幕末や明治の話題になると、西郷隆盛や坂本龍馬の名前が出たとたんに場が盛り上がります。ところが大久保利通の名前が出ると、なぜか急に静かになる。私はこの温度差が、昔からずっと気になっていました。
私は、こういう「人気はないのに、この人がいないと歴史の話が前に進まない」という人物にこそ惹かれる、少しひねくれた歴史好きです。大久保は、その代表格だと思っています。
教科書に出てくる場面の多さなら、同時代でも屈指ではないかと思います。それなのに、どんな人物だったのかと聞かれると、途端に答えにくい。この「功績は多いのに人物像がぼやける」感じの正体を確かめたくて、この記事を書いています。
この記事では、大久保が結局何をした人なのか、盟友だった西郷隆盛となぜ道を分けたのか、そしてなぜ暗殺されたのかまでを順に整理していきます。
とはいえ、私ひとりの解説では硬くなりがちです。そこで今回は利通AI(大久保利通をモデルにしたAI)にも登場してもらい、史料を参考に想像した口調も交えながら見ていきます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに大久保利通の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

資料の中でしか会えなかった大久保さんと、こうして向き合えるとは思いませんでした。それでは大久保さん、よろしくお願いします。

おう、よう参られた。おいが大久保利通でごわす。堅苦しい男と思われておるようじゃっどん、遠慮はいらん。事を成すには、まず順序でごわす。順を追うて話しもんそ。
大久保利通は何をした人?基本プロフィールを2分で解説
大久保利通(おおくぼ としみち)を一言でいえば、明治政府の中枢で近代国家の仕組みをつくった政治家です。西郷隆盛・木戸孝允とともに「維新三傑」と呼ばれています。
まずは人物の全体像を、次の表でつかんでみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 大久保利通(おおくぼ としみち)※幼名は正袈裟、通称は正助のち一蔵、号は甲東 |
| 生没年 | 1830年〜1878年(満47歳で死去。数え年では49歳) |
| 出身 | 薩摩国鹿児島城下(現在の鹿児島県鹿児島市)/薩摩藩 |
| 活躍した時代 | 幕末〜明治 |
| 主な功績 | 版籍奉還・廃藩置県の推進、岩倉使節団の副使としての欧米視察、初代内務卿としての殖産興業 |
国立国会図書館の資料によれば、生没年月日は文政13年8月10日(1830年9月26日)から明治11年(1878年)5月14日まで。47年の生涯です。
薩摩藩の下級武士の家に生まれ、若いころは藩の役所に勤める一書記にすぎませんでした。そこから藩政の中枢へ、さらに新政府の中心へと立場を上げていきます。
ここに挙げた功績には、戦での手柄が含まれていないことに気づきます。大久保の仕事は制度をつくり、役所を動かすことに集中していました。

大久保さん、はじめまして。まずは自己紹介をお願いできますか。

おいが大久保利通でごわす。薩摩の下級武士の家に生まれ、はじめは藩の役所で帳面を書くだけの身であった。おはんらが思うような、剣で名を上げた男ではごわはん。
おいが力を注いだのは、藩に分かれた仕組みを改め、国としての制度を整えること。廃藩置県も内務省も、その一つ。人に好かれる役回りではなかったが、誰かがやらねばならんかったち思いもす。
大久保利通はどんな人だったのか
功績の話に入る前に、人物像から見ておきます。大久保について語られることの多くは、実は後世に整えられたイメージでもあるからです。
同時代の評価、後世のイメージ、伝わっているエピソードを分けて並べてみましょう。
| 見られ方 | 内容 |
|---|---|
| 同時代の評価 | 寡黙で議論に強く、いったん決めると動かない実務家。一方で政府内では、少数の高官が独断で政治を進めているという「有司専制」の批判も受けた |
| 後世のイメージ | 「情の西郷、理の大久保」という対比で語られる冷徹な現実主義者。ただしこの対比は、後世に整えられた人物像でもある |
| 伝わるエピソード | 島津久光に近づくため囲碁を学んだとする逸話もあるが、詳しい経緯は明確ではない。「為政清明(政を行う者は清く明らかであれ)」と記した大久保の書が残されている |
同時代の人々にとっての大久保は、まず押しの強い実務家でした。会議で場を制し、決めたことを役所に落とし込んでいく力に長けていたようです。
一方で、その進め方は反発も呼びました。議会を開かないまま少数で政治を進めているという批判は、のちに彼の命を奪う事件の動機にもつながっていきます。
なお「冷たい人」というイメージについては、注意が必要です。同時代の記録や後世の評伝では、寡黙で実務を重んじる人物として描かれています。ただし、内心まで断定することはできません。
死後に多額の借財が残っていたという話も伝えられていますが、これも伝記由来の逸話で、細かな数字までは確かめきれないところがあります。

