刑死者は8人。教科書の脚注で覚えたこの数字を、私は長いあいだ疑ったことがありませんでした。
ところが事典を引き比べると、同じ出版社の同じ事典のなかで、7人と書く項目と8人を名前で挙げる項目が並んでいました。処罰者の総数も、終わった日も、書き方が一つではありません。
なぜ起きたのか、誰が処罰されたのか。この記事は、事典と博物館の記述を出典ごとに並べて、その二つを確かめます。
この記事の結論
安政の大獄は、安政5年(1858年)から翌6年にかけて、大老井伊直弼が、自分の政治に批判的な公卿・大名・幕臣・志士を処罰した弾圧です。
なぜ起きたのかは、事典と博物館で力点が違います。多くの事典は反対派への弾圧と要約し、改訂新版 世界大百科事典と彦根城博物館は、朝廷から水戸藩に直接下された「戊午の密勅」を重くみます。本記事は一つに決めません。
刑死者の数は、7人と書く事典と8人と書く事典があります。処罰者の総数は100人を超えるというのが事典の共通の要約で、今回確認した事典のなかでは日本大百科全書だけが内訳を書いています。
- 100人超
処罰者数(事典の要約) - 7人か8人
刑死者。事典で割れます - 1年余り
安政5年9月から安政6年10月まで
この記事では、読み方と基本の事項から、「なぜ」をめぐる説明、戊午の密勅、処罰された人の一覧、逮捕から処刑までの流れ、幕臣への処分、桜田門外の変、蛮社の獄との違いまで、順にたどります。
語り手として、井伊直弼AI(井伊直弼をモデルにしたAI)と小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらいます。処罰を決めた大老本人と、大獄のさなかに目付に任じられた幕臣です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。井伊直弼は安政7年3月3日(1860年3月24日)に亡くなっているため、桜田門外の変とそれ以降は語りません。小栗忠順は1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。処罰の理由も本人には語らせず、事典と博物館の説明として本文で紹介します。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

井伊様、今日は安政の大獄についてうかがいます。人を裁いた側に理由を聞くのは筋が違うと思うので、理由はうかがいません。まず、大老として何を決めたのかを、手続きの範囲で教えてください

安政5年4月23日に大老の職に就き、6月19日に亜米利加との条約の調印に至り、25日に紀州の慶福殿を将軍の跡継ぎと定めた。
8月8日、朝廷から水戸へ勅諚が下った、とそなたらの世の事典は記すそうな。そのあと、9月から反対の者どもを捕らえ、処罰した。
手続きとして申せるのは、ここまでじゃ。処罰は予が決めたことにて候。
安政の大獄とは?いつ・誰が・誰を処罰したのか
先に、この章で確かめたことを書きます。安政の大獄は、安政5年(1858年)から翌6年(1859年)にかけて、大老の井伊直弼が、自分の政治に批判的だった公卿・大名・幕臣・志士を処罰した弾圧です。
「大獄」は大規模な逮捕・処罰のこと。基本の事項を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | あんせいのたいごく |
| 別名 | 戊午(ぼご)の大獄。「戊午」は安政5年の干支(えと) |
| いつ | 安政5年9月(1858年10〜11月)に逮捕が始まり、安政6年10月(1859年11月)の処刑まで。終わりの取り方は事典で違います |
| 誰が | 大老の井伊直弼。京都での逮捕は老中の間部詮勝が指揮 |
| 誰を | 一橋派・尊王攘夷派の公卿、大名、幕臣、志士 |
| 処罰者数 | 100人を超える(事典の共通の要約)。日本大百科全書は「志士以下の処罰者は75名」と幕吏「十数名」、公家・大名を分けて書く |
| 刑死者 | 7人(改訂新版 世界大百科事典「井伊直弼」の項)または8人(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典など) |
| 主な刑死者 | 吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら |
| 年号の覚え方 | 「一発(18)ご破(58)算」。西暦1858年、和暦は安政5年 |
定義は、改訂新版 世界大百科事典が「大老井伊直弼が井伊の政治に批判的であった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧」と書いています。デジタル大辞泉は「尊攘派への弾圧」、旺文社日本史事典は「反対派に加えた大弾圧」です。
処罰者の総数は、事典の多くが100人を超えると要約しています。デジタル大辞泉は「百余名を処罰」、百科事典マイペディアは「連座者は100名を超し」と書きます。
内訳を書くのは日本大百科全書です。志士以下の処罰者を75名とし、幕臣の処罰者を十数名、そのほかに公家と大名の処分を並べています。「100余名」を志士だけの数字と読まないほうがよさそうです。
刑死者の数は、あとの章でくわしく確かめます。井伊直弼の生涯と茶の湯については、別の記事で書いています。

処罰した人数を、事典は『100人を超える』と要約しています。あなたの口から人数を言い切ってほしいとは言いません。記録のうえで、数がどう伝わっているかを話してください

