岩瀬忠震(いわせ ただなり)の名を、私は『幕末三俊』という本の題名で覚えました。明治30年(1897年)に春陽堂から出た本です。
国立国会図書館の書誌には副題があり、「矢部駿州 川路敬斎 岩瀬鴎処」と並びます。矢部定謙、川路聖謨、そして岩瀬忠震の三人です。
一方、同じ「幕末三俊」という呼び名で、水野忠徳・小栗忠順と岩瀬を並べる紹介も見かけます。組み合わせが入れ替わるのです。異なる顔ぶれの「三俊」に名を挙げられる岩瀬とは、どのような人物なのか。それが出発点でした。
この記事の結論
岩瀬忠震は、井上清直とともに日米修好通商条約に調印した幕末の幕臣です。目付として老中阿部正弘のもとで登用され、1858年に新設の外国奉行となりました。
同じ年に結ばれたオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの条約でも全権を務めたと、山川日本史小辞典は記します。ただし、その年のうちに作事奉行へ移され、翌年には職も禄も失いました。
将軍のあとつぎをめぐって一橋派に立ち、大老井伊直弼と対立したためです。1861年の夏、江戸向島で病没しました。満42歳でした。
- 満42歳
没年齢(数え年44歳) - 1858年
日米修好通商条約に調印 - 5か国
全権として関わった条約
この記事では、名前と出自の整理から始めて、三つの功績、安政の大獄から最期までの流れ、生涯の年表、そして新城・横浜・京都に残る三つの石碑までを順にたどります。
語り手として、岩瀬忠震AI(岩瀬忠震をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。当時の空気や、本人がどう感じていたかを想像する手がかりにしてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに岩瀬忠震の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

忠震さん、はじめまして。お名前の読みでつまずく人が多いようです。まずはご自身が何者なのか、あなたの言葉で教えていただけますか

それがしが岩瀬忠震でござる。読みは『ただなり』じゃ。ふだんは修理と呼ばれておった。
生まれは設楽の家でな、三男坊ゆえ、二十三の年に岩瀬の家へ養子に入った。学問所で書を読み、役人の試験に通って、外国奉行まで務めた身でござる。
異国の使節と交渉し、条約に調印した。それが、そなたらの世でそれがしが知られておる理由じゃな。
まずは岩瀬忠震の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう
細かい話に入る前に、表で全体像をつかんでみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 岩瀬忠震(いわせ ただなり)※本姓は設楽。通称は修理(篤三郎とも忠三郎とも記される)。字は善鳴。号は百里・蟾洲・鴎所(資料によって「鴎処」とも表記)。官途名は伊賀守、のち肥後守 |
| 生没年 | 文政元年11月21日(1818年12月18日)〜文久元年7月(1861年8月)。満42歳で死去(数え年では44歳)※没日は事典で7月11日と7月16日に分かれる |
| 出身 | 江戸 |
| 家 | 旗本・設楽貞丈の三男。1840年(天保11年)に旗本・岩瀬忠正の養子となる |
| 活躍した時代 | 幕末 |
| 主な役職 | 目付、海防掛、外国奉行、作事奉行 |
| 主な功績 | 日米修好通商条約への調印、蘭・露・英・仏との修好通商条約の全権、台場の築造や講武所・蕃書調所の設立に当たったこと |
この表でまず注意したいのが、生没年の欄です。
事典が記す没年齢「44歳」は、数え年です。1818年12月生まれで1861年8月に没していますから、満年齢では42歳になります。
没日も、日本大百科全書とブリタニカ国際大百科事典が7月16日、山川日本史小辞典とデジタル版日本人名大辞典が7月11日と、資料で分かれます。この点は最期の章で改めて扱います。
もう一つ、出自の欄です。設楽家は現在の愛知県新城市の東郷地区(設楽原)を拠点とした旗本で、愛知県総合教育センターは「1400石の旗本」と記しています。
同センターは、母を「大学頭をつとめる林家の娘」とも書いています。幕府の学問をつかさどった林家の血筋にあたる、ということです。
号の「鴎所」については、墨田区教育委員会の説明板が(民間サイト「猫のあしあと」に掲載された文面による)、隅田川のほとりに住んだことに由来すると記しています。向島も隅田川のほとりにあたりますが、説明板がどの住まいを指すかまでは書いていません。

