設を造る前に小規模な工場を建設するよう」進言し、それを受けて横浜製鉄所が建てられました。
日本大百科全書は横浜製鉄所の完成を1865年(慶応元年)とし、横須賀製鉄所の着手を同年8月としています。横浜で日本人技師の育成と設備の準備を進め、そのうえで横須賀に本格的な造船施設を築くという順序でした。

まず小さき場を、と公使殿が申されたと聞き及びます。
ここからは創作としての物言いと思われよ。扱える者がおらねば大きな場も動きませぬゆえ、私にはその順序が理にかなって見えまする。
なぜ「製鉄所」と呼んだのか|鉄を作る工場ではありませんでした
名前に「製鉄」とありますが、鉄鉱石から鉄を作る工場ではありません。 主な仕事は船を造ることと、船を修理することでした。
横須賀市自然・人文博物館は、この施設を「製鉄所と言う名を持つものの、おもに造船と船の修理をおこなっていた施設」と説明しています。名前と中身がずれているわけです。
では、なぜ「製鉄所」と名づけたのか。財務省の広報誌『ファイナンス』に載った鈴木文彦氏の記事は、フランス語の Arsenal(アルスナル)の訳語だったと説明しています。
- Arsenal は兵器工場を意味するフランス語で、これを当時「製鉄所」と訳したと『ファイナンス』は説明する
- 施設の実態は造船と修船で、製鉄そのものが主目的ではない
- 1号ドックが完成した明治4年に、実態に近い「造船所」へ改称された
この説明は財務省の広報誌に載ったものです。命名の経緯を伝える幕府側の文書までは、今回確認できていません。「そう説明されている」という段階の話として読んでください。
言葉の面から見ると、改称は看板の掛け替えというより、呼び名が実態に追いついたという出来事に見えます。
横須賀製鉄所は誰が造ったのか|小栗ひとりの事業ではありません
「小栗上野介が造った」と紹介されることの多い施設ですが、公的資料をたどると、複数の人物が別々の役割で関わっています。
横須賀市のページは、幕府内の親フランス派として栗本瀬兵衛(鋤雲)・小栗上野介忠順・浅野美作守の名を挙げ、彼らがフランス公使ロッシュに相談して協力を依頼した、と書いています。
- 小栗忠順:勘定奉行などを歴任した旗本。横須賀市は「その計画を立てたのは…小栗上野介忠順でした」と記す
- 栗本鋤雲:小栗とは竹馬の友とされ、フランス側との仲立ちを担った
- 浅野美作守:親フランス派の一人として横須賀市が名前を挙げている
- レオン・ロッシュ:駐日フランス公使。技術者団を手配し、先に横浜製鉄所を造るよう進言した
- フランソワ・レオンス・ヴェルニー:首長として計画立案から建設指導までを担った技術者
ここで一つ、注意しておきたいことがあります。「小栗がヴェルニーを招いた」とする紹介もありますが、横須賀市の詳しい歴史解説は別の順序で説明しています。 幕府側がロッシュに協力を求め、フランス側でヴェルニーが選ばれた、という流れです。
資料によって、誰の名前が出るかが違います
同じ横須賀市でも、観光情報のページは「小栗上野介が中心となり、フランスの海軍技師ヴェルニーを招き」と短くまとめています。同じ横須賀市のページでも、掲載の目的によって説明の詳しさに違いがあります。
一方、コトバンク収録の「横須賀造船所」の各項目を見ると、小栗の名前が出てきません。首長のベルニー(ヴェルニー)だけが登場します。
一方、山川日本史小辞典の「横須賀製鉄所」の項は「幕府の小栗忠順とフランス公使ロッシュとで立案された」と書きます。立案者としては事典にも載る一方、造船所の項目では名前が消えるというのが、資料を並べたときの姿でした。
小栗の側の関与は、当事者だった栗本の著作集からもたどれます。『匏菴十種』(1892年刊)の序文は、「造舩所建築ノ創意」について、栗本が小栗ら(原文は「小栗等諸老」)と共に企画したと記しています。
つまり、起案の中心にいたことは当事者の側の刊本からも言える一方、人選も技術も資金もフランス側と幕府の複数の役人が動かしていた、というのが今回たどれた範囲です。

