蛮社の獄をわかりやすく!なぜ起きたのかを崋山AI・耀蔵AIと検証

蛮社の獄をわかりやすく!なぜ起きたのかを崋山AI・耀蔵AIと検証 出来事

処罰の根拠になった本は、書いた本人が途中で筆を止め、公にしていなかったそうです。蛮社の獄を調べていて、私はこの一行で立ち止まりました。

渡辺崋山の『慎機論』は、自宅で見つかった未完成の原稿でした。公表していない文章が罪になったのです。その事件を起こした側にいたのが、天保の改革の記事にも出た鳥居耀蔵です。

この記事は、発端のモリソン号事件から、2冊の本、告発、判決、二人のその後までを、事典と2つの博物館の記述で日付ごとに並べます。

この記事の結論

蛮社の獄は、天保10年5月(1839年6月)、目付の鳥居耀蔵の告発で渡辺崋山・高野長英ら蘭学者が逮捕され、幕政批判の罪で崋山は国元蟄居、長英は永牢(終身の入牢)に処された弾圧事件です。

発端はモリソン号事件です。1837年、日本人の漂流民7人を送り届けに来たアメリカ船を幕府が砲撃しました。翌年その事情が伝わると、崋山は『慎機論』を、長英は『戊戌夢物語』を書いて幕府の方針を批判しました。

鳥居耀蔵の関わり方は、事典の説明を合わせると次のような流れになります。洋学を敵視し、幕臣が崋山に近づくことを警戒し、江川英龍に頼まれた崋山の意見書の提出を阻もうとした、という流れです。

  • 7人
    モリソン号が送り届けようとした日本人の漂流民
  • 2冊
    処罰の根拠になった本。『慎機論』と『戊戌夢物語』
  • 5年あまり
    高野長英が小伝馬町の牢で過ごした期間(1839〜1844年)

この記事では、事件の基本事項、モリソン号事件、2冊の本の中身、「蛮社」と尚歯会、鳥居耀蔵の告発、逮捕から判決までの経過、処罰とその後、安政の大獄との違い、年表まで、順にたどります。

語り手として、鳥居耀蔵AI(鳥居耀蔵をモデルにしたAI)と渡辺崋山AI(渡辺崋山をモデルにしたAI)に登場してもらいます。告発した側の目付と、処罰された側の田原藩家老です。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。鳥居が告発した理由や、取り調べの中身・二人の心情は本人に語らせず、事典と博物館の記述として本文で紹介します。二人が対面した記録を本記事は確認していないため、二人が言葉を交わす場面は作らず、筆者がそれぞれに質問します。渡辺崋山は1841年11月23日(天保12年10月11日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

渡辺さま、今日は蛮社の獄についてうかがいます。あなたは処罰された側です。まず、いつ捕らえられ、いつ判決を受けたのかを、日付で教えてください

渡辺崋山AI
渡辺崋山AI

天保十年の五月十四日、北町奉行所の揚屋に入れられました。貴殿らの暦では六月の二十四日にあたるそうでございますな。

判決は同じ年の十二月。国元の田原で蟄居せよ、との申し渡しでした。翌年の正月に田原へ着き、二月から池ノ原の屋敷におりました。

日付で申せるのは、そこまででございます。なぜ捕らえられたかは、このあと順にたどっていただきましょう。

蛮社の獄とは?いつ・誰が・誰を処罰したのか

先に、この章で確かめたことを書きます。蛮社の獄は、天保10年(1839年)、江戸幕府が渡辺崋山・高野長英ら蘭学者に加えた弾圧事件です。「蛮社」は洋学仲間を意味する「蛮学社中」の略だと、デジタル大辞泉は説明しています。

基本の事項を表にまとめます。

項目内容
読み方ばんしゃのごく
いつ天保10年5月(1839年6月)に逮捕。同年12月(1840年1〜2月)に判決
誰が目付の鳥居耀蔵が告発し、老中水野忠邦に上申した(山川 日本史小辞典・改訂新版 世界大百科事典)
誰を渡辺崋山(田原藩家老)・高野長英(町医者・蘭学者)ら。小関三英は逮捕前に自刃
何の罪で幕政批判。崋山は『慎機論』、長英は『戊戌夢物語』が根拠とされた
処罰崋山は国元田原での蟄居、長英は永牢(終身の入牢)
発端1837年のモリソン号事件と、翌年の幕府の評議
将軍12代徳川家慶(1837年就任)。前将軍の家斉が大御所として実権を握っていた
年号の覚え方本記事では語呂合わせを作っていません。モリソン号事件(1837年)の2年後、天保の改革(1841年)の2年前、と前後で覚えるのが確かです

逮捕された人数は、資料によって26人と10数名の2通りの書き方があります。百科事典マイペディア・ブリタニカ・旺文社日本史事典は「崋山ら26人を逮捕」と書き、田原市博物館は「10数名を捕らえました」と書きます。

どの範囲の人を数えたのかは、どちらの資料にも書かれておらず、今回確認した資料だけでは特定できません。

参考:蛮社の獄|コトバンク
参考:崋山の生涯|田原市博物館

判決の内容は、各事典が一致しています。日本大百科全書は「同年12月、崋山には国元田原における蟄居、長英には永牢の判決が下された」と記します。判決に死罪はありません。

