徳川将軍15人の名前を順に並べた表は、検索すればいくらでも出てきます。ただ、在職がいつ始まり、いつ終わったのかを、宣下の日と譲った日・亡くなった日で分けて書いた表は、上位の記事を見た範囲では見当たりませんでした。
もう一つ気になったのが西暦の欄です。多くの一覧表は、和暦の月日に西暦の年をそのまま添えています。慶喜の将軍宣下が1866年と書かれたり1867年と書かれたりするのは、そのためです。
15人の表を日付からそろえ直し、年齢は事典の数え年ではなく満年齢で書きます。
この記事の結論
徳川将軍は、初代家康から15代慶喜までの15人です。1603年(慶長8年)の家康の将軍宣下から、1867年(慶応3年)の慶喜の大政奉還まで、およそ265年続きました。
在職がいちばん長いのは11代家斉の約50年、いちばん短いのは15代慶喜の約1年です。
名前に「家」がつかないのは、秀忠・綱吉・吉宗・慶喜の4人だけです。墓所は日光に2人、芝の増上寺に6人、上野の寛永寺に6人、谷中に1人と分かれます。
- 15人
初代家康(1603年宣下)から15代慶喜まで - 約50年
在職がいちばん長い11代家斉(1787〜1837年) - 5人
将軍を実父に持たず、分家から継いだ人数(2代以降。家宣・吉宗・家斉・家茂・慶喜)
この記事では、15人の一覧表、覚え方、4つの時期に分けた流れ、2027年の大河ドラマに出る幕末の将軍、在職の始まりと終わりの数え方、墓所の一覧の順にたどります。
語り手として、徳川慶喜AI(徳川慶喜をモデルにしたAI)に登場してもらいます。15人の列を、いちばん後ろから眺めた人です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに徳川慶喜の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。慶喜は1913年(大正2年)に亡くなっているため、それ以降の出来事(霊廟の戦災や改葬、大河ドラマなど)は本人としては語らず、筆者が質問のなかで伝えます。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

慶喜公、はじめまして。あなたを含めた徳川将軍15人を、一つの表にします。宣下が慶応2年の12月、辞表が翌年の10月。表にすると、あなたの行がいちばん短くなります。ご自身なら、この一行に何を書きますか。

書くなら、宣下と上表と辞表、三つの日付で足りる。
一年ほど、と短さを数える者もおるそうじゃが、短い行ほど読み飛ばされる。それも悪うない。
して、そなたなら予の行に何を書く。表を作るのはそなたであろう。
徳川将軍15代の一覧表 読み方・続柄・在職と没年齢を一目で
徳川将軍15人の順番は、家康・秀忠・家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗・家重・家治・家斉・家慶・家定・家茂・慶喜です。表は代・名前(読み)・続柄・将軍宣下の日・在職の終わり・没年齢の6列にしました。
宣下(せんげ)は、朝廷が征夷大将軍に任じる手続きのことです。在職の始まりは将軍宣下の日、終わりは次の将軍へ譲った日か死去の日でそろえました。慶喜だけは例外として、王政復古による将軍職の廃止までを数えます。
| 代 | 将軍(読み) | 続柄・出身 | 将軍宣下(和暦=西暦) | 在職の終わり | 没年齢(満) |
|---|---|---|---|---|---|
| 初代 | 家康(いえやす) | 松平広忠の長男 | 慶長8年2月12日(1603年3月24日) | 1605年、秀忠に譲る | 73歳 |
| 2代 | 秀忠(ひでただ) | 家康の三男 | 慶長10年4月16日(1605年6月2日) | 1623年、家光に譲る | 52歳 |
| 3代 | 家光(いえみつ) | 秀忠の次男 | 元和9年7月27日(1623年8月23日) | 1651年、死去 | 46歳 |
| 4代 | 家綱(いえつな) | 家光の長男 | 慶安4年8月18日(1651年10月2日) | 1680年、死去 | 38歳 |
| 5代 | 綱吉(つなよし) | 家光の四男。家綱の弟 | 延宝8年8月23日(1680年9月15日) | 1709年、死去 | 62歳 |
| 6代 | 家宣(いえのぶ) | 甲府藩主徳川綱重の子(家光の孫)。綱吉の養子 | 宝永6年5月1日(1709年6月8日) | 1712年、死去 | 50歳 |
| 7代 | 家継(いえつぐ) | 家宣の子 | 正徳3年4月2日(1713年4月26日) | 1716年、死去 | 6歳 |
| 8代 | 吉宗(よしむね) | 紀伊藩主徳川光貞の四男 | 享保元年8月13日(1716年9月28日) | 1745年、家重に譲る | 66歳 |
| 9代 | 家重(いえしげ) | 吉宗の長男 | 延享2年11月2日(1745年11月24日) | 1760年、家治に譲る | 49歳 |
| 10代 | 家治(いえはる) | 家重の長男 | 宝暦10年9月2日(1760年10月10日) | 1786年、死去 | 49歳 |
| 11代 | 家斉(いえなり) | 一橋治済の子。家治の養子 | 天明7年4月15日(1787年5月31日) | 1837年、家慶に譲る | 67歳 |
| 12代 | 家慶(いえよし) | 家斉の次男 | 天保8年9月2日(1837年10月1日) | 1853年、死去 | 60歳 |
| 13代 | 家定(いえさだ) | 家慶の四男 | 嘉永6年10月23日(1853年11月23日) | 1858年、死去 | 34歳 |
| 14代 | 家茂(いえもち) | 紀伊藩主徳川斉順(家斉の子)の子 | 安政5年10月25日(1858年11月30日) | 1866年、死去 | 20歳 |
| 15代 | 慶喜(よしのぶ) | 水戸藩主徳川斉昭の七男。一橋家を継ぐ | 慶応2年12月5日(1867年1月10日) | 1867年に大政奉還と辞表。慶応3年12月(1868年1月)の王政復古で将軍職は廃止 | 76歳 |
生没年月日と続柄、宣下の日はコトバンクの各人物の項目(ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典・日本大百科全書ほか)によります。
西暦の換算日は、Wikipedia日本語版の各元号の記事(「天明」など)にある西暦との対照表(各月1日のグレゴリオ暦)から日数を足した値で、事典の記述そのものではありません。
秀忠の宣下日は、慶長10年4月7日とする事典もあります。表はブリタニカと山川の4月16日を採りました。
読み方でつまずきやすいのは、家宣(いえのぶ)、家斉(いえなり)、家慶(いえよし)の3人でしょう。家重(いえしげ)と家茂(いえもち)も、字面が似ています。
満年齢で書き直すと、家継は満3歳で将軍になり、満6歳で亡くなっています。日本人名大辞典の「5歳で将軍、8歳で死去」は数え年の書き方です。事典の「75歳」「77歳」も数え年で、満年齢では家康73歳、慶喜76歳です。

