王政復古の大号令とは?大政奉還との違いをわかりやすく慶喜AI・具視AIと検証

osei fukko eyecatch 出来事

返された55日後に、受け取った側が「幕府をやめる」と宣言しました。王政復古の大号令を大政奉還と並べて読んだとき、私はこの順番に引っかかりました。

前作で、政権を返す手続きは2日で済んだと書きました。ところが、返された朝廷の側が、幕府の廃止を宣言するまでには55日ありました。しかもその朝、御所は5つの藩の兵に固められていました。

何が宣言され、何が決まらなかったのか。この記事は、事典と国立公文書館の記述、それに大号令の原文を並べて、大政奉還との違いをたどります。

この記事の結論

王政復古の大号令は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に天皇の名で出された宣言で、幕府と摂政・関白を廃し、総裁・議定・参与の三職を置くことを宣言しました。

大政奉還との違いは、将軍が申し出て朝廷が勅許した手続きか、朝廷側の宣言かです。大号令は、慶喜の大政返上と将軍職の辞退を聞き届けたうえで、幕府の廃止を宣言しました。

大号令で戦争が決まったわけではありません。同じ夜の小御所会議で辞官納地が決まりましたが、12月のうちに慶喜に有利な意見が優勢になり、年末には慶喜を議定に迎える案まで出ていました。それが鳥羽・伏見で覆ります。

  • 55日
    大政奉還の上表から大号令まで
  • 5藩
    御所を固めた薩摩・尾張・越前・土佐・安芸
  • 24日
    大号令から鳥羽・伏見の開戦まで

この記事では、読み方と日付から、大政奉還との違い、前夜から当日までの動き、小御所会議と辞官納地、そのあとの24日間、三職の顔ぶれ、版籍奉還・廃藩置県との違い、原文の読み方、年表まで、順にたどります。

語り手として、徳川慶喜AI(徳川慶喜をモデルにしたAI)と岩倉具視AI(岩倉具視をモデルにしたAI)に登場してもらいます。政権を返した側の将軍と、朝廷側にいて、事典と国立国会図書館が「暗躍」「画策」と記す公卿です。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。岩倉具視は1883年に亡くなっているため、没後に刊行された伝記『岩倉公実記』の内容は本人の記憶としては語りません。徳川慶喜は当日二条城におり、小御所会議には出席していないため、会議の様子は語りません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

岩倉さん、今日は王政復古の大号令についてうかがいます。前回は返した側の慶喜公に聞きました。今日は受け取った側です。あの日、御所で何が宣言されたのですか

岩倉具視AI
岩倉具視AI

慶応3年12月9日、御所の学問所で、天皇の御前に御沙汰書が下された。中身は三つじゃ。

慶喜殿の大政返上と将軍職の辞退を聞し召すこと。摂政・関白と幕府を廃し、総裁・議定・参与の三職を置くこと。そして諸事を神武創業の始めにもとづき、身分の別なく公議を尽くすこと。

幕府を廃す、と天皇の名で宣した日であった。わしがその朝どこにおったかは、そなたらの世の史料に譲ろう。

王政復古の大号令とは?いつ・どこで・誰が何を宣言したのか

王政復古の大号令は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所で、天皇の名で出されました。幕府と摂政・関白を廃し、総裁・議定・参与の三職を置く宣言です。

「王政復古」は、武家政治などが廃されて、もとの君主政体に戻ること(デジタル大辞泉)。基本の事項を表にまとめます。

項目内容
読み方おうせいふっこのだいごうれい
「王政復古」の意味武家政治や共和制などから、再び君主政体に戻ること。改訂新版 世界大百科事典は、イギリスのチャールズ2世の即位、フランスのルイ18世の即位、日本の明治維新の3例を挙げます
いつ(和暦)慶応3年12月9日
いつ(西暦)1868年1月3日。和暦では大政奉還と同じ慶応3年ですが、西暦では年が変わります
どこで京都御所。山川 日本史小辞典は「学問所」で下されたと記します。同じ日の夜の会議は小御所
誰が天皇の名で出されました。当日は薩摩・尾張・越前・土佐・安芸の5藩の兵が御所を警備し、討幕派と同調的な公卿・諸侯だけが参内しました
内容(3点)①慶喜の大政返上と将軍職辞退を聞き届ける ②摂政・関白と幕府を廃し、総裁・議定・参与の三職を置く ③神武創業の始めにもとづき、身分の別なく公議を尽くす
文書の呼び方「大号令」は通称。日本大百科全書は「告諭」、山川は「御沙汰書」、データベース「世界と日本」は「復古大号令」と呼びます
明治天皇当時満15歳(数え16歳)。同じ慶応3年の1月9日(1867年)に践祚

内容の3点は、改訂新版 世界大百科事典の整理にもとづきます。国立公文書館「日本のあゆみ」も、摂政・関白の廃止、幕府の廃止、三職の設置、神武創業への復古を挙げていて、要点は一致しています。

山川 日本史小辞典は、この文書を「天皇出席のもと、学問所で下された政体変革の御沙汰書」と説明します。大政奉還と将軍職辞任の申し出を認めたうえで、摂関・幕府など中央政府の制度をすべて廃止し、仮に三職を置くと宣言した、という要約です。

55日前の出来事である大政奉還の手続きと、「なぜ返したのか」をめぐる議論は、前作で書いています。

「王政復古の大号令」は通称で、事典や資料によって「告諭」「御沙汰書」「復古大号令」と呼び方が分かれます。本記事は通称で通します。

「誰が出したのか」は、二つに分けて答える必要があります。文書は天皇の名で出されました。一方で日本大百科全書は「倒幕派公卿と、尾張、越前、土佐、安芸、薩摩の5藩によるクーデター」と書きます。

