寺田屋事件をわかりやすく!2つの事件はなぜ起きた?薩摩藩士の斬り合いと龍馬襲撃を久光AI・龍馬AIと検証

寺田屋事件をわかりやすく!2つの事件はなぜ起きた?薩摩藩士の斬り合いと龍馬襲撃を久光AI・龍馬AIと検証 出来事

風呂からあがって寝ようとしていた、と手紙に書いたのは、お龍(のちの龍馬の妻)ではなく龍馬本人です。

慶応2年(1866年)、伏見の寺田屋で捕り方に囲まれた夜を、龍馬は家族あての手紙に細かく書き残しました。浴衣に綿入れ、袴なしで走ったことまで、龍馬自身の説明が手紙の写しから分かります。

ところが「寺田屋事件」を調べると、もう一つの事件が出てきます。4年足らず前の同じ宿で、薩摩藩士どうしが斬り合っていました。この2つは混ざって語られがちなので、今回は分けて確かめます。

この記事の結論

寺田屋事件は、京都伏見の船宿寺田屋で起きた2つの事件を指します。事典の見出しの「寺田屋事件」は、文久2年4月23日(1862年5月21日)に島津久光が薩摩藩の尊攘派を鎮圧した事件です。

もう一つは、慶応2年1月23日(1866年3月9日)の夜、坂本龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲われた事件です。龍馬は両手に傷を負いながら脱出し、薩摩藩邸に保護されました。

当時の寺田屋は、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで焼けました。いまの建物はそのあとの再建だと、京都市歴史資料館が2008年に結論を出しています。

  • 9人
    1862年に寺田屋へ向かった鎮撫使
  • 2日後
    薩長同盟から龍馬襲撃まで
  • 1868年
    当時の寺田屋が焼けた年

この記事では、2つの事件を分けて、なぜ起きたのか、誰が死んだのか、誰が助けたのかを順に見ていきます。根拠にしたのは事典のほか、薩摩藩の届書、龍馬の手紙、長府藩士三吉慎蔵の日記、寺田屋の女主人お登勢の手紙です。

語り手として、島津久光AI(島津久光をモデルにしたAI)と龍馬AI(坂本龍馬をモデルにしたAI)に登場してもらいます。1862年の事件で鎮撫を命じた人と、1866年の事件で襲われた人です。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。久光は1887年12月6日に、龍馬は1867年12月10日に亡くなっています。没後の出来事は筆者が質問の中で伝えています。

筆者
筆者

久光さん、龍馬さん、今日は寺田屋の話をうかがいます。同じ宿の名で、お二人の事件が混ざって語られがちです。久光さん、文久2年の4月の夜は、ひとことで何でしたか。

島津久光AI
島津久光AI

わしの家来が、わしの家来を斬った。

そいで足りる。

龍馬AI
龍馬AI

こっちは風呂あがりに捕り手が来た話ぜよ。

同じ宿でも、ずいぶん違う夜じゃのう。

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HAGY(へいじい)
この記事を書いた人
HAGY(へいじい)
ウェブマーケティング(SEO・SNS)を仕事にしている歴史好きです。子どもの頃は、教科書や歴史漫画で偉人の名前を覚えるだけでした。高野山真言宗の尼僧と結婚し、空海を調べるうちに、その時代の空気や周りの人々まで気になるようになりました。これまでに100を超える偉人AIを作ってきました。

寺田屋事件とは?2つの事件を表で比較

寺田屋事件は2つあり、1862年は薩摩藩の内部で起きた斬り合い、1866年は幕府側が龍馬たちを捕らえに来た事件です。舞台は同じ伏見の船宿でも、争った相手がまったく違います。

項目1862年の事件1866年の事件
いつ文久2年4月23日(1862年5月21日)の夜慶応2年1月23日(1866年3月9日)の深夜。時刻は翌未明
別の呼び名寺田屋騒動寺田屋遭難
襲った側島津久光が送った鎮撫使9人伏見奉行所の捕り方
襲われた側有馬新七ら薩摩藩の尊攘派坂本龍馬と三吉慎蔵
理由関白と京都所司代の殺害計画を止めるため薩摩藩士を名のる者の取り調べ(三吉の日記による)
結果尊攘派の8人と鎮撫使の1人が命を落とす龍馬が負傷。二人とも脱出し薩摩藩邸へ
主な記録薩摩藩の届書、『島津久光公実記』龍馬の手紙、三吉慎蔵の日記、お登勢の手紙

参考:寺田屋事件|コトバンク
参考:寺田屋騒動|コトバンク
参考:島津久光公実記 巻1(薩摩藩の届書)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:坂本竜馬関係文書 第一|国立国会図書館デジタルコレクション