あなたひとりの仕事のように語られることが多いのですが、いかがでしょう。

とんでもないことにて候。
私は計画を申し立てた一人にすぎませぬ。栗本殿が仏人との間を取り持ち、浅野殿も加わり、技師を集めてくだされたのは公使殿にございます。
一人で船渠(ドック)が掘れるものなら、誰も苦労はいたしませぬよ。
240万ドル・4か年の構想は、どこまで実現したのか
当初の構想は、4年間・240万ドルでした。 『山川 日本史小辞典 改訂新版』は、フランスのツーロン軍港を3分の2程度に縮小した設備を、240万ドルの経費で整備する構想だったと記しています。
同じ事典は、その結末も続けて書いています。「設備の大半が未完成のまま明治政府に引き継がれ、海軍工廠の基礎になった」。4年の計画は、4年では終わりませんでした。
| 項目 | 当初の構想 | 資料が伝える実際 |
|---|---|---|
| 期間 | 4年間 | 明治政府に引き継がれ、その後も拡張が続く |
| 経費 | 240万ドル | 100万ドルを輸出生糸を担保にフランスから借り入れ |
| 規模 | ツーロン軍港の3分の2程度 | 設備の大半が未完成のまま移管 |
| 完成 | ― | 明治4年に1号ドックが竣工 |
資金の担保については、レファレンス協同データベース(国立国会図書館)に事例が登録されています。
埼玉県立久喜図書館の事例として2013年に登録されたもので、質問は「横須賀製鉄所の総建設費は240万ドルとのことであるが、幕府側の担保は何であったか」というものでした。
100万ドルの経費を輸出生糸を担保としてフランスから借り入れ
出典:レファレンス協同データベース 埼玉県立久喜図書館(管理番号 埼熊-2012-279、2013年2月15日回答)が参照資料として挙げる『横須賀市史 上』(横須賀市、1988年)p269-270
同じ回答は、横浜・横須賀の両製鉄所そのものを未払金50万ドルの担保に入れたとする記述(『横須賀市史 上』p274-275)も紹介しています。
念のため書き添えますが、本記事は『横須賀市史』の原本を確認していません。国立国会図書館のデータベースに登録された回答が、その頁を典拠に挙げているところまでが、今回たどれた範囲です。
生糸を担保に外国から金を借り、造りかけの施設まで担保に入れる。資料が伝えるこの資金繰りは、事業の負担の大きさを示しています。

金の出どころを問われますか。痛いところを突かれ申した。
手元にある金だけで足りる事業ではござらぬ。ならば借りる。借りるには担保が要る。生糸はその頃、我が国が外へ売れる数少ない品にて候。
無理であったかと問われれば、そうであったやもしれませぬ。ここからは創作としての物言いにて候。
横須賀製鉄所はいつ完成した?年表で確かめる
「完成した年」を一つに決められない施設です。 資料によって、どの時点を区切りとするかが違います。
| 資料 | 完成・区切りの書き方 |
|---|---|
| 日本大百科全書 | 1865年8月着手、1866年10月開業、1871年4月に造船所へ改称 |
| 百科事典マイペディア | 1865年着工、1868年接収、1871年完成・改称 |
| 山川 日本史小辞典 | 設備の大半が未完成のまま明治政府に引き継がれた |
| 横須賀市 | 明治4年に第1号ドックが完成し、名称も造船所に変わった |
ここを混ぜると誤りになります。1871年(明治4年)に竣工したのは1号ドックであって、施設全体ではありません。 造船所となったあとも設備は増え続け、1884年には鎮守府の管下に入り、1903年に海軍工廠へ改組されます。
年表にすると、こうなります。
| 和暦(西暦) | できごと |
|---|---|
| 元治元年(1864年) | 小栗忠順とロッシュにより立案される(山川 日本史小辞典) |
| 慶応元年(1865年) | 横浜製鉄所が完成。8月に横須賀製鉄所の建設に着手(日本大百科全書) |
| 慶応元年11月15日 | 横須賀製鉄所のくわ入れ式(横須賀市は1865年と表記) |
| 慶応2年(1866年)10月 | 開業 |
| 慶応3年(1867年)3月 | 1号ドックが起工(財務省『ファイナンス』) |
| 慶応4年/明治元年(1868年) | 明治政府に引き継がれる |
| 明治4年(1871年)1月 | 1号ドックが竣工。同年4月に横須賀造船所へ改称 |
| 明治5年(1872年) | 海軍省へ移管 |
| 明治17年(1884年) | 横須賀に鎮守府が置かれ、その管下に入る |
| 明治36年(1903年)11月 | 横須賀海軍工廠へ改組 |
明治5年までは旧暦です。「明治4年1月」は西暦1871年1月そのものではなく、和暦の年に西暦の年を対応させた書き方になります。
なお、海軍工廠への改組を1884年(明治17年)とする記事も見かけます。同じ年に横須賀へ鎮守府が置かれたためですが、鎮守府の設置と海軍工廠への改組は別の出来事です。日本大百科全書は改組を1903年11月としています。
黌舎という付属校|学芸員は「最も力を注いだのは教育」と書いています
ヴェルニーたちが力を注いだのは、施設よりも人だったという見方があります。
横須賀市自然・人文博物館の学芸員は、ヴェルニーと副首長ティボディエの2人が「あえて来日して横須賀製鉄所で最も力を注いだのは教育でした」と書いています。
2人が設けた付属校が黌舎(こうしゃ)で、学芸員はこれを「当時の日本で最高水準の学校」と評しています。
国立公文書館アジア歴史資料センターの用語解説は、黌舎をこう説明しています。
- 横須賀製鉄所内に設けられた造船学の専門学校で、パリの理工科大学校を参考に開設された
- 造船技術者や海軍の技手を養成することを目的とした
- 入学資格は当初13歳以上20歳以下。のちに15歳以上20歳以下に改められた
- 衣食住や教材の費用は官費で支給された
- 約100人が卒業したのち1888年(明治21年)に閉校し、翌年に海軍造船工学校へ引き継がれた
設立年について、アジア歴史資料センターは1867年(慶応3年)としています。これより遅い年を挙げる紹介もありますが、公的な資料で確認できたのはこの年でした。
2号ドックを造ったのは、黌舎で学んだ技術者でした
この学校の成果は、目に見える形で残っています。横須賀市の日本遺産のページは、1号ドックがフランス人の手によるものであるのに対し、2号ドック(旧3号)は「黌舎で学んだ技術者が日本人として初めて建設した」と記しています。
外国人が造った最初のドックと、その学校を出た日本人が造ったドックが、同じ港に並んで残っている。技術がどう渡されたのかが、施設そのもので確かめられる場所になっています。

