ジョン万次郎について調べていて、本棚の並びに気づいたことがあります。万次郎の伝記を書いた人のなかに、万次郎の子孫が何人もいるのです。
1936年に長男が書き、1970年に孫が書き、1990年代からは曾孫が書き、2014年には玄孫(やしゃご)が本を出しています。
家の歴史を、家の人が書き継いできたことになります。それなら、その書き手たちは万次郎とどうつながっているのか。家系図を作って確かめたくなりました。
この記事の結論
ジョン万次郎の子孫は、いまも続いています。 公表されている範囲では、「直系5代目」の中濱京さんが、講演や著書、日米交流の場で万次郎の足跡を伝えています。
今回たどれた系統は3つです。長男の東一郎、三男の慶三郎、そして3人目の妻・志げの子である秀俊。それぞれの系統に、名前と続柄が公表されている子孫がいます。
ただし、すべての子孫を中浜の姓でたどれるわけではありません。 養子に出て別の姓で育った系統もあり、何代目と数える基準にも注意がいります。
- 直系5代目
中濱京さん(玄孫=やしゃご) - 4世代
子から玄孫まで、子孫が伝記を書いた世代 - 1918年
長男が船長の町へ太刀を贈った年
この記事では、事典、自治体と資料館の紹介、版元の著者紹介、子孫ご本人の講演録で、続柄を1人ずつ確かめます。資料が食い違うところは、両方の書き方を示します。
そして今回は、万次郎AI(ジョン万次郎をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。万次郎は1898年に亡くなっているので、それより後の出来事は「おまんらの世の記録では」と伝え聞く形で語ってもらいます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとにジョン万次郎の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
万次郎の没後の出来事については、後の世に伝わったものとして伝えたうえで語ってもらう形にしています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

万次郎さん、はじめまして。今日はあなたの家族と、そのあとに続いた子孫の話を伺います。
まずは、ご自分の家のことから聞かせてください。

おう、よう来たのう。わしは土佐の中ノ浜の漁師の子じゃき、家というても立派なもんやなかった。
中浜いう名字も、生まれたときから持っちょったわけやないがよ。
わしが死んだあとの家のことは、おまんらの世の記録に教えてもらうしかないのう。
ジョン万次郎の子孫は現在も続いている|家系図で確かめる
結論から書きます。ジョン万次郎の子孫は、いまも続いています。 直系5代目の中濱京さんのほか、曾孫にあたる方も講演や執筆で名前を公表しています。
先に全体を図で示します。本人と妻から、5代目の玄孫までを1枚にまとめました。

※この図は、本記事が確認できた資料の範囲で作成したものです。各人物の説明は、下の図と表で資料名とあわせて示します。
ジョン万次郎(中浜万次郎)の家系図
事典、自治体と資料館の紹介、万次郎資料調査団の紹介、版元の著者紹介、子孫ご本人の寄稿と講演録で、続柄を1人ずつ確かめたものです。公表されている方だけを載せています。
※生没年月日は太陽暦に換算したものです。生まれは和暦で文政10年1月1日にあたります。
※水色の枠は、長男・東一郎→清→博→京さんと、5代目まで親子のつながりをたどれる線です。
※子孫の講演録は志げを「3人目の妻」と紹介しています。2人目の妻と、鉄との間の娘2人の名前は、今回事典や公的な資料で確認できなかったため、図に入れていません。
図に載せた人を、確認した資料とあわせて一覧にします。存命の方は、講演や著書、報道で公表されている範囲にとどめています。
| 万次郎から見た続柄 | 名前 | 確認できたこと | 確認した資料 |
|---|---|---|---|
| 妻 | 鉄 | 剣術師範・団野源之進の次女。1854年に結婚、1862年7月に病死 | 墨田区立図書館/土佐清水市/ジョン万次郎資料館 |
| 妻 | 志げ | 旧姓は沼口。「3人目の妻」と紹介される | 子孫の講演録 |
| 長男 | 中浜東一郎 | 医師。1857〜1937年 | コトバンク |
| 三男 | 中浜慶三郎 | 中濱武彦さんの祖父 | 版元の著者紹介 |
| 子 | 秀俊 | 志げの子 | 子孫の講演録 |
| 孫 | 中濱清 | 東一郎の次男(長男は若くして死去) | 万次郎資料調査団 |
| 孫 | 中浜明 | 東一郎の三男。清の弟。1900〜1983年 | 版元の著者紹介/万次郎資料調査団 |
| 曾孫 | 中濱武彦さん | 慶三郎の長男・正男の次男 | 版元の著者紹介 |
| 曾孫 | 野武重忠さん | 秀俊の長男・忠好の子 | 子孫の講演録 |
| 曾孫 | 中濱博 | 清の長男。「万次郎直系四代目」。医師。1928〜2008年 | 万次郎資料調査団/版元の著者紹介 |
| 玄孫 | 中濱京さん | 博の子。「直系5代目」 | 京さん本人の寄稿/土佐清水市/中日新聞 |
5代目まで一本の線でたどれるのは、長男・東一郎の系統です。東一郎→清→博→京さんの系統は、万次郎資料調査団の紹介と京さん本人の寄稿から確認できます。
万次郎資料調査団は、清を東一郎の次男、博を清の長男と紹介しています。京さんは自身の寄稿で「四代目の父・博」と書いています。