百を超える者を処罰した、とそなたらの世の事典は記すそうな。志士の処罰が七十五、幕臣が十数名と内訳を書く事典もあるとか。
刑に処した者の数は、七人と書く事典も八人と書く事典もあると聞く。予の口で数を言い切ることはいたしませぬ。
一人ひとりに裁きを下したのは予じゃ。じゃが数えて語るのは、後の世の仕事であろう。
安政の大獄はなぜ起きた?事典と博物館の説明を並べる
この章の結論を先に書きます。なぜ起きたのかは、事典と博物館で力点が違い、本記事は一つに決めません。多くの事典は「反対派への弾圧」と要約し、改訂新版 世界大百科事典と彦根城博物館は、戊午の密勅が幕府を通さず水戸藩に下されたことを重くみます。
背景にある二つの争いを先に整理します。改訂新版 世界大百科事典は「大獄の原因となったのは,将軍継嗣問題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である」と書いています。
- 将軍継嗣問題|病弱で子のない13代将軍徳川家定の跡継ぎをめぐる争い。徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬らは一橋慶喜を推し(一橋派)、井伊直弼ら譜代大名は紀州藩主徳川慶福を推した(南紀派)
- 条約勅許問題|日米修好通商条約の調印に朝廷の許可(勅許)を得ようと、老中堀田正睦が安政5年2月に上京したが、孝明天皇は許さなかった
- 一橋派の朝廷工作|幕府が勅許を得れば継嗣も慶福に定まると考え、勅許を出さないよう朝廷に働きかけた(世界大百科事典)
- 井伊の大老就任|安政5年4月23日(1858年6月4日)。6月19日に勅許のないまま条約が調印され、25日に慶福を継嗣と公表した
一橋派は「年長、英明、人望」を、南紀派は「皇国の風儀」と「血脈」を継嗣の原則に掲げた、と日本大百科全書は説明します。
条約調印の経緯は、資料によって書き方が違います。日本大百科全書は井伊が「独断専行」で調印したと要約します。
彦根城博物館は、6月18日の評議で井伊は天皇への説明を優先するよう主張して調印を引き延ばす方針が決まった、と書きます。
そのうえで、岩瀬忠震と井上清直が万一の際は調印してよいかと尋ね、井伊が致し方ないと答えると、両名はハリスのもとへ向かい、その日のうちに調印した、と続けます。調印の日付は6月19日です。
茨城県立歴史館も、井伊は勅許を得るまで調印延期を主張したが、交渉が行き詰まったときは調印やむなしとの言質を与えた、と書きます。本記事はどちらにも寄らず、両方を並べておきます。
そのうえで、事典と博物館が大獄の理由をどう書いているかを、帰属をつけて並べます。
- 改訂新版 世界大百科事典|勅諚が幕府を通さず直接諸藩に伝えられることが前例になると「最高の領主権力としての幕府の地位が有名無実となるおそれがあると考え」、徹底した弾圧を決意した
- 日本大百科全書|「こうした事態に幕府の危機をみてとった井伊は、徹底的な弾圧政策をとり」
- 山川 日本史小辞典|「条約調印に激怒した孝明天皇の上京命令を無視」し、京都で反幕勢力が増大して志士が集結したため、逮捕・投獄を中心とする大弾圧を開始した
- ブリタニカ|朝廷が「専断措置に憤激し,同年水戸藩に攘夷の密勅を下したことから」弾圧が開始された
- 彦根城博物館|大獄は「戊午の密勅」の結果として起こったのに、因果関係を十分に説明せず「反対派を弾圧した」結果と説明されてきた
彦根城博物館「井伊直弼の大老政治について」はさらに、幕府が密勅に関わった人びとを捕らえて捜査を進めると「武力による政権打倒計画までも露見した」ため、関係者を厳しく処罰した、と書きます。
計画の中身は同ページに書かれていません。本記事も足しません。
井伊本人の論理として、日本大百科全書は「臨機の権道」を挙げます。デジタル版 日本人名大辞典+Plusは『公用方秘録』から次の一節を引いています。本記事は原本・翻刻を直接確認しておらず、同辞典が引く範囲で紹介します。
抑も大政は関東へ御委任,政を執る者臨機の権道なかるべからず,然りと雖も勅許を待ざる重罪は甘んじて我等壱人に受候決意
出典:デジタル版 日本人名大辞典+Plus「井伊直弼」が引く『公用方秘録』の一節
政治は朝廷から幕府に委任されている。政治を執る者には、その場に応じた便宜の道(権道)がなければならない。それでも勅許を待たなかった重い罪は、自分一人で引き受ける。そう読めます。
これらは事典と博物館の説明であり、本記事はその当否を判断しません。直弼AIにも、この章では処罰の理由を語らせません。

事典はあなたが弾圧を決めた理由をいろいろに書いています。弁明も正当化も求めません。事典が何と書いているか、そして本人として言い切れるのはどこまでか、教えてください

勅諚が幕府を通さず水戸へ下ったのを、予が幕府の地位が有名無実になると案じた、と書く事典があるそうな。反対の者を弾圧した、と一言で片づける事典もあると聞く。
『勅許を待ざる重罪は甘んじて我等壱人に受候決意』。そなたらの世の辞典は、この一節を『公用方秘録』なる書から引いておるとか。
予の口で言い切れるのは、予が決めたことじゃ、という一事のみ。なぜかを語り始めれば、それは弁明になる。いたしませぬ。
戊午の密勅とは?誰が誰に渡したのかは資料で割れる
この章で確かめたことです。戊午の密勅は安政5年8月8日付(1858年9月14日)で、幕府を通さず水戸藩に直接下された勅諚です。ただし、京都で誰が誰に渡したのかは、事典によって書き方が違います。
「戊午」は安政5年の干支です。日本大百科全書は「前例を破って朝廷から水戸藩に内密に伝えられたので『戊午の密勅』という」と説明しています。事典が書く受け渡しを表にします。
| 出典 | 誰から | 誰へ | 補足 |
|---|---|---|---|
| 日本大百科全書 | 左大臣近衛忠煕 | 水戸藩京都留守居 鵜飼吉左衛門 | 8月7日深夜に手交。諸藩へ伝達せよという添書つき |
| 改訂新版 世界大百科事典 | 武家伝奏 万里小路正房 | 鵜飼吉左衛門の子 幸吉 | ひそかに渡され、幸吉が江戸の水戸藩邸へ届けた |
| ブリタニカ「戊午の密勅」 | 朝議の決定 | 「鵜飼」 | 8月8日に列藩へ伝達すべきものとして授けられた |
| 山川「鵜飼吉左衛門」 | (記載なし) | 子の幸吉に伝達させた | 吉左衛門は病気のため |
| ブリタニカ「鵜飼吉左衛門」 | (記載なし) | 幸吉に持たせ、水戸藩主慶篤へ | 父子とも大獄に連座 |
受け取った側が鵜飼父子であることは共通し、渡した公家の名と父子のどちらが受けたかが割れています。本記事はどれか一つを選びません。
内容について、改訂新版 世界大百科事典は「幕府が勅許を得ないで条約に調印したのは遺憾である」という内容と書き、山川は「一致協力して外夷にあたることを望み,諸藩への伝達を命じた」とします。茨城県立歴史館は「幕政改革を促すもの」と要約しています。
幕府あてにも8月10日に勅諚は下されました。問題になったのは、水戸藩あてのほうです。
茨城県立歴史館は「最初に幕府を超えて水戸藩に下された点に大きな意味がありました」と書き、彦根城博物館は「天皇が一大名に命令をするのは、当時の社会体制を根幹から揺るがす重大事」と書きます。
密勅の降下には、志士たちの働きかけがありました。梅田雲浜は「戊午の密勅にも彼の働きかけがあった」(日本大百科全書)、頼三樹三郎は「水戸藩への攘夷勅諚降下を運動」、僧の月照は「攘夷の勅諚を水戸藩に下すことに成功した」と、各人物の項に書かれています。
密勅を出した孝明天皇については、その死をめぐる議論を別の記事で書いています。
このあと、朝廷は幕府の求めに応じて水戸藩に密勅の返納を命じます。この返納問題が、水戸藩内の対立と桜田門外の変につながることは、あとの章で書きます。