7代の家継さんのことを聞かせてください。宣下のとき、満3歳です。

座るだけなら、三つの童にもできる。その御代の政は間部詮房と新井白石が担うた、と伝わっておる。
さて、将軍とは座る者を指すのか、座を支える者を指すのか。予に答えがないわけではないが、ここでは言わずにおこう。
七代目の行には、どちらの名を載せる。
将軍の継承で注目したい「初めて」は3つあります。2代以降で将軍を実父に持たない最初の例が家宣、御三家出身で最初が吉宗、御三卿出身で最初が家斉です。
江戸時代の年表を扱った記事の「徳川15代将軍でたどる江戸時代」の表は、和暦の年に西暦を対応させて並べています。慶喜の就任が1866年と置かれているのはそのためで、本記事の1867年1月10日と同じ日を指しています。
将軍の代替わりと出来事を年の順に追うなら、そちらが向いています。
徳川将軍の覚え方は?語呂合わせと「家」のつかない4人で15人を並べる
覚え方は、語呂合わせで順番を、「家」のつかない4人で位置を押さえる、二段構えが向いています。替え歌で覚える方法も、受験向けのサイトで紹介されています。
広く使われている語呂合わせが、「徳川は、家康ひみつ、つの、つよし、はなよ、さもよし、15代」です。今回確認した範囲では作者も初出も分からず、2017年のQ&Aサイトの回答や受験向けの解説サイトに載っています。
参考:徳川15代将軍の覚え方6選!|日本史事典.com
参考:徳川将軍の覚え方(2017年7月の回答)|Yahoo!知恵袋
一文字ずつ当てると、こうなります。ひ=秀忠、み=家光、つ=家綱、つ=綱吉、の=家宣、つ=家継、よ=吉宗、し=家重、は=家治、な=家斉、よ=家慶、さ=家定、も=家茂、よし=慶喜。
「つ」が3回、「よ」が3回出てくるのが弱点です。そこで二段目として、名前に「家」がつかない4人の位置を覚えます。
- 2代 秀忠(ひでただ):初代家康の三男。「家」は家康にあやかった字で、3代家光以降の将軍に多く使われる
- 5代 綱吉(つなよし):4代家綱の弟。兄に男子がなく、弟が継いだ
- 8代 吉宗(よしむね):紀伊藩主から、御三家で初めて将軍家を継いだ
- 15代 慶喜(よしのぶ):水戸藩主の七男で、一橋家を経て将軍になった最後の一人
この4人は、2・5・8・15と間隔をあけて並びます。
4人の位置さえ入っていれば、あいだを「家」のつく人で埋める形で思い出せるのです。
4人のうち、将軍の子として生まれていないのは吉宗と慶喜の2人です。吉宗は紀伊から、慶喜は水戸から来ました。綱吉は3代家光の子ですが、先代家綱の弟として継いでいます。
もう一つ、受験向けの解説では、家康〜家光を「幕府の基礎固め」、綱吉〜吉宗を「政治改革と財政問題」、家斉〜慶喜を「幕府の衰退と開国」と3つに分ける整理法があります。次の章では、これを4つの時期に組み直してたどります。