あなたの直系5代目にあたる方が、いまも講演であなたのことを伝えています。

5代目、か。わしから数えて5つ目の代ということじゃな。
そこまで先の話を、わしが生きちょるうちに考えたことがあったかどうか。そこは記録に残っちょらんき、分からんのう。
名前が続いちょるなら、それだけでありがたい話ちや。
「直系5代目」は玄孫のこと|何代目と続柄の対応
子孫の紹介には「4代目」「5代目」という数え方がよく出てきます。これは、万次郎本人を1代目として数えたものです。
- 1代目:万次郎本人
- 2代目:子(東一郎・慶三郎・秀俊など)
- 3代目:孫(中濱清・中浜明など)
- 4代目:曾孫(中濱博・中濱武彦さん・野武重忠さん)
- 5代目:玄孫(中濱京さん)
この対応は、資料の書き方からも確かめられます。中濱武彦さんの著書の版元は、武彦さんを「直系曾孫(四代目)」と紹介しています。
中日新聞は2022年の記事で中濱京さんを「直系五代目」、2024年の記事で「やしゃご」と書いています。やしゃごは玄孫のことなので、5代目=玄孫で一致します。
一つ気をつけたいのは、万次郎を救った船長の一族にも「6代目」「7代目」という呼び方があることです。
そちらが船長本人を何代目に数えているのかは、今回確認できませんでした。両家の「何代目」を並べて、世代が同じだと読むことはできません。
妻は何人?最初の妻・鉄と、3人目の妻・志げ
名前と経歴まで資料で確かめられた妻は、2人です。
| 妻 | 分かっていること | 資料 |
|---|---|---|
| 鉄 | 本所亀沢町で剣術道場を開いていた団野源之進の次女。1854年(安政元年)に結婚し、1862年(文久2年)7月に病死 | 墨田区立図書館/土佐清水市/ジョン万次郎資料館 |
| 志げ | 旧姓は沼口。福島の武家の、二人姉妹の姉として生まれた。男子2人をもうける | 子孫・野武重忠さんの講演録(2018年) |
最初の妻・鉄との縁談をまとめたのは、幕臣の江川英龍だったと、ジョン万次郎資料館は紹介しています。
同じ資料館は、鉄が1男2女をもうけ、麻疹(はしか)で若くして亡くなったと書いています。
東一郎の実母については、東一郎を研究した塚本宏氏の寄稿が、鉄と記しています。一方、鉄との間に生まれた娘2人の名前は、今回確認できませんでした。
もう一人の妻については、子孫の講演録が手がかりになります。講師の野武重忠さんは、自分を「ジョン万次郎の3人目の妻、『志げ』の曾孫」と紹介しています。
3人目というからには、鉄と志げのあいだにもう1人の妻がいたことになります。Wikipediaなどでは「琴」という名が挙がっていますが、今回はほかの資料で確かめられなかったため、図には入れていません。
志げの旧姓も、資料で分かれます。講演録は「沼口」、Wikipediaは「田沼」です。この記事では、子孫ご本人が講演で語っている「沼口」で書いています。