設楽の家から岩瀬の家へ、それから幕府の役所へ。ご自身では、どこの人という感覚がありましたか

むずかしいことを聞くのう。生まれは江戸じゃが、設楽の家は三河に根がある。養子に入った岩瀬の家も旗本でな。
もっとも、それがしを育てたのは家より書物でござる。母の実家は林の家と伝わる。漢籍が身近であったろうと、そなたらは思うかもしれぬな。
どこの人かと問われれば、学問所の人、と答えるのがいちばん近いかもしれぬ。
岩瀬忠震の三つの功績|条約・五か国・目付の仕事
目付になってから職を失うまでは5年ほどでしたが、そのあいだに性質の違う三つの仕事が残りました。
- ① 井上清直とともに日米修好通商条約に調印したこと(1858年)
- ② 同じ年のオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの条約でも全権を務めたこと
- ③ 目付として、台場の築造や講武所・蕃書調所の設立に当たったこと
一つ目と二つ目は外交の話、三つ目は国内の備えの話です。順に見ていきましょう。
① 井上清直とともに日米修好通商条約に調印した(1858年)
いちばん大きな仕事は、アメリカとの条約です。調印までの流れを表で追ってみましょう。
| 年(和暦) | できごと |
|---|---|
| 1854年(嘉永7年) | 目付に登用される。京都市の石碑解説は「安政元年正月に目付・海防掛」と記す |
| 1857年(安政4年) | 長崎で日蘭・日露追加条約の交渉に当たり、調印する(改訂新版 世界大百科事典) |
| 1858年(安政5年)2月 | 老中堀田正睦とともに上洛し、京都の瑞泉寺を宿所とする。条約の勅許を求めるが下りず、4月に江戸へ戻る |
| 1858年7月29日(安政5年6月19日) | 神奈川沖の米艦ポーハタン号上で、井上清直とともに日米修好通商条約に調印 |
表のいちばん下に注目してください。この調印は、孝明天皇の勅許を得ないまま行われました。日本大百科全書がそう記しています。
条約の内容は、神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、領事裁判権、協定関税などです。日本側の全権は井上清直と岩瀬忠震、アメリカ側は総領事ハリスでした。
調印にいたる経緯、とくに大老井伊直弼の指示と現場の判断の関係については、研究者のあいだで議論があると紹介されています。本記事はその論考の本文を確認しておらず、「勅許を得ないまま調印した」という事典の記述にとどめます。
京都での宿所については、京都市の石碑解説に興味深い記述があります。3月24日、越前福井藩士の橋本左内が瑞泉寺の岩瀬を訪ね、一橋慶喜の擁立で見解が一致した、というものです。
このとき一緒に調印した井上清直は、日露和親条約に調印した川路聖謨の弟です。兄のほうは、こちらの記事で扱っています。