大久保さんは『冷たい人』というイメージで語られることが多いのですが、ご自身ではどう思われますか。

よう言われもす。じゃっどん、冷たいゆえに黙っておったのではごわはん。政(まつりごと)の場で情に流されれば、動くはずの話も動かんようになりもす。おいはただ、順序を違えぬようにしただけのこと。
……西郷どんを思わぬ日がなかったかと問われれば、それは答えかねもす。人の胸のうちまで、他人が量れるものではごわはんど。
大久保利通の三大功績
大久保の仕事は多岐にわたりますが、近代国家の土台づくりという点で特に大きいのが次の三つです。
- ① 版籍奉還と廃藩置県を進め、中央集権の土台をつくったこと
- ② 岩倉使節団で欧米を見て、明治六年政変で内治優先の路線を選んだこと
- ③ 初代内務卿として、殖産興業を強力に進めたこと
どれも一人の力で成し遂げたものではなく、多くの人との協力と対立の中で形になったものです。一つずつ見ていきましょう。
① 版籍奉還と廃藩置県で中央集権の土台をつくった(1869年〜1871年)
明治維新で新政府ができたあとも、各地の藩はそのまま残っていました。年貢を集めるのも、兵を持つのも各藩です。これでは国としてひとつにまとまれません。
そこで進められたのが、次の二段構えの改革でした。
| 年 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 1869年 | 版籍奉還 | 諸藩の土地(版)と人民(籍)を朝廷に返させる。ただし旧藩主が知藩事として現地に残った |
| 1871年 | 廃藩置県 | 藩そのものを廃止し、府県を置く。詔が出されたのは明治4年7月14日(太陽暦では1871年8月29日)で、3府302県となった |
版籍奉還では、旧藩主が知藩事として引き続き現地を治めたため、地方支配には旧藩以来の仕組みが多く残りました。本当の転換点は廃藩置県です。
国立公文書館の資料によれば、廃藩置県では知藩事が全員罷免され、東京に住むことを命じられました。代わりに政府が任命した府知事・県令が地方を治めます。
これは各藩から自前の財源と軍事力を取り上げる、きわめて大きな改革でした。大久保は木戸孝允や西郷隆盛らと協力し、この断行を推し進めた中心人物の一人です。
ただし、これを大久保ひとりの功績とするのは正確ではありません。薩摩・長州・土佐から集められた御親兵を背景に、政府中枢の合意によって実現したものでした。

廃藩置県は、大名たちの猛反発が予想される改革でした。どうやって踏み切ったのですか。

たしかに、あれは命がけでごわした。藩をなくすということは、旧藩主の統治権を奪い、士族の身分や生活基盤を大きく揺るがすということ。反発せぬはずがなか。
じゃっどん、藩がそれぞれに兵と銭を握ったままでは、この国は一つになりもはん。薩摩・長州・土佐の兵が東京に集うておった、あの一時をおいて機会はなかった。事を成すには、まず順序でごわす。躊躇うておれば、機は去りもす。
② 岩倉使節団での欧米視察と明治六年政変(1871年〜1873年)
1871年(明治4年)、大久保は岩倉使節団の副使として欧米へ旅立ちます。特命全権大使は岩倉具視で、大久保のほか、木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳が副使を務めました。
目的は、不平等条約の改正に向けた準備と、諸外国の制度や文物の調査です。一行は約1年10か月をかけてアメリカやヨーロッパ各国を回りました。
この旅で大久保が痛感したのが、日本と欧米の国力の差でした。条約改正に向けた予備交渉は成果を上げられず、まず国内の制度を整える必要性を強く認識します。
帰国後に待っていたのが、日本の進路を大きく変える政変でした。対立の構図を整理してみましょう。
| 立場 | 主張 | 主な人物 |
|---|---|---|
| 使節団帰国組 | 内治優先。国内の制度と産業を整えるのが先 | 岩倉具視、大久保利通、木戸孝允 |
| 留守政府側 | 朝鮮への使節派遣を進めるべき | 西郷隆盛、板垣退助、江藤新平ら |
1873年(明治6年)10月、西郷を朝鮮へ派遣する決定は覆り、西郷・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の5参議が辞職しました。これが明治六年政変です。
一般には「征韓論をめぐる対立」と呼ばれますが、西郷が武力行使まで主張していたのかどうかは、研究者の間でも解釈が分かれています。
はっきり言えるのは、この政変で大久保が政府の実権を握り、同時に多くの盟友を失ったということです。幼なじみの西郷とも、ここで決定的に道を分けました。
袂を分かった西郷隆盛については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
※以下は両者の関係や当時の情勢をもとに想像した、創作上の心情です。