最初の奥さんの鉄さんは、1862年に亡くなっています。

記録には、文久2年の7月に病で没したと残っちょるそうな。
縁談をまとめてくれたがは江川さまじゃったと、資料館は伝えちょる。
その折のわしの胸の内は、記録に残っちょらん。ここで言葉を足すのはやめちょこう。
長男・中浜東一郎は医師|父の伝記『中浜万次郎伝』を残す
子孫の話の中心にいるのは、長男の中浜東一郎です。医師として働き、晩年に父の伝記を書きました。事典と資料でたどれる歩みを並べます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1857年(安政4年) | 7月7日(太陽暦では8月26日)、江戸に生まれる |
| 1881年(明治14年) | 福島県医学校の教授となる(東京大学医学部卒)。のち岡山・金沢の医学校で教授兼病院長 |
| 1885年(明治18年) | 内務省御用掛として欧州に遊学 |
| 1889年(明治22年) | 帰国し、内務省技師となる |
| 1890年(明治23年) | 東京衛生試験所長を兼ねる |
| 1891年(明治24年) | 医学博士 |
| 1898年(明治31年) | 11月12日、父・万次郎が東京・京橋弓町の東一郎の家で亡くなる |
| 1918年(大正7年) | 東一郎の贈る太刀が、アメリカのフェアヘーブンで町に贈呈される |
| 1936年(昭和11年) | 『中浜万次郎伝』を冨山房から刊行 |
| 1937年(昭和12年) | 4月11日に亡くなる。満79歳(事典は数え年で81歳と記す) |
経歴は、コトバンクに収録された『20世紀日本人名事典』と『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』の記述によります。退官後は麹町に回生病院を開きました。
留学先について、事典の書き方は「欧州に遊学」までです。 ドイツの大学名まで挙げているのはWikipediaで、今回ほかの資料では確かめられませんでした。
万次郎が亡くなったのは、この長男の家でした。 土佐清水市は、明治31年11月12日に東京・京橋弓町の東一郎の家で亡くなったと記しています。満71歳でした。
『中浜万次郎伝』は、父の没後38年目に出た本です。国立国会図書館の書誌で、1936年に冨山房から刊行されたことを確認できます。
資料館は、1933年に東一郎のもとへアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から手紙が届いたとも紹介しています。大統領の祖父が、万次郎を救った捕鯨船の共同船主だったといいます。

長男の東一郎さんは医師になり、あなたの伝記も書きました。

東一郎が医者の道に進んだがは、わしが生きちょるうちの話じゃき。
伝記が出たがは、わしが死んで40年近くたってからじゃと、おまんらの世の記録にある。そりゃわしの知らん話じゃ。
親のことを子が書き残す。ありがたいことじゃが、照れくさいのう。
子孫は3つの系統でたどれる|東一郎・慶三郎・秀俊
万次郎の子孫のうち、親子のつながりを資料で一代ずつ追えたのは、次の3つの系統でした。
- 長男・東一郎の系統:孫の清・明、曾孫の中濱博、玄孫の中濱京さん
- 三男・慶三郎の系統:孫の正男、曾孫の中濱武彦さん
- 志げの子・秀俊の系統:孫の忠好、曾孫の野武重忠さん
どれも、子孫ご本人の寄稿や講演録、著書の紹介などで、続柄が明かされています。1つずつ見ていきましょう。
長男・東一郎の系統|清・博・京さんへ続く直系
長男・東一郎の系統は、5代目まで親子のつながりをたどれます。万次郎資料調査団によると、東一郎の長男は若くして亡くなっており、清はその次男にあたります。
清は、フェアヘーブンに近いブラウン大学に留学して実業家になりました。父の残した資料を守り、『中濱東一郎日記』を編集しています。
その清の長男が、医師で伝記も書いた中濱博です。そして京さんは、自身の寄稿で「四代目の父・博」と書いています。東一郎→清→博→京さんと、一本の線でつながります。