勅許が下りないまま、船の上で調印された。そのときのことを、話せる範囲で教えていただけますか

調印したのは井上殿とそれがしでござる。それは事実じゃ。誰がどう決めたかは、そなたらの世の学者が今も論じておるそうな。それがしの口から言い足すことはあるまい。
申せるのは一つ。井上殿とともにハリスとの交渉に当たり、条約の文言を詰めた。その末に調印したのでござる。
その紙の重さをどう量るかは、そなたらの世に任せるほかあるまい。
② オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの条約でも全権を務めた(1858年)
アメリカとの条約のあと、同じ年のうちに4か国との条約が続きました。あわせて安政五か国条約と呼ばれます。
| 相手国 | 調印日(和暦) | 西暦 |
|---|---|---|
| アメリカ | 安政5年6月19日 | 1858年7月29日 |
| オランダ | 安政5年7月10日 | 1858年8月18日 |
| ロシア | 安政5年7月11日 | 1858年8月19日 |
| イギリス | 安政5年7月18日 | 1858年8月26日 |
| フランス | 安政5年9月3日 | 1858年10月9日 |
山川日本史小辞典は、岩瀬を「蘭露英仏各国条約全権」と記します。ただし本記事が調印者の名まで確認できたのは、アメリカ・イギリス・フランスの3件です。
イギリスとの条約は外務省外交史料館に原本が残り、重要文化財に指定されています。文化遺産オンラインの解説は、署名者として岩瀬肥後守忠震の名を挙げています。
同じ解説によれば、相手はイギリスの特派大使エルギンです。条文は、先に調印した日米条約の規定を多く踏襲したとも書かれています。日本側の顔ぶれは、フランスとの条約とあわせて表にまとめます。
| 条約 | 日本側の全権(文化遺産オンラインの解説) |
|---|---|
| 日英修好通商条約 | 水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震、津田正路 |
| 日仏修好通商条約 | 水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震、野々山鉦蔵 |
つまりイギリスとの条約もフランスとの条約も、岩瀬ひとりの仕事ではありません。どちらも6人の連名で、違うのは6人目だけです。
オランダ・ロシアの2件については、本記事では署名者の名まで確認していません。
外国奉行は、安政5年(1858年)7月に新設された役職です。事典は最初の任命者を水野忠徳・永井尚志・井上清直・岩瀬忠震らと記し、岩瀬はその一人として条約が続く数か月を過ごしました。

数か月のあいだに4か国と条約を結ぶというのは、想像がつきません。どんな日々でしたか

どんな日々であったか、と申されてもな。取り決めの文面を読み、相手の言い分を聞き、また文面を直す。その繰り返しでござった。
英吉利(いぎりす)のときは、水野殿や永井殿ら六人で名を連ねた。それがしひとりの手柄ではござらぬ。
一つ申せば、英吉利との文言は、アメリカと先に詰めたものを多く引き継いだ。最初の一本を詰めておいたことが、あとで効いたという次第じゃ。
③ 目付として、台場の築造や講武所・蕃書調所の設立に当たった(1854年〜)
三つ目は、条約より前の仕事です。老中阿部正弘のもとで目付に登用されてからの数年間に、幕府は国内の備えを急いでいました。
- 品川台場の築造(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
- 講武所と蕃書調所の設立(同上)
- 海軍伝習の開始への参画(墨田区教育委員会の説明板)
- 勝海舟らの人材登用(日本大百科全書)
ここで注意したいのは、書き方の範囲です。事典の文言は「品川台場築造や講武所、蕃書調所の設立などに当たった」であって、岩瀬が一人で作ったという意味ではありません。
実際、コトバンクの「講武所」「蕃書調所」の項目には岩瀬の名が出てきません。設立の主体は、老中阿部正弘のもとの幕府です。岩瀬はその実務を担った目付の一人でした。
日本大百科全書はもう一つ、「勝海舟らの人材を登用し、開明派官僚の第一人者と目された」と記しています。人を引き上げる側にいた、という評価です。
学問についての記述は、資料によって挙げる出来事が違います。愛知県総合教育センターは1843年に「幕吏登用試験に合格」と記し、改訂新版 世界大百科事典は「1851年(嘉永4)昌平黌教授となった」と記しています。