西郷さんとの決別は、避けられなかったのでしょうか。

避けられるものなら、避けたかった。それが正直なところでごわす。おいと西郷どんは、若いころから同じ郷中(ごじゅう)で過ごしてきた仲。
じゃっどん、欧米を回ってきたおいには、今の日本が外へ手を伸ばせる体ではなかことが見えておった。まずは内を固むる。そこだけは譲れもはんかった。恨まれる役は、おいが引き受くるまでのこと。
③ 初代内務卿としての殖産興業(1873年〜1878年)
政変の直後、1873年(明治6年)11月に内務省が設置され、大久保が初代内務卿となります。地方行政・警察・土木・勧業(産業の振興)などを所管する、広範な権限を持つ役所でした。
内務卿としての大久保が力を注いだのは、次のような仕事です。
- 官営の工場や牧場を各地に設け、近代的な産業の手本を示すこと
- 道路や港湾を整え、物流の土台をつくること
- 政府中枢として地租改正を推進し、税制の安定を図ること
- 第1回内国勧業博覧会を開き、国産の技術と製品を広く見せること
なかでも象徴的なのが内国勧業博覧会です。国立国会図書館の資料によれば、第1回は1877年(明治10年)8月21日から11月30日まで東京の上野公園で開かれ、入場者は45万人を超えました。
ウィーン万国博覧会を参考にした催しで、鉱業や機械、農業など6つの部門に分けて全国の出品物が並びました。ちょうど西南戦争のさなかの開催です。
一方で、地租改正に伴う現金納税への不安や米価下落などを背景に、各地で反対一揆が起きました。産業を育てる政策と、人々の不満は同時に進んでいたことも押さえておきたいところです。
この時期に政府の仕事を請け負いながら事業を広げた実業家に、岩崎弥太郎がいます。

内務卿として、どんな国をつくろうとしていたのですか。

派手な話ではごわはんど、おいが据えたかったのは『稼ぐ力』でごわす。異国を回って思い知ったのは、軍艦の数ではなか。工場が動き、道と港が通じ、産物が売れる。その積み重ねが国を支えておった。
じゃっで内務省を置き、官の手で手本となる工場をつくり、博覧会を開いて見せもした。人が真似をはじめれば、あとは勝手に育つ。そういう仕掛けでごわす。
大久保利通の死因と最期|紀尾井坂の変
大久保利通の最期は、あまりに突然でした。1878年(明治11年)5月14日の朝、東京・紀尾井町の清水谷で襲撃され、命を落とします。世に言う紀尾井坂の変です。
事件のあらましを表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 1878年(明治11年)5月14日 |
| 場所 | 東京府麹町紀尾井町の清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町) |
| 死因 | 士族6名による襲撃(暗殺) |
| 死亡時の年齢 | 満47歳(数え年では49歳) |
| 襲った人物 | 島田一郎ら石川県士族5名と島根県士族1名 |
| 当時の役職 | 参議兼内務卿 |
大久保は馬車で赤坂の仮皇居へ向かう途中でした。御者の中村太郎もこの襲撃で命を落としています。
襲撃した6名は「斬奸状」を持っていました。そこには、議会を開かず民権を抑えて専制を行った罪、国費を浪費した罪、内乱を招いた罪などが並べられています。
前年に西南戦争が終わったばかりで、士族の不満は各地でくすぶっていました。改革を進める側にいた大久保は、その怒りが向かう先になっていたといえます。
事件から10年後の1888年(明治21年)、現場に近い北白川宮家の敷地(現在の清水谷公園)に哀悼碑が建てられました。太政大臣だった三条実美が題字を書いたもので、現在は千代田区の指定文化財になっています。