いまの学生が使う語呂合わせの、最後の『よし』があなたです。『……はなよ、さもよし、15代』と締めます。

十五人を一息で言えるとは、結構な仕掛けじゃ。もっとも、締めの『よし』は予じゃと申すが、八代の吉宗公も『よし』で始まる名であろう。
『よし』が二つ並べば、どちらかは忘れられる。どちらが忘れられるかまでは、予の知ったことではないのう。
初代〜12代の徳川将軍を4つの時期で覚える
家康から家慶までの12人を、家康〜家光、家綱〜家継、吉宗〜家治、家斉〜家慶の4つの時期に分けてたどります。幕末の家定〜慶喜は、次の章で大河ドラマとあわせて扱います。
初代家康〜3代家光 幕府の土台と「大御所」という仕組み
家康は在職2年2か月で将軍職を秀忠に譲り、大御所として実権を持ち続けました。大御所は、将軍職を譲った前将軍を指す言葉です。
参考:大御所|コトバンク
家康の生年は、事典によって1542年とも1543年とも書かれます。生まれたのは天文11年12月26日で、西暦に換算すると1543年1月31日。1542年は、天文11年に西暦の年を対応させた書き方です。
秀忠も1623年(元和9年)に家光へ譲り、大御所になりました。将軍職を早めに譲って世襲を示し、前将軍が後ろ盾になる形が、最初の3代で定まります。
- 1603年(慶長8年):家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く
- 1605年(慶長10年):家康が秀忠に将軍職を譲り、大御所になる
- 1615年(元和元年):大坂の陣で豊臣氏が滅び、武家諸法度・禁中並公家諸法度が出される
- 1635年(寛永12年):家光が武家諸法度を改め、参勤交代を制度にする
- 1637〜41年(寛永14〜18年):島原・天草一揆。ポルトガル船の来航禁止と出島への移転で、いわゆる鎖国体制が整う
家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で亡くなり、久能山に葬られました。翌年、遺言により日光へ移されます。この経緯は、墓所の章でもう一度触れます。
参考:徳川家康 将軍家蔵書からみるその生涯「家康の死」|国立公文書館
関ヶ原の戦いから家光の時代までの流れは、学習まんがの通史で追うこともできます。
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この本の読みどころ
- 第9巻は江戸時代前期。関ヶ原の合戦と江戸幕府の始まり、家光による参勤交代の制度化と鎖国を扱い、この章の範囲にあたります
- 【電子特別版】はまんがのみを収録した版です
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4代家綱〜7代家継 将軍の子が将軍を継がなくなる
4代家綱に男子がなく、弟の綱吉が5代を継ぎました。綱吉にも跡を継ぐ男子がなく、甥にあたる甲府藩主の家宣を養子にしています。将軍の子が将軍を継がない時代は、ここから始まります。
家光が亡くなってから家綱の宣下までは、約4か月あいています。家光の死去が慶安4年4月20日(1651年6月8日)、家綱の宣下が8月18日(10月2日)です。
死去から次の宣下まで3か月以上あくのは、ほかの代替わりでも同じです。家宣から家継までは約5か月半、家治から家斉までは約8か月半あいています。
| 代 | 将軍 | 事典が挙げる主な出来事 |
|---|---|---|
| 4代 家綱 | 家光の長男。満10歳で宣下 | 慶安事件(1651年)、明暦の大火(1657年)、末期養子の禁の緩和と殉死の禁止。保科正之らが補佐 |
| 5代 綱吉 | 家光の四男 | 堀田正俊を大老にした天和の治、湯島聖堂と朱子学の奨励、生類憐みの令、荻原重秀による貨幣改鋳、赤穂事件(1702〜03年) |
| 6代 家宣 | 綱重の子。1704年に綱吉の養子 | 柳沢吉保を退け、間部詮房・新井白石を登用(正徳の治)。生類憐みの令の廃止、閑院宮家の創設 |
| 7代 家継 | 家宣の子。満3歳で宣下 | 間部・新井白石の補佐で家宣の政策を継続。正徳金銀、海舶互市新例(1715年)。絵島事件(1714年) |
没年齢は家綱が満38歳、綱吉が満62歳、家宣が満50歳、家継が満6歳です。家綱と家継は40歳に届かず、跡継ぎの有無が代替わりの形を決めました。
綱吉の死因について、『改訂新版 世界大百科事典』は天然痘と書いています。15人のうち、事典が病名まで記す将軍は多くありません。
参考:徳川綱吉|コトバンク
8代吉宗〜10代家治 御三家から来た将軍と改革の時代
8代吉宗は紀伊藩主から将軍家を継いだ、御三家出身の最初の将軍です。宝永2年(1705年)に紀伊藩主となり、享保元年8月13日(1716年9月28日)に将軍宣下を受けました。
享保の改革、目安箱、公事方御定書は、この吉宗の時代のものです。
吉宗は在職29年あまりの1745年(延享2年)、長男の家重に譲って大御所になりました。家重の時代は側用人の大岡忠光が登用され、家治の時代には田沼意次が側用人から老中になります。
家重と家治は、どちらも満49歳で亡くなりました。家治は天明6年8月25日(1786年9月17日)に死去し、同年の旧暦9月8日に公表されました。この「死去と公表のずれ」は、あとの章でまとめます。
御三家と御三卿は、どちらも将軍家に跡継ぎがないときに備えた家ですが、成り立ちが違います。
- 御三家:尾張・紀伊・水戸の3家。家康の九男・十男・十一男(義直・頼宣・頼房)が祖。将軍を出したのは紀伊の吉宗と家茂の2人で、尾張からは出ていない
- 御三卿:田安・一橋・清水の3家。吉宗の子(宗武・宗尹)と家重の子(重好)が祖。藩を持たず、賄料10万石を与えられた。一橋から家斉が、水戸から一橋家に入った慶喜が将軍になった
その御三卿から、次の時期の家斉が出ます。
11代家斉〜12代家慶 約50年の在職と大御所時代
家斉の在職は、宣下から家慶に譲るまで約50年で、15人のなかでいちばん長い記録です。天明7年4月15日(1787年5月31日)に宣下を受け、天保8年4月2日(1837年5月6日)に譲りました。
| 項目 | 11代 家斉 | 12代 家慶 |
|---|---|---|
| 続柄 | 一橋治済の子。1781年(天明元年)に家治の養子 | 家斉の次男 |
| 将軍宣下 | 天明7年4月15日(1787年5月31日) | 天保8年9月2日(1837年10月1日) |
| 在職の終わり | 1837年、家慶に譲り大御所に | 嘉永6年6月22日(1853年7月27日)に死去 |
| 事典が挙げる出来事 | 松平定信の寛政の改革(1787〜93年)、文化・文政の町人文化、異国船打払令(1825年) | 水野忠邦の天保の改革(1841〜43年)、阿部正弘の登用、ペリー来航 |
| 没年齢 | 満67歳。子女は55人 | 満60歳 |
家斉の在職の始まりを1786年と書く事典もあります。1786年は家治の死去で宗家を継いだ年、1787年は宣下の年です。
家慶の宣下日を4月2日と書く事典もありますが、4月2日は家斉が将軍職を譲った日です。表には9月2日を採りました。
家慶が亡くなったのは、ペリーが浦賀に来航した嘉永6年6月3日(1853年7月8日)の19日後にあたります。天保の改革が2年で終わった事情は、こちらの記事で検証しています。

