老中が罷免された日に、その役宅が江戸市民数千人による投石に見舞われたそうです。天保の改革を調べていて、私はこの一行で立ち止まりました。
教科書では「上知令に失敗して水野忠邦が失脚」と数行で片づく改革です。けれど、なぜ失敗したのかを事典で引き比べると、説明が一つに定まりません。
この記事は、改革の中身と失敗の説明の割れ方を、事典と公文書館の記述で日付ごとに並べます。「妖怪」と呼ばれた鳥居耀蔵も確かめます。
この記事の結論
天保の改革は、天保12年5月から天保14年閏9月(1841〜1843年)まで老中首座の水野忠邦が進めた幕府の政治・経済改革で、上知令の撤回と水野の罷免で中断しました。
なぜ失敗したのかは、説明が一つではありません。多くの事典は上知令への反対を直接の契機とし、日本大百科全書は「単純に失敗に終わったとみることは正確でない」とも書きます。本記事は一つに決めません。
鳥居耀蔵が「妖怪」と呼ばれたことは、複数の事典が記しています。甲斐守忠耀の名をもじった呼び名で、厳しい取締りを江戸の町人が恐れたからだと説明されています。ただし、上知令で反対派に回った経緯は、事典の範囲を超えては分かりません。
- 2年半
天保12年5月から天保14年閏9月まで(1841〜1843年) - 10里四方
上知令の範囲として当時の民間の記録が解した広さ(法令上は「最寄地」) - 23年間
鳥居耀蔵が丸亀で幽閉された期間
この記事では、改革の基本事項、行われた背景、政策の中身、失敗の説明が割れていること、鳥居耀蔵の実像、享保・寛政との違い、その後と大河ドラマとの接点、年表まで、順にたどります。
語り手として、水野忠邦AI(水野忠邦をモデルにしたAI)と鳥居耀蔵AI(鳥居耀蔵をモデルにしたAI)に登場してもらいます。改革を主導した老中と、その実行役だった南町奉行です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。改革の動機や、鳥居が反対派に回った理由は本人たちに語らせず、事典の記述として本文で紹介します。水野忠邦は1851年3月12日(嘉永4年2月10日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

水野さま、今日は天保の改革についてうかがいます。教科書では数行で終わる改革ですが、私には何から何まで一度にやろうとしたように見えます。動機はうかがいません。まず、いつ始まって、いつ終わったのかを、日付の範囲で教えてください

天保十二年閏正月に大御所様が身まかられ、同じ年の五月十五日に改革の上意が出た。わしが手をつけたのは、そこからである。
終わりは天保十四年閏九月。七日に上知令が撤回され、十三日にわしは老中を罷免された。二年半、とそなたらの世の事典は数えるそうな。
何をしたかは日付で申せる。なぜかは、そなたらの世の学者に譲る。それがわしの流儀と申しておく。
天保の改革とは?いつ・誰が・何をしたのか
先に、この章で確かめたことを書きます。天保の改革は、天保12年(1841年)から14年(1843年)にかけて、老中首座の水野忠邦が12代将軍徳川家慶のもとで進めた幕府の改革です。享保・寛政の改革とあわせて、三大改革の一つに数えられます。
基本の事項を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | てんぽうのかいかく |
| いつ | 天保12〜14年(1841〜43年)。日本大百科全書は「1841年5月から43年閏9月の水野退陣に至る2年半」を直接の期間とする |
| 誰が | 老中首座の水野忠邦。将軍は12代徳川家慶 |
| きっかけ | 天保12年閏正月、大御所(前将軍)徳川家斉の死。家慶が「ようやく幕政を親裁」できるようになった |
| 目標 | 家慶が「享保・寛政の御政事向に復する」ことを掲げた。つまり過去の2つの改革に戻ること |
| 主な政策 | 倹約令と風俗の取締り、株仲間の解散、人返しの法、異国船打払令の撤回、上知令 |
| 実行役 | 南町奉行の鳥居耀蔵ら。渋川六蔵・後藤三右衛門とあわせ「水野の三羽烏」と称された |
| 結果 | 上知令が撤回され、水野が罷免されて改革は中断。1844年に水野は復職するが8か月で辞職 |
| 年号の覚え方 | 「一夜(18)で良い(41)とはいかぬ改革」。和暦は天保12年、西暦は1841年 |
定義は、デジタル大辞泉が「天保12〜14年(1841〜43)老中水野忠邦が行った幕府の政治・経済改革」と説明しています。改訂新版 世界大百科事典と山川 日本史小辞典は、幕府と諸藩の両方の改革を含めて説明し、幕府の改革はその一部として扱います。
改革の「直接的な期間」を日本大百科全書は2年半としています。天保12年5月15日(1841年7月3日)に改革の上意が出され、天保14年閏9月13日(1843年11月4日)に水野が罷免されるまでです。
ただし同じ事典は「いくつかの改革政治はその後も継承されている」とも書きます。中断と継承の両方があった、という書き方です。この点は「なぜ失敗したのか」の章であらためて取り上げます。
江戸時代全体のなかで、この改革がどこに位置するかは、年表の記事で確かめられます。

『享保・寛政の御政事向に復する』という言葉が、将軍の掲げた目標だったと事典にあります。過去の改革に戻る、と宣言したわけですね。この言葉は、どなたの言葉として記録されているのでしょうか