密勅を京都で誰が誰に渡したのか、事典によって公家の名が違います。あなたが京都の場に居合わせたはずはないので、そこは聞きません。幕府の側に、この勅諚はどう届いたのでしょうか

幕府へは8月10日に勅諚が下った。水戸へは、その2日前の8日に、内密に下されたと聞く。
京都で誰の手から誰の手へ渡ったかは、予の口で語ることではない。そなたらの世の事典で割れておるなら、割れたままにしておくがよい。
予が申せるのは、幕府を通さずに一大名へ勅諚が下った、その一事が前例になるのを予が案じた、と事典が記す、というところまでじゃ。
安政の大獄で誰が処罰された?刑死者は7人か8人か
この章で確かめたことです。刑死者は、改訂新版 世界大百科事典「井伊直弼」の項が7人と書き、デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・百科事典マイペディア・ブリタニカが8人と書きます。同じ世界大百科事典の「安政の大獄」の項は、8人を名前で挙げています。
主な処罰者を、出典を添えて表にします。日付は和暦(安政6年)で、西暦は換算したものです。
| 人物 | 立場 | 処分 | 日付 | 出典 |
|---|---|---|---|---|
| 吉田松陰 | 長州藩士 | 死罪 | 10月27日(1859年11月21日) | 日本大百科全書、ブリタニカ、国立国会図書館 |
| 橋本左内 | 福井藩士 | 死罪(小塚原で斬首) | 10月7日(1859年11月1日) | ブリタニカ、山川、国立国会図書館 |
| 頼三樹三郎 | 儒者。頼山陽の三男 | 死罪 | 10月7日 | 日本大百科全書、ブリタニカ |
| 飯泉喜内 | 三条実万に仕えた | 死罪 | 10月7日 | 日本人名大辞典 |
| 安島帯刀 | 水戸藩家老 | 切腹 | 8月27日(1859年9月23日) | 世界大百科事典、日本人名大辞典 |
| 茅根伊予之介 | 水戸藩士 | 死罪 | 8月27日 | 日本人名大辞典 |
| 鵜飼吉左衛門 | 水戸藩京都留守居 | 死罪 | 8月27日(山川、日本人名大辞典)。ブリタニカは10月 | 各項 |
| 鵜飼幸吉 | 吉左衛門の子 | 獄門 | 8月(世界大百科事典) | 日本大百科全書、世界大百科事典 |
| 梅田雲浜 | 小浜藩士・儒者 | 獄中で病死 | 9月14日(1859年10月9日) | 日本人名大辞典、世界大百科事典 |
| 徳川斉昭 | 前水戸藩主 | 水戸で永蟄居 | 8月27日 | 茨城県立歴史館、世界大百科事典 |
| 一橋慶喜 | 一橋家当主 | 隠居・慎 | 8月 | 世界大百科事典 |
| 松平慶永・徳川慶恕 | 福井藩主・尾張藩主 | 隠居・急度慎 | 安政5年7月5日 | 日本大百科全書、茨城県立歴史館 |
| 近衛忠煕・鷹司輔煕ら | 公卿 | 辞官落飾、落飾、慎 | 安政6年2月〜4月 | 日本大百科全書、世界大百科事典 |
世界大百科事典「安政の大獄」の項が挙げるのは、切腹の安島帯刀、死罪の茅根伊予之介・鵜飼吉左衛門・飯泉喜内・橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰、獄門の鵜飼幸吉です。数えると8人になります。
同じ事典の「井伊直弼」の項は「吉田松陰など7人の刑死者を出した」と書きます。どちらも同じ執筆者の項目です。なぜ数が違うのかは、今回確認した記述だけでは特定できません。本記事は理由を推測しません。
「8人」と書く事典は、吉田松陰・橋本左内の名をそろって挙げ、精選版 日本国語大辞典と百科事典マイペディアは頼三樹三郎を加えた3人まで書きます。
残りは「ら」でまとめていて、8人の顔ぶれを全部書いている事典は、今回確認した範囲では世界大百科事典だけでした。
梅田雲浜は「安政の大獄で最初に捕らえられ」(日本人名大辞典)、獄中で病死しました。8人の刑死者には入りません。同じく、僧の月照は大獄を逃れて薩摩へ向かい、西郷隆盛とともに錦江湾に身を投げて没しました。西郷は助かっています。
吉田松陰について、日本大百科全書は、老中間部詮勝の要撃策を企てたため長州藩がふたたび投獄し、1859年に幕府の命で江戸へ送られ、10月27日に伝馬町の獄で刑死した、と書きます。
松陰神社(東京)は、当日の朝に評定所で罪状の申し渡しがあり、そのあと伝馬町の獄舎で処刑された、と説明しています。
橋本左内について、世界大百科事典は「一橋派の機関責任を負ったかたちで処刑された」と書きます。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推す側の中心にいた人物です。