事典で「寺田屋事件」を引くと、出てくるのは1862年の事件です。百科事典マイペディアは「寺田屋騒動」の項目を「寺田屋事件」へ送っていて、2つの語を同じ事件の名として扱います。

一方、1866年の事件も「寺田屋事件」と呼ばれています。国土交通省の多言語解説文は、1862年を「寺田屋騒動または最初の『寺田屋事件』」、1866年を「2回目の寺田屋事件」と分けています。

『坂本龍馬関係文書』(1926年)の目次は「伏見寺田屋ニ於ケル遭難」でした。以下、この記事では年で呼び分けます。

参考:寺田屋:お登勢|国土交通省 多言語解説文データベース

舞台の寺田屋は、淀川を行き来する船の客を泊める宿でした。日本大百科全書は「薩摩藩船宿」と説明します。薩摩藩の人々が伏見に来たときの定宿だったことが、2つの事件をこの宿へ引き寄せました。

筆者
筆者

龍馬さんも、寺田屋を定宿にしていたのですね。

龍馬AI
龍馬AI

おかみのお登勢さんが、ようしてくれる宿じゃった。

あの人に頭の上がらん志士は、わしだけやないはずぜよ。

1862年の寺田屋事件はなぜ起きた?久光と尊攘派のずれ

原因は、久光の上京の目的と、尊攘派が久光に期待したことのずれでした。久光がめざしたのは朝廷と幕府を結ぶ公武合体で、有馬新七らが望んだのは挙兵です。

筆者
筆者

久光さんは、兵を率いて京へ上っています。有馬さんたちは、それを挙兵の合図だと受け取ったようです。

島津久光AI
島津久光AI

千の兵を連れて上れば、そう読む者も出る。

じゃっどん、幕府を討つために連れて行った兵ではなか。

読み違えた者を、おはんはどげん見ちょる。

筆者
筆者

読み違いだけで片づけるには、9人は多いと思います。

島津久光AI
島津久光AI

……そいは、おはんの見立てじゃ。

聞いてはおく。

事件までの流れ
  • 文久2年1月15日(1862年2月13日)|坂下門外の変。久光が幕政改革と公武合体に乗り出す背景となる
  • 文久2年3月(1862年)|久光が藩兵約1000を率いて上京の途につく
  • 同じころ|西郷隆盛が下関で待てという命に反して大坂へ向かい、久光の怒りを買う
  • 文久2年4月16日(1862年5月14日)|久光が入京。志士たちの動きを「暴発」として抑える
  • 文久2年4月23日(1862年5月21日)|有馬らが大坂から伏見へ。久光に急報が届き、鎮撫使を送る

参考:寺田屋事件|コトバンク
参考:島津久光公実記 巻1|国立国会図書館デジタルコレクション

久光は藩主の父で、「国父」として薩摩藩を動かしていました。坂下門外の変のあと、雄藩の連合で幕政を改め、公武合体を進めようと動きます。

尊攘派は久光の入京を好機とみました。有馬新七、田中謙助らの薩摩藩士は、公家の中山家に仕えた田中河内介、久留米の真木和泉、庄内の清河八郎らと手を結びます。

有馬新七は崎門学を学んだ尊攘派の志士で、この夜に満36歳(数え38歳)で亡くなります。

参考:有馬新七|コトバンク

計画の目的は、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義の殺害でした。その先には、青蓮院宮を戴いて義兵を挙げる計画もありました(世界大百科事典「有馬新七」)。

集まった人数は資料で違います。山川 日本史小辞典は「同藩尊攘派30余人」、『島津久光公実記』は他藩の者も含めて「其衆八十餘人」としていて、数えている範囲が同じではありません。

この直前に、西郷隆盛も久光と衝突しています。『島津久光公実記』によると、西郷は下関で待つよう命じられていたのに、浪士が京坂に集まると聞いて大坂へ向かいました。

西郷本人は、浪士を抑えてきたのは自分だと大久保利通に説いたと同書にあります。それでも久光の怒りは解けず、徳之島、ついで沖永良部島へ流されました。

筆者
筆者

西郷さんを流したことは、惜しくなかったのですか。

島津久光AI
島津久光AI

命に背いた者を、そのままにはできん。

惜しいかどうかは、別の話でごわす。

西郷隆盛の生涯は、こちらの記事でまとめています。

4月23日の夜に何が起きた?鎮撫使9人と斬り合いの経過

久光が選んだ8人に1人が加わった計9人が寺田屋に入り、説得が決裂して斬り合いになりました。鎮撫使(ちんぶし)とは、騒ぎを鎮めるために送られた使者のことです。

鎮撫使届書に書かれた傷
奈良原喜八郎(繁)薄手
大山格之助(綱良)無疵
森岡善助(昌純)深手
江夏仲左衛門深手
鈴木勇右衛門深手
鈴木昌之介無疵
山口金之進薄手
道島五郎兵衛即死
上床源介(願い出て途中から加わる。講演録では敬蔵)届書に名前なし