上様のお言葉である。享保・寛政の御政事に復する、と。それを標榜して改革は始まった、とそなたらの世の事典も記すそうな。
吉宗公と定信殿の世に戻す。手本があったゆえ、目指す形は明らかであった。
ただし、戻すと申しても世は同じではない。そこから先は、この記事の書き手が調べたことに譲るとしよう。
天保の改革はなぜ行われた?飢饉・大塩の乱・アヘン戦争
この章の結論を先に書きます。天保の改革の背景として事典が挙げるのは、天保の飢饉、大塩平八郎の乱、そして外国船の来航とアヘン戦争の情報です。日本大百科全書はこれを「内憂」「外患」という言葉でまとめています。
改革の前に何があったかを、年の順に並べます。
- 天保4〜7年(1833〜36年)|天保の飢饉。冷害で米価が高騰し、各地で一揆・打ちこわしが起きた(山川 日本史小辞典。日本大百科全書は37年までとする)
- 天保8年2月19日(1837年3月25日)|大坂で元町奉行所与力の大塩平八郎が乱を起こす。1日で鎮圧されたが、幕府の直轄都市での乱として影響が大きかった(旺文社日本史事典)
- 天保8年(1837年)|家慶が12代将軍に。ただし前将軍の家斉が大御所として実権を握り続けた(日本大百科全書)
- 天保10年(1839年)|蛮社の獄。目付の鳥居耀蔵が渡辺崋山・高野長英らを告発し、崋山は国元蟄居、長英は永牢に(日本大百科全書)
- 天保11年11月1日(1840年)|三方領知替の発令。庄内領民の反対運動などで天保12年7月に撤回された(日本大百科全書)
- 天保12年閏正月(1841年2〜3月)|大御所家斉が死去。家慶が家斉側近派を退け、水野に改革を進めさせた
天保の飢饉について、山川 日本史小辞典は「奥羽を中心に多くの餓死者がでた」と記し、各地の一揆・打ちこわしと大塩の乱が「幕藩体制の基礎をゆるがす要因となった」と説明します。
大塩平八郎の乱は、天保8年2月19日に起きました。日本大百科全書によれば、大塩は檄文を飛ばして挙兵し、豪商を襲いましたが、1日も持ちこたえずに四散し、約40日後に自刃しています。兵火は大坂市中の5分の1を焼いた、と同じ事典は記します。
もう一つの背景が、海の外から届いた情報です。1840年に始まったアヘン戦争で清がイギリスに敗れた、という情報が幕府に伝わりました。日本大百科全書は、幕府が「外圧が国内の体制的矛盾と結び付くことをなによりも恐れて」対処したと書いています。
同じ事典は、飢饉と乱、そして外国船の圧力が重なった状況を、次の一文でまとめています。
一方、ヨーロッパ資本主義列強も「鎖国日本」の扉をますます激しくたたくに至り、「内憂」「外患」はここに極まった。
出典:コトバンク「天保の改革」(日本大百科全書)
三方領知替は、あまり教科書に出てきません。天保11年11月1日(1840年)に川越・庄内・長岡の3藩を玉突きで転封させる命令が出され、庄内領民の反対運動などで天保12年7月12日に撤回されたものです。
日本大百科全書は、これを「後の上知令を予測させる」出来事と位置づけ、「幕府権力の弱体化を象徴する結果となった」と書いています。幕府が3藩への転封命令を撤回した前例が、改革の前にありました。
大御所家斉の没日は、事典によって書き方が違います。山川 日本史小辞典は閏1月7日、ブリタニカと日本大百科全書は閏1月30日(晦日)とします。本記事は「閏正月」までにとどめます。

飢饉、大塩の乱、アヘン戦争の情報。事典が挙げる背景を並べました。あなたは1839年に老中首座になっています。改革が始まるまでの2年間、手をつけられなかったのはなぜかは、うかがいません。記録の範囲で、その2年に何があったかを教えてください

天保十年に老中首座となり、一万石の加増を受けた。そのころ大御所様はなお隠然たる力をお持ちであった、とそなたらの世の事典は記す。
翌年には清国と英国のあいだで戦が始まり、その翌年、大御所様が身まかられた。日付で申せるのは、それだけである。
その二年にわしが何を思うておったかは、記録に残っておらぬ。ここで足すことはいたしませぬ。
天保の改革の内容|倹約令・株仲間解散・人返し・上知令を一覧で確認
この章で確かめたことです。日本大百科全書は改革の内容を、風俗矯正と倹約令、低物価政策、人返し令、対外政策、上知令の5つに整理しています。そのうち改革を特徴づけるのは、低物価政策・対外政策・上知令の3つだと同じ事典は書きます。
主な政策を、発令の時期と事典が書く結果とあわせて表にします。
| 政策 | 時期 | 内容 | 事典が書く結果 |
|---|---|---|---|
| 倹約令・風俗取締り | 1841年〜 | 女髪結の禁止、高価な櫛・きせるの売買禁止、ぜいたくな料理の販売禁止、芝居小屋の移転、寄席の閉鎖 | 「市中は火の消えたようになった」(改訂新版 世界大百科事典) |
| 株仲間解散令 | 天保12年12月(1842年1〜2月)、翌年3月に全国へ | 問屋・株仲間の名称による商取引を禁止し、一般の商人の自由な取引を許す | 商品が江戸・大坂に集中せず「意図した効果をあげることができなかった」(同上) |
| 物価引下げ | 1842年〜 | 小売値段の引下げ命令、価格の店頭表示、地代・店賃の引下げ、手間賃の公定 | 一時的に下がったが「市中の商況は不景気に陥り」(同上) |
| 旗本・御家人の借金 | 1843年 | 札差からの借金を無利息・年賦返済に | 世界大百科は「棄捐に近い処置」と表現 |
| 人返しの法 | 1843年(天保14年) | 農村から江戸への流入を禁じ、人別帳に載らない者を帰農させる | 「実効は少なかった」(旺文社日本史事典) |
| 薪水給与令 | 天保13年7月(1842年) | 1825年の異国船打払令を撤回し、来航した外国船に薪と水を与えて退去させる | アヘン戦争の情報を受けた方針転換(改訂新版 世界大百科事典) |
| 印旛沼の工事 | 1843年 | 5藩に工事を分担させる | 難航し、水野罷免後の翌年6月に中止(同上) |
| 上知令 | 天保14年6月(1843年) | 江戸・大坂の最寄地の大名・旗本領を幕領に編入し、代地を与える | 閏9月7日に撤回。水野失脚の直接の契機(山川 日本史小辞典) |
倹約令は、町人の日常生活にまで及びました。改訂新版 世界大百科事典は、女髪結の禁止、高価な櫛・笄・きせるの売買禁止、早作り野菜やぜいたくな料理の販売禁止を挙げ、庶民の娯楽も制限されたと書いています。
寄席は、1842年以降わずか15軒に減りました。この数字はデジタル大辞泉・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典が一致して記しています。堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の河原崎座は浅草聖天町へ移され、その地は猿若町と名づけられました。
出版と芸能にも及びます。柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は絶版とされ、為永春水は『春色梅児誉美』が風俗を乱すとして手鎖の刑を受けました。7代目市川団十郎は1842年に奢侈を理由に江戸を追放され、1849年に許されるまで大坂・京都などを巡業しています。
取締りの実行役だった鳥居耀蔵について、改訂新版 世界大百科事典はこう書いています。
江戸の町奉行に抜擢された鳥居耀蔵は、市中に隠密を放って違反者の摘発に努め、禁を犯した者には厳罰で臨んだため、市中は火の消えたようになった。
出典:コトバンク「天保改革」(改訂新版 世界大百科事典)
株仲間解散令については、日付の書き方に注意が要ります。和暦の天保12年12月は、西暦では1842年1〜2月にまたがります。本記事は換算した月で書きます。事典の「1841年12月令」は、和暦の年に西暦の年を対応させた表記として読めます。
幕府はなぜ株仲間を解散させたのか。改訂新版 世界大百科事典は、物価騰貴の根本原因を十組問屋仲間の流通独占にあると幕府が考えたからだ、と説明します。自由な競争で商品が増えれば物価は下がる、という期待でした。
結果は逆でした。同じ事典は「従来の流通機構が解体した結果、商品が江戸・大坂に集中せず、意図した効果をあげることができなかった」と書きます。1851年(嘉永4年)、幕府は問屋・組合の再興令を出しています。
上知令は次の章で詳しく扱います。ここでは、上知(あげち)とは幕府が大名・旗本の領地を取り上げることで、上知令はそのかわりに別の土地を与える封土転換令だった、という日本大百科全書の定義だけを押さえておきます。