岩倉について、山川 日本史小辞典は「王政復古の実現に暗躍した」、国立国会図書館「近代日本人の肖像」は「大久保利通らと王政復古を画策」と記します。本記事はこれらを事典の語として引き、これ以上の評価語を足しません。

音声で聞きたい方には、前作で紹介した堀口茉純さんの番組の、続きの回があります。本記事は番組の内容まで検証していないため、5藩の数え方や小御所会議の逸話の扱いは、本記事と違うところがあるかもしれません。

【PR】

堀口茉純『それなに?日本史 Vol.25 ~王政復古の大号令~』(著者本人の語り・58分)

Audibleの聴き放題に入っています(2026年9月30日時点。対象は入れ替わることがあります)。30日間の無料体験があります。

30日間の無料体験で聴いてみる

※無料期間が終わると通常料金で自動更新されます。

筆者
筆者

文書は天皇の名で出されています。ところが事典と国立国会図書館は、あなたの名を『暗躍』『画策』の語とともに挙げます。天皇の名と、あなたの名。この二つはどう並ぶのでしょうか

岩倉具視AI
岩倉具視AI

文書は天皇の名で下された。三職の姓名すら、本文では略されておる。わしの名が出るのは、そなたらの世の解説のほうじゃ。

慶応3年まで幽居の身であった者が、同じ年の暮れに大久保らと画策した。国会図書館はそう要約するそうな。暗躍、画策。あまり品のよい語ではないのう。

されど、わしが選び直す筋のものでもあるまい。旧例を守って国が立つなら、わしは何もいたしませぬ。

大政奉還と王政復古の大号令の違いは?返した側と受け取った側から見る

大政奉還は将軍が政権の返上を申し出て朝廷が勅許した手続きで、王政復古の大号令はそれを聞き届けたうえで朝廷側が幕府を廃した宣言です。間は55日。違いを3つの角度から確かめます。

違いを見る3つの角度
  • 誰が何をしたか|将軍の申し出(10月14日上表・15日勅許)と、天皇の名での宣言(12月9日)
  • 何が変わり、何が決まらなかったか|幕府の廃止は宣言されたが、徳川家の処遇は決まらなかった
  • 「約1年後」ではなく55日後|和暦では同じ慶応3年。西暦では年をまたぐ

どれも、返した側と受け取った側を並べると見えてくる違いです。1つずつ確かめます。

将軍が申し出て、天皇の名で宣言した

大政奉還は、15代将軍徳川慶喜が政権の返上を朝廷に申し出た手続きです。慶応3年10月14日(1867年11月9日)に上表し、翌15日に勅許されました。主体は将軍で、朝廷はそれを許す側でした。

大号令は逆です。文書は天皇の名で出され、事典はその主体を討幕派の公卿と5藩に置いています。ブリタニカは、討幕派とこれに同調的な公卿・諸侯のみを参内させ、天皇の前で御前会議を開いて大号令が発せられた、と記します。

将軍職の辞退は、大政奉還とは別に10月24日に申し出られていました。佛教大学の青山忠正氏は京都市の幕末コラムで、その辞表の「受理は保留された」と書いています。

大号令の第1文は、その保留に答える形になっています。データベース「世界と日本」の翻刻では、慶喜の大政返上と将軍職辞退の「両条」を「断然」聞し召された、と読めます。原文は後の章で引きます。

つまり、政権の返上は10月15日に許され、将軍職の辞退は12月9日に聞き届けられました。青山氏は、慶喜は12月9日の政変で将軍辞任を認められるまで征夷大将軍だった、と説明しています。

何が変わり、何が決まらなかったか

大号令で決まったのは、幕府と摂政・関白の廃止、そして三職を置くことです。改訂新版 世界大百科事典は、内容を大政返上・将軍職辞退の許容、摂関・幕府の廃絶と三職の設置、神武創業と公議の3点に整理しています。

一方、決まらなかったのは徳川家の処遇です。慶喜の官職(内大臣)と領地をどうするかは大号令の宣言部分になく、同じ日の夜の小御所会議で「辞官納地」として決められました。

その辞官納地も、12月のうちに揺れます。山川 日本史小辞典「降官納地問題」の項は、年末には慶喜を前内大臣として新政府の議定に迎える案まで出ていた、と記します。この経緯は、大坂退去の章で確かめます。

大政奉還のときも、返された朝廷にすぐ政権を担当できる実力はなかった、と茨城県立歴史館は書いていました。返上と廃止のどちらも、それだけで「その先」が決まる出来事ではありませんでした。

「約1年後」ではなく55日後

大政奉還の上表(慶応3年10月14日)から大号令(12月9日)までは、西暦に直すと1867年11月9日から1868年1月3日までの55日です。

「王政復古の大号令は大政奉還の約1年後」という文を、検索のサジェストで見かけます。事典の日付と合いません。「1867年の大政奉還」と「1868年の王政復古」を並べると1年の差があるように見えますが、和暦ではどちらも慶応3年の出来事です。

55日のあいだには、10月24日の将軍職辞退の申し出、11月15日の近江屋事件(坂本龍馬没)、そして12月8日夜の朝議がありました。前二つは前作の年表に、8日夜からは次の章に書きます。