参考:島津久光公実記 巻1(鎮撫使の人選と届書)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:奈良原繁|コトバンク
参考:大山綱良|コトバンク

奈良原はのちに沖縄県知事となり、大山は鹿児島県令を務めたあと、西南戦争で西郷軍を助けて斬罪となりました。

事典の人数が8名と9名に分かれるのは、人選の経緯で説明がつきます。『島津久光公実記』は「八人ヲ撰拔シ」と書き、上床源介が願い出て追いついたと続けます。山川の「鎮使8名」も世界大百科の「9人」も、記録と合います。

経過は次のとおりです。急報が届いたのは夕方近くで、鎮撫使は二手に分かれ、夜の二更(午後9時から11時ごろ)に伏見へ着きました。

奈良原、道島、江夏、森岡の4人が宿に入り、有馬、田中謙助、柴山、橋口壮介の4人を階下へ呼びます。久光の命を伝えましたが、4人は従いません。

命に従わないなら腹を切れ、と迫ったところで4人が刀に手をかけ、道島が「公命なり」と叫んで斬りつけたのが、斬り合いの始まりと記されます。二階から弟子丸龍助、橋口伝蔵、西田直五郎、森山新五左衛門も飛び降りて加わりました。

『島津久光公実記』は島津公爵家が1910年に編んだ本です。有馬たちを「放言無禮」と書くところに、編んだ側の立場が出ています。

参考:島津久光公実記 巻1|国立国会図書館デジタルコレクション

筆者
筆者

島津家が編んだ本に、鎮撫使への命令は『命を拒まば臨機に事に従え』とあります。事典は『上意討ち』を命じたと書きます。どちらが近いですか。

島津久光AI
島津久光AI

刀を持たせて送ったのは、わしじゃ。

言葉を飾って軽くなる話でもなか。

この斬り合いを小説で読むなら、歴史作家の海音寺潮五郎による『寺田屋騒動』があります。作品紹介によると、久光の使者と尊攘派の志士がぶつかり、かつての友が斬り合うまでを描く作品です。

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海音寺潮五郎『寺田屋騒動』(文春文庫)

作品紹介によると、藩への忠義と志のどちらを取るのかに揺れる、薩摩の志士たちの姿を描く歴史小説です。

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有馬新七の最期の言葉として知られる「おいごと刺せ」は、今回読んだ届書と『島津久光公実記』には出てきません。有馬が道島を壁に押さえ、自分ごと刺させたという話です。

今回たどれたのは1930年代の本で、徳富蘇峰の『東西史論』(1933年)は「俺ごと刺せ」、『近世日本国民史』は「オイごと刺せ」、『伊集院町志』(1939年)は「おれと一緒に刺せ」でした。原典はまだ特定できていません。

参考:近世日本国民史 第46|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:東西史論|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:有馬新七と寺田屋騒動|WEB歴史街道

斬り合いのあと、二階にはまだ多くの志士が残っていました。世界大百科事典は計画の参加者に大山巌、西郷従道、三島通庸の名を挙げています。のちの明治政府の顔ぶれです。

奈良原は一人で二階へ上がり、肌脱ぎになって首を差し出し、疑うならまず自分を斬れと説いたと伝わります。1931年の講演録は刀を捨てて上がったと語り、二階の者は鎮まりました。

1862年の事件で死んだのは誰?九烈士と鎮撫使を整理

薩摩藩が事件の翌日に出した届書には、尊攘派の8人と鎮撫使の道島五郎兵衛の、計9人が「即死」と書かれています。ただし尊攘派のうち数人は、斬られてすぐ死んだのではないとする記録があります。

名前届書(4月24日)ほかの記録
有馬新七即死享年38(数え)
柴山愛次郎即死碑の九烈士
橋口伝蔵即死碑の九烈士
弟子丸龍助即死碑の九烈士
西田直五郎即死碑の九烈士
田中謙助即死編者の注:重傷ののち伏見の藩邸で自尽
橋口壮介即死1931年の講演録:蘇生したが翌日に自刃
森山新五左衛門即死1931年の講演録:蘇生したが翌日に自刃
山本四郎名前なし1931年の講演録:のちに自刃。碑の九烈士
道島五郎兵衛即死鎮撫使の側。九烈士には入らない

参考:島津久光公実記 巻1(届書)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:文久二年四大事件記念講演集|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:寺田屋関係資料9種と若干のコメント(九烈士の碑文)|京都市歴史資料館