製鉄所のなかに学校を作った、と聞きました。

機械は買えても、動かす者は買えませぬ。
仏国から招いた者も、いずれは帰る身にございましょう。そこを考えた者がおったと聞けば、それは何よりの土産にて候。
学び舎を興したのは私ではござらぬ。そなたらの世の記録が、そう伝えておるのでありましょう。
1号ドックはいまも現役|通常は一般公開されていません
明治4年に竣工した1号ドックは、150年以上を経たいまも使われています。 場所は在日米海軍横須賀基地の中です。
横須賀市自然・人文博物館によれば、1号ドックは慶応年間に着工して明治4年に竣工した日本最古の石造ドライドックです。
フランス人と幕府の役人が、耐震を目的とした設計変更を行いながら建設を進めた、と博物館は説明しています。
そして、その図面も残っています。3基の石造ドックの建設時の図面や資料が「石井頴一郎氏寄贈近代造船所建築図面資料」として伝わっています。
これは横須賀市の指定文化財(市有形・歴史資料)であるとともに、ドック本体とあわせて日本遺産の構成文化財になっています。
日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴〜日本近代化の躍動を体感できるまち〜」は、平成28年(2016年)4月25日に文化庁から認定されました。横須賀市が公表している構成文化財の一覧には、次のように登録されています。
| 項目 | 記載内容 |
|---|---|
| 名称 | 米海軍横須賀基地1号〜6号ドック(旧横須賀造船所第一号〜第六号船渠) |
| 所在地 | 横須賀市楠ヶ浦町 |
| 所有者 | 財務省(提供財産として米海軍が使用) |
| 見学可否 | 不可 |
| 指定状況 | 未指定 建造物 |
所有者は財務省で、提供財産として米海軍が使っています。日本遺産の構成文化財でありながら、通常は一般公開されていません。
それでも、外から眺める方法はあります。ヴェルニー公園の対岸あたりがドックの位置にあたり、公園側から遠望できます。海上から見る「YOKOSUKA軍港めぐり」の観光船もあります。
また、横須賀市が特別な見学ツアーを行うことがあります。2026年9月時点では、11月3日に基地内の第1〜3号ドライドックを歩いて見学するツアー(抽選150人、ガイド代500円・小学生は無料)が予定されており、申込期限は9月24日です。
参加できるのは日本国籍を持つ小学生以上で、原則として指定の身分証明書が必要です(12歳以下の小学生は不要)。艦船などドック以外は見学の対象外とされています。
名前が変わったことは、れんがの刻印にも残っています
改称は書類の上だけの話ではありませんでした。 焼かれたれんがの刻印まで変わっています。
横須賀市の日本遺産の構成文化財一覧には、「ヨコスカ製銕所」「ヨコスカ造舩所」と刻印されたれんがが登録されています。所蔵しているのは横須賀市自然・人文博物館です。
- 「ヨコスカ製銕所」「ヨコスカ造舩所」の刻印れんが(横須賀市自然・人文博物館所蔵。展示されているのは製銕所の刻印)
- 近代造船所建築図面資料(市有形・歴史資料。資料の一部を常設展示)
- スチームハンマー2台(国の重要文化財。こちらはヴェルニー記念館)
製鉄所の時代に焼かれたれんがと、造船所の時代に焼かれたれんが。同じ場所で名前だけが移り変わったことが、物として残っているわけです。
なお横須賀市は、富岡製糸場を設計したバスチャンが横須賀製鉄所の技術者だったこと、木骨れんが造の原型を製鉄所内の建物に見ることができることを紹介しています。
いま見に行けるもの|ヴェルニー公園とティボディエ邸
通常はドックの中へ入れませんが、関連する施設は公園の周辺に集まっています。
| 場所 | 見られるもの |
|---|---|
| ヴェルニー記念館(横須賀市東逸見町) | スチームハンマー2台(3トン・0.5トン)。国の重要文化財 |
| よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸(横須賀市汐入町1-1、ヴェルニー公園内) | 副首長ティボディエの官舎を復元した施設。館内に実物の木骨れんが造の壁とトラスを展示 |
| 横須賀市自然・人文博物館(横須賀市深田台95) | 製鉄所跡地から出土した丸太と間知石、「ヨコスカ製銕所」刻印れんが、近代造船所建築図面資料の一部 |
| ヴェルニー公園 | 対岸にドックを望む。園内に小栗とヴェルニーの胸像がある |
ヴェルニー記念館のスチームハンマーは、幕末の工作機械として国の重要文化財に指定されています。文化庁は「伝来の明らかな幕末の工作機械の一つとしてわが国近代の産業技術発達史上に貴重」と説明しています。
製造国については、重要文化財の指定名称が「一八六五年、オランダ製」である一方、博物館のページは「1865年にイギリスで製造、1866年にオランダから輸入」と説明しています。
資料によって書き方が違う点なので、ここでは両方を併記しておきます。
ティボディエ邸は、横須賀市が「明治2年(1869)頃に建築された本州最古級の西洋館」と紹介する建物を復元したものです。館内では、元の建物から移した木骨れんが造の壁とトラスを見ることができます。