この年のまたぎ方は、江戸時代の終わりを1867年とするか1868年とするかにも関わります。同じ論点を、江戸時代の年表の記事でも実例として扱っています。

ここで、二人に同じ問いを投げます。二人がこの件で語り合った記録は、本記事では確認できていません。

筆者
筆者

お二人にうかがいます。政権の返上は10月15日に許され、将軍職の辞退は12月9日に聞き届けられた。返した側と受け取った側で、この順番の見え方は違いますか

徳川慶喜AI
徳川慶喜AI

返した側から申そう。10月14日に政権を返す上表を出し、翌15日に勅許が下りた。24日には、将軍の職も辞したいと別に申し出た。

その辞表は受理を保留されたまま、12月9日の御沙汰書で、返上と辞退の両条を聞し召す、となった。政権は10月、職は12月。

二つが別の日に受け止められたわけは、予から申すまい。見え方が違うかどうかは、隣の御仁に聞かれよ。

岩倉具視AI
岩倉具視AI

見え方は、さして変わりませぬ。10月15日に朝廷は政権の返上を許した。将軍の職の辞退は24日に別の申し出があり、こちらは留め置かれた。

12月9日の御沙汰書は、その両条を『断然』聞し召す、と述べておる。辞退が聞き届けられたのは、ここじゃ。

許した日と、聞き届けた日が分かれた。その間に朝廷の内で何があったかは、わしは黙っておく。黙るのも、公家の芸のうちよ。

王政復古の大号令はなぜクーデターと呼ばれるのか?12月8日の夜から9日の朝まで

前夜の朝議で長州藩と討幕派公卿の免罪が決まり、9日の早暁に薩摩・尾張・越前・土佐・安芸の5藩の兵が御所を警備しました。参内する者を選び、天皇の前で大号令が出されます。事典の多くは、この一連の手順を「クーデター」と呼びます。

和暦出来事出典
12月8日夜朝議で、表向きは朝敵とされていた長州藩と討幕派公卿らの免罪が可決されるブリタニカ
12月9日早暁薩摩・尾張・越前・土佐・安芸の5藩の兵が御所を警備ブリタニカ・日本大百科全書
9日討幕派とこれに同調する公卿・諸侯のみを参内させる。摂政らには参内停止の命令ブリタニカ・山川
9日天皇出席のもと、学問所で大号令(御沙汰書)が下される山川
9日三職を任命山川
9日夕刻〜小御所会議。辞官納地を決定山川・デジタル大辞泉

長州藩は、当日の5藩に入っていません。ブリタニカは、12月8日夜の朝議で長州藩と討幕派公卿らの免罪が可決されたあと、翌9日早暁に5藩の兵で御所を警備した、と順に書いています。前夜まで長州は「表向きは朝敵」でした。

計画した側と、当日の兵は分けて書く必要があります。改訂新版 世界大百科事典は、計画の中心を「長州・薩摩の朝廷方(大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允)や岩倉具視ら」と記します。一方、御所を固めたのは上の5藩です。

当日の手順を、ブリタニカは次のように書いています。

薩摩,尾張,越前,土佐,安芸の5藩兵で御所を警備し,討幕派およびこれに同調的な公卿,諸侯のみを参内させて,天皇の前で御前会議を開き

出典:コトバンク「王政復古」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

「6藩」「薩摩・長州・土佐」と書く解説を見かけますが、藩名を列挙する日本大百科全書とブリタニカはどちらも5藩です。本記事は事典の列挙に従います。

岩倉について、国立国会図書館は「四奸」の一人として非難され慶応3年まで幽居し、同年12月に大久保利通らと王政復古を画策した、と要約します。岩倉のその後と家系は、別の記事でたどっています。

「クーデター」の語を使う資料を並べます。日本大百科全書「5藩によるクーデター」、ブリタニカ「王政復古のクーデター」、百科事典マイペディア(岩倉具視の項)「王政復古のクーデタ」、旺文社日本史事典「クーデタを敢行」。

公的機関も同じ語を使います。国立国会図書館「近代日本人の肖像」は大久保利通を「岩倉具視らと結んで…王政復古のクーデターを敢行」と記し、茨城県立歴史館は「クーデター方式で決行」と書きます。

一方、山川 日本史小辞典「王政復古の大号令」の項は「政体変革の御沙汰書」と説明し、その項ではクーデターの語を使っていません。呼び方は資料によって違います。

筆者
筆者

前の夜に長州の免罪が決まり、翌朝に5藩の兵が御所を固めた、と事典は順に書いています。『薩摩・長州』と書く解説も見かけますが、当日の5藩に長州は入っていないのですね

岩倉具視AI
岩倉具視AI

入っておらぬ。8日の夜の朝議で、長州と討幕派の公卿の免罪が決まった。それまで長州は、表向き朝敵であったのじゃ。

明けて9日の早暁、御所を固めたのは薩摩・尾張・越前・土佐・安芸の5藩の兵。この列挙に、長州の名はない。

企てた側と、その朝に立った兵とは別のもの。事典は前者に長州・薩摩の者やわしの名を挙げ、後者を5藩と記す。その分け方に、わしも異は唱えませぬ。

小御所会議で辞官納地はどう決まり、「短刀一本」はどこまで確かめられるか

同じ日の夜、山内豊信・松平慶永らは慶喜の参内を求め、岩倉・大久保らは内大臣の辞退と領地の返上を主張して激論になりました。休憩の際に豊信らが妥協し、辞官納地が決まります。西郷隆盛の「短刀一本」の話は、事典7点に見えません。

事典で確かめられること・確かめられないこと
  • 出席者と争点|事典が書く範囲で、誰が何を主張したか
  • 「幼少の天皇を擁した専断」の非難と、岩倉の一喝|前者は事典に、後者はWikipediaが後世の伝記を初出に挙げる
  • 「短刀一本」の伝承元|事典に見えず、1937年刊の自叙伝が出典に挙げられる