家斉さんが将軍を退いたのは天保8年の4月。あなたが生まれたのは、同じ天保8年の9月です。50年務めた人が退いた年に、1年で終わる人が生まれていました。

同じ年に、ひとつの五十年が終わり、ひとつの一年が始まっておったわけか。
もっとも家斉公は退いたあとも大御所として政を離れなんだ、と伝わる。座った年数と、幕府を見ておった年数は、別の勘定じゃ。
幕末の徳川将軍は誰?2027年大河『逆賊の幕臣』に出る家慶・家定・家茂・慶喜
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で配役が発表されている将軍は、12代家慶を宅麻伸さん、13代家定をふかわりょうさん、14代家茂を神尾楓珠さんの3人です。
| 将軍 | 配役(番組の役紹介の一部) | 事典で確認できる在職と出来事 |
|---|---|---|
| 12代 家慶 | 宅麻伸さん(「そうせい」とほほ笑みつつも大胆に采配を振るう) | 1837〜53年。天保の改革、阿部正弘の登用。ペリー来航の19日後に病死 |
| 13代 家定 | ふかわりょうさん(……孤独な将軍、その秘めたる本音は……) | 1853〜58年。日米和親条約(1854年)、ハリスを江戸城で引見(1857年)、将軍継嗣問題。日米修好通商条約調印の直後に病死 |
| 14代 家茂 | 神尾楓珠さん(……時代に翻弄された若き悲劇の将軍) | 1858〜66年。和宮降嫁(1862年)、将軍として上洛(在職中に3回)。第2次長州征討の最中に大坂城で病死 |
| 15代 慶喜 | 未発表(2026年10月21日時点) | 1867年1月宣下。第2次長州征討の中止、慶応の幕政改革、大政奉還、王政復古、鳥羽・伏見の戦い、謹慎 |
参考:2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」新キャスト発表!宅麻伸、ふかわりょう、神尾楓珠、岩田剛典、北村一輝、柄本明、江戸城で出会う人々を演じる|ステラnet
番組の紹介文にある「孤独な将軍」「悲劇の将軍」は、コトバンクの各項目には出てきません。
家定の在職は5年に届きません。在職中に大老となった井伊直弼が、将軍の跡継ぎを紀伊藩主の徳川慶福(のちの家茂)に決め、勅許を得ないまま条約に調印しました。反対派の処罰(安政の大獄)は、家定の死後に本格化します。
慶喜はこのとき、跡継ぎ候補として名前が挙がった側でした。
家茂は宣下と同じ日に慶福から家茂へ改名しました。満20歳で亡くなった、15人のなかで2番目に若い将軍です。
慶喜の宣下は慶応2年12月5日で、西暦に換算すると1867年1月10日になります。在職を「1866〜」と書く事典と「1867〜」と書く事典があるのは、和暦の年に西暦を対応させるか、日付を換算するかの違いです。
『逆賊の幕臣』の配役を人物関係ごとに整理した相関図と、慶喜を演じてきた歴代の俳優は、それぞれ別の記事にまとめています。