表にすると、生活・経済・農村・外交・土地と、手をつけていない分野がないほどです。どれを最も重くみていたかは、うかがいません。この5つのうち、事典があなたの改革の特徴だと書いているのはどれでしょうか

低物価の策、対外の策、そして上知令。この三つが改革を特徴づける、とそなたらの世の事典は記すそうな。
株仲間を解いたのは、天保十二年の十二月。そなたらの暦では翌年の正月にあたると聞く。翌年三月には全国へ広げた。
打払令を撤めたのは天保十三年七月。上知を命じたのは十四年六月。順は、そのとおりである。
天保の改革はなぜ失敗した?上知令の撤回と事典の説明を並べる
この章の結論を先に書きます。上知令の撤回が水野失脚の直接の契機だった、という点は事典が一致しています。しかし「なぜ失敗したのか」の説明は、事典によって重心が違います。本記事は一つに決めず、並べて示します。
まず、事典と公的機関がどう書いているかを、帰属をつけて並べます。
- 山川 日本史小辞典|上知令が「関係大名の反対によって失敗し、水野は失脚、改革は中途で頓挫した」
- 精選版 日本国語大辞典|上知令は「対象となる大名・旗本の反対にあい、これを契機として忠邦は失脚して改革は中止された」
- デジタル大辞泉・精選版(徳川家慶の項)|「老中水野忠邦に天保の改革を断行させたが、急激にすぎて失敗」
- 改訂新版 世界大百科事典|「上知令の失敗は、全国の土地領有者として諸大名を従えてきた幕府の力が減退したことを示している」
- 日本大百科全書|「天保の改革全体を、単純に失敗に終わったとみることは正確でない」。新潟の上知は実施され、1851年の問屋再興令も改革の延長線上にある。水野退陣の背後には「町人・民衆の反感が大きく働いている」
上知令の流れを、日本大百科全書の記述で追います。天保14年6月1日(1843年6月28日)にまず江戸の最寄地、6月11日に長岡藩の新潟、6月15日に大坂の最寄地を幕領として収公することが命じられました。7月には江戸・大坂を一括して扱う法令になります。
範囲は「10里四方」と説明されることが多いのですが、法令上は「最寄地」とあるだけです。日本大百科全書は、当時の民間の記録が江戸・大坂10里四方(大坂は5里四方とも)と解したものが多い、と書いています。
反対したのは大名・旗本だけではありません。同じ事典によれば、大坂の最寄地では百姓や町人が、領主に融通していた貸銀や年貢の先納銀が棒引きにされるのを恐れて、各地で反対運動を起こしました。
幕府の内側でも反対が広がります。水野に協力していた老中の土井利位が反対派に回り、和歌山藩や大奥の動きもあった、と日本大百科全書は記します。改訂新版 世界大百科事典は「関係の領地をもつ老中や三家の内からも批判が生じ」と書きます。
山川 日本史小辞典は、撤回から罷免までを次のように一続きに書いています。
幕府内の意見も分裂したため,閏9月7日撤回。これが契機となり,天保の改革を主導した老中水野忠邦は同月13日に罷免され,改革は失敗に終わった。
出典:コトバンク「上知令」(山川 日本史小辞典 改訂新版)
閏9月7日、上知令は江戸・大坂に関する限り実施されないまま撤回されました。日本大百科全書は、この撤回令が水野の病気中に将軍家慶の名で出されたものだと書いています。13日、水野は老中を罷免されました。
ここからが、事典で書き方の分かれるところです。日本大百科全書は、こう書いています。
上知令全体が破綻したととらえることも、水野の退陣をただちに上知令の撤回(江戸、大坂)のみと結び付けるのも正確ではない。
出典:コトバンク「天保の改革」(日本大百科全書)
同じ項目は、新潟の上知は10月に実施されて幕末まで続いたこと、水野退陣の背後には倹約令や風俗取締りへの「町人・民衆の反感」があったことを重視します。
同じ項目は、改革政治の基本路線は後継の幕閣に継承されたとし、天保15年6月(1844年)に水野自身が外交問題を処理するため老中に再登場したことにも触れています。
一方、改訂新版 世界大百科事典は「幕府の天保改革は中止されるに至った」と書き、上知令の失敗を幕府の力の減退の表れとみます。山川 日本史小辞典と精選版 日本国語大辞典も、上知令の反対を契機とする失脚と中止、という流れで説明しています。
罷免の日、水野の役宅には江戸の町人が集まりました。日本大百科全書は「江戸市民数千人による投石にみまわれた」と書き、山川 日本史小辞典も「失脚時に江戸屋敷に投石する者が押し寄せた」と記します。
これらは事典の解釈であり、本記事はその当否を判断しません。「失敗」と呼ぶかどうかも含めて、説明が割れていること自体を、この記事の確かめたこととして書いておきます。