死に至る経緯の書き方は、資料で異なります。マイペディアは6人を斬殺し、重傷の2人を自刃させたと書き、届書は翌日の時点で8人を「即死」に数えます。

重傷だった人の名前も一致しません。『島津久光公実記』の注は田中謙助を、1931年の講演録は橋口壮介と森山新五左衛門を挙げます。

国土交通省の解説文の「9人」が、九烈士の数なのか、道島を足した数なのかは、解説文からは分かりません。世界大百科事典の「有馬新七」の項だけは7人とします。死者の名前は、1人ずつ確かめられます。

寺田屋の東隣には、明治27年(1894年)に建てられた「薩藩九烈士遺蹟表」が立ちます。碑文は上の表の9人の名を挙げ、全員の死を文久2年4月23日としています。

道島五郎兵衛の名は、この碑にありません。同じ夜、同じ宿で死んだ薩摩藩士でも、命令に背いた側が顕彰され、命令を実行した側は碑に残りませんでした。

有馬新七の墓は、伏見区鷹匠町の大黒寺にあります。

筆者
筆者

久光さんの没後7年の明治27年に、命に背いた9人が『烈士』として碑に刻まれました。道島さんの名はありません。

島津久光AI
島津久光AI

わしの知らん世のこっじゃ。

碑の文字より、斬り合うたのが同じ藩の者どうしじゃったことのほうが重か。

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事件のあとどうなった?田中河内介の死と久光の江戸行き

事件のあと、久光は朝廷の評価を得て江戸へ向かい、計画に加わった人々は国元へ送られました。なかでも田中河内介は、護送の途中で命を落としています。

関係者のその後
  • 薩摩藩の志士たち|帰国と謹慎を命じられる。翌文久3年、薩英戦争の前に解かれる
  • 田中河内介|文久2年5月、鹿児島へ護送の途中に播磨灘で子の瑳磨介とともに死亡。殺害とする事典のほか、自刃とするものもある
  • 秋月藩の海賀宮門|薩摩へ送られる途中、日向の細島で斬られる
  • 真木和泉|久留米藩に引き渡されて幽閉。翌年に許され、元治元年(1864年)の禁門の変のあと天王山で自刃
  • 九条尚忠|関白を辞任する

参考:田中河内介|コトバンク
参考:真木和泉|コトバンク
参考:文久二年四大事件記念講演集|国立国会図書館デジタルコレクション

田中河内介の最期は、事典の書き方に違いがあります。世界大百科事典、日本大百科全書、日本人名大辞典は「殺害」と書き、ブリタニカ国際大百科事典は「船中で自刃」と書きます。

朝廷は事件の2日後の4月25日、勅書を出しました。志士の赤心を認めつつ、勅命を待たずに騒いだのは「違勅」にあたるとして、久光に抑えるよう命じる内容です。

参考:島津久光公実記 巻1(4月25日の勅書)|国立国会図書館デジタルコレクション

こうして久光は、勅使大原重徳を奉じて江戸へ下り、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に就けます。旺文社日本史事典は、この事件ののち尊王攘夷運動の主流が長州藩に移ったと説明します。

その江戸からの帰り道で起きたのが、文久2年8月の生麦事件でした。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、斎藤工さんが島津久光を演じます。番組が公表した役紹介に寺田屋の名はありませんが、兵を率いての上洛と江戸入りは書かれていて、その先にさまざまな「想定外」が待つとされています。

参考:2027年大河「逆賊の幕臣」新キャスト発表!|ステラnet

筆者
筆者

その役紹介は、久光さんの歩みを『想定外』の連続のように書いています。

島津久光AI
島津久光AI

役者が、わしをやるのか。

想定の内で済んだことのほうを、数えたほうが早か。

1866年の寺田屋事件はどう起きた?龍馬の手紙で追う夜

慶応2年1月23日の深夜、捕り方が寺田屋の二階へ踏み込み、龍馬はピストル、三吉慎蔵は槍で応戦して裏から逃れました。この夜については、その場にいた3人の記録が読めます。

記録書いた人いた場所分かること
家族あての手紙(日付と宛名を欠く写し)坂本龍馬二階捕り方の人数、発砲の回数、傷の場所、逃げ道
三吉慎蔵日記抄三吉慎蔵二階直前の伏見の様子、「肥後守」の上意、薩摩藩邸での経過
龍あての手紙お登勢店の表表から見た捕り方、尋問の様子

参考:坂本竜馬関係文書 第一(手紙)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:坂本竜馬関係文書 第二(三吉慎蔵日記抄)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:坂本竜馬関係文書 第一(おとせ書翰)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:坂本龍馬関係資料 伏見寺田屋ノ変ヲ龍馬ヨリ郷里ヘ通知ノ写|京都国立博物館