長男の東一郎さんの家から、5代目の京さんまで、一本の線でつながっていました。

わしは死ぬまでの17年ほど、東一郎の家族と暮らしちょったと、調査団の人らは書いちょるそうな。
孫らをわしがどう見ちょったかは、記録に残っちょらん。そこは言わんとこう。
その家から5代目まで続いたと聞けば、ありがたいことじゃのう。
清の弟にあたるのが中浜明です。版元の冨山房インターナショナルは「万次郎の長男東一郎の三男」と紹介しています。
明は1900年(明治33年)1月8日に東京で生まれました。京都帝国大学の哲学科、ついで東京帝国大学の心理学科に籍を置いています。
そして1928年(昭和3年)、北海道へ移り、紋別で農業を営みました。 1983年(昭和58年)10月23日、紋別市で亡くなっています。満83歳でした。
著書『中浜万次郎の生涯』は1970年に冨山房から出ました。2024年には新版が出ています。祖父の生涯を、孫が北の地から書いたことになります。
なお、Wikipediaの「中濱東一郎」の項は、明を「二男」としています。この記事では、版元の紹介どおり「三男」と書きます。調査団の紹介(長男が早世し、次男が清、明はその弟)とも合います。
三男・慶三郎の系統|曾孫の中濱武彦さんが伝記を書き継ぐ
慶三郎の系統は、曾孫の中濱武彦さんの紹介でたどれます。版元の紹介は、次のように書いています。
中濱万次郎(ジョン万次郎)直系曾孫(四代目)[万次郎の三男・慶三郎の長男・正男の次男]
出典:版元ドットコム『ジョン万次郎の羅針盤』(冨山房インターナショナル、2020年)著者プロフィール
武彦さんは1940年、兵庫県西宮市の生まれです。東京ガスに勤めたのち、執筆活動に入りました。
2007年の『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』(講談社)以来、2020年の『ジョン万次郎の羅針盤』など、万次郎を主題にした本を書き続けています。
版元は『ジョン万次郎の羅針盤』を、直系四代目が「語り継がれてきた史実」に新しい資料を加えて書いた本と紹介しています。
2018年には、神奈川県大磯町で講演することが、地域紙のタウンニュースで「ひ孫の中濱武彦さん」として告知されています。
3人目の妻・志げの系統|「中浜」を名乗らない子孫
3つ目の系統は、姓が中浜ではありません。2018年に講演した野武重忠さんの話から、たどることができます。
講演録によると、志げとの間に生まれた男子のうち、長男は生まれてすぐ亡くなりました。次男の秀俊が、長男のようにして育ったといいます。
秀俊は6人の子に恵まれ、その長男・忠好は生まれてすぐ養子に出されました。行き先は、志げの実家の沼口家です。志げは二人姉妹の姉で、家を継ぐ男子がいなかったためだといいます。
その忠好の子が、重忠さんです。20歳まで沼口の姓で育ったと語っています。いまの姓は野武です。
血はつながっていても、姓は中浜ではない。子孫を「中浜」の名字だけで探すと、この系統は見えてきません。

子孫の方は、中浜の姓を名乗る人ばかりではありません。志げさんの系統には、沼口や野武の姓で育った方もいます。

家の名を絶やさんために養子に出る話は、わしの時代にも聞かん話やなかった。
名字が違うても、血がつながっちょることに変わりはないがよ。
わしも、生まれたときは名字のない漁師の子じゃったきのう。
「中浜」の姓はいつから?名乗った時期は資料で分かれる
子孫が名乗る「中浜(中濱)」は、故郷の中ノ浜の地名からとった姓です。漁師の家に生まれた万次郎は、もともと名字を持っていませんでした。
ところが、いつ名乗ったのかは、資料によって書き方が違います。
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」:ペリー来航時(帰国の翌年=1853年)に幕府に召し出され、中浜の姓を授けられた
- ジョン万次郎資料館・土佐清水市「ジョン万次郎の歴史」:1853年、幕府に登用された際に中浜を名乗る
- 土佐清水市「ジョン万次郎の生涯」:土佐藩で士分に取り立てられた際に、名字帯刀を許されて中浜を名乗る
同じ土佐清水市のサイトのなかでも、ページによって書き方が分かれています。この記事では、どちらの時期とも決めずに両方を示します。
1853年の身分についても、一つ補っておきます。資料館の年表は「直参旗本に」と書いていますが、事典の記述は、幕府の「普請役格」(幕府の役職の格の一つ)として江川英龍の手付(配下)になったというところまでです。
もう一つ、表記のことです。事典や自治体は「中浜」と書くことが多い一方、曾孫の博や武彦さん、玄孫の京さんは著書で「中濱」の字を使っています。
1860年、万次郎は咸臨丸に乗り組み、通訳として太平洋を渡りました。その航海については、こちらの記事で詳しくたどっています。