ただし3人が命を落としています。小関三英は逮捕前に自刃し、崋山は1840年から田原で蟄居して翌1841年に自刃し、長英は脱獄の6年後に捕吏に襲われて自殺しました。それぞれの経緯は、処罰とその後の章で確かめます。

鳥居耀蔵が「妖怪」と呼ばれた南町奉行時代の話は、天保の改革の記事で書いています。この事件は、その2年前です。

筆者
筆者

鳥居さま、事典はあなたの告発によって崋山らが弾圧された、と書いています。目付として、告発までに何をしたのかを教えてください

鳥居耀蔵AI
鳥居耀蔵AI

天保十年、それがしは目付であった。渡辺崋山は国元蟄居、高野長英は永牢に処された。告発したのは、目付のそれがしである。

小人目付に身辺を探らせ、その報告をもとに御老中へ上申した。

報告に手を加えた、と書く事典もあるそうな。そなたらの世で、それをどう呼ぶかは、そなたらの決めることでござろう。

モリソン号事件とは?漂流民7人を乗せた船を幕府が砲撃した

この章の結論を先に書きます。モリソン号事件は、天保8年6月(1837年7月)、日本人の漂流民7人を送り届けに来たアメリカ船を、幕府が異国船打払令にもとづいて浦賀沖で砲撃した出来事です。

船は鹿児島湾でも砲撃され、マカオへ戻りました。

事件の経過を、資料の帰属をつけて並べます。

モリソン号事件の経過(事典が書く範囲)
  • 船の持ち主|広東のアメリカ商社オリファント商会。漂流民の送還を機に、日本との貿易と布教の端緒を開こうとした(日本大百科全書)
  • 漂流民|岩吉・久吉・音吉・庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松の7人(同上)
  • 浦賀での砲撃|天保8年6月28日(1837年7月30日)と29日。異国船打払令に従った浦賀奉行の砲撃(ブリタニカ・改訂新版 世界大百科事典)
  • 鹿児島湾|薩摩山川でも砲撃を受け、マカオへ帰った(旺文社日本史事典・ブリタニカ)
  • 翌1838年|オランダ商館長の風説書で幕府が船の事情を知る。風説書はモリソン号をイギリス船と誤っていた(日本大百科全書)
  • 幕府の評議|外来船の処置を評議し、評定所一座が打払令の順守を主張した(改訂新版 世界大百科事典)

参考:モリソン号事件|コトバンク

異国船打払令は、文政8年2月(1825年)に幕府が出した法令です。日本大百科全書によれば、文言に「有無に及ばず一図に打払」とあることから、無二念打払令とも呼ばれます。砲撃はこの法に拠ったものでした。

幕府が砲撃した時点では、船の国籍も来航の理由も分かっていませんでした。高野長英記念館(奥州市)の解説は、「船の国籍も来航理由も確認されていなかった」と書いています。

参考:6.蛮社の獄|奥州市 高野長英記念館

翌年、長崎のオランダ商館長が提出した風説書で、幕府は船の性格を知ります。日本大百科全書は、その評議の内容が「民間にも漏れて」、崋山と長英が本を書くことになった、と記します。

どこで漏れたのかは、改訂新版 世界大百科事典と山川 日本史小辞典が書いています。天保9年10月15日(1838年12月1日)の尚歯会の例会で、評定所の役人芳賀市三郎が幕府の打払いの方針を漏らした、という記述です。

モリソン号事件は、のちの政策転換にもつながります。山川 日本史小辞典は、この事件とアヘン戦争の情報が幕府に危機感を与え、「42年の薪水給与令へ政策転換させる契機となった」と書いています。

筆者
筆者

船は漂流民7人を送り届けに来ていました。幕府がそれを知ったのは翌年です。あなたが風説を聞いたのは、尚歯会の例会だったと事典は記します。何を聞いて、何を書こうとしたのですか

渡辺崋山AI
渡辺崋山AI

天保九年の十月、英船が漂流民を送り届けに再び来る、幕府はそれを打ち払う、という話を耳にいたしました。あのときは英船と伝わっておりましたが、実はアメリカの船だった、と貴殿らの世の事典は記すそうでございますな。

海の向こうの国情を知らずに打ち払うのは危うい。私はそう考え、筆を執りました。

ただ、『慎機論』は途中で筆を置き、公にはいたしませんでした。

渡辺崋山の『慎機論』と高野長英の『戊戌夢物語』は何を書いたのか

この章で確かめたことです。2冊とも、1838年(天保9年)にモリソン号への打払いに反対して書かれましたが、たどった道が違います。『慎機論』は途中で筆を止めた未定稿で公開されず、『戊戌夢物語』は転写されて広まりました。

2冊を表で比べます。

項目『慎機論』『戊戌夢物語』(『夢物語』)
著者渡辺崋山高野長英
書かれた時期天保9年(1838年)。10月15日(12月1日)の尚歯会の席上で風説を聞いて執筆天保9年10月21日(1838年12月7日)執筆(日本大百科全書)
形式経世書。1巻夢の中の集会で甲と乙が問答する形式。1巻
主張イギリスの国情を述べ、「今国家の拠る所海にあり」と海防を論じた。打払いの不可を論じた(日本大百科全書・山川)イギリスの強盛を説き、モリソン号を打ち払う危険を警告した(改訂新版 世界大百科事典)
公表内容の過激さに気づいて途中で筆を絶ち、公開しなかった。未定稿執筆後まもなく転写されて反響を呼び、『夢物語評』『夢々物語』が出た
事件での扱い幕吏が崋山宅を捜索して発見。処罰の根拠とされたこの書による幕政批判の罪で永牢
共通する誤り船名のモリソンを人名と誤っている(日本大百科全書)同じ(ブリタニカは、イギリスの東洋学者R.モリソンと船名を混同したと記す)