上知令の撤回が契機だった、という点は事典が一致しています。しかし『失敗だったのか』の書き方は割れています。あなた自身の評価はうかがいません。事典がそれぞれ何と書いているか、そして本人として言い切れるのはどこまでか、教えてください

上知令が撤回され、それを機にわしは罷免され、改革は中止された、と書く事典があるそうな。急激にすぎた、と上様の項に書くものもあると聞く。
別の事典は、全体を単純に失敗と見るのは正確でない、と記すらしい。新潟の上知は行われ、問屋の再興も改革の延長にある、と。
いずれも、そなたらの世の学者の読みである。わしの口で言い切れるのは、六月一日の発令と閏九月七日の撤回、十三日の罷免のみ。胸の内は、言い切りませぬ。
鳥居耀蔵とは|「妖怪」と呼ばれた南町奉行を事典はどう書くか

鳥居さま、事典はあなたを『妖怪(耀甲斐)』と恐れられた、と書いています。その呼び名をどう思っていたかは、うかがいません。まず、天保12年12月に南町奉行になってから、記録の範囲で何をしたのかを教えてください

天保十二年十二月、矢部駿河守殿のあとを受けて南町奉行となり、甲斐守を名乗った。それがしの役目は、市中の取締りである。
市中に隠密を放って違反を探らせ、禁を犯した者には厳罰で臨んだ、とそなたらの世の事典は記すそうな。
甲斐守忠耀の名をもじって、江戸の町人が妖怪と呼んだ、とも。それがしがそれをどう思うたかは、記録に残っておらぬ。
この章で確かめたことです。鳥居耀蔵は、天保12年12月(1842年初め)に江戸南町奉行となり、天保の改革を市中取締りの面で実行した幕臣です。
「妖怪(耀甲斐)」という呼び名は、日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典など複数の事典が記しています。
事典が書く範囲を、項目ごとに並べます。
- 出自|幕府儒官・林述斎の子(次男とする事典と三男とする事典がある)。旗本鳥居一学の養子となり2500石
- 蛮社の獄|1839年(天保10年)、目付として渡辺崋山・高野長英らを告発。崋山は国元蟄居ののち1841年に自殺、長英は永牢ののち1844年に脱獄し1850年に自殺
- 南町奉行|天保12年12月、矢部定謙の後任として就任。水野の側近で、渋川六蔵・後藤三右衛門とともに「水野の三羽烏」と称された
- 「妖怪」|「江戸町人から甲斐守忠耀をもじって妖怪(耀甲斐)と恐れられ、かつ反感の的となった」(改訂新版 世界大百科事典)
- 上知令|「最後に反対派に回り水野と対立」(日本大百科全書)。「上知令・印旛沼工事等で水野と対立」(改訂新版 世界大百科事典)
- 罷免|1844年(弘化元年)。翌1845年、讃岐丸亀藩主京極高朗に預けられ、明治元年(1868年)まで23年間を丸亀で過ごした
「妖怪」の由来は、改訂新版 世界大百科事典が明確に書いています。官途名の甲斐守と名の忠耀をあわせた「耀甲斐」に、妖怪の音を重ねたものです。
町奉行在職中は厳しい江戸市中の取締りを断行して,江戸町人から甲斐守忠耀をもじって妖怪(耀甲斐)と恐れられ,かつ反感の的となった。
出典:コトバンク「鳥居耀蔵」(改訂新版 世界大百科事典)
本記事は「悪奉行」「妖怪」といった評価を地の文では使いません。事典が記すのは、江戸の町人がそう呼んだという事実と、その由来までです。鳥居がどんな人物だったかは、事典が書く役職と行動の範囲で示します。
前任の南町奉行、矢部定謙についても書いておきます。国立公文書館の資料解説によれば、矢部は天保12年に南町奉行を拝命したものの、改革の施策をめぐって水野と対立し、鳥居らの「暗躍」によって同年12月に罷免されました。
翌年3月には桑名藩主に預けられ、同年7月に桑名で亡くなっています。国立公文書館は、断食を続けた末の死だったと説明しています。この経緯は、藤川貞の雑録『弘化雑記』に書きとめられており、同館の展示「旗本御家人」で紹介されています。
北町奉行の遠山景元とも対立しました。「遠山の金さん」として知られる人物です。日本大百科全書は、株仲間解散令をめぐる遠山の態度をこう書いています。
天保の改革のおり諸問屋の株仲間解散に反対し、老中水野忠邦からの命令を受けてもすぐに発令せず、しばらく握りつぶしていたため差控を受ける。
出典:コトバンク「遠山景元」(日本大百科全書)
遠山は天保14年2月(1843年)に大目付へ転じ、水野の失脚後の弘化2年3月(1845年)、ふたたび町奉行(南)に就きました。国立公文書館は、同じ人物が町奉行に再任されたのは初めてのことだった、と説明しています。
上知令で鳥居が反対派に回った経緯は、事典が書く範囲を超えては分かりません。今回確認した事典の記述は「反対派に回り水野と対立」「上知令・印旛沼工事等で水野と対立」までで、理由や経緯は書かれていません。本記事はそこから先を足しません。
鳥居のその後は、香川県立図書館のレファレンス事例で確かめられます。幽閉先は、現在の丸亀高等学校正門前の一画にあった藩の御用屋敷で、期間は弘化2年(1845年)から明治元年までの23年間です。明治維新で放免されました。
鳥居の没年は、事典で割れています。山川 日本史小辞典とデジタル版 日本人名大辞典は1873年(明治6年10月3日)、改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ・日本大百科全書は1874年とします。本記事は両方を示すにとどめます。