来年の芝居の役紹介を読みます。家定さんは『孤独な将軍、その秘めたる本音は……』。あなたの名は、まだ出ていません。

予の知らぬ世の芝居じゃ。孤独であったかどうかは、芝居を書く者が決めればよい。予が決めることではない。
選ばれなんだ者が、選ばれた御方を語るのも妙なものであろう。芝居のほうが、よほど自由に語れるのう。
この章で出てきた慶喜の生涯を、学習まんがで一冊にしたものがあります。
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この本の読みどころ
- 水戸藩主・徳川斉昭の七男に生まれ、一橋家を相続した慶喜が、将軍の跡継ぎ候補として名をあげられていく幕末を描く巻です
- 大政奉還に至る慶喜の生涯を描く学習まんがで、この章の13〜15代の範囲にあたります
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将軍の在職はいつ始まり、いつ終わる?宣下・辞職・死去と公表のずれ
在職の始まりは将軍宣下の日、終わりは譲った日か死去の日です(慶喜は例外として、王政復古による将軍職の廃止まで)。ただし事典が死去の日と公表の日を分けて記す将軍が5人いて、2週間から1か月ほどずれています。
始まりには、宣下のほかに家督を継いだ日があります。家定は嘉永6年7月に家督を継ぎ、宣下は10月23日でした(事典は家督を月まで記します)。家斉も、家治の死去で宗家を継いだのは1786年、宣下は翌年です。
どちらの日を始まりにするかで、資料の書き方は変わります。終わりは、譲った場合と、在職のまま亡くなった場合の2つです。譲ったのは家康・秀忠・吉宗・家重・家斉の5人で、いずれも大御所か前将軍として、その後も暮らしています。
亡くなった場合には、死去をすぐには公表せず、2週間から1か月ほどあとに発喪(はつも)した将軍がいるため、日付がもう一つ増えます。
- 10代 家治:天明6年8月25日(1786年9月17日)に死去し、同年の旧暦9月8日に公表
- 11代 家斉:天保12年閏1月7日(1841年2月27日)に死去し、同年の旧暦閏1月30日に公表
- 12代 家慶:嘉永6年6月22日(1853年7月27日)に死去し、同年の旧暦7月22日に公表
- 13代 家定:安政5年7月6日(1858年8月14日)に死去し、同年の旧暦8月8日に公表
- 14代 家茂:慶応2年7月20日(1866年8月29日)に大坂城で死去し、同年の旧暦8月20日に公表
参考:徳川家治|コトバンク
参考:徳川家斉|コトバンク
参考:徳川家茂|コトバンク
事典のなかには、家治の在職の終わりを9月8日、家斉の没日を閏1月30日とするものがあります。これは公表の日を取った書き方で、死去の日と対立する説ではありません。
事典が書く死因は、綱吉の天然痘、家茂は大坂城での病死、家慶はペリー来航の直後の病死、家定は条約調印の直後の病死です。15人の死因を一覧にした事典は、今回確認できませんでした。
慶喜の場合は、終わりが3段階に分かれます。慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上表し、10月24日(11月19日)に将軍職の辞表を出しました。
そして12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令で、将軍職そのものが廃止されます。
参考:徳川慶喜・昭武関係年表 一|松戸市戸定歴史館
参考:王政復古の大号令|国立公文書館
この記事の「約1年」は、宣下から王政復古までです。大政奉還で何が返され、何が残ったのかは、こちらで日付ごとにたどりました。