刑を受けた人の名前を並べました。一人ひとりへの評価はうかがいません。ブリタニカは、江戸に送られた志士に『井伊の裁決によって』刑が下されたと書いています。裁決を下したのは誰か、その一点だけ確かめさせてください

江戸へ送られた者への刑は、予の裁決であった、とそなたらの世の事典は記すそうな。予はそれを否みませぬ。
誰にどの刑を下したかは、事典が名を挙げておるとおりじゃ。予の口で一人ずつ数え直すことはせぬ。
裁いた者が、裁かれた者を語る。それは道理に合わぬこと。名を挙げるのは、そなたらの仕事にて候。
安政の大獄の流れは?安政5年9月の逮捕から安政6年10月の処刑まで
この章の結論です。大獄は、志士の逮捕、公卿の処罰、水戸藩関係者と志士の処刑、という順に進みました。改訂新版 世界大百科事典は「58年9月から59年10月にわたった」と期間を書いています。
流れを三つの段階に分けます。
- 第1段階(安政5年9月〜)|京都と江戸で、志士・公卿の家臣・一橋派大名の家臣の逮捕と投獄が始まる。梅田雲浜・頼三樹三郎・橋本左内など「この年の逮捕者は数十人」。吉田松陰は長州藩が投獄し、江戸へ送られた
- 第2段階(安政6年2月〜4月)|幕府の圧力により、青蓮院宮・二条斉敬らに謹慎、鷹司政通・鷹司輔煕・近衛忠煕・三条実万に謹慎・落飾
- 第3段階(安政6年8月〜10月)|8月に徳川斉昭永蟄居、安島帯刀切腹、鵜飼父子と茅根伊予之介の処刑。10月に飯泉喜内・橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰が死罪
始まりの場面を、茨城県立歴史館はこう書いています。密勅の返納を求める幕府に反発した水戸の藩士や領民が9月に江戸へ向かい、小金宿(松戸市)に1000人以上が集まった。
ようやく騒ぎが収まったころ水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門、幸吉親子が京都町奉行所に拘引されるという報が届きました。これが「安政の大獄」の始まりです。
出典:茨城県立歴史館 茨城歴史事典「戊午の密勅と安政の大獄」
水戸藩の側から見た始まりは、鵜飼父子の拘引でした。
京都での逮捕を指揮したのは、老中の間部詮勝です。世界大百科事典によれば、間部は条約調印の事情を上奏するため9月に上京し、長野主膳と連絡をとり、京都所司代酒井忠義を指揮して志士らの逮捕を行いました。
長野主膳は井伊直弼の国学の師で、大老就任後は主に京都にいて工作にあたった、と世界大百科事典は書きます。1862年(文久2年)、彦根藩内で尊王攘夷派が台頭すると投獄され、斬罪に処せられました。
処罰の日付は、逮捕から1年近くあとに集中しています。世界大百科事典によれば、逮捕者は江戸へ送られて取り調べを受け、公卿の処罰は翌年2月から、水戸藩関係者と志士の処刑は8月から10月に行われました。
10月には吉田松陰を最後に処刑が行われました。世界大百科事典が期間の終わりとする「59年10月」は、この月にあたります。

京都での逮捕は間部詮勝が指揮した、と事典は書きます。江戸へ送られた人の取り調べから裁決まで、1年近くかかっています。記録が伝える範囲で、この順番を確かめさせてください

京都では間部が、所司代を指揮して捕らえた。捕らえた者は江戸へ送って取り調べた。順は、そなたの言うとおりじゃ。
公卿への処分は翌年の春、水戸の者と志士への刑は秋であった、と事典は記すそうな。
一年かけて調べた、と申せば聞こえはよい。じゃがそれを予の口で言えば弁明になる。日付だけを、そなたらの世の記録に残しておく。
川路聖謨・岩瀬忠震はなぜ退けられた?幕臣への処分と小栗忠順

小栗さん、あなたは安政6年9月に目付に任じられています。大獄で退けられた幕臣の跡に、あなたのような人が役に就いた時期です。記録が伝える範囲で、ご自身の立場を話してください