石高については、この章では数字を書きません。その理由もあわせて確かめます。

出席者と争点は事典にどう書かれているか

デジタル大辞泉は小御所会議を「京都御所内の小御所で開かれた御前会議。大政奉還後の徳川氏処分を討議し、徳川慶喜に辞官納地を命ずることを決定した」と説明します。

出席者について、日本大百科全書は、総裁の有栖川宮、参与の岩倉具視のほか、徳川慶勝(尾張)、松平慶永(越前)、浅野長勲(安芸)、山内豊信(土佐)、島津忠義(薩摩)の諸侯を挙げます。大久保利通、後藤象二郎らの藩士も陪席しました。

慶喜は出席していません。改訂新版 世界大百科事典は「当時二条城にいた内大臣徳川慶喜」と記します。争点は、その慶喜を朝議に参加させるかどうかでした。

同事典によれば、山内豊信・松平慶永らの公議政体派は慶喜の参加を主張し、岩倉具視や大久保利通ら討幕派は、慶喜の内大臣職の辞退と徳川家領地の返上を主張して応酬しました。山川 日本史小辞典は「激論」と書きます。

討幕派の主張を、ブリタニカはこう要約しています。

慶喜は失政の罪を謝するため,内大臣の官位を辞し,領地を朝廷に返上すべきである

出典:コトバンク「小御所会議」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

山川によれば、休憩の際に豊信らが妥協に踏み切り、徳川慶勝と松平慶永が周旋にあたることになりました。決まったのは、慶喜の辞官(内大臣の辞退)と納地(領地の返上)です。

表記は資料で分かれます。デジタル大辞泉・世界大百科事典・日本大百科全書・ブリタニカは「辞官納地」、山川は「降官納地」と書き、「辞官納地問題とも」と添えています。本記事は「辞官納地」で通します。

石高は書きません。コトバンク「小御所会議」に収められた事典7点は、返上する領地の石高を書いていません。本記事が見た解説のなかでも400万石・700万石・半分と数字が割れますが、本記事はどれも採りません。

「幼少の天皇を擁した専断」の非難と、岩倉の一喝

改訂新版 世界大百科事典は、公議政体派が「幼少の天皇を擁した討幕派の専断をはげしく非難」した、と書きます。事典で確かめられるのは、この非難の趣旨までです。

明治天皇は当時、満15歳でした。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)の生まれで、慶応3年1月9日に践祚しています。明治神宮が践祚のときを「16歳」と書くのは数え年です。

これに対して岩倉が言い返したとされる場面は、ドラマや解説でよく知られています。しかし、その言葉はコトバンク収録の事典7点には見えません。日本大百科全書の山内豊信の項も、岩倉具視と「大激論」したと書くだけで、文言は載せていません。

Wikipedia「王政復古 (日本)」は、この一喝の初出を『岩倉公実記』(多田好問編、1906年)とし、同時代の史料には見えないと注記しています。本記事は同書の該当箇所を確認していません。

『岩倉公実記』は、岩倉の没後(1883年)に編まれた伝記です。事典で確かめられる非難の趣旨と、Wikipediaが初出とする後世の伝記の言葉とでは、確かめられている度合いが違います。本記事の岩倉AIには、この場面を本人の記憶として語らせません。

「短刀一本」の伝承元

西郷隆盛が休憩の際に「短刀一本」に触れる発言をした、という話も広く知られています。この話は、コトバンク「小御所会議」に収められた事典7点のどれにも見えません。日本大百科全書が西郷について書くのは「西郷隆盛の裏工作」までです。

Wikipedia「小御所会議」は、この話の出典として『浅野長勲自叙伝』(浅野長勲述・手島益雄編、平野書房、1937年)を挙げ、『岩倉公実記』『丁卯日記』などには見えないと注記しています。浅野長勲は、日本大百科全書が出席者に挙げる安芸の諸侯です。

国立国会図書館サーチで同書の書誌は確認できますが、本記事は本文を確認していません。出席者の一人の口述をまとめ、1937年に刊行された自叙伝が出典に挙げられている、と書くにとどめます。

確認できないことは、「なかった」ことではありません。本記事が言えるのは、事典には載っておらず、出典として挙げられる資料を本記事では読めていない、というところまでです。

西郷の生涯と、事典が「裏工作」と記す時期の動きは、人物の記事でたどれます。

筆者
筆者

その夜の小御所会議です。事典は『激論』と書き、休憩のあいだに妥協があったと記します。何が争点で、何が決まったのですか

岩倉具視AI
岩倉具視AI

中心となった争点は、二条城におる慶喜殿を朝議の席に加えるか否かじゃ。豊信殿と慶永殿らは加えよと言い、わしと大久保らの側は、内大臣の辞退と領地の返上を求めた。

激論のすえ、休憩のあいだに豊信殿らが妥協し、慶勝殿と慶永殿が周旋にあたることになった。決まったのは辞官と納地。

ここまでは、事典の書くとおりじゃ。その先、わしが何を申し、どんな顔をしておったかは、後の世の書物に任せよう。

辞官納地はその後どうなった?慶喜の大坂退去から鳥羽・伏見までの24日

12月10日に松平慶永と徳川慶勝が朝命を伝え、慶喜は回答しないまま12日に二条城を出て大坂へ移りました。12月中に新政府内で公議政体派が優勢になり、年末には慶喜を議定に迎える案まで出ていました。開戦はその後です。