中浜という姓を名乗ったのは、幕府に召し出されたときですか。それとも、土佐藩で士分になったときですか。

そこはおまんらの世の資料でも、書き方が分かれちょるそうな。
わしの口から、どっちと言い切るのはやめちょこう。記録に残っちょらんことを、覚えちょる顔で話すわけにはいかんき。
中ノ浜いう故郷の名が名字になった。そこは、どの資料も同じことを書いちょる。
ホイットフィールド家との交流|1918年の太刀から名古屋の再会まで
万次郎の子孫を語るうえで欠かせないのが、万次郎を救った捕鯨船の船長、ホイットフィールドの一族との付き合いです。確認できた出来事を年ごとに並べます。
| 年 | 出来事 | 資料 |
|---|---|---|
| 1841年 | 漂流していた万次郎らが、鳥島で捕鯨船ジョン・ハウランド号(船長ホイットフィールド)に救われる | コトバンク/ミリセント図書館 |
| 1870年 | 万次郎が2度目の渡米の際にフェアヘーブンを再訪し、ホイットフィールド家に泊まる | フェアヘーブンの観光団体/ジョン万次郎資料館 |
| 1918年 | 7月4日、東一郎の贈る太刀を、駐米大使・石井菊次郎がフェアヘーブンで贈呈。船長の孫トーマスが受け取る | ミリセント図書館/1918年の式典記録 |
| 1920年 | 東一郎が作らせた『漂巽紀略』の写本を、石井大使がミリセント図書館へ寄贈 | ミリセント図書館 |
| 1977年 | 図書館に展示されていた太刀が盗まれる。1982年、シートンホール大学の菊岡正博士から代わりの刀が贈られる | ミリセント図書館 |
| 1987年 | 12月2日、土佐清水市とフェアヘーブン・ニューベッドフォードが姉妹都市の盟約に調印 | ジョン万次郎資料館 |
| 2009年 | 5月7日、船長の旧宅が「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」として開館 | フェアヘーブンの観光団体 |
| 2024年 | 7月、和歌山での日米草の根交流サミットのあと、船長の子孫がペリーの子孫とともに名古屋の中濱京さん宅を訪れる | 参加者の寄稿/中日新聞 |
1918年の太刀の贈呈は、万次郎の死から20年後のことでした。 贈ったのは長男の東一郎で、受け取ったのは船長の孫です。子の代と孫の代で、すでに付き合いが続いていたことになります。
1918年の式典の記録冊子は、いまもインターネットアーカイブで読むことができます。題名に「Doctor Toichiro Nakahama」の名が入っています。
そして2024年7月、和歌山で開かれた日米草の根交流サミットのあと、船長の子孫がペリー提督の子孫とともに、名古屋の中濱京さん宅を訪れました。
参加したマシュー・C・ペリーさんが、自身の寄稿でそのときの様子を書いています。中日新聞も訪問に先立ち、「日米友好の礎となった3家が名古屋に集結」と報じていました。
このサミットを主催するのは、公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センターです。
センターは、両家の友情が子孫の代まで引き継がれ、毎年ホイットフィールド家と中濱家がサミットの場で草の根交流の意義を伝え続けていると紹介しています。

あなたを救った船長の一族と、あなたの子孫の付き合いは、100年以上続いています。

船長には命を拾うてもろうた。それは何べん言うても足りん。
東一郎が船長の町へ刀を贈ったがは、わしが死んで20年ばかりたってからのことじゃ。わしの知らん話ながら、うれしい話ぜよ。
キャプテン(船長のことじゃ)の家と、今もつながっちょるとはのう。
ジョン万次郎の墓と生家|雑司ケ谷霊園と土佐清水市中浜
万次郎ゆかりの場所は、東京と故郷の土佐清水市の両方にあります。墓は東京にあり、故郷には生家が復元されています。
- 墓は東京都豊島区の都立雑司ケ谷霊園にあります。東京都公園協会の園内マップは「1種15号19側1番」と記しています
- 故郷の中浜の大覚寺墓地には、「仮墓」と呼ばれる場所があります。遭難したと思った母が丸い石を置いて墓にしたと、資料館は伝えています(石はいま残っていません)
- 土佐清水市中浜には生家が復元されています。残っていた写真をもとに設計した茅葺きの平屋で、2010年10月31日に完成し、無料で公開されています
- 同じ土佐清水市には、2011年にジョン万次郎資料館が開館しました
生家の復元について、一つ補っておきます。土佐清水市観光協会は、市内の有志が集めた募金を中心に建てられたと紹介しています。中浜家が建てたり、持っていたりするという記述は、今回確認できませんでした。
故郷の仮墓の話は、母が石を置いたという伝承を含みます。資料館の紹介として受け取るのがよいでしょう。