安政6年9月12日に目付を仰せつかり、翌日に亜米利加への使節の立ち合いを命じられました。私が申せるのは、その日付までにて候。
川路殿、岩瀬殿、永井殿が隠居と慎を命じられたのは、その前月であった、とそなたらの世の事典は記すそうでございます。
私を誰が推したかを記す確かな史料は、そなたの調べた限りでは見つかっておらぬとか。ならば私の口から足すのは、道理に合わぬことでございます。
この章で確かめたことです。一橋派とみなされた幕臣は、安政5年に左遷され、安政6年8月に隠居・慎を命じられました。日本大百科全書は土岐頼旨・川路聖謨らを「幕吏中の俊秀」と呼んだうえで、一橋派として左遷された人物に挙げています。
- 川路聖謨(勘定奉行)|安政5年に西丸留守居に左遷、安政6年に隠居・差控(山川)。世界大百科事典は「安政の大獄で左遷,退隠を余儀なくされ」
- 岩瀬忠震(外国奉行)|五か国条約調印直後に作事奉行に落とされ、翌年免職・蟄居(日本大百科全書)。ブリタニカは「安政6年解任されたうえ,8月処罰され,官位を奪われた」
- 永井尚志(軍艦奉行)|岩瀬・川路とともに隠居・慎(日本大百科全書、世界大百科事典)
- 土岐頼旨(大目付)・鵜殿長鋭(目付)・浅野長祚(京都町奉行)|一橋派として左遷(日本大百科全書)
- そのほか|「処罰された者は十数名に及んだ」(日本大百科全書)
川路聖謨は、日露和親条約を結んだ外交の実務家でした。安政5年に堀田正睦の上京に随行し、帰府すると左遷されます。日本大百科全書は「条約勅許・将軍継嗣問題で一橋派と目され、大老井伊直弼にその地位を追われた」と書きます。
岩瀬忠震は、日米修好通商条約に全権として調印した本人です。日本大百科全書は、井伊が岩瀬を忌んだ一方で「直弼も忠震の外交における功績は高く評価した」と書いています。処罰と評価が同じ項に並ぶ人物です。
小栗忠順が目付に任じられたのは、安政6年9月12日です。岩瀬らが隠居・慎を命じられた翌月にあたります。翌日には遣米使節への立ち合いを命じられ、安政7年1月に江戸を発ちました。
小栗を目付に推したのが誰かを示す史料は、本記事では確認できていません。小栗の菩提寺である東善寺の解説は、遣米使節への起用を「井伊大老の抜擢により」と書いています。
ただし、それを裏づける一次史料は確認できていません。「井伊の大老在任中に目付に任じられた」までを、本記事は書きます。
小栗の生涯と、横須賀製鉄所などの功績は、人物の記事でたどれます。
安政の大獄はいつ終わった?桜田門外の変との関係
この章で確かめたことです。井伊直弼は安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外で水戸浪士17人と薩摩藩士1人に襲われ、殺害されました。
大獄の終わりを、世界大百科事典は安政6年10月(1859年11月)に、山川 日本史小辞典はこの日に置いています。
期間の書き方を、事典ごとに並べます。
| 出典 | 期間の書き方 |
|---|---|
| 改訂新版 世界大百科事典(井伊直弼の項) | 「58年9月から59年10月にわたった〈安政の大獄〉」 |
| 山川 日本史小辞典 | 「60年(万延元)3月3日,井伊が桜田門外の変により横死し,大獄は終了」 |
| デジタル大辞泉 | 「安政5~6年(1858~1859)」 |
| 精選版 日本国語大辞典 | 「安政五年(一八五八)大老井伊直弼が…行なった大弾圧」 |
| 百科事典マイペディア・旺文社日本史事典 | 「1858年…同年から翌年にかけて」「1858(安政5)年から翌年にかけて」 |
終わりを最後の処刑に置くか、井伊の死に置くかで、期間の書き方が変わります。本記事はどちらかを選ばず、両方を示します。
桜田門外の変の動機について、世界大百科事典は「安政の大獄での水戸藩に対する強い弾圧と,水戸藩に勅諚返上を命じたことが,水戸浪士らの反感をかったため」と書きます。
襲撃者が携えた「斬奸趣意書」には、条約の違勅調印と大獄での弾圧が井伊の罪状として挙げられていた、と同事典は続けます。
返納問題の経緯を、茨城県立歴史館はこう書いています。幕府は安政6年12月15日、水戸藩に3日以内の返納を命じた。藩は返納を決めたが、激派の藩士約100人が長岡宿に集まり、実力で阻止しようとした。
そこから離れた関鉄之介・高橋多一郎らは江戸へ向かったとみられていた、と同館は書きます。
3月3日は、江戸城で上巳の節句の祝儀が行われる日でした。彦根城博物館は、直弼が襲撃の情報を得ていたとも言われるが、大老が登城しないわけにはいかず、予定どおり登城の途についた、と書きます。
事典は、この事件の影響をそろって大きく書きます。旺文社日本史事典は「以後,幕府は政局の主導権を失った」と記し、山川 日本史小辞典はこう書きます。
白昼におきた幕府最高実力者の暗殺は,幕府の権威を急速に失墜させた。
出典:コトバンク「井伊直弼」(山川 日本史小辞典 改訂新版)
井伊直弼の評価は、日本大百科全書が「『不忠の臣』とか『開国の恩人』など、時代によって大きく振幅がある」と書くとおり、一定していません。
彦根城博物館は、直弼と対立していた勢力が政権を握り、明治政府が近代国家を築いたことが、評価が両極に分かれた要因だと考えています。
この事件から7年後の大政奉還、その先の戊辰戦争は、それぞれ別の記事で書いています。
井伊直弼は自分の最期を語れません。ここでは、安政7年1月から万延元年9月まで(いずれも1860年)遣米使節として日本を離れていた小栗忠順AIに、記録の範囲で話してもらいます。

小栗さん、桜田門外の変が起きたとき、あなたは遣米使節として日本を離れていました。見聞きしたことは聞きません。記録が伝える範囲で、この事件と大獄のつながりを、どう言い表しますか