ご自身の身に危険が迫っていることは、感じておられましたか。

命を狙わるるは、今に始まった話ではごわはん。廃藩置県も、地租の改めも、恨みを買わぬ道は初手からなかった。
じゃっどん、それを恐れて手を止むれば、何のために西郷どんと分かれたのか分からんようになりもす。……ただ、心残りはある。始めた仕事は、まだ半ばでごわす。あとを継ぐ者が、順序さえ違えねばよか。
大久保利通の生涯を年表で振り返る
大久保の47年を、下積みから最期まで年表で追ってみましょう。順調に出世したように見えて、20代には無役で過ごした苦しい時期もあります。
なお、幕末までの出来事は旧暦(和暦)で記録されているため、西暦との対応がずれる年があります。ここでは西暦の年で並べ、ずれる場合は解説で補いました。
| 年 | 出来事 | ひとこと解説 |
|---|---|---|
| 1830年 | 薩摩国鹿児島城下に生まれる | 下級武士の家。西郷隆盛とは近所で育った幼なじみ |
| 1846年 | 藩の記録所書役助となる | 役所勤めの一書記から出発する |
| 1849年〜1850年 | お由羅騒動で父が遠島、本人も免職 | 嘉永2年に起きた藩内の後継争いに連座。処分は太陽暦の1850年初にかかる |
| 1858年 | 藩主・島津斉彬が急死 | 後ろ盾を失い、精忠組(誠忠組とも)の同志とともに雌伏の時を過ごす |
| 1861年ごろ | 島津久光に登用される | 藩の実権を握った久光の側近となり、藩政の中枢へ |
| 1866年 | 薩長同盟が結ばれる | 西郷らとともに、長州との提携を進める |
| 1867年12月 | 王政復古の大号令 | 岩倉具視や西郷らとともに新政府の樹立に動く。太陽暦では1868年1月3日にあたる |
| 1868年 | 明治新政府に参画 | 戊辰戦争と並行して、新政府の運営にあたる |
| 1869年 | 版籍奉還 | 諸藩の土地と人民を朝廷に返させる。中央集権化の第一歩 |
| 1871年 | 廃藩置県が断行される | 明治4年7月14日(太陽暦では8月29日)に詔が出され、3府302県となる |
| 1871年 | 岩倉使節団の副使として出発 | 条約改正の準備と制度調査のため、約1年10か月の外遊へ |
| 1873年 | 帰国し、明治六年政変が起こる | 内治優先を主張。西郷ら5参議が辞職し、政府を去る |
| 1873年 | 内務省が設置され、初代内務卿に | 地方行政・警察・勧業を束ねる役所の長となる |
| 1874年 | 台湾出兵と清との交渉 | 全権弁理大臣として北京に渡り、交渉にあたる |
| 1875年 | 大阪会議 | 木戸孝允・板垣退助と会談し、立憲政体への道筋を話し合う |
| 1877年 | 西南戦争、第1回内国勧業博覧会 | 政府中枢として西南戦争への対応にあたる一方、上野で博覧会を開く |
| 1878年 | 紀尾井坂の変で暗殺される | 5月14日朝、士族6名に襲われ死去。満47歳 |
こうして並べると、大久保の人生が「藩を壊す」から「国をつくる」へ移っていったことが見えてきます。前半生は倒幕の政治工作、後半生は役所と産業づくりに費やされました。
同時に、40代の約8年間に大きな仕事が集中していることも分かります。最期を迎えたのは、内務卿として動き出してわずか4年半後のことでした。
大久保利通のすごさ・影響力
大久保のすごさは、華々しい合戦や名演説にはありません。制度と役所を実際につくり、動かしてしまったという一点に集約されます。
大久保が推し進めた政策のうち、現在の制度につながるものを挙げてみましょう。
- 現在の都道府県制度につながる、府県を単位とした地方行政の枠組み
- 近代的な中央官庁と官僚機構の形成
- 官営事業や博覧会を通じて産業育成を図る殖産興業政策
いずれも当時としては新しい発想でしたが、構想するだけなら、ほかにもできる人はいました。大久保が抜きん出ていたのは、反対を押し切って実行まで運ぶ力だったといえます。
その手法は、当時から「有司専制」と批判されました。有司専制への批判は自由民権運動の主要な主張の一つとなり、国会開設を求める動きにもつながっていきます。
大久保の死後、内務卿の職を引き継いだのが伊藤博文でした。伊藤はその後、憲法制定と内閣制度の整備を本格化させ、大久保期に始まった立憲化の動きを制度として形にしていきます。