参考:慎機論|コトバンク
参考:夢物語|コトバンク

『慎機論』について、改訂新版 世界大百科事典はこう書いています。

もっとも,内容が過激なことに気がついて途中で筆を絶ち,公開しなかった。しかし蛮社の獄(1839)のさい,幕吏が崋山の自宅を捜索して,これを発見し,そのため崋山は幕政批判のかどで処罰された。

出典:コトバンク「慎機論」(改訂新版 世界大百科事典)

公表していない原稿が、処罰の根拠になりました。

『戊戌夢物語』のほうは、広まりました。日本大百科全書は「執筆後まもなく転写され、かなりの反響をよんだらしく」と書き、ブリタニカは、のちに筆写されて広まり「将軍徳川家慶の目にも触れた」と記します。

「戊戌」は天保9年の干支です。長英は、この本による幕政批判の罪で永牢の判決を受けました。

2冊の主張の違いについて、高野長英記念館は、崋山が鎖国政策そのものを問題にしたのに対し、長英は「イギリスの申し出は一度聞き、交易については鎖国の規定によって断ればよい」と提言した、と説明しています。

本記事は2冊の原文を確認していないため、この要約を紹介するにとどめます。

筆者
筆者

あなたの『慎機論』は未定稿で、公にしていなかったと事典は記します。その原稿のことを聞かせてください

渡辺崋山AI
渡辺崋山AI

書きかけのまま、公にせず家に置いておりました。

それが天保十年の五月、家の中から見つかり、処罰の根拠とされました。

人に見せるつもりのなかった紙が、私の罪状になったのでございます。

「蛮社」とは何か?尚歯会との関係を事典で確かめる

この章の結論です。「蛮社」は蛮学社中、つまり洋学仲間の略です。崋山や長英が出ていた会合は尚歯会と呼ばれますが、それが洋学者の結社だったかどうかは、事典によって書き方が違います。

尚歯会について、事典がどう書いているかを帰属をつけて並べます。

尚歯会について事典が書く範囲
  • 主宰者|紀州藩儒の遠藤勝助(デジタル大辞泉・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典)
  • 始まり|天保4年(1833年)以来の天保の飢饉の際、遠藤が有志を募って飢饉対策のために設けた会合。のちに新しい知識や情報を交換する場になった(改訂新版 世界大百科事典・山川)
  • 成果|遠藤の『救荒便覧』、長英の『救荒二物考』『避疫要法』など、飢饉対策の著作(同上)
  • 「結社」とする事典|ブリタニカは「崋山、長英らが組織した」「実践的な結社」、旺文社日本史事典は「崋山・長英を中心に結成された蘭学者のグループ」と書く
  • 「結社ではない」とする事典|改訂新版 世界大百科事典は、彼らが尚歯会という結社をつくり政治を議したという通説は「誤り」で、「個人的に崋山と交わったにすぎない」と書く。山川は「同会を洋学研究団体・政治的結社とは考えない説が有力になりつつある」と記す
  • 弾圧の対象|日本大百科全書は、主宰者の遠藤が逮捕されておらず、尚歯会そのものは「弾圧の直接対象にはなっていなかった」と書く

参考:尚歯会|コトバンク
参考:蛮社の獄|コトバンク

つまり「蛮社の獄」という名前は、洋学仲間への弾圧という意味であって、尚歯会という会が処罰されたという意味ではありません。改訂新版 世界大百科事典は、弾圧の対象を「渡辺崋山とその同志」と書いています。

崋山のもとには、幕臣や儒者が集まっていました。同じ事典は、幕臣では川路聖謨・江川太郎左衛門・羽倉外記・下曾根信敦、儒者・文人では古賀侗庵・遠藤勝助・赤井東海・安積艮斎・斎藤拙堂・立原杏所らの名を挙げています。

このうち川路聖謨と安積艮斎は、別の記事で生涯をたどっています。

崋山が蘭学の研究を始めたのは、天保3年(1832年)に家老(年寄役末席)となり、海岸掛を兼ねてからだと改訂新版 世界大百科事典は書きます。主な目的は海防でした。

高野長英・小関三英らに蘭書の翻訳を頼み、「蘭学にて大施主」という世評を得た、と同じ事典は記します。

筆者
筆者

尚歯会は、遠藤勝助さんが飢饉対策のために設けた会合だった、と複数の事典が書いています。あなたが主宰者ではなかった。この会との関わりを教えてください

渡辺崋山AI
渡辺崋山AI

尚歯会は紀州の遠藤殿が主宰なさった会合で、私も長英も出ておりました。私が結成した、とは申しませぬ。

私が長英や三英に蘭書の翻訳を頼んだのは、天保三年に海岸掛を兼ねてからのこと。目当ては海の守りでございました。

私のもとに人が集まった、と貴殿らの世の事典は記すそうでございますな。それを会と呼ぶか、交わりと呼ぶかは、私には決めかねます。

蛮社の獄はなぜ起きた?鳥居耀蔵の告発を事典はどう書くか

この章の結論を先に書きます。各事典は、目付の鳥居耀蔵が配下に崋山らの身辺を探らせ、その報告に手を加えて告発状を作り、老中水野忠邦に上申した、と説明しています。そこに至る流れも、事典の説明はおおむね共通しています。