土佐清水市の中浜には、あなたの生家が復元されています。

わしの家が建て直されたがか。茅葺きの小さな家じゃったと、写真が残っちょるそうな。
母が、帰らんわしのために石を置いて墓にしたという話も伝わっちょる。資料館がそう伝えちょるだけで、確かめる術はないがのう。
わしが死んだあとのことは、あの世まで便りは届かんちや。
子孫が書いたジョン万次郎の伝記|大河『ジョン万』の前に読める本
冒頭で触れた、子孫が書いた本を並べます。今回確認できたものだけで、子から玄孫まで4世代にわたります。
| 書名 | 著者 | 万次郎から見た続柄 | 刊行 |
|---|---|---|---|
| 『中浜万次郎伝』 | 中浜東一郎 | 長男 | 1936年、冨山房 |
| 『中浜万次郎の生涯』 | 中浜明 | 孫 | 1970年、冨山房(2024年に富山房企畫から新版) |
| 『私のジョン万次郎』 | 中浜博 | 曾孫 | 1991年、小学館 |
| 『中濱万次郎』 | 中濱博 | 曾孫 | 2005年、冨山房インターナショナル |
| 『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』 | 中濱武彦 | 曾孫 | 2007年、講談社 |
| 『ジョン万次郎の羅針盤』 | 中濱武彦 | 曾孫 | 2020年、冨山房インターナショナル |
| 『ジョン万次郎』 | 中濱京 | 玄孫 | 2014年、冨山房インターナショナル |
刊行年は、国立国会図書館サーチの書誌で確かめたものです。『私のジョン万次郎』には、1994年に副題を変えた版もあります。
たとえば版元は、中濱博の『中濱万次郎』を、日記や手紙、公式記録などをもとに新しい資料を加えて書いた伝記と紹介しています。
そして2028年には、万次郎を主人公にしたNHK大河ドラマ『ジョン万』が放送されます。NHKは2026年4月9日に発表し、主演は山﨑賢人さん、作は藤本有紀さんです。
ドラマの前に、子孫がどんな万次郎を書いてきたのかを読んでおくと、描かれ方の違いにも気づけるかもしれません。