目付になって数年で、台場も学校も条約も。忙しすぎませんか

忙しかったかと申せば、そうでござろうな。阿部様のもとでは、やることが次から次へと降ってきた。
台場を築くのも、蕃書を調べる所を設けるのも、それがしひとりの働きではござらぬ。幕府の役人の一人として、その仕事に当たったのでござる。
そなたらの世の事典は、それがしが人を引き上げたと書いておるそうな。何を信じてそうしたかまでは、書き残しておらぬがのう。
岩瀬忠震の死因と最期|安政の大獄から向島の別邸まで
岩瀬が亡くなったのは文久元年7月(1861年8月)、場所は江戸向島の別邸です。日本大百科全書は「向島の別邸に退き、文久元年7月16日病没した」と記しています。
病名を書いた事典は、今回確認した範囲にはありません。分かっているのは、蟄居のまま病で没したことまでです。
没日は資料で分かれます。整理しておきましょう。
| 没日の記載 | 資料 |
|---|---|
| 文久元年7月16日 | 日本大百科全書、ブリタニカ国際大百科事典、墨田区教育委員会の説明板 |
| 文久元年7月11日 | 山川日本史小辞典、デジタル版日本人名大辞典、京都・瑞泉寺のページ |
7月11日は西暦1861年8月16日、7月16日は同じ年の8月21日にあたります。どちらの日付にせよ満42歳、数え年では44歳でした。どちらかを誤りと決める材料は、本記事にはありません。
ここに至るまでの流れも確かめておきます。条約に調印した1858年のうちに、岩瀬は作事奉行へ移されました。日本大百科全書は「調印直後」、山川日本史小辞典は「同年」と記します。
翌1859年には免職と蟄居を命じられます。ブリタニカ国際大百科事典は「安政6年(1859年)8月」に官位を奪われたと書き、改訂新版 世界大百科事典は「官職、禄を奪われ永蟄居」と書いています。
理由は、将軍のあとつぎをめぐる争いです。岩瀬は一橋慶喜を推す側に立ち、大老井伊直弼と対立しました。安政の大獄の中心にいた人物については、こちらの記事で扱っています。
蟄居のあとの暮らしについては、新城市設楽原歴史資料館が所蔵する1幅の絵が手がかりになります。『藤に芍薬』、文久元年3月の作です。
同資料館のページは、これを「忠震が亡くなるわずか4か月前に描かれたもの」とし、絵は椿椿山に学んだと考えられていると記しています。断定ではなく、推定として書かれています。
墓碑は、墨田区東向島の白鬚神社にあります。墨田区教育委員会による説明板について、民間サイト「猫のあしあと」に掲載された文面では、向島に隠居して「もっぱら読書文芸にふける」暮らしだったと伝えています。
墓そのものは雑司ヶ谷霊園にあるとする紹介が複数ありますが、公的な資料では今回確認できませんでした。