筆者
筆者

鳥居さま、事典はあなたが小人目付に探索を命じ、報告に手を加えて告発状を作った、と書いています。告発までの手順を、日付と役職で教えてください

鳥居耀蔵AI
鳥居耀蔵AI

天保十年の正月、それがしは江川殿とともに江戸を発ち、江戸湾の備場を巡見して三月に戻った。幕府の命である。

江川殿が復命書に添える書き物を渡辺殿に頼んだ。それがしが配下の小笠原貢蔵に渡辺殿らの身辺を探らせたのは、そのころであった。

小笠原の報告をもとに御老中へ上申した。手順は、以上である。

まず、鳥居が告発に至った流れを、事典の記述で順に並べます。

告発までの流れ(事典が書く順)
  • 鳥居の立場|幕府儒官林述斎の子で、目付として幕臣の監察にあたっていた。日本大百科全書は「儒教思想による守旧的立場から、崋山ら蘭学者を憎悪していた」と書く
  • 幕臣の接近|江川英龍・羽倉外記らの幕臣が崋山と接近することを知り、「しだいに警戒心を強めていった」(改訂新版 世界大百科事典)。山川は「幕臣が崋山らのもとに出入りすることに危機感を覚え」と書く
  • 江戸湾巡見|幕府は目付鳥居と伊豆韮山代官江川英龍に江戸沿海の調査を命じ、天保10年1月に江戸を発って3月に戻った(改訂新版 世界大百科事典。山川は江川の項で1838年と書く)
  • 崋山への依頼|江川は復命書の作成で崋山の助言を求め、復命書に添える『西洋事情御答書』(『西洋事情書』とも)の執筆を崋山に依頼した(同上)
  • 探索|鳥居はこれを探知し、同書の上申を阻止しようとして、配下の小人目付小笠原貢蔵に崋山と同志の身辺を探索させた(改訂新版 世界大百科事典・山川)
  • 告発|小笠原の報告をもとに告発状を作り、老中水野忠邦に上申した。改訂新版 世界大百科事典は「下級幕臣花井虎一をおどし、花井の密告という名目で」と書く

参考:蛮社の獄|コトバンク

報告に手を加えたことを、事典は別々の言葉で書いています。日本大百科全書は「罪状を捏造して」、改訂新版 世界大百科事典は「さらに潤色を加えて」、山川 日本史小辞典は「脚色を加え」です。

言葉は違いますが、報告に手を加えて告発状を作ったという流れは共通しています。

改訂新版 世界大百科事典は、告発の目的をこう書いています。

その結果,崋山および高野長英は投獄され,彼らは幕政批判の罪で処罰され,《西洋事情御答書》も鳥居のもくろみどおりに,上申されずに終わった。

出典:コトバンク「蛮社の獄」(改訂新版 世界大百科事典)

告発の中身は、崋山が無人島(小笠原島)渡航計画に関係した、長英らと蘭学を講じた、幕政批判を行った、というものでした(日本大百科全書)。取り調べの結果、無人島渡航計画の容疑は晴れましたが、幕政批判の罪は重いとされました。

江川英龍との関係も、各事典が書いています。日本大百科全書「鳥居耀蔵」の項は「39年江川英龍との対立」と記し、改訂新版 世界大百科事典「江川太郎左衛門」の項は、1838年に崋山に近いことから鳥居と対立したと書きます。

参考:江川太郎左衛門|コトバンク

田原市博物館は、鳥居が「江戸湾測量で江川坦庵に敗れて以来、蘭学者の弾圧を狙っていました」と書き、高野長英記念館は「儒学者の蘭学の隆盛への妬みと外国船来航に対する幕府内の権力争いがあったといわれる」と書きます。

これらは事典と博物館の解釈です。鳥居がなぜそこまでしたのかを、本記事は一つに決めません。

逮捕から判決まで 天保10年の経過を日付で確かめる

この章で確かめたことです。天保10年5月14日(1839年6月24日)に崋山が北町奉行所の揚屋に入れられ、同年12月(1840年1〜2月)に判決が出ました。その間に長英は北町奉行所に自首し、小関三英は5月17日に自刃しました。

天保10年の経過を、和暦と西暦を並べた表にします。

和暦(天保10年)西暦出来事
1月1839年鳥居と江川、江戸湾巡見に出発。3月に帰る(改訂新版 世界大百科事典)
5月14日6月24日崋山、北町奉行所の揚屋に入れられる(田原市博物館)。高野長英記念館は、この日に幕府から崋山に召喚状が届いたと書く
5月17日6月27日小関三英、自刃(日本大百科全書)
5月1839年長英、いったん姿を隠したのち北町奉行所に自首(日本大百科全書)
審理中1839年無人島渡航計画の容疑は立証されず、審理は『戊戌夢物語』と押収された『慎機論』に移る(高野長英記念館)
12月1840年1〜2月判決。崋山は国元田原での蟄居、長英は永牢(日本大百科全書)

参考:崋山について|田原市博物館
参考:7.捕らえられた長英|奥州市 高野長英記念館

逮捕の日について、nippon.comの「今日は何の日」6月24日の項も「1839年(旧暦:天保10年5月14日)」として、26人の逮捕を挙げています。本記事はこの換算を採りました。