龍馬のこの手紙は原本を確認できず、写しの活字で読めます。『坂本龍馬関係文書』の編者は慶応2年10月ごろの兄権平あてと推定し、底本の写しは釧路の大火で焼けたと注します。京都国立博物館は同年12月4日付の家族あての写しとしています。

時刻は3人とも八ツ時ごろで、いまの午前2時から3時ごろです。手紙には次のようにあります。

上ニ申伏見の難ハ去る正月廿三日夜八ツ時半頃なりしが一人のつれ三吉慎蔵と咄して風呂よりあかりもふねよふと致候所に

出典:坂本竜馬関係文書 第一

国土交通省の解説文は「夕方」と書いていますが、3人の記録とは合いません。京都国立博物館の表記は「慶応二年正月二十三日深夜(二十四日未明)」で、こちらは記録と一致します。

寝ようとしたところへ、階下を忍び歩く足音と六尺棒の音が聞こえました。お龍が走ってきて敵の襲来を知らせ、龍馬は袴をはかず大小を差し、六発込めのピストルを手に取ります。

龍馬が「如何なれバ薩州の士ニ無禮わするぞ(なぜ薩摩の士に無礼をするのか)」と叫ぶと、相手は口々に「上意なりすハれすハれ」と進んできました。龍馬が見た次の間の人数は「二十人計」です。

表にいたお登勢には「大よそ百人計」に見えました。二階の次の間と店の表では、目に入る人数が違います。

傷は右の親指の付け根と、左の親指の節、左の人差し指の付け根の骨の節です。障子の陰から脇差で斬りかかられました。

筆者
筆者

手紙を読むと、ピストルの弾の数まで書いています。六発込めのところ、あの夜は五発だったと。

龍馬AI
龍馬AI

五つじゃった。六つ込めちょったらと、いま問われても思うのう。

斬られた指では、弾も込められん。

敵より先に自分の指に負けた、そういう夜ぜよ。

最後の一発で、黒頭巾の男が倒れました。弾を込め直すために外した部品は、傷ついた指では扱いきれず、取り落としてしまいます。龍馬は「筒ハすてたぞ」と三吉に告げ、敵中へ突き入ると言う三吉を止めて、裏のはしご段から逃げました。

隣の家の雨戸を破り、寝ていた家の人に気の毒がりながら建具を外し、町へ出ます。五町ほど走ったところで息が切れました。

ここで手紙に、小さな字の書き込みが入ります。男子ハすねより下に長ききものはすべからず(男は脛より下に長い着物を着てはならない)、というのです。着物が足にもつれたからでした。

此時ハ風呂よりあがりしまゝなればゆかたを下にきて其上ニわたいりをきてはかまなしたり

出典:坂本竜馬関係文書 第一

二人は町の水門から入り、材木の棚の上に隠れました。犬に吠えられて困った、という一言まであります。

傷は「少々」でも動脈に当たったようで、翌日も血が止まらず、3日ほどは小便に立つと目が回りました。

この夜の場面は、漫画でも繰り返し描かれてきました。作品紹介によると、『お〜い!竜馬』は18巻で薩長同盟に立ち会った竜馬が寺田屋で襲われる流れです。手紙と読み比べると、どこを描き足したのかが見えてきます。

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なぜ龍馬は襲われた?新選組は関わっていたのか

襲ったのは新選組ではなく伏見奉行所の捕り方で、三吉の日記を読むかぎり、問題にされたのは薩摩藩士という名のりの真偽でした。捕り方は「肥後守ヨリノ上意」と叫び、事件のあと留守居へ問い合わせてきたのも「奉行所」です。

襲撃までの伏見(三吉慎蔵日記抄から)
  • 1月20日|坂本らが京へ入り、三吉は薩摩藩士ということにして寺田屋に潜む
  • 1月21日|「幕府新撰組廻番晝夜嚴重人別ヲ改ム」。三吉は二階の夜具入れや物置に隠れる
  • 同じ日|京で薩長の話がまとまる(龍馬はのちに三吉へ語る)
  • 1月22日|一橋公の宇治進発の用意で、伏見の町の戸別調べが厳しくなる
  • 1月23日|龍馬が京から寺田屋へ着き、夜半まで話し込む

参考:坂本竜馬関係文書 第二(三吉慎蔵日記抄)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:坂本竜馬関係文書 第二(三吉慎蔵日記抄)|国立国会図書館デジタルコレクション

新選組は、襲撃の2日前に伏見で人を調べていたと三吉の日記にあります。これが「寺田屋事件に新選組が関わった」という印象の一因かもしれませんが、襲撃そのものの主体として書かれているのは奉行所です。