免職・蟄居となってからの2年ほどは、どのように過ごされましたか

向島で、書を読み、筆を執っておった。花を描き、詩を作る。それだけでござる。
藤と芍薬の絵が、そなたらの世に残っておるそうな。文久元年の三月と記してあるとか。そのあとのことは、そなたらの世に残る記録に任せるほかあるまい。
役目を失った者が何を思うたか、当てるのは残った者の仕事じゃ。それがしの口から申すべきことではござらぬ。
岩瀬忠震の生涯の年表
ここまでの話を、年の順に並べます。
和暦の年末は、西暦では翌年になります。岩瀬の誕生日は文政元年11月21日で、西暦では1818年12月18日にあたります。年は変わりませんが、月がひと月ずれます。年表の左端には和暦を併記し、月は和暦の月で書きました。
年齢は載せません。旧暦生まれの人物は、出来事ごとに満年齢の換算が必要になるためです。
| 年(和暦) | できごと | 解説 |
|---|---|---|
| 1818年(文政元年) | 江戸に生まれる | 旗本・設楽貞丈の三男。母は林家の娘 |
| 1840年(天保11年) | 旗本・岩瀬忠正の養子となる | 愛知県総合教育センターは「23才の時」と記す(数え年。満では21歳) |
| 1843年(天保14年) | 幕府の役人登用試験に合格 | 同センターは「26才」と記す(数え年。満では24歳) |
| 1851年(嘉永4年) | 昌平黌教授となる | 改訂新版 世界大百科事典の記述 |
| 1853年(嘉永6年) | 徒頭 | ペリー来航の年。日本大百科全書の記述 |
| 1854年(嘉永7年・安政元年) | 目付に登用され、海防掛を兼ねる | 台場の築造、講武所・蕃書調所の設立などに当たる |
| 1857年(安政4年) | 長崎で日蘭・日露追加条約の交渉に当たり調印 | 東愛知新聞は、この長崎行きの際の山水画が生誕200年展に出たと報じる |
| 1858年(安政5年)2月 | 堀田正睦とともに上洛 | 瑞泉寺を宿所とし、勅許を求めるが下りない。3月24日に橋本左内が訪ねる |
| 1858年7月29日(安政5年6月19日) | 日米修好通商条約に調印 | 井上清直とともに。神奈川沖のポーハタン号上 |
| 1858年(安政5年) | 外国奉行となる | 蘭・露・英・仏との条約が7月から9月に続く |
| 1858年(安政5年) | 作事奉行に左遷される | 一橋派として井伊直弼と対立したため |
| 1859年(安政6年) | 免職・蟄居。8月に官位を奪われる | 向島の別邸に退く |
| 1861年(文久元年)3月 | 『藤に芍薬』を描く | 新城市設楽原歴史資料館蔵 |
| 1861年(文久元年)7月 | 向島の別邸で病没 | 満42歳(数え年44歳)。没日は7月11日・16日で資料が分かれる |
この年表で目を引くのは、1858年に4行が集まっていることです。上洛、調印、外国奉行、そして左遷。1年のうちに外国奉行となり、その後作事奉行へ左遷されています。
作事奉行へ左遷された1858年から、死去までは3年足らずでした。事典が仕事の中身を書くのは、目付になった1854年からの5年ほどに集中しています。

岩瀬が外交にあたった1850年代の開国期の流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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この本の読みどころ
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岩瀬忠震のすごさと、後世に残ったもの|三つの石碑と「幕末三俊」
「すごさ」は誇張しやすいところなので、いま形として残っているものから並べます。岩瀬を記念する石碑は、少なくとも三か所にあります。
- 愛知県新城市|新城市川路の勝楽寺入口に「岩瀬肥後守忠震顕彰之碑」が立つ(愛知県総合教育センター)
- 横浜市|本覚寺の山門脇に、レリーフ像をはめこんだ顕彰碑が立つ。1982年(昭和57年)、横浜郷土研究会の有志による(本覚寺)
- 京都市|瑞泉寺の門前に「岩瀬忠震宿所跡」の標石が立つ。2019年に瑞泉寺が建立し、橋本左内の訪問も記す(京都市)
実家の領地、開港した町、そして勅許を求めた京。三つの場所が、それぞれ別の理由で岩瀬の名を刻んでいます。
横浜の碑については、書き方に注意がいります。本覚寺のページは、次のように記します。
ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのが岩瀬忠震でした。
出典:曹洞宗 青木山本覚寺「横浜開港首唱者 岩瀬忠震」
一方で、横浜市の「みなとへGO!」は開港地の選定を幕府を主語に書いており、岩瀬個人の名は出てきません。幕府が神奈川を提案し、のちに幕府が横浜に開港場をつくった、という筋です。
岩瀬が横浜開港を首唱したと記すのは本覚寺の碑で、横浜市の「みなとへGO!」は岩瀬個人の名を挙げていません。
「横浜開港の首唱者」「恩人」と岩瀬ひとりに功績を帰する評価は、今回確認できた範囲では碑の言葉によるもので、慎重に受けとる必要があります。
「幕末三俊」の語も同じです。京都市の石碑解説は、この語を次のように使っています。
岩瀬忠震(1818〜61)は,「幕末三俊」の一人に数えられる幕府旗本で,安政5年(1858)の5か国修好通商条約締結に携わった。
出典:京都市「NA172 岩瀬忠震宿所跡」
国立国会図書館の書誌で確認できる1897年の本は、矢部定謙・川路聖謨・岩瀬忠震の三人を指しています。水野忠徳・小栗忠順と並べる紹介の出典は、本記事では確認できませんでした。
小栗との関わりでは、もう一つ確かめられたことがあります。栗本鋤雲の『匏庵十種』(1892年)の序文は、栗本が岩瀬と小栗の事跡を『郵便報知新聞』に書いたと記しています。
序文を書いたのは栗本本人ではなく、本記事が確認したのも序文だけです。それでも、幕府の側にいた人物が岩瀬と小栗の両方の事跡を書いた、というところまでは言えます。