和暦西暦出来事
慶応3年12月10日1868年1月4日松平慶永・徳川慶勝が慶喜に辞官納地の朝命を伝える。慶喜は回答せず(改訂新版 世界大百科事典)
12月12日1月6日慶喜、二条城を出て大坂へ(戸定歴史館。茨城県立歴史館は大坂城に退いた日を13日と記す)
12月16日1月10日慶喜、大坂城で各国公使と会談(茨城県立歴史館)
12月中1868年1月新政府内で公議政体派の勢力が増し、納地問題も慶喜に有利な意見が優勢に(茨城県立歴史館)
年末1868年1月慶喜を前内大臣として新政府の議定に迎える案(山川 日本史小辞典)
12月25日1月19日江戸の薩摩藩邸焼き討ち
慶応4年1月1日1月25日慶喜「討薩の表」。旧幕府軍が京へ進発(茨城県立歴史館)
1月3日1月27日鳥羽・伏見の戦い。大号令から24日

大坂へ移った理由は、資料の説明として引きます。改訂新版 世界大百科事典は、王政復古に憤激する旧幕府軍・会津藩兵など約1万名が暴発することを恐れて、と書きます。茨城県立歴史館は、戦乱を回避するために家臣たちをなだめ、と説明します。

本記事は、この理由を慶喜AIに語らせません。事典と歴史館の説明であって、本記事では本人の言葉として確かめていないからです。

大号令のあとの12月は、一直線に開戦へ向かったわけではありません。茨城県立歴史館は、新政府内部でしだいに議定や参与に公議政体派の勢力が増大し、納地問題も幕府・慶喜に有利な意見が優勢になった、と書きます。

山川 日本史小辞典「降官納地問題」の項は、さらに踏み込んで書いています。

年末には慶喜は前内大臣と称し,政府の費用を諸大名と同様に負担するという条件で,新政府の議定に迎えられることになったが,会津藩や旗本の不満によって勃発した鳥羽・伏見の戦は,この政治的勝利を無に帰した

出典:コトバンク「降官納地問題」(山川 日本史小辞典 改訂新版)

「政治的勝利」とは、辞官納地を命じられた側の慶喜が、年末には議定として新政府に迎えられる見通しになっていたことを指します。それを鳥羽・伏見の戦いが覆した、という説明です。

ブリタニカも、5藩のうち土佐・尾張・越前の3藩は「依然旧幕府に同情的であって、新政府内は必ずしも統一されてはいなかった」と記します。

12月25日、江戸で薩摩藩邸の焼き討ちが起きます。茨城県立歴史館によれば、その報が届いたのち、慶喜は「討薩の表」を作り、慶応4年1月1日、「君側の奸」を除くと称して軍隊を京へ進めさせました。1月3日、鳥羽・伏見で開戦します。

開戦から江戸開城、箱館までの流れと、「なぜ戦争になったのか」の検証は、戊辰戦争の記事で書いています。

筆者
筆者

慶喜公、10日に慶永と慶勝が朝命を伝えに来て、12日には二条城を出ています。あの数日、何があったのですか

徳川慶喜AI
徳川慶喜AI

9日の夜、予は二条城におった。小御所の決め事は、翌10日に慶永と慶勝が朝命として持ってきた。予は、それに答えなんだ。

12日に城を出て、大坂へ移った。日付として申せるのは、それだけじゃ。

答えなんだことに何の含みがあったか。なぜ大坂であったか。そこは問われたところで、予は静かにしておく。静岡の三十年で、急いで語ることは忘れ申した。

三職とは?総裁・議定・参与に誰が就いたのか

総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は皇族2名・公卿3名・諸侯5名の10名、参与は岩倉ら公卿5名と、雄藩の藩士各3人でした。三職制は慶応4年閏4月21日の政体書で廃止されますが、議定・参与の名はその後もしばらく残ります。

三職の顔ぶれ(データベース「世界と日本」の人名注より)
  • 総裁|有栖川宮熾仁親王(当時満32歳)
  • 議定(10名)|皇族2名(仁和寺宮・山階宮)、公卿3名(中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之)、諸侯5名(尾張・越前・安芸・土佐・薩摩から各1名。徳川慶勝・松平慶永・山内豊信ら)
  • 参与(公卿5名)|大原重徳・万里小路博房・長谷信篤・岩倉具視・橋本実梁
  • 参与(藩士)|雄藩の藩士から各3人ずつ。ブリタニカは西郷隆盛・大久保利通らの名を挙げます

人名は、データベース「世界と日本」が大号令の翻刻に付けた注によります。同データベースはその注を『近代史必携』からの引用と記していますが、本記事は同書を確認していません。

総裁の有栖川宮熾仁親王は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」によれば、慶応3年に総裁職に就き、翌年には東征大総督を務めました。

参与の性格を、日本大百科全書はこう説明します。

参与は下級廷臣、藩士により構成されていた。廷臣出身のそれは上の参与、藩士いいかえれば徴士からなる参与は下の参与とよばれた

出典:コトバンク「参与」(日本大百科全書)

藩士の参与について、山川 日本史小辞典は「鹿児島・高知・福井などの雄藩(のち萩藩も加わる)の藩士各3人」と記します。藩士の総数と薩摩藩の人数は資料で割れるため、本記事は総数を書きません。

三職の日付は、資料によって整理が違います。大号令は12月9日に三職を置くと宣言し、国立公文書館も同日に三職が「置かれることとされました」と書きます。山川は同日に三職の任命が行われたとします。

一方、国立国会図書館「史料にみる日本の近代」は、明治新政府の最初の統治機構として、三職を慶応3年12月17日(1868年1月11日)に設置されたものと記します。本記事は、宣言と任命の日として12月9日を書いています。

岩倉の役職は、日本大百科全書によれば、参与、議定から副総裁兼海陸軍事務総督、会計事務総督、ついで大納言となり、1871年(明治4年)には右大臣に就いています。

三職の下には七科(のち八局)が置かれました。三職そのものの終わりを、日本大百科全書はこう書きます。

1868年(慶応4)閏4月21日、政体書に基づく太政官の復興により三職制は廃止されたが、議定、参与は議政官上局の構成員として翌年5月まで存続した

出典:コトバンク「参与」(日本大百科全書)