Wikipediaの「寺田屋遭難」は、この肥後守を伏見奉行の林忠交とし、同じ肥後守の松平容保と取り違えて新選組に結びつけた説があったと説明します。

参考:林忠交|コトバンク
参考:寺田屋遭難|Wikipedia

薩長同盟は1月21日に結ばれ、襲撃はその2日後でした(高知県立坂本龍馬記念館)。ただ、同盟を知って襲ったと示す記述は、今回読んだ3人の記録にありませんでした。

三吉の日記で踏み込んできた男が言うのは、薩摩藩士という名のりは「僞名」だ、武器を持っているのはどういうことか、という点です。相手は、薩摩藩士を名のる不審者として二人を疑っていた、と読めます。

国土交通省の解説文は、龍馬がくつろいでいると聞きつけた、とします。

奉行所が相手を龍馬と知っていたのかは、3人の記録だけでは決められません。

筆者
筆者

幕府は、龍馬さんが薩長の間を取り持ったと知っていて踏み込んだのでしょうか。

龍馬AI
龍馬AI

それはわしにも分からんちや。

向こうに聞いたわけやないきにのう。

ただ、あの二階で『薩州の士』と叫んだら『偽名』と返された。いま思い返しても、ちっくと腹の冷える話ぜよ。

幕府側の記録も見つかっています。月桂冠の解説によると、2009年に伏見奉行所側の報告書の写しが見つかり、高知県が入手したと報じられました。今回はこの報告書そのものは読めていません。

参考:旅籠・寺田屋龍馬襲撃|月桂冠
参考:龍馬について|高知県立坂本龍馬記念館

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龍馬を助けたのは誰?お龍の入浴の話と薩摩藩の救出

最初に知らせたのはお龍で、材木の棚から龍馬を連れ戻したのは薩摩藩の留守居大山彦八らです。三吉慎蔵は一緒に戦い、藩邸まで走って救出のきっかけを作りました。

救った人と根拠
  • お龍|敵の襲来を二階へ知らせ、その夜のうちに藩邸へ急を告げる(龍馬の手紙、三吉の日記)
  • 三吉慎蔵|長府藩士。槍で防ぎ、夜明けに一人で薩摩藩邸へ走る(三吉の日記)
  • 大山彦八|伏見の薩摩藩邸の留守居。自ら船を出して龍馬を迎える(三吉の日記)
  • 西郷隆盛|兵の一小隊と医師を京から差し向ける(三吉の日記)
  • お登勢|翌日の取り調べを「薩のお屋しきにてお尋ね」と切り抜ける(お登勢の手紙)

参考:坂本竜馬関係文書 第一(三吉慎蔵日記抄・おとせ書翰)|国立国会図書館デジタルコレクション

有名な「お龍が風呂から裸で階段を駆け上がった」場面は、3人の記録のどこにもありません。

お龍が走って知らせたことは、2つの記録で確かめられます。手紙では「勝手より走せ來り」、日記では「二階下ヨリ走リ上リ」です。どちらにも入浴の話はありません。

入浴が出てくるのは、お龍の晩年の聞き書き『千里駒後日譚』(1899年)です。風呂の外から槍を突き出され、庭へ飛び下りて「濡れ肌に袷を一枚引つかけ」、裏の梯子から二階へ知らせたと語っています。

つまり聞き書きのお龍も、裸のままではありません。国土交通省の解説文の「裸のまま」は、この聞き書きとも違っています。

参考:千里駒後日譚|青空文庫

手紙で風呂あがりと書かれているのは龍馬のほうでした。

お登勢の手紙にも風呂は出てきます。「ある宿の後家」が八ツ時に風呂からあがり、火鉢のそばにいたところへ呼び出された、という書き方で、これはお登勢自身のことでしょう。

お龍が入浴していなかったとまでは、この3点からは言えません。30年以上あとの聞き書きと、1年足らずの手紙とは、分けて読みたいところです。

龍馬は同じ年の12月4日、姉の乙女にこう書きました。

今年正月廿三日夜のなんにあいし時も此龍女かおれハこそ龍馬の命ハたすかりたり

出典:坂本龍馬関係書状 慶応二年十二月四日 坂本乙女あて(坂本竜馬関係文書 第一)

参考:坂本龍馬関係書状 慶応二年十二月四日 坂本乙女あて|文化遺産オンライン

三吉の日記によると、奉行所は薩摩藩邸に二人の引き渡しを求めました。留守居は「邸内にはいない」と言い切り、邸内は兵が守りました。2月1日、薩摩藩士の吉井幸輔が兵を連れて迎えに来て、二人とお龍は京の薩摩藩邸へ移ります。