ご自身の仕事のなかで、後の世に残ってほしいと思うものはありますか

残ってほしいと願うて残るものではあるまい。それがしの名で残るとすれば、調印した条約の紙でござろうな。
文言は井上殿らとともに詰めたもの。あとの世がそれをどう読むかは、それがしの知らぬ話じゃ。
そなたらの世に、それがしの名を刻んだ石があるとな。ほう。どこの誰が、何のために刻んだのか。それは聞いてみたいものじゃ。
岩瀬忠震の歩みから考える現代へのヒント
ここからは筆者の解釈です。史料が語っていることではなく、読み手として受け取ったことを書きます。
| 岩瀬忠震の歩み | 筆者が受け取ったヒント |
|---|---|
| 三男に生まれ、養子に入り、試験に通って役人になった | 入口は一つでよい。入ってからの働きで道は広がる |
| 勅許を求めて上洛し、下りないまま江戸へ戻った | 準備が報われないことはある。それでも準備した中身は次の場で使える |
| 井上清直と二人で調印し、イギリス・フランスとは6人で名を連ねた | 大きな仕事ほど、ひとりの名では残らない |
| 職を失ったあと、花を描き詩を作った | 役目が終わっても、手に残る技はある |
この表でいちばん書きたかったのは、三つ目の行です。
日米修好通商条約の全権は二人でした。イギリス・フランスとの条約は、どちらも六人の連名です。本記事で署名者を確かめられた条約はどれも連名で、「岩瀬が結んだ」と一言で言えるものはありませんでした。
それでも、事典は岩瀬を「開明派官僚の第一人者」と評し、三つの土地が石碑を立てています。連名の仕事のなかで、なぜこの人の名が残ったのか。その問いは、答えより問いのままのほうが役に立つように思います。
よくある質問(FAQ)
岩瀬忠震は何と読みますか?
「いわせ ただなり」と読みます。本姓は設楽で、通称は修理、号は鴎所です。官途名は伊賀守、のち肥後守でした。
岩瀬忠震は何をした人ですか?
幕末の幕臣です。目付として台場の築造や講武所・蕃書調所の設立に当たり、1858年に井上清直とともに日米修好通商条約に調印しました。同年の蘭・露・英・仏との条約でも全権を務めたと事典は記します。
岩瀬忠震はどんな人でしたか?
資料からたどれるのは、学問所で学んで試験に通り、外交と国内の備えの両方を担った幕臣という人物像です。日本大百科全書は「開明派官僚の第一人者と目された」と記します。人柄の描写は後世のもので、史料から断定はできません。
岩瀬忠震の死因は何ですか?
文久元年7月(1861年8月)、江戸向島の別邸で病没しました。病名を記した事典は確認できていません。没日は7月11日とする資料と7月16日とする資料があります。満42歳、数え年では44歳でした。
なぜ安政の大獄で処罰されたのですか?
将軍のあとつぎをめぐって一橋慶喜を推す側に立ち、大老井伊直弼と対立したためと事典は記します。1858年に作事奉行へ左遷され、翌1859年に免職・蟄居を命じられました。
岩瀬忠震と横浜はどんな関係ですか?
横浜の本覚寺には「横浜の開港を首唱した」として顕彰碑があります。一方、横浜市の「みなとへGO!」は開港地の選定を幕府を主語に書いており、岩瀬個人の名は挙げていません。
岩瀬忠震の子孫はいますか?
子や子孫についての記述は、今回参照した事典・公的資料では確認できませんでした。確認できた範囲を超えて書かないでおきます。
岩瀬忠震と新城市はどんな関係ですか?