判決・申渡しの日付は、参照した資料で記述が異なります。田原市博物館の年表は、崋山が「12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける」と書き、高野長英記念館は、判決が「12月19日と28日にそれぞれ言い渡され」たと書きます。

本記事では「天保10年12月」と表記します。

小関三英は、出羽鶴岡生まれの蘭学者で、岸和田藩医と幕府天文台の翻訳掛を務めた人です。日本大百科全書は、その最期をこう書いています。

崋山の入獄、長英の自首により、自分も罪を逃れることはできないと思い、同年(天保10)5月17日自刃した。

出典:コトバンク「小関三英」(日本大百科全書)

長英の自首について、日本大百科全書は、崋山が召喚されると「いったん姿を隠すも、北町奉行所に自首する」と書きます。高野長英記念館は、崋山が投獄されて書籍が没収されると身を隠すよう勧める人もいたが、自首したと説明しています。

長英は獄中で『わすれがたみ』を著して無実を訴えた、と日本大百科全書は記します。高野長英記念館は、田原藩医鈴木春山に贈った『鳥の鳴聲』で無実を訴えた、と書いています。

筆者
筆者

5月14日に揚屋入り、12月に判決。その間に長英さんが自首し、三英さんが自刃しました。この半年を振り返ってください

渡辺崋山AI
渡辺崋山AI

五月十四日に揚屋に入り、十二月に蟄居の申し渡しを受けた。その二つの日付のあいだが、私の半年でございます。

長英は自ら奉行所に出て、三英は自ら命を絶ちました。

無人島の疑いは晴れました。残ったのは、私が机に入れておいた書きかけの原稿でございました。

処罰とその後 崋山の蟄居と自刃、長英の永牢・脱獄・最期

この章で確かめたことです。崋山は1840年に田原で蟄居生活に入り、翌1841年に自刃しました。長英は1844年に牢屋敷の火災で脱獄したのち、1850年に江戸で捕吏に襲われて自殺しました。判決は蟄居と永牢でしたが、二人とも命を落としています。

二人のその後を、年の順に並べます。

崋山と長英のその後
  • 1840年2月22日(天保11年1月20日)|崋山、田原に着く。3月15日(2月12日)、池ノ原の屋敷に蟄居(田原市博物館)
  • 1841年|長英、牢名主となり、事件の顛末を記した『蛮社遭厄小記』を郷里へ送る(日本大百科全書・高野長英記念館)
  • 1841年11月23日(天保12年10月11日)|崋山、田原で自刃。満48歳(数え49歳)
  • 1842年初め(天保12年12月)|鳥居耀蔵、南町奉行に(日本大百科全書)
  • 1844年8月13日(弘化元年6月30日)|長英、小伝馬町牢屋敷の火災で牢から出され、そのまま戻らず(高野長英記念館)
  • 1848年|長英、宇和島藩主伊達宗城に招かれ宇和島へ。のち江戸に再潜入し、沢三伯の名で医業(日本大百科全書)
  • 1850年12月3日(嘉永3年10月30日)|長英、江戸青山百人町で捕吏に襲われ自殺。満46歳(数え47歳)(山川 日本史小辞典・高野長英記念館)

参考:崋山の生涯|田原市博物館
参考:8.牢屋火災、長英脱出|奥州市 高野長英記念館
参考:12.長英の最期、夜明けは近い|奥州市 高野長英記念館

崋山の最期について、日本大百科全書はこう書いています。

1841年、崋山の窮迫を助けるため、弟子たちが江戸において開いた画会が、蟄居中不謹慎と誤り伝えられるに及び、崋山は藩主に累の及ぶのを恐れて自殺した。

出典:コトバンク「渡辺崋山」(日本大百科全書)

田原市博物館も同じ経緯を書き、崋山が「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男の立に「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書した、と伝えています。同館のページには、立あての自筆の遺書の写真が載っています。

長英の脱獄について、事典と記念館で確定度が違います。日本大百科全書は「非人栄蔵に放火させ、小伝馬町の牢舎から脱獄」と書き、百科事典マイペディアは「牢が焼失した際放たれて戻らず」と書きます。

高野長英記念館は、栄蔵が長英に頼まれて放火したと申し立てた記録を挙げたうえで、「栄蔵の言い分が真実かどうか追究することはできない」としています。同館は、脱獄の1か月後に出た手配書も引いています。

当六月晦日、牢屋敷出火の節、控の趣仰せられ後、切り放しあい成り候処、その後立ち帰り申さず

出典:奥州市 高野長英記念館「8.牢屋火災、長英脱出」

火災で解き放された囚人には、3日以内に戻る掟がありました。高野長英記念館はそう説明し、長英はその掟を破って行方をくらました、と書いています。この点は、放火の有無にかかわらず資料が一致しています。

長英の最期について、各事典は「捕吏に襲われて自殺」と書きます。高野長英記念館は御裁許書の写しをもとに、嘉永3年10月30日の夜に南町奉行所の役人が踏み込み、長英が自ら命を絶った、と記しています。

本記事はこれ以上の描写をしません。

鳥居耀蔵は、崋山の死の2か月後にあたる天保12年12月に南町奉行となりました。ブリタニカは、鳥居が「蛮社の獄の取締りによって老中水野忠邦に認められ」て町奉行に抜擢された、と書いています。