家茂さんの死去から公表までひと月、あなたの宣下までは4か月半。将軍のいない間が、それだけあります。

将軍の死をひと月のあいだ伏せる。それを、そなたの世では奇妙に思うか。……思うておる顔じゃな。
家治公も家斉公も、死去と公表の日は別であった。予のときだけ珍しいことではない。
四か月半のあいだ予が何を考えておったかは、聞かぬがよい。長州への兵を引いたことなら記録にある。
徳川将軍の墓所一覧 日光・増上寺・寛永寺・谷中の4か所
15人の墓所は、日光に2人、芝の増上寺に6人、上野の寛永寺に6人、谷中の寛永寺墓地に1人です。右の列は、各寺社の公式サイトの記述です(2026年10月21日時点)。
| 墓所 | 葬られた将軍 | 公式サイトが書いている現況 |
|---|---|---|
| 日光東照宮(栃木県日光市) | 初代 家康 | 元和2年4月17日に駿府城で没し、久能山に神葬。遺言により元和3年4月15日に日光へ移し、4月17日に正遷宮。寛永13年(1636年)に家光が造り替えた |
| 日光山輪王寺 大猷院(同) | 3代 家光 | 家光の廟所。境内に国宝・重要文化財22件、灯籠315基 |
| 増上寺 徳川将軍家墓所(東京都港区) | 2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂 | 正室5人、側室5人、子女を含め計38人を葬る。旧霊廟は戦災で焼失し、1958年に発掘調査のうえ改葬。拝観は有料(大人500円)。令和8年10月27日〜12月1日は券売所工事のため休所 |
| 寛永寺 徳川将軍御霊廟(東京都台東区) | 4代家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定 | 第二次大戦で大部分を焼失。勅額門・水盤舎・宝塔が現存し、位牌所は1963年に再建 |
| 谷中の寛永寺墓地(東京都台東区谷中7-2) | 15代 慶喜 | 都指定史跡「徳川慶喜墓」。神式の葬儀を遺言したため円墳状で、妻の墓と並ぶ。日暮里駅から徒歩約7分 |
参考:徳川将軍家墓所|境内散歩|増上寺
参考:境内案内(徳川将軍御霊廟)|寛永寺
参考:由緒|日光東照宮
参考:境内案内(大猷院)|日光山輪王寺
参考:徳川慶喜の墓|体験・観光スポット|台東区
参考:都指定文化財(史跡の一覧)|台東区
4代家綱の霊廟が上野に造られてから、寛永寺は増上寺とならぶ将軍家の菩提寺になりました。4代以降の将軍は、おおむねこの2つの寺に分かれて葬られています。
参考:寛永寺について|寛永寺
増上寺の墓所は、2026年10月27日から12月1日まで休所です。寛永寺の霊廟については、公式サイトに一般公開の記述がありません。
慶喜だけは、将軍家の霊廟に入っていません。明治になって公爵を授けられたことへの感謝から神式の葬儀を望んだ、と台東区のページは説明しています。
将軍家の霊廟(寺)に入らず、神式の墓に葬られたのは慶喜だけです。初代家康は、東照宮に神として祀られています。