2028年には、あなたを主人公にした大河ドラマ『ジョン万』が放送されます。

わしが芝居の主役になるがか。そりゃまた、たまげた話じゃ。
どう描かれるかは、見てのお楽しみとしちょこう。
子や孫が書き残してくれた本があるなら、芝居と読み比べてもらうのも面白かろうのう。
表に挙げた7冊のうち、曾孫・中濱武彦さんの『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』は、電子書籍でも出ています。
【PR】
『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』
この作品のポイント
- 曾孫である著者が書いた、ジョン万次郎(中濱万次郎)の伝記
- 日米交流の原点を、愛と信頼の物語として描く(作品紹介による)
- 危急のときに人はどこまで信義をまっとうできるのか、という本書の問い
BOOK☆WALKERで電子書籍版を販売しています(2026年9月30日時点。販売状況は変わることがあります)。
※BOOK☆WALKERを初めて使う場合、会員登録から30日以内の最初の購入は、税抜価格の50%分がコインで戻ります(2026年10月1日時点。Webストアでの購入が対象で、内容は予告なく変わることがあります)。
よくある質問(FAQ)
ジョン万次郎の子孫は現在もいるのですか?
います。「直系5代目」の中濱京さんが、講演や著書、日米の交流の場で万次郎の足跡を伝えています。曾孫の中濱武彦さんは、万次郎の伝記を書き続けています。
「直系5代目」とは、万次郎から見て何にあたりますか?
玄孫(やしゃご)です。万次郎本人を1代目と数えるので、子が2代目、孫が3代目、曾孫が4代目、玄孫が5代目になります。中日新聞も、中濱京さんを「直系五代目」「やしゃご」の両方で紹介しています。
ジョン万次郎の妻は何人ですか?
資料で名前と経歴まで確かめられたのは、最初の妻・鉄と、3人目の妻・志げの2人です。子孫の講演録が志げを「3人目の妻」と紹介しているので、そのあいだにもう1人の妻がいたことになります。
ジョン万次郎の子どもは何人いたのですか?
人数は断定できません。資料館は鉄との間に1男2女、子孫の講演録は志げとの間に男子2人と紹介しています。このほか三男の慶三郎がいたことは、版元の紹介で確かめられます。
長男の中浜東一郎は何をした人ですか?
医師です。内務省の技師や東京衛生試験所長を務め、退官後は麹町に回生病院を開きました。1936年には父の伝記『中浜万次郎伝』を出しています。万次郎は、この東一郎の家で亡くなりました。
子孫とホイットフィールド家の交流は今も続いていますか?
続いています。1918年に長男の東一郎が船長の町へ太刀を贈り、2024年7月には、船長らの子孫が名古屋の中濱京さん宅を訪れました。主催団体は、毎年両家が草の根交流サミットの場に立っていると紹介しています。
ジョン万次郎の墓はどこにありますか?
東京都豊島区の都立雑司ケ谷霊園です。区画は1種15号19側1番です。故郷の土佐清水市中浜の大覚寺墓地にも、母が石を置いたと伝わる「仮墓」があります。
インタビュー後記|家の歴史を、家の人が書く
調べていていちばん印象に残ったのは、子孫の多くが、自分の手で万次郎を書いていることでした。
長男は父の伝記を書き、北海道で農業を営んだ孫は祖父の生涯を書きました。医師だった曾孫も本を出し、別の曾孫は会社勤めののちに書き始めています。
そして、万次郎を救った船長の一族との交流は子孫の代にも受け継がれ、1918年の贈呈や2024年の訪問が記録に残っています。記録を残すことと、付き合いを続けることが、同じ家のなかで並んで受け継がれてきたように見えます。
一方で、すべての子孫が中浜の姓を名乗っているわけではありません。養子に出て別の姓で育った系統もあります。子孫をたどるときは、名字だけでなく、公表された続柄を一代ずつ確かめる必要がありました。
同じように家系図をたどった記事として、2027年大河『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順の子孫の記事もあります。
公家の家の仕組みから子孫をたどった、岩倉具視の記事はこちらです。
子孫が書き継いできた万次郎その人が、漂流からアメリカで何を学び、帰国後に何をしたのかは、こちらでたどっています。
あなたは、この家の続き方から何を読み取りますか。
参考資料
- 国立国会図書館「中浜万次郎|近代日本人の肖像」 ※生没年月日の和暦と西暦、幕府に召し出されて中浜姓を授けられたとする記述の出典
- コトバンク「中浜万次郎」 ※『日本大百科全書』『山川 日本史小辞典 改訂新版』『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』を収録。出生地、1841年の救助、1853年に普請役格として江川英龍の手付となったこと、生年を1828年とする事典があることの出典
- コトバンク「中浜東一郎」 ※『20世紀日本人名事典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』を収録。生没年月日(和暦)、明治14年の福島県医学校教授(日本人名大辞典+Plus)、東京大学医学部卒業、岡山・金沢の医学校、内務省御用掛としての欧州遊学、内務省技師、東京衛生試験所長、医学博士、回生病院の出典
- 土佐清水市「ジョン万次郎の歴史」 ※1853年に中浜を名乗ったこと、妻・鉄の病死(文久2年7月)、明治31年11月12日に京橋弓町の東一郎宅で没したこと、満71歳の出典
- 土佐清水市「ジョン万次郎の生涯」 ※土佐藩で士分に取り立てられた際に中浜を名乗ったとする記述の出典
- 土佐清水市「ジョン万次郎」 ※中濱京さんを「ジョン万次郎直系5代目子孫」と紹介していることの出典
- 土佐清水市「姉妹都市の紹介」 ※フェアヘーブン・ニューベッドフォードとの姉妹都市関係の出典
- ジョン万次郎資料館「ジョン万次郎相関図」 ※妻・鉄が団野源之進の娘で、縁談を江川英龍がまとめ、1男2女をもうけて麻疹で没したこと、1933年のルーズベルト大統領からの手紙の出典
- ジョン万次郎資料館「年表」 ※1854年の結婚、1862年の鉄の死、1853年を「直参旗本」とする記述、1870年のフェアヘーブン再訪、1987年12月2日の姉妹都市調印、2011年の資料館開館の出典