長州藩の木戸孝允(桂小五郎)は2月22日付の手紙で、襲われたと聞いて驚いたが逃れたと知って安堵した、世の中が良くなるまで用心してほしいと書き送りました。龍馬の用心の足りなさを案じる見舞いです。

参考:坂本龍馬関係書状 慶応二年二月二十二日 木戸孝允より龍馬あて|文化遺産オンライン

その翌月、龍馬とお龍は薩摩藩の船で鹿児島へ向かい、霧島の山に登ります。手紙に絵入りで書かれた、よく知られた旅です。ピストルを手に鳥を撃って遊んだことも、同じ手紙にあります。

筆者
筆者

風呂の話は、お龍さんのほうが有名になりました。

龍馬AI
龍馬AI

わしの風呂あがりなんぞ、絵にならんきにのう。

手紙に残したのは、龍女がおったから助かった、その一行じゃ。

細かいところは、おまんらの好きに語ったらええ。

坂本龍馬の生涯は、こちらの記事でまとめています。

いまの寺田屋は当時の建物?京都市の調査と旅館の説明

当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼けた、というのが京都市歴史資料館の結論です。いまの建物はそのあとの再建で、当時の宿はいまの建物の東隣にあたる場所にありました。

資料年書かれていること
かわら版3点慶応4年(1868年)焼失範囲が朱で塗られ、寺田屋の位置を含む
薩藩九烈士遺蹟表の碑文1894年建立の場所を「寺田屋遺址」とする
西村天囚『紀行八種』1899年刊(1896年の訪問)「伏見の兵火に焚けしかば」跡を取り払い、「寺田屋は其西に建てけり」
恩賜紀念之碑の碑文1904年九烈士の碑を「其舊宅の跡」に建てたとする
寺田伊助の申立書1906年「戊辰ノ兵燹ニ罹リ家屋諸共焼失シ」
『伏見町誌』1929年「現在の建物の東隣を遺址とす」

参考:寺田屋関係資料9種と若干のコメント|京都市歴史資料館

これは、2008年に『週刊ポスト』が建物の再建を指摘したのを受けて、京都市の観光部局が歴史資料館に調査を頼んだ結果です。資料館は来歴の異なる9種の資料が一致するとして結論を出し、9月25日に報道機関へ配布しました。

報告書には、自分たちの証拠の弱さまで書かれています。たとえばお登勢の手紙の「かり屋」は、焼失を前提に年代を推定したものなので「証拠能力はちょっと弱い」としています。

発表の当時、京都市は旅館に「維新時のまま」とする案内の修正を求めました。旅館側は「一部が焼失し、修繕したのは事実だが、弾痕や柱の刀傷は当時のもの」と答えたと報じられています。

参考:「寺田屋」やっぱり建て替えられていた 京都市が発表|J-CAST ニュース

いまの京都観光Naviは「現在の建物はその後再建されたものである」と書いています。国土交通省の解説文も、部屋や階段は再建後の複製だと説明します。

2つの事件の現場は、いま碑が立っている東隣の場所だと考えられます。所在地は京都市伏見区南浜町263、京阪電車の中書島駅から徒歩約5分です。

参考:寺田屋|京都観光Navi
参考:寺田屋 寺田屋事件|国土交通省 多言語解説文データベース

筆者
筆者

龍馬さんの没後ですが、慶応4年の戦で寺田屋は焼けました。いま建っているのは、そのあとの建物です。

龍馬AI
龍馬AI

あの宿が焼けたがか。お登勢さんは無事じゃったろうか。

建物より先に、そっちが気にかかるぜよ。

お登勢は焼失のあとも生き、明治10年(1877年)に亡くなりました。墓は伏見の松林院にあると紹介されています。

鳥羽伏見の戦いそのものは、こちらの記事で確かめています。

池田屋事件との違いは?襲った側と襲われた側で比べる

池田屋事件は、新選組が尊攘派を襲った事件です。1862年の寺田屋事件は薩摩藩の内部の衝突で、1866年の寺田屋事件は奉行所が龍馬らを捕らえようとした事件なので、襲った側がそれぞれ違います。

項目寺田屋(1862年)池田屋(1864年)寺田屋(1866年)
日付文久2年4月23日元治元年6月5日慶応2年1月23日
場所伏見の船宿京都三条の旅館伏見の船宿
襲った側薩摩藩の鎮撫使新選組伏見奉行所の捕り方
襲われた側薩摩藩の尊攘派長州・土佐・熊本などの尊攘派坂本龍馬と三吉慎蔵
関係同じ藩の内部幕府側と尊攘派幕府側と龍馬ら