これまで手がけてきた仕事のうち、ご自身でいちばん大きかったと思われるものはどれですか。

一つを選べと言わるれば、廃藩置県でごわしょうな。税も兵も学校も、国が一つにまとまっておらねば、はじめから語りようがなか。藩という壁を取り払うたことで、ようやく国の名において物事を決めらるるようになりもした。
……もっとも、おい一人の手柄ではごわはん。西郷どん、木戸どん、多くの手があってのこと。そこは忘れてくれるな。
大久保利通の思想と現代へのメッセージ
大久保の歩みから浮かび上がるのは、理想よりも順序を重んじる姿勢です。欧米を見て、条約改正が今すぐは無理だと判断すると、まず国内の制度と産業を固める道を選びました。
大久保の書として残る「為政清明」も、政治に関わる者は私心を捨てて清く明らかであれ、という意味です。大久保は私財を蓄えなかった人物として、伝記などで繰り返し語られてきました。
大久保の歩みから筆者が考えた、現代へのヒントを並べてみます。
| 大久保の歩み | 現代へのヒント |
|---|---|
| 条約改正を急がず、先に国内を固めた | 勝てない勝負を無理に急がず、順番を組み替える |
| 欧米視察を経て、内治優先の方針を強めた | 現場を見て、優先順位を見直す |
| 反発を承知で改革を実行した | 全員の賛成を待たずに、決めて動かす場面もある |
もっとも、これらを美点としてだけ受け取るのは危ういと私は思います。大久保の政策や政治手法への反発は、暗殺事件の背景の一つにもなりました。
決めて動かす力と、人の声を聞く力は別のものです。大久保の生涯は、そのどちらが欠けても政治は行き詰まるということを、成功と失敗の両方で示しているように見えます。
※以下は現代向けの創作メッセージです。

最後に、150年後を生きる現代の読者へ、何かひとこといただけますか。

おいから言えることは、多くはごわはん。ただ一つ、順序を違えるな、ということでごわす。志が高いほど、人は近道を探したがるもの。じゃっどん、土台のない家は、どれほど立派に見えても長うは保ちもはん。
急ぐならば、まず足元を固めよ。そして為政清明。人の上に立つ者は、己の胸のうちを清く明らかに保つこと。それだけは、世が変わっても変わりもはんど。
あなたは大久保利通の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
Q. 大久保利通は何をした人ですか?
A. 明治政府の中枢で、近代国家の仕組みをつくった政治家です。版籍奉還と廃藩置県で中央集権化を進め、初代内務卿として産業の育成にあたりました。
Q. 大久保利通の死因は何ですか?
A. 暗殺です。1878年(明治11年)5月14日の朝、東京・紀尾井町の清水谷で島田一郎ら士族6名に襲われ、満47歳で亡くなりました。紀尾井坂の変と呼ばれています。
Q. 大久保利通はなぜ暗殺されたのですか?
A. 襲撃した6名は「斬奸状」を持っており、議会を開かず民権を抑えて専制を行った罪などを挙げていました。
前年に西南戦争が終わったばかりで、士族の不満が各地でくすぶっていたことも背景にあります。
Q. 大久保利通と西郷隆盛はなぜ対立したのですか?
A. 1873年(明治6年)の明治六年政変で、進むべき道が分かれたためです。
欧米から帰国した大久保は国内の改革を優先すべきだと主張し、朝鮮への使節派遣を進めようとした西郷と対立しました。
ただし西郷の主張の中身については、研究者の間でも解釈が分かれています。
Q. 大久保利通の子孫に有名人はいますか?
A. 次男の牧野伸顕は、外務大臣や内大臣を務めた政治家です。
牧野の娘・雪子は吉田茂と結婚しており、吉田茂の孫にあたる麻生太郎は、大久保利通の玄孫にあたります。
Q. 大久保利通はどんな人でしたか?
A. 寡黙で議論に強く、決めたことは反対を押し切って実行する実務家だったと評価されています。
「情の西郷、理の大久保」という冷徹な人物像は有名ですが、これは後世に整えられた対比でもあり、内心まで断定はできません。
インタビュー後記|大久保利通は「嫌われることを引き受けた設計者」
今回は利通AIに登場してもらいました。
調べてみて印象に残ったのは、大久保が嫌われ役を引き受け続けた人だったことです。廃藩置県や地租改正は、強い反発が予想されるなかで進められた政策でした。西郷との決別も、大久保にとって大きな代償だったように見えます。
冒頭に書いた「なぜ大久保の話になると場が静まるのか」という疑問には、自分なりの答えが出ました。彼の仕事には、物語になりにくい地味さと、後味の悪さがつきまとうからです。
それでも、今の日本の県や役所の形をたどっていくと、必ずこの人にぶつかります。好きになれなくても無視できない。そういう偉人がいることも、歴史のおもしろさだと思いました。
大久保が生きた幕末から明治には、ほかにも魅力的な人物が数多くいます。よければ、同じ時代を生きた人たちの記事ものぞいてみてください。








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