小栗上野介の子孫はいま?家系図と遺児・国子のその後を忠順AIとたどる

oguri shison eyecatch 時代・文化

小栗忠順は慶応4年(1868年)に斬首され、養嗣子の又一忠道も翌日に斬られました。当主と跡取りが相次いで亡くなったため、小栗家のその後は分かりにくくなっています。

ところが、その約2か月後に会津で女児が生まれています。小栗の妻・道子が、逃避行の末にたどり着いた先でのことでした。

この記事の結論

小栗上野介の血筋は、途絶えていません。 会津で生まれたその子から、いまに続いています。

ただし、家名を背負ったのは血のつながらない人でした。のちに国子が婿に迎えた、矢野家出身の貞雄です。

  • 慶応4年6月10日
    遺児・国子が生まれた日(西暦1868年7月29日)
  • 3人
    この記事で扱う「又一」と呼ばれた人物の数
  • 12代/17代
    忠順の代数と、子孫の方がご自身を数える代(東善寺と本人の公表による)

この記事では、家系図と、遺児・国子のその後を資料でたどります。資料が食い違うところは、どちらにも寄らずに並べます。

そして今回は、忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。ただし、この記事で扱う出来事のほとんどは小栗の死後に起きたものです。

本人が知り得ない出来事が中心となるため、「そなたらの世の記録では」と伝え聞く形で語ってもらいます。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

小栗の没後の出来事については、後の世に伝わったものとして伝えたうえで語ってもらう形にしています。

筆者
筆者

小栗さん、今日はあなたが亡くなったあとの話を伺います。

あなたには、生まれてくるお子さんがいました。

忠順AI
忠順AI

……さようでございますか。

妻が身重であったというのなら、その子の顔を見ることはかないませなんだ、ということになりましょう。

男か女かも、名も、私は知り申さぬ。そなたらの世の記録が伝えているのなら、うかがいたく存ずる。

小栗忠順の子孫は続いている|家系図で確かめる

結論から書きます。忠順の血筋は、実子である国子(くにこ)を通じて続きました。

先に全体を図で示します。赤い線が血のつながり、青い線が家名の継承です。

小栗忠順の家系図。妻・道子、実子の国子、養女の鉞子、養嗣子の又一忠道、婿の貞雄の関係を、血筋と家名継承で色分けした図

※この図は、本記事が確認できた資料の範囲で作成したものです。資料によって説明が分かれる点は、以下の本文で示します。

小栗上野介父子主従の菩提寺である東善寺(高崎市倉渕町権田)は、小栗家の代数を次のように公表しています。忠順は12代にあたります。

名前備考
初代松平太郎左衛門信吉東善寺蔵『小栗氏祖先考』が初代とする
2代松平忠吉母が小栗正重の妹
3代小栗吉忠祖母方の小栗姓を名乗る
4代忠政「又一」を名乗る(以下同じ)
5代〜9代政信・政重・信盈・喜政・信顕
10代忠清
11代忠高忠順の父
12代忠順(上野介)慶応4年に斬首

忠順のあとは、次のように続きます。実子は国子ひとりで、男子はいません。

続柄名前資料が書いていること
道子(みち)播州林田藩主・建部政醇の娘。明治18年(1885年)没
養女鉞子(よきこ)安政6年12月に養女となる。日下数馬の娘で、忠順のいとこにあたる
養嗣子又一忠道鉞子の許婚。慶応4年閏4月7日に斬首
実子国子慶応4年6月10日、会津で誕生。忠順の唯一の遺児
婿貞雄矢野龍溪(文雄)の実弟。国子の婿として小栗家に入る
又一国子と貞雄の子

子孫の小栗かずまたさんは、ご自身を小栗家17代目、忠順の玄孫と公表しています(後述)。

では12代と17代のあいだはどうつながるのか。ここで一つ、今回確認できなかった人物がいます。

Wikipediaの「三河小栗氏」の系譜欄は、忠順のあとに忠祥・貞雄・又一・忠人・又一郎を並べています。忠祥は、養嗣子・忠道の弟にあたるとされる人物です。

ただし、忠祥以降の近代の系譜には個別の出典が付されていません。 参考文献欄に挙げられている『寛政重脩諸家譜』は江戸時代の成立で、忠祥以降の根拠にはなりません。

今回確認した東善寺・高崎市の資料、国立国会図書館デジタルコレクションの関連資料、旗本の系譜を専門に扱うサイトのいずれでも、忠祥を裏付ける史料を確認できませんでした。 そのため、この記事では家系図に入れていません。