あなたのお墓は谷中にあって、寛永寺の霊廟ではなく、円い塚の形です。神式のお墓として、いまは東京都の史跡になっています。

円い塚、しかも都の史跡とな。……ほう。
明治の三十五年に公爵を賜った身ゆえ霊廟に入らなんだ、とあれこれ読む者もおろうが、予は黙っておく。
それより、そなた。日光から谷中まで、十五人の墓を全部回るつもりか。静岡の三十年で、急ぐことは忘れ申した。ゆるりと回られよ。
よくある質問(FAQ)
徳川将軍の11代目は誰ですか?
徳川家斉(いえなり)です。一橋治済の子で、家治の養子となり、天明7年(1787年)に将軍宣下を受けました。1837年に家慶へ譲るまで約50年在職し、15人のなかでいちばん長く将軍を務めました。
徳川将軍の在職がいちばん短いのは誰ですか?
15代の徳川慶喜で、約1年です。慶応2年12月5日(1867年1月10日)に宣下を受け、慶応3年10月に大政奉還を上表し、将軍職の辞表を提出しました。同年12月9日(1868年1月3日)の王政復古で将軍職は廃止。次に短いのは家康の2年2か月です。
徳川将軍で読み方を間違えやすいのは誰ですか?
6代家宣(いえのぶ)、11代家斉(いえなり)、12代家慶(いえよし)です。14代家茂(いえもち)と9代家重(いえしげ)も字面が似ています。15人の読みは本文の一覧表に載せました。
徳川将軍はなぜ15代で終わったのですか?
15代慶喜が慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上表し、同年12月9日の王政復古の大号令で将軍職そのものが廃止されたためです。その後の戊辰戦争を経て、明治の新政府が形を整えました。
御三家と御三卿はどう違いますか?
御三家は尾張・紀伊・水戸で、家康の子が祖です。御三卿は田安・一橋・清水で、8代吉宗の子と9代家重の子が祖です。将軍を出したのは、御三家では紀伊(吉宗・家茂)、御三卿では一橋(家斉と、水戸から入った慶喜)です。
徳川将軍の墓はどこにありますか?
家康は日光東照宮、家光は日光山輪王寺の大猷院、秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂は増上寺、家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定は寛永寺、慶喜は谷中の寛永寺墓地です。増上寺の墓所は2026年10月27日〜12月1日休所です。
徳川将軍の覚え方の語呂合わせは、誰が作ったものですか?
「徳川は、家康ひみつ、つの、つよし、はなよ、さもよし、15代」の作者と初出は、今回確認した範囲では分かりませんでした。2017年のQ&Aサイトの回答や受験向けの解説サイトで広く使われています。
2代以降で、将軍を実父に持たない人は何人いますか?
家宣・吉宗・家斉・家茂・慶喜の5人です。家宣は甲府徳川家、吉宗と家茂は紀伊、家斉は一橋、慶喜は水戸から一橋家に入った人です。このほか5代綱吉は家光の子ですが、先代家綱の弟として継ぎました。
インタビュー後記 一覧表でいちばん読みでがあったのは「在職の終わり」の列
一覧表は順番を覚えるための道具だと思っていましたが、列を一つ足すだけで別の表になりました。足したのは「在職の終わり」の列です。
15人のうち、自分で将軍職を譲ったのは5人、在職のまま亡くなったのは9人、将軍職そのものが無くなったのは1人でした。最長と最短を比べるより、この内訳のほうが、私には幕府の265年を言い当てているように思えます。
譲った5人は、最初の2代と、中期の吉宗・家重、そして家斉に集まっています。幕末の4人は誰も譲ることができず、最後の一人は譲る相手を持ちませんでした。
表を作るときに決めたのは、3つです。
- 在職は宣下の日から、譲った日か死去の日まで。慶喜は例外として、王政復古による将軍職の廃止まで。家督を継いだ日や公表の日と混ぜない
- 西暦の月日は、和暦の日付を換算した値を括弧で添える。年だけのときは和暦の年に対応する西暦年を使う
- 年齢は満年齢。事典の数え年は、本文で基準の違いが分かるように添える
表の一行がいちばん短い人が、15人の列の全部を見渡せる位置にいたことになります。
江戸時代の制度や暮らしを通して知りたい方は、時代そのものをまとめた記事もあります。
参考資料
- コトバンク「徳川家康」※生没年月日(天文11年12月26日。事典により1542年・1543年と割れること)、松平広忠の長男、慶長8年の将軍宣下、1605年に秀忠へ譲り大御所となったこと、久能山から日光への改葬の出典
- コトバンク「徳川秀忠」※家康の三男、宣下日が4月16日と4月7日に割れること、1623年に家光へ譲ったこと、増上寺に葬られたことの出典
- コトバンク「徳川家光」※秀忠の次男、元和9年7月27日の宣下、慶安4年4月20日の死去、参勤交代の制度化と島原・天草一揆の出典
- コトバンク「徳川家綱」※家光の長男、慶安4年8月18日の宣下、慶安事件・明暦の大火・末期養子の禁の緩和・殉死の禁止、寛永寺に葬られたことの出典
- コトバンク「徳川綱吉」※家光の四男、延宝8年8月23日の宣下、天和の治・湯島聖堂・生類憐みの令・貨幣改鋳、死因を天然痘とする『改訂新版 世界大百科事典』の記述の出典
- コトバンク「徳川家宣」※綱重の子で1704年に綱吉の養子となったこと、宝永6年5月1日の宣下、正徳の治と生類憐みの令の廃止の出典
- コトバンク「徳川家継」※家宣の子(三男・四男で割れる)、正徳3年4月2日の宣下、正徳6年4月30日の死去、就任・没年齢が事典で数え年で書かれていることの出典
- コトバンク「徳川吉宗」※光貞の四男、1705年に紀伊藩主、享保元年8月13日の宣下、1745年に家重へ譲ったこと、享保の改革・目安箱・公事方御定書・御三卿の創設の出典
- コトバンク「徳川家重」※吉宗の長男、延享2年11月2日の宣下、1760年に家治へ譲ったこと、大岡忠光の登用の出典