一方、山川とブリタニカは、議定の廃官を明治2年(1869年)7月の職員令とします。議定・参与が終わった月は、資料によって分かれます。

参与となった大久保利通の生涯と、国立国会図書館が「クーデターを敢行」と要約する経歴は、人物の記事で書いています。

筆者
筆者

三職のうち、あなたは参与に就きました。役職の名は大号令の文面にもあります。そのあと、どんな職を歩んだのですか

岩倉具視AI
岩倉具視AI

御沙汰書に名のある職のうち、わしが就いたのは参与じゃ。公卿の参与は五人で、わしはその一人。

そのあと議定に移り、副総裁として海陸軍の事務総督を兼ね、会計の事務総督も務めた。ついで大納言、明治4年には右大臣。

三職そのものは、慶応4年閏4月の政体書で廃された。仮に置く、と御沙汰書にあったとおり、長くは続かなんだのう。家禄の乏しい家に生まれた者にしては、遠くまで来たものよ。

大政奉還・王政復古・版籍奉還・廃藩置県の違いと、江戸時代はいつ終わったのか

4つは主体も対象も違います。将軍の申し出(大政奉還)、朝廷側の宣言(大号令)、藩主の申し出を朝廷が許可(版籍奉還)、天皇の命令として布告(廃藩置県)という並びです。

項目大政奉還王政復古の大号令版籍奉還廃藩置県
いつ慶応3年10月14日(1867年11月9日)上表、15日勅許慶応3年12月9日(1868年1月3日)明治2年6月17日(1869年)明治4年7月14日(1871年)
誰が15代将軍徳川慶喜が朝廷に申し出天皇の名で。5藩の兵が御所を警備し、討幕派と同調的な公卿・諸侯だけが参内したなかで発せられた諸藩の藩主が申し出、朝廷が許可天皇の命令として布告
何を政権の返上大政返上・将軍職辞退を聞き届け、摂関・幕府を廃し、三職を置く土地(版)と人民(籍)を返す。藩主は知藩事に藩を廃して県を置く。3府302県、同年末に3府72県
そのあと将軍職の辞退は10月24日に別に申し出同夜の小御所会議で辞官納地を決定藩主は知藩事として引き続き藩を治める知藩事は東京へ

改訂新版 世界大百科事典「廃藩置県」の項は、版籍奉還との違いをこう説明します。前者は諮問という形で各藩に論議をつくさせて「奉還」を許可したのに対し、後者は天皇の一方的な命令として廃藩が布告された、と。

申し出る側と、命令・宣言する側という点に限れば、大政奉還と大号令も似た構図で整理できます。将軍が申し出て朝廷が許した形と、天皇の名で宣言した形の違いです。

江戸時代の終わりは、資料によって1867年とも1868年とも書かれます。日本大百科全書「江戸幕府」は1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還上表で閉じたとし、改訂新版 世界大百科事典も大政奉還までの265年と記します。

一方、区切りを王政復古の大号令に取り、その日付を西暦に直すと、1868年になります。和暦の慶応3年12月9日は、西暦では1868年1月3日です。どちらの出来事を区切りに取るかと、和暦か西暦かで、終わりの年が変わります。

五箇条の誓文(慶応4年3月14日)との違いは、FAQで書きます。江戸時代全体の区切り方と、鎖国・身分・暮らしの整理は、江戸時代の記事にあります。

筆者
筆者

将軍の職は、大号令で辞退が聞き届けられて終わりました。在職はおよそ1年。返した日、辞した日、廃された日が三つに分かれたことを、ご自身ではどう見ていますか

徳川慶喜AI
徳川慶喜AI

三つに分かれた、と言われればそのとおりじゃ。10月14日に政権を返し、翌15日に許された。24日に将軍の職を辞したいと申し出た。

12月9日の御沙汰書が、その両条を聞し召し、幕府を廃すと宣した。将軍の職は、この日に終わったことになる。宣下から数えて、およそ一年。

なぜ三つに分かれたのかと問われれば、予は黙る。言い切れぬことを言い切らぬのが、予の流儀じゃ。一年の将軍であったことだけは、予のものよ。

王政復古の大号令の原文で「神武創業の始」は何を意味したのか

原文は国立公文書館所蔵の『詔勅録』に収められ、翻刻をデータベース「世界と日本」(政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所)で確認できます。本記事はその翻刻から引きます。

宣言部分を、翻刻の表記のまま引きます。原文は句読点のない候文で、(中略)は本記事による省略です。翻刻にある重ね書きの表記(「廢廃」「之ノ」)は、一方に整えて引いています。

徳川内府從前御委任太政返上将軍職辭退之兩條今般斷然被 聞召候

(中略)抑癸丑以来未曾有之國難(中略)

王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今攝關幕府等廢絶即今先假ニ総裁議定参與ノ三職ヲ被置萬機可被為行

諸事神武創業之始ニ原ツキ、縉紳武辨堂上地下ノ無別至當ノ公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡念

出典:データベース「世界と日本」(政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所)「復古大号令」(典拠『詔勅録』)

読みどころを3つに分けます。

原文の3つの柱
  • 聞し召す|慶喜の大政返上と将軍職辞退の「両条」を「断然」聞き届けた
  • 廃絶と三職|「摂関幕府等廃絶」し、まず仮に「総裁議定参与ノ三職」を置く
  • 神武創業と公議|「諸事神武創業之始ニ原ツキ」、身分の別なく「至當ノ公議」を尽くす