「又一」は3人いる|資料を読むときに必ず迷うところ

ここで先に整理しておきます。「又一」は小栗家当主の代々の通称で、この記事だけでも3人が登場します。

どの又一か誰のことかいつの人か
① 又一=忠順忠順が家督を継いだときの通称。官途名は上野介安政2年(1855年)に「又一」と改名
② 又一忠道養嗣子。駒井朝温の次男で、養女・鉞子の許婚慶応4年閏4月7日に斬首
③ 又一国子と貞雄の子。忠順の孫明治以降

血のつながりで見ると、①と③はつながります。②の忠道は駒井家から迎えられた養子で、今回参照した資料に血縁の記載はありません。

忠順AI
忠順AI

わが家では、当主が代々『又一』を名乗り申した。

紛らわしいことこの上なし、と申されるのはもっともにござる。私も家を継いだときに又一と改めましたゆえ。

養子に迎えた忠道も、同じ名で呼ばれておりました。

養子・又一忠道は「婿」ではありませんでした|鉞子の許婚

②の忠道は、幕府大目付などを務めた駒井朝温の次男です。東善寺は、忠順が渡米する前に養女・鉞子の婚約者として小栗家に入ったと記しています。

養子・又一忠道について資料が書いていること
  • 駒井甲斐守朝温の次男。安政6年12月、忠順の渡米前に養女・鉞子の許婚として小栗家に入った
  • 東善寺は「婚約者」と書いており、婚姻が成立したとする記述は今回確認できなかった
  • 慶応4年閏4月7日(1868年5月28日)に斬首。東善寺は21歳と記すが、満か数えかは書かれていない
  • 処刑の場所は、東善寺が「高崎城内」、他の資料が「高崎城下」とする

「婿養子として小栗家に入っていた」と書かれることもあります。ただし東善寺の記述は許婚の段階で止まっており、婚姻の成立までは書かれていません。

鉞子について、東善寺はこう記しています。「旗本日下数馬(小栗邦子夫人の実弟・日下家へ婿入り)の娘。安政六年十二月忠順の渡米前に6歳で小栗家の養女となり、旗本駒井家から甲斐守朝温の次男忠道を許婚として迎える」。

数馬は忠順の母・邦子の実弟なので、鉞子は忠順のいとこにあたります。逃避行のときは15歳だったと同寺は記します。

忠順が渡米するにあたり、万一帰れなかった場合の備えだった、と説明されることがあります。ただしその意図までは、東善寺の記述からは確かめられません。

遺児・国子はどこで生まれたのか|会津へ逃れた先で

国子が生まれたのは、会津でした。 妻の道子は、忠順が斬られる前に権田村を離れ、会津へ向かっています。

東善寺は、こう書いています。

道子夫人は会津戦争直前の6月10日、南原の避難所で女児を出産、国子と名づけた。小栗上野介の唯一の遺児である

出典:東善寺「会津へ逃れた道子夫人」

慶応4年6月10日は、西暦では1868年7月29日にあたります。忠順が斬られたのは同年5月27日(閏4月6日)ですから、父の死から約2か月後の誕生でした。

ただし、場所は特定されていません。 東善寺自身が「南原、松川ともに、どこにいたのか詳細は判明していない」と注記しています。

逃避行について、資料が食い違っているところ
  • 権田村を発った日:東善寺の本文と、同じページに載る行程表で日付が違う
  • 会津若松に着いた日:行程表は閏4月28日、本文は閏4月29日と書く
  • 同行者:道子のほか、忠順の母・くに(邦子)、養女・鉞子が逃れたと東善寺は記す

行程表は小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』に拠ると明記されています。同じ寺のページの中でも日付が1日ずれているため、この記事では日付を断定しません。