矢部さんと遠山さん、二人の町奉行と対立したと事典は書いています。その理由はうかがいません。上知令であなたが反対派に回ったことも、事典に載っています。本人として言い切れるのは、どこまででしょうか

矢部殿は天保十二年に南町奉行となり、同年十二月に罷免された。それがしの暗躍による、とそなたらの世の事典は記す。遠山殿とは対立した、とも。
上知令では最後に反対派に回り、越前守様と対立した。事典が記すのはそこまでで、なぜかは書いておらぬ。それがしの口からも足さぬ。
弘化元年に役を解かれ、翌年、丸亀へ預けられた。丸亀の二十三年は、それがしの口から語ることではない。
享保・寛政・天保の改革の違い|三大改革を比べる
この章の結論です。三大改革は、いずれも幕府財政の窮迫を背景に、幕政の立て直しを図った改革ですが、主導者と時期、そして終わり方が違います。天保の改革は、上知令の撤回と主導者の罷免を契機に中断した、と事典は書きます。
日本大百科全書は三大改革を「徳川時代に行われた三度の幕政の大改革」と定義し、共通する背景として、幕府財政の窮迫から立て直す必要に迫られたことを挙げています。3つを表で並べます。
| 項目 | 享保の改革 | 寛政の改革 | 天保の改革 |
|---|---|---|---|
| 時期 | 1716〜45年(享保元〜延享2年)。山川 日本史小辞典は吉宗の在職中の政治の総称とする | 1787〜93年(天明7〜寛政5年) | 1841〜43年(天保12〜14年) |
| 主導者 | 8代将軍徳川吉宗 | 老中松平定信(将軍は11代家斉) | 老中首座水野忠邦(将軍は12代家慶) |
| 直前の状況 | 元禄期以降の幕府財政の悪化(山川) | 天明の飢饉と田沼時代の後(旺文社日本史事典) | 天保の飢饉、大塩の乱、アヘン戦争の情報 |
| 手本 | 記載なし | 「享保の改革を理想として」(デジタル大辞泉) | 享保・寛政の改革(「御政事向に復する」) |
| 終わり方 | 吉宗の在職の終わり(1745年)まで | 1793年、定信が「在職7年で引退」(旺文社日本史事典) | 上知令の撤回と水野の罷免で中断 |
三大改革の年について、一つ確かめておきます。享保の改革は享保元年に、天保の改革は天保12年に始まりました。元号と同じ名を持つ改革でも、その元号の最初の年に始まったとは限りません。
天保という元号は、文政13年12月10日の改元から、天保15年12月2日の弘化への改元までです。改革はその元号の12年目に始まりました。
デジタル大辞泉は「1830年12月10日~1844年12月2日」と表記しますが、どちらも和暦の年末なので、西暦に換算すると翌年の1月に入ります。
元号と改革の対応や、江戸時代のしくみ全体は、こちらの記事で確かめられます。
「享保・寛政の御政事向に復する」という目標が示すとおり、天保の改革は前の2つを手本にしました。日本大百科全書は、それでも「単なる封建反動とみなすことはできず、絶対主義的傾斜を含んだ改革」だったと評価しています。
この評価は事典の解釈です。本記事は、天保の改革が主導者の罷免を契機に中断したこと、そして日本大百科全書が経済改革と軍事改革を一体化させた「富国強兵」のコースを特徴に挙げることを、事典の記述から確かめられる点として書いておきます。
なお、幕府の改革と並んで、長州・薩摩・佐賀・水戸などの藩でも改革が行われました。改訂新版 世界大百科事典は、藩の改革が財政再建から始まり、中下級の武士から人材が登用された点が、幕府の改革と対照的だったと書いています。

享保と寛政を手本にした、と何度も出てきます。手本どおりにできなかった理由はうかがいません。あなたの改革が前の2つと違っていた点を、事典が書く範囲で挙げるとしたら、どこでしょうか

わしが罷免されて改革が止まった、という一点である。定信殿は在職七年で引退された、とそなたらの世の事典は記すそうな。終わり方の書き方が違う。
もう一つ、そなたらの世の事典は、わしの改革が経済と軍事を一体で進めようとした点を挙げるらしい。
それが良かったか悪かったかは、わしの申すことではない。手本と同じにはならなかった、とだけ申しておく。
天保の改革のその後|水野の再任、鳥居の丸亀、そして小栗忠順との接点
この章で確かめたことです。水野忠邦は罷免の翌年に老中に復職しましたが、8か月で辞職し、在任中の不正を理由に減封と隠居を命じられました。鳥居耀蔵は1844年に罷免され、翌年から丸亀で23年間を過ごしています。
二人のその後を、年の順に並べます。
- 1844年(弘化元年)6月|水野が老中に復職。日本大百科全書は「国際事情通であった水野自身が、外交問題を処理するため」再登場したと書く
- 1844年|鳥居が罷免される。山川 日本史小辞典は、オランダ国書をめぐる評議で老中阿部正弘と対立し、在任中の不正が発覚したと記す
- 1845年(弘化2年)2月|水野が持病の悪化を理由に再び辞職。8か月の在任だった
- 弘化2年9月(1845年)|水野に役務中の不正を理由に2万石の没収と隠居・蟄居。11月、嫡子の忠精が出羽山形5万石へ転封
- 1845年|鳥居が讃岐丸亀藩主京極高朗に預けられる。明治元年(1868年)まで23年間
- 嘉永4年2月10日(1851年3月12日)|水野が江戸で病死。満56歳(数え58歳)
- 1851年|幕府が問屋・組合の再興令を出す
- 1873年(明治6年)|鳥居が没する(1874年とする事典もある)
水野の処分について、日本大百科全書は、加増地の1万石と本高のうち1万石、それに居屋敷を没収されたと書きます。山川 日本史小辞典は「2万石減封、隠居・蟄居」とします。合計は同じ2万石です。
浜松藩については、日本大百科全書が、転封のときに浜松で打ちこわしが起き、転封の完了を領民が祝うことすらあったという、と記しています。「という」と伝聞で書かれている部分なので、本記事もそのままにします。
水野は山形には同行せず、1851年に江戸で亡くなりました。浜松・浜名湖ツーリズムビューローは、水野が1817年から1845年までの28年間、浜松城主だったと紹介しています。
改革の中断から10年後の1853年、ペリーが浦賀に来航します。その先の大政奉還と戊辰戦争は、別の記事で書いています。
ここで、2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』との接点を書いておきます。主人公の小栗忠順は文政10年(1827年)生まれで、天保の改革のころは10代半ばでした。鳥居耀蔵役は北村一輝さんです。
NHKの配役発表(ステラnet、2026年6月23日)は、鳥居を「南町奉行を務め、徳川家への忠義を何より重視する人物」と紹介し、若き小栗が「鳥居の姿に憧れを抱きました」と書いています。
これはドラマの設定です。小栗と鳥居の関係を示す史料を、本記事は確認していません。
小栗の生涯と、配役の一覧は、それぞれ別の記事でたどれます。
ここで、二人に同じ問いを投げてみます。二人がこの件で語り合った記録は、本記事では確認していません。鳥居AIは水野の没後も知っていますが、水野AIは1851年までしか知りません。