第1文は、徳川内府(内大臣の慶喜)がこれまで委任されていた大政の返上と、将軍職の辞退の両条を、このたび断然聞き届けた、と読めます。

「癸丑以来未曾有之國難」の癸丑(きちゅう)は1853年、ペリー来航の年です。そこからの国難を挙げたうえで、王政復古・国威挽回の基を立てるので、摂関・幕府などを廃絶し、まず仮に三職を置く、と続きます。

「諸事神武創業之始ニ原ツキ」は、あらゆることを神武天皇の創業の始めにもとづいて行う、と読めます。続く一句を、山川 日本史小辞典は、身分を問わず公議を尽くす決意をのべたもの、と要約しています。

「神武創業」の評価について、改訂新版 世界大百科事典「王政復古」の項(執筆者:坂本多加雄)は、新政府が神武創業すなわち古代王制への復帰を理想として祭政一致を掲げ、神祇官の設置や神道思想の興隆に努めた、と書きます。そして、こう続けます。

西欧を範とする新国家の建設を可能にした反面で,西欧とは異質の伝統的な諸要素を復活強化することにもなった

出典:コトバンク「王政復古」(改訂新版 世界大百科事典、執筆者:坂本多加雄)

本記事は、これを同事典の評価として引くにとどめます。別条には、内覧・国事御用掛・議奏・武家伝奏・守護職・所司代の廃絶、太政官をおいおい興すこと、言路洞開と人材登用、物価の騰貴と貧富の問題、和宮の一日も早い還京を促す文言が並びます。

画像で見られる資料が、原本の記録なのか写しなのかは、分けて読む必要があります。国立公文書館「日本のあゆみ」が掲載するのは、太政官の記録『詔勅録』の画像です。早稲田大学図書館にある「王政復古の大号令」(九鬼文書)は、書写年不明の写しです。

筆者
筆者

『諸事神武創業之始ニ原ツキ』の一句を、事典は二つの面から評価しています。原文のこの箇所を、あなたの口で読み下していただけますか

岩倉具視AI
岩倉具視AI

読み下すなら、こうなろう。『諸事神武創業の始めに原づき、縉紳武弁堂上地下の別無く、至当の公議を竭し』。

公家も武家も、位の上も下も、別なく公議を尽くせ。そう述べておる。その前には『癸丑以来未曾有の国難』の一句がある。癸丑はペリーの来た年のことじゃ。

公家の家に生まれた者が、公家も武家も別なく、と宣した文を読み上げる。妙な巡り合わせよのう。この一句が後の世に何を生んだかの評価は、そなたらに任せる。

王政復古の大号令の流れを年表で確認(和暦・西暦)

ここまでの出来事を、和暦と西暦を並べた年表にまとめます。年齢は載せません。旧暦の生年月日から出来事ごとに満年齢を換算する必要があり、数え年とも混同しやすいためです。西暦の日付を検算できなかった項目は、年だけを書いています。

和暦西暦出来事
嘉永5年9月22日1852年11月3日明治天皇、京都に生まれる
慶応2年12月25日1867年1月30日孝明天皇没
慶応3年1月9日1867年明治天皇践祚
慶応3年10月14日1867年11月9日大政奉還を上表(15日勅許)
慶応3年10月24日1867年11月19日慶喜、将軍職の辞退を申し出る(受理は保留)
慶応3年11月15日1867年12月10日近江屋事件。坂本龍馬没
慶応3年12月8日夜1868年1月2日朝議で長州藩・討幕派公卿らの免罪を可決
慶応3年12月9日1868年1月3日早暁、5藩の兵が御所を警備。学問所で王政復古の大号令。三職を任命。夕刻から小御所会議、辞官納地を決定
慶応3年12月10日1868年1月4日松平慶永・徳川慶勝が慶喜に辞官納地の朝命を伝える
慶応3年12月12日1868年1月6日慶喜、二条城を出て大坂へ(茨城県立歴史館は大坂城に退いた日を13日とする)
慶応3年12月16日1868年1月10日慶喜、大坂城で各国公使と会談
慶応3年12月下旬1868年1月新政府内で公議政体派が優勢に。年末、慶喜を前内大臣として議定に迎える案
慶応3年12月25日1868年1月19日江戸の薩摩藩邸焼き討ち
慶応4年1月1日1868年1月25日慶喜「討薩の表」。旧幕府軍が京へ進発
慶応4年1月3日1868年1月27日鳥羽・伏見の戦い。大号令から24日
慶応4年1月6日1868年1月30日慶喜、大坂城を出て海路江戸へ
慶応4年1月15日1868年2月8日各国公使に王政復古を通告。同日、小栗忠順が御役御免
慶応4年3月14日1868年4月6日五箇条の誓文
慶応4年閏4月21日1868年6月11日政体書。三職制を廃止
明治2年6月17日1869年版籍奉還
明治4年7月14日1871年廃藩置県

年表の「1867年」と「1868年」は、矛盾ではありません。慶応3年は西暦の1867年から1868年にまたがるため、資料によって年の示し方が異なります。

慶応3年12月9日を西暦の日付に換算すると、1868年1月3日です。年だけを示す資料では、慶応3年に合わせて1867年と書かれることがあります。

換算の基準にしたのは、事典に西暦が併記されている日付です。慶応3年10月14日=1867年11月9日(百科事典マイペディア)、12月9日=1868年1月3日(デジタル大辞泉)などから前後を数え、矛盾がないことを確かめています。

年表の終わり近くにある慶応4年1月15日、小栗忠順の御役御免は、大号令の36日後です。ブリタニカは免官を大政奉還への反対と結びつけて書きますが、12月9日に小栗が関わったことは、今回確認した資料では確かめられません。

小栗の生涯と、2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公としての位置づけは、人物の記事で書いています。

よくある質問(FAQ)

王政復古の大号令の読み方と意味は?