実家の設楽家が、現在の新城市東郷地区(設楽原)を拠点とした旗本でした。新城市設楽原歴史資料館が書画を所蔵し、2018年には生誕200年の記念展が開かれています。勝楽寺の入口には顕彰碑があります。
インタビュー後記|岩瀬忠震は「連名で残った人」
今回は岩瀬忠震AIに登場してもらいました。
調べていて印象に残ったのは、この人の名がいつも誰かと並んで出てくるところです。条約では井上清直と、イギリス・フランスとの条約では6人の連名で、『幕末三俊』では矢部・川路と、『匏庵十種』の序文では小栗忠順と。
本記事で確かめられた記録は、どれも誰かと並んでいました。それでも三つの土地に石碑が立ち、200年目の展覧会が開かれています。
一方で、いちばん知りたいところは決まりませんでした。没日は7月11日か16日か。「横浜開港の首唱者」という評価を、どこまで岩瀬個人のものとみるか。「三俊」の残り二人は誰なのか。
資料の書き方は分かれたままで、どちらかに決める材料は見つかりませんでした。連名で残った人の記録は、細部でも一つに定まらないのかもしれません。
栗本鋤雲が事跡を書いたもう一人、小栗忠順の記事もあります。あわせて読むと、開国期の幕臣の顔ぶれが見えてきます。
あなたは岩瀬忠震の生き方から、何を受け取りますか。
参考資料
- コトバンク「岩瀬忠震」※本姓・通称・字・号・官途名、父を設楽貞丈とすること、養父を岩瀬忠正とすること、官職の年次、「品川台場築造や講武所、蕃書調所の設立などに当たった」「勝海舟らの人材を登用し、開明派官僚の第一人者と目された」「向島の別邸に退き、文久元年7月16日病没した」の文言、1851年昌平黌教授の記述、没日が7月11日・16日で分かれること、没年齢を44歳とすることの出典
- コトバンク「日米修好通商条約」※調印日を1858年7月29日(安政5年6月19日)とすること、神奈川沖のポーハタン号上であること、全権が井上清直・岩瀬忠震とハリスであること、勅許を待たずに調印したこと、条約の内容の出典
- コトバンク「日蘭修好通商条約」※1858年8月18日(安政5年7月10日)に江戸で調印したことの出典
- コトバンク「日露修好通商条約」※1858年8月19日(安政5年7月11日)に江戸で調印したことの出典
- コトバンク「日仏修好通商条約」※1858年10月9日(安政5年9月3日)に江戸で調印したことの出典
- 国立国会図書館 日本法令索引〔明治前期編〕「日本国大不列顛国修好通商条約」※イギリスとの条約の調印日を安政5年7月18日とすることの出典
- コトバンク「日英条約」※世界大百科事典(旧版)が「日英条約は8月26日(7月18日)に調印がおこなわれた」と記すことの出典
- 文化遺産オンライン「日英修好通商条約」※外務省外交史料館が所蔵し重要文化財であること、署名者が水野忠徳・永井尚志・井上清直・堀利煕・岩瀬忠震・津田正路と特派大使エルギンであること、条文が日米条約の規定を多く踏襲すると記すことの出典
- 文化遺産オンライン「日仏修好通商条約」※外務省外交史料館が所蔵し重要文化財であること、日本側全権が水野忠徳・永井尚志・井上清直・堀利煕・岩瀬忠震・野々山鉦蔵の6人であることの出典
- コトバンク「川路聖謨」※井上清直が川路聖謨の弟であることの出典
- JBpress 町田明広「『真の開国の父』安政の大獄でたおれた岩瀬忠震の歴史的意義」※調印をめぐる大老井伊直弼の指示と岩瀬の判断の関係が論じられていることの出典。本記事が確認できたのは冒頭の1ページのみで、本文は有料のため未読です
- コトバンク「外国奉行」※外国奉行が安政5年(1858年)7月に新設され、最初の任命者に岩瀬忠震が含まれることの出典