- ジョン万次郎資料館「【万次郎の仮墓】」 ※大覚寺墓地の仮墓と、母が石を置いたという伝承の出典
- 墨田区立図書館「中濱万次郎(すみだゆかりの人物)」 ※妻・鉄が本所亀沢町に道場を持つ団野源之進の次女であることの出典
- 日本産業退職者協会「第34回ふれあいトークサロン『ジョン万次郎の生涯』」 ※講師・野武重忠さんが志げの曾孫であること、志げの旧姓が沼口であること、秀俊・忠好と続く系統、20歳まで沼口姓で育ったことの出典
- 冨山房インターナショナル『中浜万次郎の生涯【新版】』 ※中浜明を「万次郎の長男東一郎の三男」と紹介する著者紹介と、生没年月日・経歴の出典
- 冨山房インターナショナル『中濱万次郎:「アメリカ」を初めて伝えた日本人』 ※中濱博を「万次郎直系四代目」「曾孫」と紹介する著者紹介と経歴の出典
- 冨山房インターナショナル『ジョン万次郎:日米両国の友好の原点』 ※中濱京さんを「直系5代目」と紹介する著者紹介の出典
- 版元ドットコム『ジョン万次郎の羅針盤』 ※中濱武彦さんを「直系曾孫(四代目)[万次郎の三男・慶三郎の長男・正男の次男]」と紹介する著者プロフィールの出典
- タウンニュース大磯・二宮・中井版「ジョン万次郎秘話 ひ孫の中濱武彦さんが講演」 ※2018年の大磯での講演の告知の出典
- 万次郎資料調査団「ジョン万次郎の資料調査・保存プロジェクト|日米交流の原点を後世へ」(READYFOR、2023年8月7日公開) ※清が東一郎の次男(長男は若くして死去)で、ブラウン大学に留学して実業家となり『中濱東一郎日記』を編集したこと、明が清の弟であること、博が清の長男であること、万次郎が亡くなるまでの17年間を東一郎の家族と過ごしたことの出典
- 中濱京「25. ジョン万次郎直系五代目としての役割」(草の根通信91号、manjiromanjiroorjp ページ!掲載) ※京さんが「四代目の父・博」と書いていることの出典
- 塚本宏「17. 万次郞と東一郎 その①」(草の根通信79号、2014年7月。manjiromanjiroorjp ページ!掲載) ※東一郎の実母が鉄であるとする記述の出典
- 国立国会図書館サーチ「中浜万次郎伝」 ※中浜東一郎著、冨山房、1936年刊の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「中浜万次郎の生涯」 ※中浜明著、冨山房、1970年刊の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「中浜万次郎の生涯 新版」 ※2024年の新版(富山房企畫発行、冨山房インターナショナル発売)の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「私のジョン万次郎」 ※中浜博著、小学館、1991年刊の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「私のジョン万次郎」1994年版 ※副題を変えた1994年の版の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「中濱万次郎」 ※中濱博著、冨山房インターナショナル、2005年刊の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「ファースト・ジャパニーズジョン万次郎」 ※中濱武彦著、講談社、2007年刊の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「ジョン万次郎:日米両国の友好の原点」 ※中濱京著、冨山房インターナショナル、2014年刊の書誌の出典
- 中日新聞「ジョン万次郎の子孫・中浜さんが大政所役に 名古屋まつり英傑行列」(2022年10月12日) ※中濱京さんを「直系五代目」と紹介していることの出典
- 中日新聞「日米友好の礎となった3家が名古屋に集結 ジョン万次郎救った米船長の子孫、ペリー5代目も」(2024年7月6日) ※中濱京さんを「やしゃご」と紹介していること、船長の子孫の6代目・7代目が日米草の根交流サミット後に名古屋を訪れる予定を報じた記事
- manjiromanjiroorjp ページ!「24)草の根サミット後の子孫たちの集い」(マシュー・C・ペリー寄稿) ※2024年7月、和歌山での日米草の根交流サミットのあと、船長の子孫とペリー提督の子孫が名古屋の中濱京さん宅を訪れたことの出典
- JICA横浜 海外移住資料館「【移民研究会・海外移住資料館 共催講演会】日米両国の友好の原点 -ジョン万次郎の足跡」 ※2025年4月12日、中濱京さんが「ジョン万次郎直系5代目」として講演したことの出典
- 公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センター「草の根の原点」 ※両家の友情が子孫の代まで引き継がれ、毎年ホイットフィールド家と中濱家が草の根交流サミットで交流の意義を伝えていることの出典
- Millicent Library “Nakahama Manjiro” ※1918年7月4日の太刀の贈呈、1920年の『漂巽紀略』写本の寄贈、1977年の盗難と1982年に菊岡正博士が贈った代わりの刀の出典
- Internet Archive “The presentation of a Samurai sword, the gift of Doctor Toichiro Nakahama, of Tokio, Japan, to the town of Fairhaven, Massachusetts”(1918年) ※1918年の式典の記録冊子の出典
- Discover Fairhaven “Manjiro Nakahama” ※1870年の再訪、1987年秋の姉妹都市委員会の結成、2009年5月7日の友好記念館開館の出典
- 東京都公園協会「雑司ケ谷霊園」園内マップ ※墓所が1種15号19側1番であることの出典
- 土佐清水市観光協会「ジョン万次郎生家(復元)」 ※2010年10月31日の完成、写真をもとにした設計、市内有志の募金を中心にした建設、無料公開の出典
- NHK「2028年大河ドラマ『ジョン万』 主演・山﨑賢人さん」 ※2026年4月9日の発表、主演・作者の出典







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