参考:池田屋事件|コトバンク

名前が似ているうえに、どれも幕末の旅館で尊攘派が襲われた話なので、混同されやすいのでしょう。見分けるときは「誰が襲ったか」を見るのが早道です。

尊王攘夷の運動の全体は、こちらの記事で扱っています。

2つの寺田屋事件を年表で確認(和暦・西暦)

2つの事件を、前後の出来事と一緒に並べます。月日まで分かるものは、和暦の日付を西暦に換算して併記しました。

和暦西暦出来事
文久2年1月15日1862年2月13日坂下門外の変
文久2年3月1862年久光が藩兵約1000を率いて上京の途につく
文久2年4月16日1862年5月14日久光が京へ入る
文久2年4月23日1862年5月21日1862年の寺田屋事件
文久2年4月25日1862年5月23日朝廷が久光に勅書を出す
文久2年5月1862年田中河内介が播磨灘で死亡
文久2年8月21日1862年9月14日生麦事件
元治元年6月5日1864年7月8日池田屋事件
慶応2年1月21日1866年3月7日薩長同盟
慶応2年1月23日1866年3月9日1866年の寺田屋事件
慶応2年12月4日1867年1月9日龍馬が姉乙女あての手紙に、お龍の働きを記す
慶応3年11月15日1867年12月10日龍馬が京都で暗殺される
慶応4年1月3日1868年1月27日鳥羽伏見の戦い。寺田屋が焼ける
明治10年1877年お登勢が死去
明治27年1894年薩藩九烈士遺蹟表が建つ

1866年の事件は、資料の多くが慶応2年1月23日(3月9日)の出来事として書きます。ただし八ツ時は、いまの時刻でいえば翌24日の午前2時から3時ごろです。

西暦でいえば1866年3月10日の未明で、京都国立博物館の「二十四日未明」もこの点を補った表記でしょう。

最初の事件から2回目まで約3年9か月、2回目から宿の焼失まで2年足らずです。2つの事件の舞台は、6年に満たないうちに失われました。

よくある質問(FAQ)

寺田屋事件とは何ですか?簡単に教えてください

京都伏見の船宿寺田屋で起きた2つの事件です。1862年は島津久光が薩摩藩の尊攘派を鎮圧した事件、1866年は坂本龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲われた事件です。事典の見出しの「寺田屋事件」は1862年を指します。

寺田屋事件は何年ですか?

文久2年4月23日(1862年5月21日)と、慶応2年1月23日(1866年3月9日)の深夜の2回です。

寺田屋事件で殺されたのは誰ですか?

1862年の事件では、有馬新七ら尊攘派の8人と鎮撫使の道島五郎兵衛が、薩摩藩の届書で「即死」とされています。1866年の事件では、龍馬は両手に傷を負いましたが、脱出して生き延びました。

1862年の寺田屋事件の目的は何ですか?

有馬新七らの目的は、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義の殺害でした。久光が鎮撫使を送った目的は、その計画を止めることです。

寺田屋事件で坂本龍馬を助けたのは誰ですか?

襲来を知らせたのはお龍で、一緒に戦ったのは長府藩士の三吉慎蔵です。材木の棚に隠れた龍馬を迎えたのは、薩摩藩の留守居大山彦八らでした。

龍馬のピストルは姉からもらったものですか?

姉からではありません。龍馬は慶応2年2月6日付の木戸孝允あての手紙で「かの高杉より送られ候ピストール」と書いていて、贈り主は高杉晋作です。

寺田屋事件に新選組は関わっていますか?

襲撃の主体は伏見奉行所の捕り方です。ただ、三吉慎蔵の日記には、襲撃の2日前に新選組が伏見で人別を改めていたとあります。

寺田屋事件の場所はどこですか?

現在の京都市伏見区南浜町です。当時の建物は鳥羽伏見の戦いで焼け、いまの寺田屋はそのあとの再建で、当時の宿はその東隣にあたります。

インタビュー後記 碑に残らなかった一人

寺田屋といえば、語られるのは龍馬の脱出です。

けれども薩摩藩の届書を読んでいて、道島五郎兵衛の名前で手が止まりました。鎮撫使の一人で、「公命なり」と斬りつけ、その夜に死んでいます。

彼が命令に従って死んだその場所に、のちの明治の世になって、命令に背いた9人の碑が建ちました。それ自体を悪いとは思いません。歴史の評価は、時代とともに動くものです。

ただ、同じ藩の者が斬り合った事件を「烈士」の側だけで語ると、半分しか見ていないことになるのではないでしょうか。

久光が鎮撫使へ本当は何を命じたのか。島津家の本は「臨機」、事典は「上意討ち」です。次に読むなら、当時の記録に近い大久保利通の日記から当たりたいと考えています。

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参考資料

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