参考:鳥居耀蔵|コトバンク

筆者
筆者

鳥居さま、崋山は1841年に田原で自刃し、長英は1850年に亡くなりました。あなたが南町奉行になったのは、崋山の死の2か月後です。この順を教えてください

鳥居耀蔵AI
鳥居耀蔵AI

天保十二年十月に渡辺殿が田原で自刃し、同じ年の十二月にそれがしは南町奉行となった。順は、そのとおりである。

高野長英が弘化元年に牢屋敷の火災に乗じて戻らず、嘉永三年に捕吏に囲まれて自ら命を絶った、とそなたらの世の事典は記すそうな。それがしが丸亀へ預けられる前と後にまたがる話である。

それがしの名が次に出るのは、天保の改革のときである。

鳥居耀蔵はその後どうなった?天保の改革から大河『逆賊の幕臣』まで

この章で確かめたことです。鳥居耀蔵は蛮社の獄の2年後に南町奉行となって天保の改革を実行し、1844年に罷免、翌年から丸亀で23年間を過ごしました。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、北村一輝さんが演じます。

鳥居のその後を、事典が書く範囲で並べます。

鳥居耀蔵のその後(事典が書く範囲)
  • 天保12年12月(1842年初め)|矢部定謙の後任として江戸南町奉行に。甲斐守を名乗る(日本大百科全書)
  • 天保の改革|市中に隠密を放って違反者を摘発し、江戸の町人から甲斐守忠耀をもじって「妖怪(耀甲斐)」と呼ばれた(改訂新版 世界大百科事典)
  • 天保13年(1842年)|高島秋帆の投獄事件を引き起こす(ブリタニカ・改訂新版 世界大百科事典)
  • 1844年(弘化元年)|罷免。山川は、オランダ国書をめぐる評議で老中阿部正弘と対立し、在任中の不正が発覚したと記す
  • 1845年(弘化2年)|讃岐丸亀藩主京極高朗に預けられる。明治元年(1868年)まで23年間
  • 没年|1873年(山川・デジタル版 日本人名大辞典)と1874年(改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ・日本大百科全書)で事典が割れる

参考:鳥居耀蔵|コトバンク

改訂新版 世界大百科事典は、鳥居が高島秋帆の西洋砲術採用策を批判し、「一貫して洋学を敵視した」と書いています。蛮社の獄で崋山らを告発した立場は、南町奉行になってからも変わらなかった、という書き方です。

崋山と長英の資料は、それぞれの土地の博物館で確かめられます。田原市博物館は崋山の関係資料を展示し、2026年10月10日から12月6日まで企画展「未来へつなぐ、重要文化財渡辺崋山関係資料」を開いています。

高野長英記念館は、岩手県奥州市水沢にあります。重要文化財「高野長英関係資料」を保存し、獄中の資料や手紙を時代順に展示しています。開館は9時から16時30分、月曜休館(祝日の場合は翌日)、一般200円です(2026年10月14日時点)。

参考:奥州市 高野長英記念館|奥州市公式ホームページ

ここで、2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』との接点を書いておきます。鳥居耀蔵役は北村一輝さんです。NHKの配役発表(ステラnet、2026年6月23日)は、鳥居をこう紹介しています。

すべては徳川のため。「妖怪」と呼ばれた町奉行

出典:ステラnet「第5次配役発表」(2026年6月23日)

渡辺崋山と高野長英の配役は、この配役発表には載っていません。蛮社の獄がドラマで描かれるかどうかも、本記事は確認していません。主人公の小栗忠順は文政10年(1827年)生まれで、蛮社の獄はその12年後の出来事です。

配役の一覧と相関図は、別の記事でたどれます。

ここで、二人にそれぞれ同じ問いを投げてみます。崋山AIが語る範囲は、生前の天保12年10月(1841年11月)までです。

筆者
筆者

お二人にうかがいます。1839年のあと、それぞれどこで何をしていましたか

鳥居耀蔵AI
鳥居耀蔵AI

それがしは天保十二年十二月に南町奉行となり、弘化元年に役を解かれ、翌年から丸亀へ預けられた。預けが解かれたのは明治元年である。

丸亀で過ごしたのは、二十三年である。

渡辺崋山AI
渡辺崋山AI

私は天保十一年の正月に田原へ着き、二月から池ノ原の屋敷で蟄居いたしました。

家老の役を離れ、国元の屋敷で日を送ったのでございます。

蛮社の獄と安政の大獄の違いを比べる

この章の結論です。蛮社の獄と安政の大獄は、どちらも幕府による弾圧事件ですが、20年の間があり、主導した人物も対象も処罰の重さも違います。蛮社の獄の判決に死罪はなく、安政の大獄では刑死者が出ています。

2つの事件を表で比べます。

項目蛮社の獄安政の大獄
いつ天保10年(1839年)安政5〜6年(1858〜59年)
主導した人物目付鳥居耀蔵の告発。老中は水野忠邦大老井伊直弼
対象渡辺崋山・高野長英ら蘭学者井伊の政治に批判的な公卿・大名・幕臣・志士(改訂新版 世界大百科事典)
きっかけモリソン号事件への幕府の方針を批判した著作日米修好通商条約の調印と将軍継嗣をめぐる対立
処罰崋山は蟄居、長英は永牢。判決に死罪はない処罰者は100人を超え、吉田松陰らが死罪。刑死者は7人と書く事典と8人と書く事典がある
主導者のその後鳥居は1844年に罷免、1845年から丸亀で幽閉井伊は1860年、桜田門外の変で殺害