あなたが関わった場所は、いまも港として生きています。

そう聞かされても、私には確かめる術がございませぬ。
ただ、船渠が埋められずに使われておるのならば、それは造った者が正直な仕事をしたということでありましょう。
石を積んだ者、図を引いた者。名の残らぬ者たちの働きにて候。
よくある質問(FAQ)
横須賀製鉄所と横須賀造船所は何が違うのですか?
別の施設ではなく、同じ場所の呼び名です。日本大百科全書によれば、1865年に建設が始まった横須賀製鉄所が、1871年(明治4年)4月に横須賀造船所へ改称されました。1903年には横須賀海軍工廠へ改組されています。
なぜ「製鉄所」という名前だったのですか?
鉄を作る工場ではなく、主な仕事は造船と船の修理でした。横須賀市博物館は「製鉄所と言う名を持つものの、おもに造船と船の修理をおこなっていた施設」と記しています。名称はフランス語の Arsenal の訳語だったと説明されています。
横須賀製鉄所は誰が造ったのですか?
一人の事業ではありません。横須賀市の歴史解説は、親フランス派の栗本瀬兵衛(鋤雲)・小栗上野介忠順・浅野美作守がフランス公使ロッシュに協力を依頼し、フランス側でヴェルニーが選ばれた流れで説明しています。「小栗が招いた」と短くまとめる紹介もあります。
横須賀製鉄所はいつ完成しましたか?
完成の時点は資料によって異なります。日本大百科全書は1866年10月の開業を記し、山川日本史小辞典は設備の大半が未完成のまま明治政府へ引き継がれたとします。明治4年(1871年)に完成したのは1号ドックで、施設全体ではありません。
建設費はいくらでしたか?
『山川 日本史小辞典 改訂新版』は、4年間・240万ドルの構想だったと記しています。担保については、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに登録された回答が『横須賀市史 上』を典拠に、輸出生糸を担保とした借り入れを紹介しています。
跡地は見学できますか?
1号〜6号ドックは在日米海軍横須賀基地内にあり、横須賀市の構成文化財一覧では「見学不可」とされています。ただし市が特別な見学ツアーを行うことがあり、2026年9月時点では11月3日に予定されています。ふだんは公園の対岸か観光船から眺める形です。
インタビュー後記|未完成の事業を、次の世代が引き継いだ
調べていて意外だったのは、この施設が「計画どおりに完成しなかった」ことのほうが、資料にはっきり書かれている点でした。
4年で仕上げる構想は4年で終わらず、設備の大半が未完成のまま次の政府へ渡ります。経費は生糸を担保にした借金で、造りかけの施設まで担保に入りました。
それでも1号ドックは150年以上使われ、図面も残り、黌舎の卒業生が次のドックを造りました。未完成の事業を、次の世代が引き継いで拡張していったという流れです。
そして、その引き継ぎの場に起案者はいませんでした。小栗は慶応4年(1868年)に亡くなっています。名前だけが後世に大きくなり、資料を開くと、そこには何人もの名前が並んでいました。