「おうせいふっこのだいごうれい」と読みます。慶応3年12月9日(1868年1月3日)に天皇の名で出された宣言で、幕府と摂政・関白を廃し、総裁・議定・参与の三職を置くことを宣言しました。

王政復古の大号令はいつ?1867年と1868年のどちらですか?

和暦では慶応3年12月9日で、西暦に換算すると1868年1月3日です。和暦の年に西暦の年を対応させて「1867年」と書く資料もありますが、換算した日付は1868年です。

王政復古の大号令は誰が出したのですか?

文書は天皇の名で出されました。日本大百科全書は、倒幕派の公卿と、尾張・越前・土佐・安芸・薩摩の5藩によるクーデターと書き、国立国会図書館は大久保利通が岩倉具視らと結んで敢行した、と記します。

王政復古の大号令の内容を簡単に言うと?

3点です。①慶喜の大政返上と将軍職辞退を聞き届ける ②摂政・関白と幕府を廃し、総裁・議定・参与の三職を置く ③神武創業の始めにもとづき、身分の別なく公議を尽くす。改訂新版 世界大百科事典の整理によります。

大政奉還と王政復古の大号令の違いは?どっちが先ですか?

大政奉還が先です。大政奉還は将軍が政権の返上を申し出て朝廷が勅許した手続き(10月14日上表・15日勅許)、王政復古の大号令はそれを聞き届けたうえで朝廷側が幕府を廃した宣言(12月9日)です。

王政復古の大号令は大政奉還の約1年後ですか?

いいえ。上表の慶応3年10月14日(1867年11月9日)から大号令の12月9日(1868年1月3日)までは55日です。和暦では同じ慶応3年で、西暦で年が変わるため1年の差があるように見えます。

なぜ「クーデター」と呼ばれるのですか?

日本大百科全書やブリタニカ、国立国会図書館などが、5藩の兵で御所を警備し、参内する公卿・諸侯を選んで天皇の前で宣言した一連の手順を「クーデター」と呼んでいるためです。山川 日本史小辞典の「王政復古の大号令」の項は「政体変革の御沙汰書」と説明します。

小御所会議と辞官納地とは?

小御所会議は大号令の同じ夜、京都御所の小御所で開かれた御前会議です。徳川慶喜に内大臣の辞退(辞官)と領地の返上(納地)を命じることが決まりました。返上する石高は、事典7点には書かれていません。

西郷隆盛の「短刀一本」は本当にあった話ですか?

今回確認した事典7点には見えません。Wikipediaは出典として、出席者の浅野長勲の回想をまとめた『浅野長勲自叙伝』(1937年刊)を挙げています。本記事は同書を確認しておらず、あったともなかったとも断定しません。

王政復古の大号令と五箇条の御誓文の違いは?

大号令は慶応3年12月9日に幕府と摂政・関白を廃し三職を置くとした宣言、五箇条の誓文は慶応4年3月14日(1868年4月6日)に新政府の方針を示したものです。約3か月の間があります。

王政復古の大号令で江戸幕府は滅んだのですか?

幕府の廃止は大号令で宣言されました。ただし徳川家の処遇は決まらず、年末には慶喜を議定に迎える案まで出ていました。24日後の鳥羽・伏見の戦いで、その見通しが覆ります。

王政復古の大号令はどこで出されましたか?

京都御所です。山川 日本史小辞典は、天皇出席のもと「学問所」で下されたと記します。同じ日の夜の会議は、御所内の小御所で開かれました。

王政復古の大号令のとき明治天皇は何歳でしたか?

満15歳です。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)生まれで、慶応3年1月9日に践祚していました。数え年では16歳で、明治神宮が「16歳」と書くのは数え年です。

王政復古の大号令の覚え方は?

年号の暗記では、慶応3年=1867年として覚えることがあります。ただし西暦に換算した日付は1868年1月3日なので、「和暦では慶応3年の暮れ、西暦に換算すると1868年の年明け」と押さえておくと、年表の食い違いに迷いません。

インタビュー後記

前作の大政奉還で「返した側」に手続きだけを聞き、今回は「受け取った側」に同じことを聞きました。二人を並べて見えたのは、大号令が宣言したことと、宣言しなかったことの境目です。

幕府の廃止は、12月9日に宣言されました。しかし徳川家をどうするかは、その夜の小御所会議で決まったあとも12月いっぱい揺れていました。山川 日本史小辞典は、年末の議定就任案を「政治的勝利」と呼び、それを鳥羽・伏見が「無に帰した」と書いています。

大号令から開戦までの24日間は、一本の線ではありませんでした。この記事でいちばん確かめたかったのは、そこです。

名場面のことも書いておきます。岩倉の一喝と西郷の「短刀一本」は、コトバンクの事典7点に見えませんでした。出典として挙げられる伝記や自叙伝を、本記事は読めていません。だから「なかった」とは書かず、確かめられた範囲だけを書きました。

諸事神武創業之始ニ原ツキ

出典:データベース「世界と日本」(政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所)「復古大号令」(典拠『詔勅録』)

創業の始めに戻る、と宣言した新政府が、そのあと何を建て、何を復活させたのか。事典が「反面」と書き添えた部分を、この先の記事で追いかけたいと思っています。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、大号令の36日後にあたる小栗忠順の免官がどう描かれるのかを、見てから書くつもりです。あらすじの整理はこちらです。

参考資料

コメント

タイトルとURLをコピーしました