私が江戸を発ったのは安政7年1月、戻ったのは万延元年9月にて候。あの3月3日は、私が日本におらぬ間の出来事でございます。
襲った者の趣意書に、条約の違勅調印と大獄での弾圧が罪状として書かれていた、とそなたらの世の事典は記すそうでございます。
大獄の終わりを最後の処刑に置くか、井伊様の死に置くかは、事典でも分かれるとか。私はそのどちらも選びませぬ。
この章では、井伊直弼の死を大獄の「結果」と書き切らず、事典の説明として紹介しました。この時期の井伊直弼を取り上げた作家の講義もあります。
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この作品の聴きどころ
- ペリー来航から開国へ向かう時期の大老井伊直弼を取り上げる講義
- 「安政の大獄」と「桜田門外の変」について語る講義
- 講師は『文藝春秋』『週刊文春』の編集長を務めた作家
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安政の大獄と蛮社の獄の違いは?1839年の蘭学者弾圧と比べる
この章で確かめたことです。蛮社の獄は天保10年(1839年)に幕府が渡辺崋山・高野長英ら蘭学者に加えた弾圧で、安政の大獄とは時期も主導者も対象も違います。「獄」の字が共通するため、混同されやすい二つの事件です。
| 項目 | 蛮社の獄 | 安政の大獄 |
|---|---|---|
| いつ | 天保10年(1839年) | 安政5〜6年(1858〜59年) |
| 主導 | 目付の鳥居耀蔵が告発し、老中水野忠邦に上申 | 大老井伊直弼。京都では老中間部詮勝が指揮 |
| 対象 | 渡辺崋山・高野長英ら蘭学者のグループ(「蛮学社中」の略) | 一橋派・尊王攘夷派の公卿・大名・幕臣・志士 |
| 処分 | 崋山は国元蟄居、長英は永牢。小関三英は自殺 | 100人を超える処罰。刑死者は7人または8人 |
| きっかけ | モリソン号事件をめぐる幕府批判(『慎機論』『戊戌夢物語』) | 条約の違勅調印と将軍継嗣問題、戊午の密勅 |
「蛮社」は「蛮学社中」、つまり洋学仲間の略だと、デジタル大辞泉と精選版 日本国語大辞典は説明します。ブリタニカと旺文社は、崋山ら26人が逮捕されたと書いています。
改訂新版 世界大百科事典は、崋山らが尚歯会という結社をつくって政治を議したとする通説を「誤り」とし、彼らは個人的に崋山と交わったにすぎない、と書きます。事典のあいだでも、グループの捉え方に違いがあります。
二つの事件に共通するのは、幕府の政策や政治運営をめぐる対立が処罰につながった点です。違うのは規模と対象で、蛮社の獄は蘭学者とその周辺への処分、安政の大獄は公卿から志士まで100人を超える処罰でした。
安政の大獄の「安政」は年号です。安政の大獄・桜田門外の変を含む江戸時代全体の流れは、年表の記事で確かめられます。
安政の大獄の流れを年表で確認(和暦・西暦)
ここまでの出来事を、和暦と西暦を並べた年表にまとめます。年齢は載せません。旧暦の生年月日から出来事ごとに満年齢を換算する必要があり、数え年とも混同しやすいためです。西暦の日付を検算できなかった項目は、年または月だけを書いています。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 天保10年 | 1839年 | 蛮社の獄 |
| 嘉永6年 | 1853年 | ペリー来航。徳川家定が13代将軍に |
| 安政3年 | 1856年 | ハリスが下田に着任 |
| 安政4年 | 1857年 | 老中阿部正弘が死去。幕閣の実権は堀田正睦に |
| 安政5年2月 | 1858年3月 | 堀田正睦が条約勅許を求めて上京。勅許は得られず |
| 安政5年4月23日 | 1858年6月4日 | 井伊直弼、大老に就任 |
| 安政5年6月19日 | 1858年7月29日 | 日米修好通商条約に勅許のないまま調印 |
| 安政5年6月24日 | 1858年8月3日 | 徳川斉昭・徳川慶恕らが不時登城して井伊を詰問 |
| 安政5年6月25日 | 1858年8月4日 | 徳川慶福を将軍継嗣と公表 |
| 安政5年7月5日 | 1858年8月13日 | 慶恕・斉昭・慶永に隠居や謹慎、慶喜・慶篤に登城禁止 |
| 安政5年8月8日 | 1858年9月14日 | 戊午の密勅(水戸藩あて。幕府あては10日) |
| 安政5年9月 | 1858年10〜11月 | 京都・江戸で志士らの逮捕が始まる。梅田雲浜が最初に捕らえられる。間部詮勝が上京 |
| 安政5年10月 | 1858年 | 徳川家茂の将軍宣下 |
| 安政5年11月16日 | 1858年12月20日 | 月照が西郷隆盛と錦江湾に入水。西郷は助かる |
| 安政5年12月 | 1859年1月 | 朝廷が条約調印を了解する沙汰書(「心中氷解」) |
| 安政6年2月〜4月 | 1859年3〜5月 | 青蓮院宮・二条斉敬らに謹慎。鷹司政通・近衛忠煕らに謹慎・落飾 |
| 安政6年8月27日 | 1859年9月23日 | 徳川斉昭永蟄居、慶喜隠居・慎。安島帯刀切腹、鵜飼吉左衛門・茅根伊予之介死罪、鵜飼幸吉獄門 |
| 安政6年9月12日 | 1859年 | 小栗忠順が目付に |
| 安政6年9月14日 | 1859年10月9日 | 梅田雲浜、獄中で病死 |
| 安政6年10月7日 | 1859年11月1日 | 橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内が死罪 |
| 安政6年10月27日 | 1859年11月21日 | 吉田松陰が伝馬町の獄で死罪 |
| 安政6年12月 | 1859年12月〜1860年1月 | 朝廷から水戸藩に密勅返納の命。幕府は12月15日に再度返納を命じる |
| 安政7年1月 | 1860年 | 遣米使節が出航。小栗忠順が目付として同行 |
| 安政7年3月3日 | 1860年3月24日 | 桜田門外の変。井伊直弼が殺害される |
| 万延元年8月15日 | 1860年9月29日 | 徳川斉昭、水戸で病没 |
| 文久2年 | 1862年 | 頼三樹三郎ら死罪御免。長野主膳が彦根で斬罪 |
日付の書き方には注意が要ります。和暦の安政7年3月3日は、西暦では1860年3月24日です。事典が「1860.3.3」と書くのは和暦の日付に西暦の年を添えた表記で、換算した日付とは別のものです。
換算の基準にしたのは、事典や公的資料に西暦が併記されている日付です。安政5年6月19日=1858年7月29日(世界大百科事典、国立公文書館)、安政6年10月27日=1859年11月21日(国立国会図書館)などです。
それ以外の西暦の日付は、和暦の月日を換算したものです。
年表を見ると、逮捕の始まりから処刑まで1年余りかかっていることが分かります。大獄が終わったあとに残ったのは、一橋派を退けた幕府と、密勅の返納をめぐって割れた水戸藩でした。
ここで、二人に同じ問いを投げてみます。二人がこの件で語り合った記録は、本記事では確認できていません。

お二人にうかがいます。年表では、安政6年8月の幕臣への処分と、9月の小栗さんの目付就任が並んでいます。同じ幕府のなかで、退けられた人と登用された人がいた。この並びを、記録の範囲でどう言い表しますか