安政の大獄の処罰者の数と刑死者の数は、別の記事で事典ごとに確かめています。

2つの事件は、処罰された人たちの立場も違います。蛮社の獄で処罰されたのは、西洋の事情を研究していた学者でした。

旺文社日本史事典は、この事件に「幕政批判を封じ、蘭学を封建支配強化に役だたせようとした幕府当局の意図が反映されている」と書いています。

影響については、ブリタニカが「以後洋学のあり方に大きな影響を与えた」と記し、日本大百科全書は、幕府内の「守旧派と開明派との対立が顕著にみられた事件」だったと書きます。

一方で、崋山のもとに集まっていた幕臣の江川英龍や川路聖謨は処罰されず、ペリー来航後の海防・外交で重用されます。ブリタニカ「尚歯会」の項は、この会から後年「海防、外交面に活躍した多くの人材を輩出している」と書いています。

筆者
筆者

蛮社の獄から3年後の1842年、幕府は異国船打払令を撤回して薪水給与令を出しました。崋山と長英が批判した方針が、変わったことになります。鳥居さま、この順を教えてください

鳥居耀蔵AI
鳥居耀蔵AI

天保十年に渡辺殿と高野長英が処罰され、天保十三年の七月に打払令が廃止された。順は、そのとおりである。

廃止は御老中の評議による。アヘン戦争の報せが背にあった、とそなたらの世の事典は記すそうな。

二人が書いた本と、三年後の撤回を結びつけるかどうかは、そなたらの世の学者が決めることでござろう。

蛮社の獄の流れを年表で確認(和暦・西暦)

ここまでの出来事を、和暦と西暦を並べた年表にまとめます。年齢は没時のみ載せ、満年齢と数え年を併記します。旧暦の生年月日から出来事ごとに換算する必要があり、数え年とも混同しやすいためです。

事典が日付まで書いていない出来事は、月または年だけを書いています。

和暦西暦出来事
寛政5年9月16日1793年10月20日渡辺崋山、江戸麹町の田原藩邸に生まれる
寛政8年11月24日1796年鳥居耀蔵、生まれる
文化元年5月5日1804年6月12日高野長英、陸奥水沢に生まれる
文政8年2月1825年異国船打払令
天保3年1832年崋山、田原藩家老(年寄役末席)・海岸掛。長英と知り合う
天保8年6月28日1837年7月30日モリソン号、浦賀沖で砲撃される。鹿児島湾でも砲撃
天保8年1837年家慶が12代将軍に。鳥居、目付(1838年・1839年とする事典もある)
天保9年1838年オランダ商館長の風説書でモリソン号の事情が幕府に伝わる
天保9年10月15日1838年12月1日尚歯会の例会で、幕府の打払い方針が漏れる
天保9年10月21日1838年12月7日長英、『戊戌夢物語』を執筆。崋山はこの年『慎機論』を書き、途中で筆を止める
天保10年1〜3月1839年鳥居と江川の江戸湾巡見
天保10年5月14日1839年6月24日崋山、北町奉行所の揚屋に入れられる
天保10年5月17日1839年6月27日小関三英、自刃
天保10年12月1840年1〜2月判決。崋山は国元蟄居、長英は永牢
天保11年1月20日1840年2月22日崋山、田原に着く。2月12日(3月15日)池ノ原屋敷に蟄居
天保12年閏正月1841年2〜3月大御所家斉が死去
天保12年5月15日1841年7月3日水野忠邦による天保の改革の上意が出される
天保12年10月11日1841年11月23日崋山、田原で自刃(満48歳、数え49歳)
天保12年12月1842年1〜2月鳥居耀蔵、南町奉行に
天保13年7月1842年薪水給与令。異国船打払令の廃止
弘化元年6月30日1844年8月13日長英、小伝馬町牢屋敷の火災で牢を出て戻らず
弘化元年1844年鳥居耀蔵、罷免
弘化2年1845年鳥居、丸亀藩預け
嘉永元年1848年長英、宇和島へ
嘉永3年10月30日1850年12月3日長英、江戸で捕吏に襲われ自殺(満46歳、数え47歳)
明治元年1868年鳥居、放免
明治6年10月3日1873年鳥居耀蔵没(1874年とする事典もある)

和暦の日付は、そのまま西暦の月日にはなりません。逮捕の「5月14日」は西暦では6月24日、崋山の自刃の「10月11日」は11月23日です。判決の「天保10年12月」は、西暦では1840年の1〜2月にまたがります。

換算の基準にしたのは、nippon.comが併記する「1839年(旧暦:天保10年5月14日)」と、暦の対照表です。事典が日付まで書いていない出来事には、換算した日を当てていません。

江戸時代全体のなかで、この事件がどこに位置するかは、年表の記事で確かめられます。

筆者
筆者

年表の最初はあなたの誕生、最後は鳥居さんの没年です。あなたの没後のことは、年表に任せます。モリソン号の砲撃から、あなたが揚屋に入るまで、およそ2年です。この2年をどう言い表しますか

渡辺崋山AI
渡辺崋山AI

天保八年の六月に船が打ち払われ、九年の十月に私がその話を聞き、十年の五月に揚屋へ入った。貴殿らの世の帳面に並ぶ順は、そうでございます。

船が漂流民を送り届けに来ていたことを、幕府が知ったのは翌年でした。私が聞いたのも、その翌年でございます。

二年のあいだに何を思うたかは、申しませぬ。日付を並べれば、絵の下描きのように、形は見えてまいります。

よくある質問(FAQ)

蛮社の獄とは、簡単に言うと何ですか?