お二人にうかがいます。改革を主導した老中と、それを実行した町奉行が、上知令で対立したと事典は書いています。理由はうかがいません。記録のうえで、お二人はそれぞれいつ役を退いたのか、日付の範囲でお願いします

わしは天保十四年閏九月十三日に罷免され、弘化元年六月に復職し、翌年二月に辞した。鳥居、そなたを町奉行に登用したのは、わしである。
上知令でそなたが反対派に回った、とそなたらの世の事典は記す。なぜかは、わしの口から言わぬ。そなたの口からも言わぬであろう。
そなたが弘化元年に役を解かれ、翌年に丸亀へ預けられたのは、わしの存命のうちであった。その先は、わしの知らぬ話である。

越前守様の申されるとおり、それがしは反対派に回った、と事典は記す。理由は、それがしも申しませぬ。
弘化元年に役を解かれ、翌年から丸亀に預けられた。越前守様の知らぬ先の話になるが、預けが解かれたのは明治元年である。
二十三年のあいだに何を思うたかは、記録に残っておらぬ。それがしの口から語ることではない、と申しておく。
天保の改革の流れを年表で確認(和暦・西暦)
ここまでの出来事を、和暦と西暦を並べた年表にまとめます。年齢は載せません。旧暦の生年月日から出来事ごとに満年齢を換算する必要があり、数え年とも混同しやすいためです。事典が日付まで書いていない出来事は、月または年だけを書いています。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 寛政6年6月23日 | 1794年7月19日 | 水野忠邦、江戸の唐津藩上屋敷に生まれる |
| 寛政8年11月24日 | 1796年 | 鳥居耀蔵、生まれる |
| 文化9年 | 1812年 | 水野、唐津藩主となる |
| 文化14年 | 1817年 | 水野、自ら願い出て浜松へ転封。寺社奉行を兼務 |
| 文政8年 | 1825年 | 異国船打払令 |
| 天保4〜7年 | 1833〜36年 | 天保の飢饉(37年までとする事典もある) |
| 天保5年 | 1834年 | 水野、本丸老中 |
| 天保8年2月19日 | 1837年3月25日 | 大塩平八郎の乱 |
| 天保8年 | 1837年 | 家慶が12代将軍に。家斉は大御所として実権を握る |
| 天保10年 | 1839年 | 水野、老中首座。蛮社の獄 |
| 天保11年11月1日 | 1840年 | 三方領知替の発令(翌年7月12日撤回) |
| 天保12年閏正月 | 1841年2〜3月 | 大御所家斉が死去(日付は事典で割れる) |
| 天保12年5月15日 | 1841年7月3日 | 天保の改革の上意 |
| 天保12年10月11日 | 1841年11月23日 | 渡辺崋山、田原で自殺 |
| 天保12年12月 | 1842年1〜2月 | 株仲間解散令(江戸)。鳥居耀蔵が南町奉行に |
| 天保13年 | 1842年 | 寄席が15軒に。江戸三座の浅草移転(1841〜42年とする事典もある)。7代目団十郎の江戸追放 |
| 天保13年7月 | 1842年 | 薪水給与令(異国船打払令の撤回) |
| 天保14年 | 1843年 | 人返しの法。印旛沼の工事 |
| 天保14年6月1日 | 1843年6月28日 | 上知令(江戸の最寄地)。11日に新潟、15日に大坂 |
| 天保14年閏9月7日 | 1843年10月29日 | 上知令の撤回(江戸・大坂) |
| 天保14年閏9月13日 | 1843年11月4日 | 水野忠邦、老中を罷免される。役宅に投石 |
| 天保14年12月22日 | 1844年2月10日 | 為永春水没 |
| 弘化元年6月 | 1844年 | 水野、老中に復職 |
| 弘化元年 | 1844年 | 鳥居耀蔵、罷免 |
| 弘化2年2月 | 1845年 | 水野、再び辞職 |
| 弘化2年 | 1845年 | 水野に減封・隠居、嫡子は山形へ転封。鳥居は丸亀藩預け |
| 嘉永4年2月10日 | 1851年3月12日 | 水野忠邦没 |
| 嘉永4年 | 1851年 | 問屋・組合の再興令 |
| 明治元年 | 1868年 | 鳥居耀蔵、放免 |
| 明治6年10月3日 | 1873年 | 鳥居耀蔵没(1874年とする事典もある) |
日付の書き方には注意が要ります。和暦の天保12年12月は、西暦では1842年1〜2月にまたがります。本記事は換算した月で書きました。株仲間解散令の「1841年12月」は、和暦の年に西暦の年を対応させた表記として読めます。
為永春水の没年も同じです。天保14年12月22日は、西暦に換算すると1844年2月10日になります。デジタル大辞泉は没年を1844年、ほかの事典は1843年と書きます。前者は換算した年、後者は和暦の年に対応させた年として読めます。
西暦の日付は、暦の対照表で1件ずつ換算しました。事典が日付まで書いていない出来事には、換算した日を当てていません。