川路、岩瀬、永井に隠居と慎を命じたのは8月。小栗が目付に任じられたのは9月。事典と記録が、そう並べておるそうな。
誰を退け、誰を用いたか。それは予の政の一部であった。岩瀬の外交の功は予も高く評価した、と事典は書くとか。
小栗、そなたを推したのが誰かを記す確かな史料は、この筆者の調べた限りでは見つかっておらぬと聞く。予の口からも足しませぬ。

左様。私が申せるのは、9月12日に目付を仰せつかった、という日付までにて候。
前月に退けられた方々と、その月に任じられた私が、同じ幕府におりました。記録の範囲では、そう言い表すほかございませぬ。
井伊様の政が正しかったか否かは、そなたらの世が決めること。私は横須賀の槌の音のほうを、後の世に残したく存じます。

大獄の前後、黒船来航から幕府の終わりまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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この本の読みどころ
- 「外国船の出現と天保の改革」から「江戸幕府の終わり」まで、江戸時代後期の4章
- 1853年のペリー来航から、尊王攘夷運動が盛んになっていく流れを扱う巻です
- 紹介文には、大老井伊直弼による反対派の弾圧と桜田門外の変も挙がっています
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よくある質問(FAQ)
安政の大獄とは何ですか?簡単に教えてください
1858年(安政5年)から翌年にかけて、大老の井伊直弼が、自分の政治に反対した公卿・大名・幕臣・志士を処罰した弾圧です。処罰者は100人を超え、吉田松陰・橋本左内らが死罪になりました。
安政の大獄はいつ起きましたか?西暦では何年ですか?
安政5年9月(1858年10〜11月)に逮捕が始まり、安政6年10月(1859年11月)に最後の処刑が行われました。世界大百科事典は「58年9月から59年10月」と書き、山川 日本史小辞典は1860年3月の桜田門外の変で「大獄は終了」と書きます。
安政の大獄はなぜ起きたのですか?
説明は一つではありません。多くの事典は、勅許のない条約調印と将軍継嗣の決定に反対した一橋派・尊攘派への弾圧と要約します。世界大百科事典と彦根城博物館は、朝廷が幕府を通さず水戸藩に直接下した戊午の密勅を重くみます。
安政の大獄で処刑された人は誰ですか?何人ですか?
吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎が代表的です。世界大百科事典「安政の大獄」の項は、この3人に飯泉喜内、安島帯刀、茅根伊予之介、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉を加えた8人を挙げます。同じ事典の「井伊直弼」の項は「7人」と書き、数は割れます。
安政の大獄を行ったのは誰ですか?
大老の井伊直弼です。京都での志士の逮捕は、老中の間部詮勝が京都所司代を指揮して行いました。井伊の側近だった彦根藩士の長野主膳も、京都で工作にあたったと事典は書いています。
戊午の密勅とは何ですか?
安政5年8月8日付(1858年9月14日)で、孝明天皇が幕府を通さず水戸藩に直接下した勅諚です。勅許のない条約調印への不満を示し、諸藩へ趣意を伝えるよう求める添書も付されていたとされます。誰が誰に渡したかは、事典によって公家の名が違います。
安政の大獄と桜田門外の変の関係は?
桜田門外の変は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に井伊直弼が水戸浪士らに殺害された事件です。世界大百科事典は、大獄での水戸藩への弾圧と密勅の返納命令が水戸浪士の反感を招いた、と説明しています。
安政の大獄と蛮社の獄の違いは?
蛮社の獄は1839年、目付の鳥居耀蔵の告発で渡辺崋山・高野長英ら蘭学者が処罰された事件です。安政の大獄は1858〜59年、大老井伊直弼が一橋派・尊攘派100人超を処罰した事件で、時期も主導者も対象も違います。
安政の大獄の語呂合わせ・覚え方は?
「一発(18)ご破(58)算」のように、1858年を読みかえると覚えやすくなります。和暦なら安政5年です。「戊午の大獄」という別名も、安政5年の干支「戊午」から来ています。
安政の大獄はどこで行われましたか?
逮捕は京都と江戸で行われ、逮捕者は江戸へ送られて取り調べを受けました。吉田松陰は評定所で罪状を申し渡されたあと伝馬町の獄で、橋本左内・頼三樹三郎は小塚原で刑を受けました。
インタビュー後記 同じ事典のなかで割れていた数字
刑死者の数を確かめるつもりで、私は世界大百科事典の「安政の大獄」の項を読みました。切腹1人、死罪6人、獄門1人。名前を数えると8人でした。
念のため同じ事典の「井伊直弼」の項を開くと、「7人の刑死者」とありました。執筆者は同じ人です。なぜ数が違うのか、事典は書いていません。本記事は理由を推測せず、割れていることだけを書きました。
戊午の密勅を誰が誰に渡したかも、同じでした。近衛忠煕と書く事典、万里小路正房と書く事典、鵜飼父子のどちらが受け取ったかも割れています。一つに決めれば読みやすくなりますが、決める根拠が私にはありません。
なぜ起きたのかについては、事典と博物館が、それぞれ違う言葉で説明していました。直弼AIには「予が決めたことじゃ」の一言までしか語らせていません。理由を語らせれば弁明になり、語らせなければ人物が薄くなる。その間で、記録の範囲にとどめました。
勅許を待ざる重罪は甘んじて我等壱人に受候決意
出典:デジタル版 日本人名大辞典+Plus「井伊直弼」が引く『公用方秘録』の一節
「我等壱人」と書いた人が、処罰した側です。その一節を引く辞典と、8人の名前を並べる事典を、同じ机の上に置いて書きました。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、小栗忠順が主人公です。大獄のさなかに目付となり、翌年に海を渡った小栗が、井伊直弼という人物をどう見る設定になるのか。物語の整理はこちらです。
参考資料
- コトバンク「安政の大獄」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典)※定義、「百余名」「100人をこえ」、志士以下75名と幕吏十数名、公家・大名・幕臣・志士の処罰者名、経過の三段階、「58年9月から59年10月」、桜田門外の変で「大獄は終了」、逮捕を指揮した間部詮勝、井伊の「臨機の権道」の根拠
- コトバンク「井伊直弼」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ・デジタル版 日本人名大辞典+Plus・山川 日本史小辞典ほか)※4月23日大老就任、6月19日調印、25日継嗣決定、「7人の刑死者」、『公用方秘録』の一節、評価の振幅の根拠。本記事は『公用方秘録』の原本・翻刻を確認していない