天保10年(1839年)、江戸幕府が渡辺崋山・高野長英ら蘭学者に加えた弾圧事件です。モリソン号事件への幕府の方針を批判した『慎機論』『戊戌夢物語』が幕政批判とされ、崋山は国元蟄居、長英は永牢に処されました。

蛮社の獄はいつ起きましたか?西暦では何年ですか?

和暦では天保10年5月、西暦では1839年6月に逮捕が始まりました。崋山が北町奉行所の揚屋に入れられたのは天保10年5月14日(1839年6月24日)です。判決は同年12月で、西暦では1840年1〜2月にあたります。

蛮社の獄は誰がやったのですか?

目付の鳥居耀蔵が告発し、老中水野忠邦に上申しました。山川 日本史小辞典は、鳥居が配下の小人目付小笠原貢蔵に探索を命じ、その報告に「脚色を加え」て上申したと書いています。将軍は12代徳川家慶です。

蛮社の獄はなぜ起きたのですか?

事典は、洋学を敵視していた鳥居耀蔵が、幕臣が崋山に近づくことを警戒し、江川英龍に頼まれた崋山の意見書の提出を阻もうとした、という流れで説明しています。きっかけは、崋山と長英が幕府の方針を本で批判したことです。

蛮社の獄で処罰された人は誰ですか?どんな処罰ですか?

渡辺崋山は国元田原での蟄居、高野長英は永牢(終身の入牢)です。逮捕された人数は、26人と書く事典と、10数名と書く田原市博物館があります。小関三英は逮捕前に自刃しました。

蛮社の獄で殺された人はいますか?

判決に死罪はありません。ただし小関三英は逮捕前の1839年に自刃し、崋山は蟄居中の1841年に自刃し、長英は脱獄後の1850年に捕吏に襲われて自殺しました。

モリソン号事件とは何ですか?

1837年(天保8年)、漂流民7人を送り届けに来たアメリカ船モリソン号が、異国船打払令にもとづいて浦賀沖で幕府側の砲撃を受け、鹿児島湾の山川でも砲撃された出来事です。山川での砲撃は薩摩藩によると、旺文社日本史事典は書いています。

渡辺崋山はその後どうなりましたか?

1840年に田原へ移り、池ノ原の屋敷で蟄居しました。1841年、弟子たちが江戸で開いた画会が蟄居中不謹慎と誤って伝えられ、藩主に累が及ぶのを恐れて、天保12年10月11日(1841年11月23日)に自刃しました。

高野長英はその後どうなりましたか?

弘化元年6月30日(1844年8月13日)、小伝馬町牢屋敷の火災で牢を出たまま戻りませんでした。宇和島藩に招かれたのち江戸に再潜入しましたが、嘉永3年10月30日(1850年12月3日)に捕吏に襲われて自殺しました。

蛮社の獄と安政の大獄の違いは何ですか?

蛮社の獄は1839年、目付鳥居耀蔵の告発で蘭学者が処罰された事件で、判決に死罪はありません。安政の大獄は1858〜59年、大老井伊直弼による弾圧で、処罰者は100人を超え、吉田松陰らが死罪になりました。

蛮社の獄の語呂合わせはありますか?

本記事では、3人が命を落とした事件のため語呂合わせを作っていません。1839年は、モリソン号事件(1837年)の2年後、天保の改革(1841年)の2年前と、前後の出来事で覚えるのが確かです。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』に鳥居耀蔵は出てきますか?

出てきます。2026年6月23日の配役発表で、鳥居耀蔵役は北村一輝さんと発表されました。渡辺崋山と高野長英の配役は、この発表には載っていません。

インタビュー後記 机の底の原稿

この記事を書き始めたとき、私の頭にあったのは「鳥居耀蔵が崋山たちを陥れた事件」という一行でした。書き終えたいまも、事典の記述はその一行からそう遠くありません。

「捏造」「脚色」「潤色」。事典は言葉を変えて、同じ流れを書いていました。

けれど、調べて引っかかったのは別のところでした。『慎機論』が未定稿で、公にしていなかったことです。改訂新版 世界大百科事典は、こう書いていました。

もっとも,内容が過激なことに気がついて途中で筆を絶ち,公開しなかった。

出典:コトバンク「慎機論」(改訂新版 世界大百科事典)

崋山は、書くのをやめていました。それでも処罰の根拠になりました。一方の『戊戌夢物語』は転写されて広まり、将軍の目にも触れたとブリタニカは書きます。公表した本と、公表しなかった本が、同じ事件で罪になりました。

割れているように見えて、そうではなかったものもあります。「尚歯会」が結社だったかどうかは、事典によって書き方が違いました。けれど弾圧の対象が崋山とその同志だったことは、どの事典も同じです。

会の名前と、処罰の対象は、別のものでした。

逮捕者数や判決・申渡しの日付には、資料によって異なる記述がありました。本記事ではその違いを紹介し、判決の時期は天保10年12月と表記しました。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で、鳥居耀蔵を北村一輝さんが演じます。蛮社の獄が描かれるかは分かりません。もし描かれたら、机の底の原稿がどう扱われるのかを、この記事と並べて見るつもりです。あらすじの整理はこちらです。

参考資料

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