- コトバンク「徳川家治」※家重の長男、宝暦10年9月2日の宣下、天明6年8月25日の死去と9月8日の発喪、山川が在職の終わりを9月8日とすること、田沼意次の出典
- コトバンク「徳川家斉」※一橋治済の子、1781年に家治の養子、天明7年4月15日の宣下、1837年に家慶へ譲ったこと、没日が閏1月7日と閏1月30日(発喪)で書き分けられること、子女55人の出典
- コトバンク「徳川家慶」※家斉の次男、天保8年の就任、嘉永6年6月22日の死去(ペリー来航直後)、天保の改革と阿部正弘の登用の出典
- コトバンク「徳川家定」※家慶の四男、嘉永6年7月の家督(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)と10月23日の宣下、安政5年7月6日の死去と8月8日の発喪、日米和親条約・ハリス引見・将軍継嗣問題の出典
- コトバンク「徳川家茂」※斉順の子、安政5年10月25日の宣下と同日の改名、和宮降嫁、上洛、慶応2年7月20日に大坂城で病死し8月20日に発喪したことの出典
- コトバンク「徳川慶喜」※水戸藩主斉昭の七男、一橋家相続、慶応2年12月5日の宣下、在職の始まりが1866年と1867年で書き分けられること、没年齢77歳(数え)の出典
- コトバンク「御三家」※尾張・紀伊・水戸の祖が義直・頼宣・頼房であること、紀伊から吉宗・家茂が出たことの出典
- コトバンク「御三卿」※田安・一橋・清水の祖、賄料10万石、一橋から家斉、水戸から一橋家に入った慶喜が将軍になったことの出典
- コトバンク「江戸幕府」※慶長8年2月12日の開府と、大政奉還の上表(10月14日)・勅許(15日)の出典
- コトバンク「大御所」※将軍職を譲った前将軍を指す語の説明の出典
- 増上寺「徳川将軍家墓所|境内散歩」※6人の将軍と正室5人・側室5人・計38人、戦災による焼失と1958年の改葬、拝観料、令和8年10月27日〜12月1日の休所の出典
- 寛永寺「境内案内(徳川将軍御霊廟)」※6人の将軍、戦災による焼失、勅額門・水盤舎・宝塔の現存、位牌所の1963年再建の出典。一般公開についての記述がないことの確認にも使いました
- 寛永寺「寛永寺について」※家綱の霊廟造営から将軍家の菩提寺を兼ねるようになったことの出典
- 日光東照宮「由緒」※元和2年4月17日の死去と久能山への神葬、元和3年4月15日の日光への遷座と4月17日の正遷宮、寛永13年の造替の出典
- 日光山輪王寺「境内案内」※大猷院が家光の廟所であること、国宝・重要文化財22件、灯籠315基の出典
- 台東区「徳川慶喜の墓|体験・観光スポット」※谷中7-2の寛永寺墓地、都の史跡であること、神式の葬儀を遺言した経緯と円墳状の墓、妻の墓と並ぶこと、日暮里駅から徒歩約7分の出典
- 台東区「都指定文化財」※史跡の一覧に「徳川慶喜墓」(寛永寺墓地、谷中七丁目)が載っていること(史跡の名称の出典。2025年11月7日更新のページを2026年10月21日に確認)
- 松戸市戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表 一」※家茂の死去(7月20日)、慶喜の宣下(12月5日)、大政奉還、10月24日の将軍職辞表、王政復古の出典
- 国立公文書館「徳川家康 将軍家蔵書からみるその生涯|家康の内政・外交」※慶長8年(1603年)の将軍任官の出典
- 国立公文書館「徳川家康 将軍家蔵書からみるその生涯|家康の死」※元和2年4月17日に駿府城で没したことの出典
- 国立公文書館「日本のあゆみ|王政復古の大号令」※慶応3年12月9日の王政復古の大号令の出典
- 徳川記念財団「德川宗家について」※初代家康から15代慶喜までが征夷大将軍であったことの出典
- 日本史事典.com「徳川15代将軍の覚え方6選!」※語呂合わせ「徳川は、家康ひみつ、つの、つよし、はなよ、さもよし、15代」が受験向けの解説サイトに載っていること、替え歌の覚え方が紹介されていることの出典
- Yahoo!知恵袋「徳川将軍の覚え方」(2017年6月の質問・7月の回答)※同じ語呂合わせが2017年の回答に載っていることの出典。作者・初出を示す記述はありません
- 家庭教師のアルファ「徳川15代将軍の覚え方」※「家」のつかない4人(秀忠・綱吉・吉宗・慶喜)に注目する整理法の出典
- 現論会 藤沢校「徳川将軍一覧」※家康〜家光・綱吉〜吉宗・家斉〜慶喜の3区分で覚える整理法の出典
- ステラnet「2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』新キャスト発表!宅麻伸、ふかわりょう、神尾楓珠、岩田剛典、北村一輝、柄本明、江戸城で出会う人々を演じる」※徳川家慶(宅麻伸さん)・家定(ふかわりょうさん)・家茂(神尾楓珠さん)の配役と、番組の役紹介の文言の出典(2026年10月21日に確認)
- BOOK☆WALKER『日本の歴史(9)【電子特別版】 江戸幕府、始動 江戸時代前期』※作品紹介(第9巻が江戸時代前期を扱い、電子特別版はまんがのみを収録すること)と販売状況の出典(2026年10月21日時点)
- 紀伊國屋書店「角川まんが学習シリーズ 日本の歴史〈9〉江戸幕府、始動 江戸時代前期」※内容説明(関ヶ原の合戦、江戸幕府の始まり、家光の参勤交代と鎖国)と目次(第1〜3章)の出典(2026年10月21日に確認)
- BOOK☆WALKER『コミック版 日本の歴史 幕末・維新人物伝 徳川慶喜』※作品紹介(斉昭の七男・一橋家相続・将軍継嗣候補・大政奉還までを描くこと)と販売状況の出典(2026年10月21日時点)










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