私の世にあったのは、槌の音が鳴り始めたころまでにございます。
その先を継いだのは、名を知らぬ者たちでありましょう。事業とは、そういうものと心得ます。
小栗忠順という人物そのものについては、こちらの記事でまとめています。
なぜ取り調べもなく斬首されたのかは、こちらで検証しました。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の人物関係は、こちらでまとめています。
あなたは、未完成のまま渡されたこの事業から、何を読み取りますか。
参考資料
- 横須賀市「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」 ※くわ入れ式の日付、1号ドック完成と改称、小栗・栗本・ロッシュの関与の出典
- 横須賀市「横須賀とフランスの歴史〜横須賀製鉄所の建設と日仏交流」 ※親フランス派3人の名前、約130名の技師・職工、付属の学校の出典
- 横須賀市「日本遺産認定 鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴」 ※1号ドックと2号ドックの説明、スチームハンマーの出典
- 舞鶴市「日本遺産『鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 〜日本近代化の躍動を体感できるまち〜』」 ※平成28年4月25日に文化庁が認定したことの出典
- 横須賀市「日本遺産認定 横須賀市の構成文化財一覧」 ※「米海軍横須賀基地1号〜6号ドック(旧横須賀造船所第一号〜第六号船渠)」の所在地・所有者・見学可否・指定状況、スチームハンマーと刻印れんがの所蔵先の出典
- 横須賀市自然・人文博物館 学芸員自然と歴史のたより「実物と図面が日本遺産-横須賀製鉄所の石造ドック」 ※日本最古の石造ドライドック、耐震の設計変更、図面資料の出典
- 横須賀市自然・人文博物館 学芸員自然と歴史のたより「横須賀製鉄所で重視されたものは何か?」 ※教育を最も重視したという見方、黌舎の評価の出典
- 横須賀市自然・人文博物館「ヴェルニー記念館」 ※スチームハンマーの製造年・製造国・輸入年、所在地の出典
- コトバンク「横須賀製鉄所」(『山川 日本史小辞典 改訂新版』) ※1864年の立案、ツーロン軍港の3分の2、240万ドル・4年間、設備の大半が未完成の出典
- コトバンク「横須賀造船所」(『日本大百科全書』『百科事典マイペディア』ほか) ※横浜製鉄所の完成、1866年10月開業、1871年4月改称、1903年11月改組の出典
- 財務省『ファイナンス』令和6年2月号「路線価でひもとく街の歴史 第48回 神奈川県横須賀市」(鈴木文彦) ※1号ドックの起工と竣工、翌年の海軍省移管、Arsenal の訳語の出典
- レファレンス協同データベース「横須賀製鉄所の総建設費は240万ドルとのことであるが、幕府側の担保は何であったか」(埼玉県立久喜図書館、管理番号 埼熊-2012-279) ※輸出生糸を担保にした借り入れ、両製鉄所を担保に入れた記述の出典。※本記事は『横須賀市史 上』の原本を確認していません
- 文化遺産オンライン(文化庁)「スチームハンマー(旧横須賀製鉄所設置)〈/一八六五年、オランダ製〉」 ※重要文化財の指定名称と員数、「伝来の明らかな幕末の工作機械の一つとして…貴重」の出典
- 横須賀市観光情報「よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸」 ※「明治2年(1869)頃に建築された本州最古級の西洋館」、木骨れんが造の壁とトラスの展示、所在地の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 栗本鋤雲著・岡敬孝校『匏菴十種』1892年 ※序文「造舩所建築ノ創意ニ於ケル…大抵先生ガ小栗等諸老ト共ニ參畫スル所」の出典
- アジア歴史資料センター 用語解説「黌舎」 ※設立、入学資格、官費支給、閉校と海軍造船工学校への継承の出典






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