- コトバンク「講武所」※講武所の項目に岩瀬の名がなく、設立が老中阿部正弘のもとで進められたことの出典
- コトバンク「蕃書調所」※蕃書調所の項目に岩瀬の名がないことの出典
- 京都市「NA172 岩瀬忠震宿所跡」※引用した「幕末三俊」の一文、安政元年正月に目付・海防掛とされたこと、安政5年2月に堀田正睦とともに上洛して瑞泉寺を宿所とし4月に帰東したこと、3月24日に橋本左内が訪ねて一橋慶喜の擁立で見解が一致したこと、標石を2019年に瑞泉寺が建立したこと、「幕末三俊」の一人に数えられると記すことの出典
- 瑞泉寺「幕末の瑞泉寺」※安政5年に瑞泉寺へ宿泊したこと、没日を7月11日とすることの出典
- 愛知県総合教育センター「岩瀬忠震 ―幕末の外交官―」※設楽家が新城市東郷地区を拠点とした1400石の旗本であること、母が林家の娘であること、1840年に「23才」で岩瀬忠正の養嗣子となったこと、1843年に「26才」で幕吏登用試験に合格したこと、勝楽寺の顕彰碑の出典(年齢はいずれも数え年として扱いました)
- 新城市「岩瀬忠震筆『藤に芍薬』-設楽原歴史資料館 名品10選!」※『藤に芍薬』が文久元年3月の作で「亡くなるわずか4か月前」とすること、椿椿山に学んだと考えられていること、鴎所の号で書画を友としたことの出典
- 東愛知新聞「新城市設楽原歴史資料館で岩瀬忠震展」※2018年に生誕200年の記念展が開かれたこと、1857年の長崎赴任時の山水画が展示されたことの出典
- 曹洞宗 青木山本覚寺「横浜開港首唱者 岩瀬忠震」※顕彰碑が昭和57年に横浜郷土研究会有志によって建てられたこと、引用した「横浜の開港を首唱した」の一文の出典。同サイトはhttpsの証明書が一致しないため、httpで確認しました
- 横浜市「みなとへGO! 横浜港の歴史(1)」※幕府がハリスに神奈川を提案し、のちに幕府が横浜に開港場をつくったと記し、岩瀬の名が出てこないことの出典
- 猫のあしあと「白鬚神社|墨田区東向島の神社」※境内の「岩瀬鴎所墓碑」について、墨田区教育委員会の説明板(平成16年3月)の文面を掲載していることの出典。鴎所の号の由来、海軍伝習への参画、向島での暮らし、没日を7月16日とすることは、この説明板の文面によります
- 国立国会図書館サーチ 川崎紫山『幕末三俊』(春陽堂、明治30年11月)※『幕末三俊』の刊行年と出版者の出典
- 国立国会図書館サーチ 川崎三郎『幕末三俊 : 矢部駿州 川路敬斎 岩瀬鴎処』(春陽堂、1897年)※副題に矢部駿州・川路敬斎・岩瀬鴎処の三人が並ぶことの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 栗本鋤雲著・岡敬孝校『匏庵十種』(1892年)※序文が、栗本が岩瀬忠震と小栗の事跡を『郵便報知新聞』に書いたと記すことの出典。本記事が確認したのは序文のみです
- 幕末ガイド「岩瀬忠震の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介」※生年月日の西暦換算を1818年12月18日、没日(7月11日)の西暦換算を1861年8月16日とすることの参照元。公的資料での換算は本記事では確認していません。7月16日を8月21日とするのは、同じ月内の日数から本記事で数えたものです







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