年表の最初はあなたの誕生、最後は鳥居さんの没年です。あなたの没後に何があったかは、うかがいません。1851年に幕府が問屋の再興令を出しています。同じ年にあなたは亡くなっている。記録のうえで、この二つはどう並ぶのでしょうか

嘉永四年二月十日にわしは江戸で身まかった、と事典は記す。問屋の再興令が出たのも同じ嘉永四年、とそなたは言う。
月までは、そなたの当たった事典に見えぬと聞く。ならば再興令は、わしの知らぬ話やもしれぬ。
それを改革の延長と読むか、否定と読むかは、そなたらの世の学者に譲る。わしの口で足すことはいたしませぬ。
よくある質問(FAQ)
天保の改革はいつからいつまでですか?
天保12〜14年(1841〜43年)です。日本大百科全書は、天保12年5月の改革の上意から天保14年閏9月の水野忠邦の罷免までの2年半を「直接的な期間」としています。
天保の改革は誰が行ったのですか?将軍は誰ですか?
老中首座の水野忠邦が主導しました。将軍は12代徳川家慶です。前将軍の家斉が大御所として実権を握っていたため、家斉が天保12年閏正月(1841年)に亡くなってから改革が始まりました。
天保の改革の内容を簡単に教えてください。
倹約令と風俗の取締り、株仲間の解散、人返しの法、異国船打払令の撤回(薪水給与令)、江戸・大坂周辺の領地を幕領にする上知令です。日本大百科全書はこの5つに整理しています。
天保の改革はなぜ失敗したのですか?
上知令が大名・旗本・農民・町人の反対で撤回され、それを契機に水野が罷免された、と多くの事典は書きます。ただし日本大百科全書は民衆の反感を重くみ、「単純に失敗に終わったとみることは正確でない」とも書いています。
上知令とは何ですか?
江戸・大坂の最寄地にある大名・旗本の領地を幕領に編入し、代わりの土地を与えようとした法令です。天保14年6月(1843年)に発令され、同年閏9月7日に撤回されました。範囲は「10里四方」と説明されますが、法令上は「最寄地」とあるだけです。
株仲間の解散はなぜ失敗したのですか?
幕府は物価高の原因を株仲間の流通独占とみて解散させましたが、流通のしくみが崩れて商品が江戸・大坂に集まらず、物価は下がりませんでした。1851年に再興令が出ています。
鳥居耀蔵はなぜ「妖怪」と呼ばれたのですか?
官途名の甲斐守と名の忠耀をあわせた「耀甲斐」に、妖怪の音を重ねた呼び名です。改訂新版 世界大百科事典は、南町奉行としての厳しい市中取締りから、江戸の町人にそう呼ばれたと説明しています。
鳥居耀蔵はその後どうなりましたか?
1844年に罷免され、翌1845年に讃岐丸亀藩主京極高朗に預けられました。明治元年(1868年)まで23年間を丸亀の御用屋敷で過ごし、明治維新で放免されています。没年は1873年とする事典と1874年とする事典があります。
天保の改革と享保・寛政の改革の違いは?
いずれも幕府財政の窮迫を背景に、幕政の立て直しを図った改革です。享保は8代将軍吉宗、寛政は老中松平定信、天保は老中首座水野忠邦が主導しました。天保の改革は、上知令の撤回と水野の罷免を契機に中断しています。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』に鳥居耀蔵は出てきますか?
出てきます。2026年6月23日の配役発表で、鳥居耀蔵役は北村一輝さんと発表されました。主人公の小栗忠順は1827年生まれで、天保の改革のころは10代半ばでした。
インタビュー後記|「失敗」と書く前に止まった話
この記事を書き始めたとき、私は見出しに「なぜ失敗したのか」と入れました。書き終えたいまも、その見出しは変えていません。検索する人がそう問うからです。
けれど本文では、「失敗」という言葉を事典の引用の外で使うことに、何度も手が止まりました。日本大百科全書が「単純に失敗に終わったとみることは正確でない」と書いていたからです。
水野の退陣の背後には、風俗矯正令や倹約令の徹底が民情を無視して厳しく行われたことに対する、町人・民衆の反感が大きく働いていることを重視すべきであろう。
出典:コトバンク「天保の改革」(日本大百科全書)
上知令の反対、民衆の反感、幕府の力の減退。事典はそれぞれ違う場所に重心を置いていました。本記事は、そのどれかを選びませんでした。水野AIにも、胸の内は語らせていません。
もう一つ、鳥居耀蔵のことです。「妖怪」という呼び名の由来は、事典が明確に書いていました。しかし上知令で反対派に回った経緯は、事典が書く範囲を超えては分かりませんでした。そこから先を足さないと決めたのは、この記事でいちばん迷った判断です。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、鳥居耀蔵を北村一輝さんが演じます。若き小栗忠順が鳥居に憧れを抱く、という設定が配役発表にありました。
史料で確かめられる関係ではありませんが、その場面が放送されたら、鳥居の章を読み直すつもりです。あらすじの整理はこちらです。
参考資料
- コトバンク「天保の改革」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典)※定義、「2年半」、5つの内容、1841年12月令と翌年3月令、上知令の撤回と水野退陣、「単純に失敗に終わったとみることは正確でない」、民衆の反感、新潟の上知、天保15年6月の再登場、「絶対主義的傾斜」、諸藩の改革の根拠
- コトバンク「天保改革」(改訂新版 世界大百科事典・百科事典マイペディア)※倹約令の細目、鳥居の隠密と「市中は火の消えたようになった」、株仲間解散の理由と結果、物価対策、無利息年賦、人返し令、薪水給与令と高島秋帆、上知令の反対と撤回、「幕府の力が減退」、藩の改革との対比の根拠
- コトバンク「水野忠邦」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・ブリタニカ・デジタル版 日本人名大辞典+Plus・百科事典マイペディアほか)※生没年月日、唐津・浜松、昇進の年、5月15日の上意、閏9月13日の罷免、数千人の投石、1844年復職と8か月の辞職、2万石の没収と山形転封、浜松の打ちこわし、数え58歳の根拠
- コトバンク「鳥居耀蔵」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・ブリタニカ・デジタル版 日本人名大辞典+Plus・百科事典マイペディア・精選版 日本国語大辞典)※林述斎の子、鳥居一学の養子、南町奉行の就任時期、三羽烏、「妖怪(耀甲斐)」とその由来、上知令で反対派、1844年罷免、京極高朗預け、没年が1873年と1874年に割れることの根拠