- コトバンク「戊午の密勅」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ・山川 日本史小辞典)※8月8日付、幕府あて10日、近衛忠煕から鵜飼吉左衛門/万里小路正房から鵜飼幸吉という受け渡しの割れ、内容、返納問題の根拠
- コトバンク「将軍継嗣問題」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川ほか)※一橋派と南紀派、「年長、英明、人望」と「血脈」、7月5日の隠居謹慎、10月の将軍宣下の根拠
- コトバンク「条約勅許問題」(改訂新版 世界大百科事典ほか)※堀田正睦の上京と勅許の失敗の根拠
- コトバンク「日米修好通商条約」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川)※1858年7月29日(安政5年6月19日)、井上清直・岩瀬忠震が調印、井伊が「独断専行」と要約されることの根拠
- コトバンク「桜田門外の変」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川・旺文社ほか)※3月3日、水戸藩士17人と有村次左衛門、斬奸趣意書、59年12月の勅諚返上の勅命、幕府の権威失墜の根拠
- コトバンク「吉田松陰」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ・山川・日本人名大辞典)※間部詮勝要撃策、江戸送致、10月27日伝馬町の獄で刑死の根拠
- コトバンク「橋本左内」(改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ・山川・旺文社)※10月7日刑死、小塚原、「一橋派の機関責任を負ったかたちで処刑」の根拠
- コトバンク「頼三樹三郎」(日本大百科全書・ブリタニカ・日本人名大辞典)※密勅降下の運動、10月7日死罪、1862年死罪御免の根拠
- コトバンク「梅田雲浜」(日本大百科全書・百科事典マイペディア・改訂新版 世界大百科事典・日本人名大辞典)※密勅への働きかけ、「最初に捕らえられ」、9月14日獄死の根拠
- コトバンク「間部詮勝」(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)※9月上京、長野主膳との連絡、京都所司代を指揮した逮捕、12月の勅書の根拠
- コトバンク「長野主膳」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)※直弼の国学の師、京都での工作、1862年の斬罪の根拠
- コトバンク「徳川斉昭」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川・ブリタニカ)※6月24日の不時登城、謹慎、永蟄居、万延元年8月15日没の根拠
- コトバンク「蛮社の獄」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・百科事典マイペディア・ブリタニカ・山川・旺文社)※1839年、鳥居耀蔵、崋山・長英の処分、26人逮捕、尚歯会をめぐる通説への異論の根拠
- コトバンク「月照」(日本大百科全書・山川・日本人名大辞典)※密勅降下への関与、11月16日の入水の根拠
- コトバンク「安島帯刀」(改訂新版 世界大百科事典・日本人名大辞典・ブリタニカ)※8月27日切腹の根拠
- コトバンク「鵜飼吉左衛門」(精選版・ブリタニカ・山川・日本人名大辞典)※病気のため子の幸吉に伝達させたこと、処刑日が8月27日と10月で割れることの根拠
- コトバンク「茅根伊予之介」(日本人名大辞典)※8月27日処刑の根拠
- コトバンク「飯泉喜内」(日本人名大辞典)※三条実万に仕えたこと、10月7日処刑の根拠
- コトバンク「岩瀬忠震」(日本大百科全書・ブリタニカ・山川)※作事奉行への左遷、翌年の免職・蟄居、「直弼も忠震の外交における功績は高く評価した」の根拠
- コトバンク「川路聖謨」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川)※西丸留守居への左遷、隠居・差控、「大老井伊直弼にその地位を追われた」の根拠
- 彦根城博物館「井伊直弼の大老政治について」※評価の両極、6月18日の評議と調印の経緯、密勅の受け止め、「武力による政権打倒計画までも露見した」、「心中氷解」、3月3日の登城の根拠
- 茨城県立歴史館 茨城歴史事典「戊午の密勅と安政の大獄」※8月8日、小金宿の1000人以上、鵜飼親子の拘引が「始まり」、8月27日の処分の根拠
- 茨城県立歴史館 茨城歴史事典「日米修好通商条約調印」※堀田の帰府、6月24日の登城、7月5日の処分、調印延期の主張と言質の根拠
- 茨城県立歴史館 茨城歴史事典「桜田門外の変」※12月15日の返納命令、長岡宿の約100人、関鉄之介らの江戸行きの根拠
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「井伊直弼(いい なおすけ)|人物編|中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」※1815年11月29日〜1860年3月24日の根拠
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」吉田松陰※生没1830年9月20日〜1859年11月21日の根拠
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」橋本左内※生没1834年4月19日〜1859年11月1日の根拠
- 国立公文書館 デジタル展示「激動幕末 – 開国の衝撃 -」20.五ヶ国条約并税則※安政5年6月19日(1858年7月29日)ポーハタン号上での調印の根拠
- 松陰神社(東京都世田谷区)「ご祭神」※10月27日朝の評定所での申し渡しと処刑、29日の埋葬の根拠
- 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会(福井市)「橋本左内(景岳)」※安政6年10月7日、26歳(数え年)で斬首の根拠
- 東善寺「小栗上野介」※遣米使節への起用を「井伊大老の抜擢により」と書くことの根拠。一次史料は本記事では確認していない
- 国立国会図書館サーチ 吉田常吉『安政の大獄』(吉川弘文館、日本歴史叢書46。1991年刊、1996年に新装版)※日本大百科全書が参考文献に挙げる研究書の書誌。本記事は本文を確認していない










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