筆者
筆者

お子さんは女の子で、国子と名づけられたと伝わっています。

忠順AI
忠順AI

国子、と申しますか。

妻がどのような思いでその名をつけたのか、私には知る由もござらぬ。ここからは創作としての物言いと思われよ。逃れた先で子を産んだと聞けば、胸の潰れる思いにて候。

生まれた子が無事に育ったのであれば、それだけで十分にございます。

誰が国子を育てたのか|資料によって説明が分かれます

ここは、資料が食い違います。 どちらか一方に決めることは、今回できませんでした。

資料書いていること
東善寺道子らは三井家の大番頭・三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年に没したあとは大隈重信夫妻が保護して国子が育てられた
蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(1928年)道子が深川の三野村邸に養われた。道子の死後、実家の建部子爵家が国子の世話を申し出る話もあったが、大隈夫人が「上野介の親族」であることから大隈家に引き取られた

道子が亡くなったのは明治18年(1885年)、三野村が亡くなったのは明治10年(1877年)です。「三野村の死後」と「道子の死後」では、最大で8年ずれます。

蜷川新は、道子の妹の子にあたる人物です。国子から見れば従兄弟にあたり、当事者に近い立場で書いています。

一方の東善寺は、三野村家に残る帳簿の画像を掲げ、そこには明治10年から20年までの10年分として「小栗国助情金」の記載があると説明しています。三野村家の援助はその後も続いていたことになります。

大隈夫人と小栗家の関係についても、書き方が違います。東善寺は、綾子夫人の母が忠順の父・忠高の妹であることから忠順の従妹(いとこ)にあたるとします。

一方蜷川は「上野介の親族なりし所より(伯夫人は旗本三枝家の出である)」と書くだけで、続柄を特定していません。

この記事では、どの時点で誰の保護を受けたのかを断定しません。 三野村家と大隈家の双方が関わったこと、その順序と時期は資料が分かれること。ここまでが、今回たどれた範囲です。

国子が迎えた婿・貞雄|矢野龍溪の弟が小栗家へ

国子が迎えた婿は、小栗家と血のつながらない人でした。 矢野家から入った貞雄です。

蜷川新は、1928年の著書でこう書いています。国子を「國子」と旧字で表記している点も、原文のまま引きます。

大隈家より名士矢野文雄に乞ひて、其の實弟貞雄を迎へて國子に配した

現代語訳大隈家から名士・矢野文雄に依頼して、その実弟である貞雄を迎え、国子と結婚させた

出典:国立国会図書館デジタルコレクション 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院、1928年、115頁

矢野文雄は矢野龍溪の名で知られる人物です。『経国美談』の作者で、郵便報知新聞の経営にも関わりました。その実弟が、小栗家に入ったことになります。

貞雄の経歴は、近代文献人名辞典に項目があります。

項目資料が書いていること
生没文久元年(1861年)生まれ、昭和10年(1935年)没
出身近代文献人名辞典は豊後国、コトバンク収録の事典は江戸とする
矢野文雄(龍溪)。『経国美談』の作者
経歴立憲改進党に入り、郵便報知新聞の記者。明治31年に衆議院議員