- コトバンク「上知令」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・精選版 日本国語大辞典・旺文社日本史事典ほか)※6月1日・11日・15日の発令、「最寄地」と10里四方の解釈、貸銀・年貢先納銀の棒引きを恐れた反対運動、土井利位、和歌山藩・大奥、閏9月7日の撤回、新潟の実施の根拠
- コトバンク「人返しの法」(旺文社日本史事典)※1843年発令、内容、「実効は少なかった」の根拠
- コトバンク「株仲間解散令」(山川 日本史小辞典)※物価騰貴の原因という認識、流通の混乱、1851年の再興令の根拠
- コトバンク「遠山景元」(日本大百科全書・デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※1840年北町奉行、株仲間解散令を握りつぶして差控、天保14年2月大目付、弘化2年3月の再任の根拠
- コトバンク「矢部定謙」(改訂新版 世界大百科事典・デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※天保12年南町奉行、鳥居の暗躍による失脚、桑名藩預けの根拠
- コトバンク「土井利位」(改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典)※上知令に反対し、忠邦失脚後に老中首座となったことの根拠
- コトバンク「徳川家慶」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書・山川 日本史小辞典)※1837年将軍、家斉に実権を握られたこと、「急激にすぎて失敗」、上知令問題で水野を罷免の根拠
- コトバンク「徳川家斉」(山川 日本史小辞典・ブリタニカ・日本大百科全書)※大御所、没日が閏1月7日と閏1月30日(晦日)に割れることの根拠
- コトバンク「天保の飢饉」(山川 日本史小辞典・デジタル大辞泉・日本大百科全書ほか)※1833〜36年(37年まで)、餓死者、一揆・打ちこわしの根拠
- コトバンク「大塩平八郎の乱」(日本大百科全書・ブリタニカ・旺文社日本史事典)※天保8年2月19日、檄文と挙兵、1日で鎮圧、約40日後の自刃、市中の5分の1を焼いたこと、影響の根拠
- コトバンク「蛮社の獄」(日本大百科全書・ブリタニカ・デジタル大辞泉ほか)※1839年、鳥居の告発、崋山の国元蟄居と長英の永牢の根拠
- コトバンク「渡辺崋山」(ブリタニカ・日本大百科全書)※天保12年10月11日の自殺の根拠
- コトバンク「高野長英」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)※永牢、1844年の脱獄、1850年の自殺の根拠
- コトバンク「薪水給与令」(改訂新版 世界大百科事典・デジタル大辞泉・山川 日本史小辞典ほか)※天保13年7月、打払令の撤回、アヘン戦争の情報の根拠
- コトバンク「印旛沼」(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)※1843年に5藩へ工事を分担、水野罷免後の翌年6月に中止の根拠
- コトバンク「三方領地替」(日本大百科全書)※天保11年11月1日の発令、川越・庄内・長岡、翌年7月12日の撤回、「後の上知令を予測させる」の根拠
- コトバンク「猿若町」(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書・精選版 日本国語大辞典)※中村座・市村座・河原崎座の浅草聖天町への移転の根拠
- コトバンク「寄席」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)※1842年以降わずか15軒の根拠
- コトバンク「市川団十郎」(ブリタニカ・改訂新版 世界大百科事典)※7代目の1842年江戸追放と1849年赦免の根拠
- コトバンク「柳亭種彦」(日本大百科全書・ブリタニカ・デジタル大辞泉)※『偐紫田舎源氏』の絶版の根拠
- コトバンク「為永春水」(日本大百科全書・ブリタニカ・デジタル大辞泉・改訂新版 世界大百科事典)※『春色梅児誉美』、手鎖、天保14年12月22日没と没年の表記が割れることの根拠
- コトバンク「三大改革」(日本大百科全書)※「徳川時代に行われた三度の幕政の大改革」、共通する背景の根拠
- コトバンク「享保の改革」(山川 日本史小辞典・デジタル大辞泉ほか)※1716〜45年、吉宗の在職中の政治の総称、元禄期以降の財政悪化の根拠
- コトバンク「寛政の改革」(デジタル大辞泉・山川 日本史小辞典・旺文社日本史事典)※1787〜93年、「享保の改革を理想として」、天明の飢饉と田沼時代の後、1793年に「在職7年で引退」の根拠
- コトバンク「天保」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典)※1830年12月10日〜1844年12月2日、災異改元の根拠
- 国立公文書館 デジタル展示「旗本御家人」43. 矢部駿河守御預之節物語之事(弘化雑記)※矢部定謙の天保12年の南町奉行拝命、水野との対立、鳥居らの「暗躍」による同年12月の罷免、桑名藩預け、断食の末の死、『弘化雑記』の根拠
- 国立公文書館 デジタル展示「旗本御家人」31. 遠山左衛門尉自作詩歌(嘉永雑記)※遠山景元が鳥居らと対立して大目付に転じ、弘化2年に再び南町奉行となったことの根拠
- レファレンス協同データベース(香川県立図書館)「丸亀藩における鳥居耀蔵の幽閉先を知りたい。」※丸亀高等学校正門前の一画にあった御用屋敷、弘化2年から明治元年までの23年間の根拠
- 浜松・浜名湖ツーリズムビューロー「浜松城の出世人」※水野忠邦が1817〜1845年の28年間浜松城主だったことの根拠
- ステラnet「第5次配役発表」(2026年6月23日)※鳥居耀蔵役が北村一輝さんであること、役の紹介文「若き小栗は、鳥居の姿に憧れを抱きました」の根拠
- Gozaaru「西暦和暦変換」天保14年閏9月※和暦から西暦への日付換算に用いた対照表








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