出身地は資料によって書き方が分かれます。この記事では、どちらかに決めずに両方を挙げておきます。

そして蜷川は、続けてこう書いています。「今一男あり、名を又一と呼ばれて居る」。国子と貞雄のあいだに生まれた子が、3人目の「又一」です。

血筋と家名が、ここで分かれます。 血は国子を通じて伝わり、家名は婿である貞雄が背負いました。当人たちもそう区別していた、と東善寺は伝えています。

東善寺は、明治45年(1912年)に東郷平八郎が小栗家を自邸に招いたときのことを伝えています。

貞雄は東郷に対し、自分は婿として入ったので小栗上野介の血はつながっておらず、血を引いた孫は息子の又一のほうだと述べたといいます。

そのため東郷が贈った書の為書は、息子の名義になりました。「仁義禮智信 壬子夏為小栗又一君 東郷書」。東善寺が所蔵しています。

筆者
筆者

国子さんが婿に迎えたのは、矢野龍溪という人の弟さんでした。

忠順AI
忠順AI

婿を取って家をつなぐは、武家の常にござる。驚きはいたしませぬ。

ただ、そなたらの世の記録によれば、その婿殿は『自分に上野介の血はつながっておらぬ』とわざわざ申されたそうな。

家を預かる者として、筋を通したのでありましょうな。

妻・道子のその後|深川の小さな住まい

道子が東京へ戻ったあとの暮らしについては、当事者に近い人の証言が残っています。

蜷川新は、道子の実家である建部家が大名として神田明神下に屋敷を構えていたにもかかわらず、道子はそこを頼らなかったと書いています。

蜷川新が書き残している道子のその後
  • 会津戦争が済んだあと東京に戻り、深川にあった三野村邸に身を寄せた
  • 実家の建部家は当時も大名として東京に屋敷があったが、そこを頼らなかった
  • 「その後夫人は不幸の生活の中に他界せられた」と記される
  • 蜷川は幼いころ、母に連れられて「小き貧しき深川の住居」を訪ねた記憶があると書いている

蜷川は、この夫人が建部家の兄弟姉妹のなかで最も賢明だと「云はれた」と書いています。身内による回想なので、評価の部分は割り引いて読む必要があります。 ただし、住まいを訪ねた記憶は本人の体験として書かれたものです。

道子が亡くなったのは明治18年(1885年)3月27日です。東善寺は没年齢を48歳と記しますが、同じ寺が記す生年(天保10年=1839年)と計算が合いません。 この記事では年齢を書きません。

小栗家の出自は源氏か平氏か|寛政譜には2つの小栗家があります

小栗家の出自は、資料によって説明が異なります。

幕府が編んだ系譜集『寛政重脩諸家譜』には、小栗を名乗る家が別々の場所に載っています。

収載箇所系統記されていること
巻第45〜47清和源氏 義家流 松平支流「寛永系圖に、松平市郎某より系を初め、其子仁右衛門某が時、外家の稱號小栗に改むと云ふ」。忠順の家はこちら
巻第514〜515平氏 繁盛流「維幹 平大夫 常陸大掾 鎮守府将軍繁盛が男」。常陸から三河へ移ったと記す

忠順の家が載るのは松平支流のほうです。東善寺の代数表が初代を松平太郎左衛門信吉とし、3代目で祖母方の小栗姓を名乗ったとする流れと、おおむね対応します。

一方で東善寺は、その祖母方の小栗をたどると常陸の桓武平氏の小栗氏に行き着くとも説明しています。

家紋についても違いがあります。東善寺は上野介の家紋を「丸に立波」とする一方、『寛政重脩諸家譜』の松平支流の小栗の巻に載るのは「丸に蔦」「三葵」などです。

家紋は時代や家筋によって使う紋が変わることがあるため、どちらかが誤りとは限りません。

この入り組んだ事情を、東善寺自身がうまく言い表しています。同寺の説明では、家名の系統は松平(源氏)に置きつつ、祖母方の小栗氏をたどれば常陸の平氏につながる、という整理です。

そのため同寺は「源氏系小栗家の『小栗又一源忠順』というのは源平ミックスの名前となる」と書いています。

初代を松平信吉とするのは、東善寺が所蔵する『小栗氏祖先考』の記述によるものです。同書の刊本や翻刻の所在は、今回確認できませんでした。

筆者
筆者

ご先祖は源氏なのか平氏なのか、資料が分かれています。

忠順AI
忠順AI

わが家の系図は、松平の流れを初めとし、三代目より母方の小栗を名乗ったと伝わり申す。

そのうえで、母方の小栗をさらにたどれば常陸に行き着くとも申します。

源か平かと問われても、いずれとも申しかねまする。

なお『寛政重脩諸家譜』が成立したのは文化9年(1812年)です。忠順は1827年生まれなので、本人はこの系譜集には載りません。

いま公表されている子孫|東善寺とご本人が伝える場面

存命のご子孫について、この記事が書けるのは公表されている範囲だけです。 調べれば分かることでも、公表されていないことは書きません。

確認できたのは、次の3件でした。

誰が何をしたか公表しているのは
1997年子孫・小栗忠人さん東郷平八郎の書額を東善寺へ寄進。130回忌の小栗まつりに際して東善寺
2008年玄孫・小栗又一郎さん神田駿河台の説明板の除幕式に、徳川宗家18代・徳川恒孝さん、千代田区長とともに参加東善寺
2026年玄孫・小栗かずまたさんご自身のnoteで、小栗忠順の玄孫・小栗家17代目であることを公表ご本人

3件目については、ご本人が「小栗忠順は小栗家十二代目、僕は十七代目。関係性としては、僕は玄孫(やしゃご)にあたります」と書いています。『週刊少年ジャンプ』で『花さか天使テンテンくん』を連載した漫画家だとも明かしています。

2008年の又一郎さんと2026年のかずまたさんは、どちらも玄孫として紹介されています。人物事典は、小栗又一郎をかずまたさんの本名としています。

ご本人も、自分をモデルにしたキャラクターが「小栗又一郎」の名で漫画に登場したと書いています。ただし「本名」と明記した記述までは、今回確認できませんでした。

一方で、今回確認した3つの公式ページには、ご子孫の記載がありませんでした。 横須賀市のヴェルニー・小栗祭式典のページ、高崎市の小栗上野介のページ、小栗上野介顕彰会の公式サイトです。

顕彰の場に出てくるのは、顕彰会などの関係団体です。記載がないことは、公表されていないことの証明にはなりません。この記事が確認できた範囲、という意味でお読みください。

筆者
筆者

いまも子孫の方がいらして、ご先祖のことを伝えておられます。

忠順AI
忠順AI

ありがたいことにございます。

家がその後どうなったかは、私の与り知らぬところにて候。続いておると聞けば、それだけで十分にございます。

継いだ者たちがどのような苦労をしたかも、残された記録に聞くほかございませぬな。

よくある質問(FAQ)

小栗上野介の子孫は現在もいるのですか?

います。漫画家の小栗かずまたさんは2026年、ご自身を小栗忠順の玄孫・小栗家17代目と公表しています。血筋は、処刑の約2か月後に会津で生まれた実子・国子から続きました。

小栗忠順に子どもはいましたか?

実子は娘の国子ひとりです。慶応4年6月10日(1868年7月29日)、逃避行の先の会津で生まれました。忠順は斬首されたあとなので、この子の顔を見ていません。

養子の小栗又一忠道はどうなりましたか?

慶応4年閏4月7日(1868年5月28日)に斬首されました。駒井朝温の次男で、養女・鉞子の許婚として小栗家に入った人です。東善寺の記述では婚約の段階で、婚姻が成立したとする記述は確認できませんでした。

小栗家を継いだのは誰ですか?

国子が成人したのち、婿として小栗家に入ったのが小栗貞雄です。矢野龍溪(文雄)の実弟で、明治31年に衆議院議員になりました。なお忠順と貞雄のあいだに忠祥を置く系図もありますが、その根拠となる史料は今回確認できませんでした。

「又一」という名前が何度も出てくるのはなぜですか?

小栗家当主の代々の通称だからです。忠順自身も家督を継いだときに又一と名乗り、養子の忠道も、国子と貞雄の子も又一と呼ばれました。資料を読むときにもっとも混同しやすいところです。

小栗家の家紋と出自は?

東善寺は家紋を「丸に立波」とします。出自は一つに決められません。『寛政重脩諸家譜』で忠順の家は清和源氏の松平支流に載る一方、東善寺は血の遠祖を常陸の平氏の小栗氏とし、「源平ミックスの名前」と説明しています。

インタビュー後記|血は娘へ、家名は婿へ

調べていて印象に残ったのは、血筋と家名が別々の道をたどったことでした。

血は、父の死後に生まれた娘から伝わりました。家名は、国子が迎えた矢野家出身の婿が背負いました。そしてその婿は、自分に血がつながっていないことを口に出したと、東善寺は伝えています。

資料を並べてみると、誰が誰を助けたのかさえ、書き方が分かれます。三野村家なのか大隈家なのか、いつからなのか。当事者に近い人が書いた記録と、東善寺が伝える話が、同じ筋をなぞっていません。

それでも共通しているのは、小栗家の人々が、幕臣の家を失ったあとに周囲の手を借りて生き延びたということです。

三野村はかつて小栗家に雇われていた人で、大隈夫人は東善寺によれば忠順のいとこでした。縁故をたどって支えられたことになります。

小栗忠順という人物については、こちらの記事でまとめています。

なぜ取り調べもなく斬首されたのかは、こちらで検証しました。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の人物関係は、こちらでまとめています。

あなたは、この家の続き方から何を読み取りますか。

参考資料

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